並んで、刻んで
ナゴ獄♀+開闢門+寂雷
オレンジ色の光がベランダに差し込み、早朝の澄んだ空気が肺を満たす。獄はひとつ伸びをしてから煙草をくわえ火をつけた。苦みとともにゆっくりと脳が覚醒する。ふと見た手すりの上に乗せた薬指に真新しい噛み跡二つ残っていて、獄はわずかの間、眼を閉じた。右手に握っていたジッポを意味もなく二度、三度と開閉させる。くゆらせた紫煙が微風に流され、獄の柔らかい髪も一緒にそよいだ。カチン、とやや強くジッポが閉じる音を最後に、獄は瞼をあげてタバコの火をもみ消した。
「よし、」
小さなつぶやきは誰にも聞き届けられないまま、風にさらわれる。
からからとガラス戸を引き獄が室内にもどる音とカーテンが動いたことでわずかに部屋が明るくなる。んぅ、と小さな声が広いベットからあがったのを見て獄はわずかに口角をあげた。
「ちょっと出てくる」
「はぁい、きをつけてくださいっす」
そう囁くと羽毛布団にくるまっていた十四がほにゃりと笑った。昨日もライブで遅かったためまだ眠たいのだろう。空却はもう一時間以上前に家を出ていて今はいない。今日も忙しくあちこちを飛び回っているに違いなかった。
獄は別室で身支度を整えると、最後に淡い色のリップをひいた。鏡の向こうの自分は口角を上げてみても、どこか緊張した面持ちだ。目元が少しカサついているのはきっと昨日アイクリームが流れてしまったせいだ。ふうとひとつ息を吐いてから、獄はカバンを手に立ち上がる。今日の服装には本当はハイヒールを合わせたい、が少し悩んで結局着心地のよいローファータイプのパンプスを選んだ。
「行ってくる」
静かな室内にそう告げて、獄はいつものように家を出た。
遡ること数ヶ月。
その日はもともと寂雷と開闢門が食事の約束をしていた日だった。たまたま獄の東都への出張が入ると聞いた開闢門がそのまま誘って約束を取り付けたことで、ちいさな同窓会のようになったのだ。
「よう」
「久しぶりだな」
「おつかれさま」
開闢門が予約した和食の店は掘りごたつの個室になっていて、落ち着いて食事がとれそうだ。
時間通りに三人がそろうと、すぐにお通しのひじきをつまみながら、開闢門と獄は珍しい地方の地酒を、寂雷は温かいお茶を手に近況の報告に花が咲いた。半年ほど会っていなくても、こうそろってみると以外にもくつろいだ雰囲気になる。上品な味の和食に舌つづみを打ちながら「俺たちも歳を取ったな」などと笑い合う。日々の忙しさを忘れてあのころにもどったような気持ちにすらなった。獄はつい勧められるがままに盃を進めてしまう。「飲み過ぎないように」という寂雷の医者らしい忠告にも、強気で返す。
「……わかってるよ。
お前は飲むなよ頼むから」
「違いないな」
「君たちがそう言うなら」
お酒は好きなんだけどと眉を下げる寂雷に、獄と開闢門は目を合わせて肩をすくめる。一滴でも酒が入った寂雷はそこらの酔っぱらいなどとは比べものにならないほどたちが悪い。そしてどんなに大暴れしてもそれを覚えていないのだから、本人はその悪癖をなおすことがない。実に困ったものだったが、寂雷の手にする飲み物に注意を払うことなど無意識でできるくらいには付き合いは長い。食事会は穏やかに進んでいった。
腹もくちくなり、酒がまわり、落ち着いたころに獄がぽつりとこぼした。
「俺は、おかしいんだと思う」
開闢門が煙草の灰を落としながらくつくつ笑った。
「なんだよ今更。おかしいついでに聞いてやるから言ってみろ」
ぽつり、ぽつりと獄は言葉を紡ぐ。
「俺はアイツらを好んで置いてるわけじゃないんだ。ただ成り行きでそうなって、そのあとなんだかんだとそのまま一緒にいて。ただそれだけなんだよ」
突然脈絡もなく始まった話も、獄が濁したアイツらという言葉もら開闢門と寂雷は正しく読み取った。この一、二年の獄の状況はうっすらとではあるが理解している。かつて依頼として獄が助けた二人のこどもたちは、もう立派に成人してそれぞれの道を歩んでいる。その一方で、きっとはじめはあこがれだった感情は形を変えて彼らの中で育った。こどものまま甘えるように同じ感情を求められた獄はなんだかんだと言いながらも、二人を拒みきれずにいるのだ。
くらくらとしてきた視界をなんとかしたくて机に突っ伏した獄の脳裏には、今まさにその二人、十四と空却の顔がよぎっていた。
「俺がちゃんとしなくちゃいけないんだ。それなのにあいつらときたら……」
「お前は甘いんだよ。なんせ身体も差し出しちゃってるくらいだもんなぁ。本当に献身的なことで」
意地悪く笑う開闢門に獄は僅かに顔を上げて、いーっと歯を見せて威嚇をする。
「好きでそんなことになったんじゃない。だいたい俺は許可なんてしてないし、」
「へえ。なら出るとこでてみろよ。本業だろうが」
うっと獄は言葉を詰まらせ、自分の髪をくしゃりとつかむ。
「いや、許されることじゃないがガキのやったことだし……。出るとこ、と言っても、そもそも表ざたになって社会的なダメージを負うのは俺なんだよ!」
ははんと鼻を鳴らした開闢門は机に肘をついて俯いた獄をのぞき込む。
「そんなこと言って、本当はお前が離れられなかったんだろう。無敗の弁護士センセ」
「……あまり意地悪な聞き方をしてはいけないよ」
苦笑を混ぜた寂雷のたしなめる声に開闢門ははいはいと素直に退いた。手酌で自分のグラスを満たし、少し迷ってから獄のグラスも満たした。二人の物言いが自身を馬鹿にしているように聞こえた獄は、ぶすっと頬を膨らませる。ちらりと見上げた開闢門の顔は到底数多の不良どもを更生させてきた人格者の顔ではなかった。無駄に顔がいいことにも腹が立つ。
「ちがう、俺はそんなんじゃない」
「よく言うぜ。なぁ寂雷」
話を振れば、寂雷は手にしていた箸を置いた。
「そうだね」
寂雷の同意の言葉は思ったよりも獄に深く突き刺さる。
「お前は、お前だけは俺の味方でいろよ!
ちゃんと大人として、正しいことを言えよ!」
「獄、私はずっと君の味方だ」
その声は言葉が本心であることを如実に示す。その独善的とも言える態度が獄は昔から気に入らなかった。
「あーもう、うるせぇ。俺はな青臭いことは忘れたんだよ。恋愛だとか、好きだとかなんだとか。
そもそもアイツらはガキなんだ。そんな対象でもないし、そもそも何にもわかっちゃいないんだ」
二人が転がり込んできたときなんだかんだと受け入れてしまったこと、十四の料理が意外にもおいしくて助かっていることも、空却が仕事のもやもやを吹っ飛ばすように笑ってくれると心が軽くなることも、獄の心を苛んでいた。
「クソ、いまこんな状況になったのは俺のせいじゃない。あいつらのせいだ!」
グラスの日本酒をのどに流し込む。アルコールが食道を焼くと、もう味なんて分からなくなってしまっていたが、いくらか落ち着けるような気がした。だんっとグラスを机に叩きつけてみても、現実は何も変わりはしない。寂雷は獄の手から酒の入ったグラスをそっと取り上げると、さらりと告げる。
「君は本当に嫌ならすぐに離れるだろう」
「んっ?」
はっと顔をあげると、アルコールのせいで視界がゆがんだ。
「今までだってそうだったじゃないか」
かつての恋愛事情を知る寂雷がいくつか具体的な例を並べる。高校の時、私になにか言っていた彼氏をずいぶんこっぴどく振って、相手に泣かれていただろう。大学生のときは、ある日彼氏と別れてきたからと、家にあった私物もプレゼントも何もかもを処分するのを手伝わされた。あのときはデートに着ていった服まで捨てると言い出して君を止めるのが大変だった。おそろしいまでの記憶力と青春を懐かしむやわらかな声で語られるのは
獄にとって忘れたい過去たちだ。無遠慮にほじくり返されるのも本当に嫌だったが、なにより興味深そうに相槌をうつ開闢門が憎らしくてたまらなかった。
「君はずっと嫌なものは嫌だと意思も行動もはっきりとしていて、私はその裏表のなさをすごいなと思っていたんだ」
「やめろ!」
「君が今彼らと一緒にいることを選んでいることが、きっと答えだ。
私は、君に幸せになってほしいんだよ」
「~~~~~~~っ!」
声にならない叫び声をあげた獄は、再び突っ伏す。反論してやらなくては、と思うのに言葉がまとまらない。猛烈に悔しかった。程なくして僅かに鼻を啜る音だけが聞こえてきた。
「はははっ、ヒデェやつだなぁお前の親友は」
開闢門が笑って獄の頭を雑にかきまわすようにして撫でた。ううぅやめろぉと力ないうめき声だけが返ってくる。寂雷は獄の様子におどろいたのか、目を丸くしていた。
「私は何か間違っていたかな」
「間違っちゃいないけど、まぁトドメはさしたな」
はぁ笑った、と呟いた開闢門は最後にぽんぽんと獄の髪を整えてやった。
「反論しないってことは、心当たりがあるんだな」
獄は開闢門の手の甲を思い切り抓った。
「痛って、コイツ!」
「二人とも飲みすぎだよ」
その夜、獄は記憶のないままひとりホテルへ放り込まれ、翌朝は一人で頭痛に頭を抱えることになったのだった。
そんな数ヶ月前のことを思い出しながら、獄はひとり東都へと出向いていた。いつ来てもごみごみと人の多い街だったが、今の獄にはちょうどよかった。前回の東都訪問は久しぶりに馬鹿みたいに笑って話をしたところまでは良かったが、酔った勢いで余分なことまで話してしまったことが悔やまれる。最終的にそれはよかったのかもしれないとほんの少し思わなくもない。あの飲み会の翌日、獄は二日酔いで頭痛の残る頭でこの場所に来ていた。それはそれは悩みながら、半ばヤケクソに、半ば真剣に。
ギンザの街をショーウィンドウをのぞきながらのんびり歩くと、新作の衣服や小物たちがきらきらと目線を誘う。いつもならそれを吟味するのだが、今日は目的があるためかわいいバッグもモードなワンピースも眺めるだけだ。
獄は前回も訪れたジュエリーショップの前で足を止める。長身のドアマンの青年がにこやかに迎えてくれる。ひとつ息を吐いてからひときわきらびやかな店内へと足を踏み出した。
「いらっしゃいませ」
髪に一筋の乱れもない店員が丁寧に出迎えてくれる。
「受け取りに」
短く告げて控えを渡せば、店奥のこじんまりとしたテーブルセットへと案内された。熱い紅茶を受け取り、横目で店内を見回す。客らしい人は年配の女性がひとり、カップルらしい若者たちが一組。きらきらと光るジュエリーが並ぶショーケースを前に和やかに接客が続いている。ジュエリーの品質はもちろん、丁寧な接客が売りの店なのだ。前回訪れた時も実感したなと思い返す。悩みながら一つ一つ条件を口にしていって、きっと無茶も伝えただろうが、店員は獄のどんな言葉にも否定を示さなかった。プロのなせる技だ。獄が迷って言葉に詰まった際も慌てず、少し雰囲気の異なる話題を出してみたり、落ち着いて待ってみたり、とにかくこちらの言葉を遮ったりはしなかった。きっとそのおかげで獄も胸のうちにあったものを伝えられたのだと思う。
「家族にとって、記念になるものを」
「華美な装飾も、いろんな意味を持つ石もいらない。これからいつでも身につけられる、シンプルなデザインがいい」
次々と提示される目の前の綺麗なアクセサリーたちを眺めては、手に取って、それがある生活を想像した。ずいぶんかかってようやっと候補が絞れたあと、説明された刻印に関する言葉に獄はゆっくりと首を横に振った。
「名前は、いらない。と思う」
獄の言葉のほんのわずかな機微を店員は見逃さなかった。それならばイニシャル、誕生日、象徴するモチーフなどはどうかと簡易的な図案を示す。獄はそれらも迷ったあと、やはり違うと首を横に振った。かたちに残るものだ。きっと獄は棺桶にまでこれを持ってゆく。そこに彼らの名前を残す勇気はでなかった。
「迷われるようでしたら、ぜひ一度おうちで考えてみてください。期日まででしたら変更をできるようにしておきますね。
お客様にとって大切な贈り物ですから、悔いのないようになさってください」
やわらかな声に獄は喉を詰まらせる。寂雷の言葉も開闢門の言葉もはねのけようとしていた最後の心のつかえが、ふっと取れた気がした。獄はただひとつ頷いて礼を伝え、その日は店を出た。
が、結局ナゴヤにもどってから程なくして獄は店に電話をかけていた。
「名前を、三人分お願いします」
店員はどこか嬉しそうに承ったと伝えてくれた。
「お待たせいたしました」
紅茶が半分なくなったころ、獄の目の前に箱が差し出された。紺色のケースを開いて見せられた中身は、想像通りの三つのシンプルな銀色の指輪だった。促されるまま、獄は一番小さな輪をそっとつまみあげる。プラチナ製のため見た目より少し重たく、幅は細くも太くもないちょうど良さ、複雑なカットや装飾はないが素材がよい。僅かに傾けると、内側の刻印が読み取れた。そこに並ぶ、獄、十四、空却の名前。きっと何年経っても、消えない名前。
獄が指にはめてみると、ひんやりした指輪の内側は僅かになめらかなカーブを描いているため肌へのあたりがよくつけ心地がよかった。サイズが合うことを確認して、獄はそれをすぐに外す。受け取った店員が丁寧に拭きあげてから箱に戻してくれた。
「これで大丈夫だ。いいものをありがとう」
「お気に召していただけて何よりです。お箱は三つにお分けしますか?」
「いや、そのままでいい」
獄はほんの少し笑った。
「全部そろっていることに意味があると思うんだ」
「さようでございますね。かしこまりました」
店の外まで見送ってくれた店員に会釈して、獄は軽いのに重たい紙袋をさげて踵を返した。
すぐに帰ってもよかったが、僅かに帰途へ向かう足が重い。結局獄がナゴヤに戻ったのは、夜になってからだった。部屋のドアを開けて、言いなれた「ただいま」を口にすればバタバタという足音ともに十四が飛んできた。
「獄さん……!
遅かったすね、心配してたんすよ!」
夕食を作ってくれていたのだろう。長身に黒いエプロン姿も様になっている。そのままぎゅっと抱きしめられて、温かな匂いとともに腕のなかに閉じ込められる。
「心配することないだろ、連絡もしたんだから」
「そんなことないっす。空却さんなんか、そろそろ迎えに行くって聞かなかったんすよ!」
「迎えって、ガキじゃあるまいし……」
「獄さんは女の子なんすから、夜道は危ないんすよ!」
「はいはい」
無理やり腕から抜け出して歩き始めれば、十四は離れまいと獄の後ろから抱きついた。おぶさりおばけのようになった十四を連れ、リビングに向かう。道中、騒ぎに気づいたらしい空却も洗面所からひょいと顔を覗かせた。シャワーを浴びた後なのか、髪が濡れている。
「遅かったじゃねぇか」
「だから遅くねぇよ」
「……あんま心配かけんなよ」
険しい表情とは裏腹に、声音は優しい。獄は風邪引くぞとひらりと手を振り、リビングのソファへと腰を落ち着けた。背中にいた十四はそのままするりと隣に座る。空却もすぐに就寝用の作務衣姿でテーブルを挟んだ向かいにどかりと座った。
「それでこんな時間まで何してたんだよ」
ソファの上であぐらをかいた空却がじとりと獄を睨んだ。
「別に、ただの買い物だよ」
「ふぅん」
「空却さん、本当に心配してたんすよ。もちろん自分も。
朝はちょっとそこまでって感じだったのに、夕方連絡したら東都にいるって、びっくりしたっす。言ってくれればよかったのに」
「ちょっといろいろあったんだよ」
「そんで土産は?」
「心配してたやつのセリフかよ」
「るせー」
「あははっ、でもよかったっす!
……あっ!」
明るい笑い声をあげていた十四が突然立ち上がった。
「どうした?」
「わあぁ!」
ぱたぱたとキッチンに走った十四はそのまま悲鳴をあげた。様子を見に立ち上がった空却に続いて、獄もキッチンをのぞく。そこでは十四が鍋の前でうなだれていた。
「火、つけたの忘れてて、焦げちゃったっす……」
鍋の中はシチューと思しきものが煮立っていた。おたまでかき回したのだろう、鍋底で焦げ付いていた野菜が混ざり、白かったはずのシチューはマーブル模様になっている。
「なんだ、家事とかじゃなかったんならいいだろ」
獄はほっと肩の力を抜いた。でもぉと情けない声をあげた十四をおしのけ、空却がおたまを取ってシチューを味見した。
「悪かねぇぞ」
ぺろりと口の端をなめた空却が笑う。そのまま獄にもおたまを差し出した。獄は促されるまま、まだら模様のシチューをそっと口にした。やさしげなミルクの風味の奥に、焦げの香ばしさある。タマネギの風味か、意外にも焦げはコクとなって案外悪くはない。ブラウンシチューともまた違う味だった。
「本当だ悪くないな」
「ほんとっすか?
気を使わなくていいんすよ……」
十四は訝しげな声をあげておそるおそる一口食べ、首を傾げ、ぱくりともう一口口に運んだ。
「おいしいっす……!」
涙の膜が張っていた瞳がぱちぱちと瞬いて、長いまつ毛がきらきらと光った。その顔に空却も獄も思わず笑い声をあげた。
「まさしく怪我の功名ってな」
「まったくだな」
ひとしきり笑いあって、そのまま夕食となった。トマトとチーズの入ったサラダに、やや厚切りのバゲット、薄茶色のシチュー。空却も獄も、いつもより少し量を多く食べたからか、十四も元気を取り戻した。
食後のコーヒーは獄が入れて、それぞれがカップを片手に落ち着いた時だった。
「なぁ、二人に渡したいものあるんだ」
獄は今日わざわざ東都まで出向いた例の箱を机に置いた。紙袋の店名でアパレルに明るい十四が目を輝かせる。
「わ、これジュエリーの有名店っすよね!
新しいアクセサリーを買ってきたんすね。そういえば獄さん、今度の新作がかわいいって」
「いや、獄が渡したいつってんだ。拙僧らのなんかだろ」
「えっ、もしかしてピアスっすか?」
「こんな小洒落れた店のもんで、拙僧がつけるもんがあるか?
まぁ獄がくれるってんならもらってやるけどよ」
素直に目を輝かせる十四と、天邪鬼な空却を見て、獄は目元を和ませる。薄水色ののリボンをほどき箱に手をかけてから、最後ほんの少しだけ迷った。だが、それでも静かに箱を開ける。
ショップほどでなくても、リビングの温かな照明を跳ね返して輝く指輪が三つ、整然と並んでいた。騒いでいた二人の声がぴたりと止まる。獄は極力何でもない風を装うために、腹の底へ力を込めた。
「お前らにやるよ」
獄はまず一番大きな指輪をとって、空却の前にかざす。
「お前でもつけられるように、シンプルで細すぎないデザインにしたんだ」
目を見開いている空却の手を取って、無理やりそれを握らせる。
「……おう」
次に中くらいのサイズの指輪をとり、十四に見せた。
「お前がずっと言ってただろ。『三人で身につけられるものが欲しい』って。コレなら、まぁ全員つけたってファッションリングと変わりゃしねぇよ」
「獄さん……」
先ほどまでとは違う理由で目を潤ませている十四の手にも、その指輪を乗せる。
「いいか、これはいらないなら捨てていい。売っていい。俺はこの指輪がお前たちの未来を縛る鎖にだけはなってほしくない。
深い意味なんてない。ただこれは、家族の絆として……」
「獄」
「獄さん」
説明を遮るように二人が揃って真剣な声を出した。そしてそのまま畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
「意味がないなんて、悲しいこと言わないで欲しいっす」
「わざわざこんなの彫り込んどいて、いらなきゃ捨てろはねぇだろ」
空却は目ざとくも、指輪の内側の刻印に気がついていた。
「そうっすよ!
これ、自分は一生大事にして、ずっとつけるっす」
「そういうこった。だから、お前も」
二人の手が箱に残った最後の一つを取り上げ、獄の左手を持ち上げる。緊張でかたく拳を作っていた獄の手の甲を十四がそっと撫でた。震えながら力が抜ける。伸ばされた指輪に二人の手が指輪をはめた。一番小さな輪は引っかることもなく、獄の左手の薬指の上で輝く。今朝見た赤い跡はすっかりと隠れてしまった。
「……いいのか」
「いい」
絞り出すような獄の声に間髪入れずに答えたのは空却だ。人外じみた強い金色の瞳が獄をとらえて離さない。横から、ねぇと小さく注意を引いてから十四が続ける。
「自分、すごく嬉しいっす。本当に。ものすごく!」
「悪くねぇよ、こういうのも」
本当に、心から嬉しいとその声が、瞳が、朱の差した頬が、握られた手の温度が、染み入るように伝わってくる。獄の肩からふっと力が抜けた。
「そうか……」
いいと言ってくれるのなら。いつか終わりが来るとしても、せめて今の間だけでも、覚悟を決めて向き合っていきたいと、獄が決めたのだ。
「ありがとな」
やっと、ここから三人が家族となるのだ。
アフロディテの微笑み
アフロディテの微笑み
零那由
このところ零は忙しく、今日も夜の十一時をまわって帰宅し、壁掛け時計の短針が真上を過ぎてからようやく風呂へと向かったところだった。先に寝ていていいと言われていたものの、いつもより覇気のない声が気にかかり那由多は零を待つことに決めた。広いベットの上、天気予報で少し寒くなりそうな予報だったのでおろした毛布の隣に座る。彼女の好みに合わせたそれは淡い色合いで少し零の好みとは違ったかもしれない。そう思いながら肌触りの良い表面に手のひらを押しつけてはその感触を楽しんでいた。
そうこうするうちに、ガチャリと寝室の扉が開く。あくびを噛み殺しながら入ってきたのはもちろん零だ。
「待っててくれたのか」
ぱっと表情を変えやわらかな笑みを浮かべた彼がベットに腰をおろすと、ぐっとマットレスが沈み込む。那由多は傾斜に導かれるようにして零のすぐ近くまで座る場所をずらし、わざと甘えるように肩口をつついた。
「このところ忙しかったでしょう?
もしあなたがよければ、寝る前に少しおしゃべりしたかったの」
「この一週間はほとんど食事も一緒にできなくて悪ぃな」
零は那由多の細い腰に腕をまわすと、自分の膝の上へ引き寄せるようにして抱きしめる。風呂上がりで普段よりも温かい身体にしっかりとつつまれ、那由多はくぐもった声で返事を返す。
「謝らないで。いつもお疲れさま」
背を優しくたたいてみたが、腕の力は弱まらない。諦めた那由多は身体の力を抜いて零の胸に寄り添った。零は少しの隙間も許さないと言わんばかりにさらにしっかりと腕に力をこめると、喉の奥を鳴らして笑う。その姿はさながら猫のようだ。那由多は少し苦しかったものの、できるだけぎゅっと抱きしめ返して応える。広い背には腕が回りきらなかったためパジャマの布を軽く握った。えんじ色のフランネルのパジャマは、那由多がポケットにシマエナガのワンポイントの刺繍を施したものだ。はじめて渡した日は「那由多のじゃないんだよな?」と明らかにサイズの大きな上着を手に二度も確認していたが、最近はスウェット地のものよりもこちらを好んで着ているようだった。せっけんの香りと暖かさは眠気を誘う。背中だけ握ったらシワになるかしらとぼんやり考え、パジャマなのだから気にすることもないと結論づける。
「……寂しかったろ?」
しばらく体温を分け合ったあと、零はからかうようにそう言ってやっと腕を緩めた。あわせて腕を解き、顔をあげた那由多は困ったように眉を下げる。
「寂しくなかったと思うの?」
「質問を質問で返すのはどうなんだ」
零は指先で那由多の頬にかかる髪を耳にかけてやり、ついでに小さな鼻先をつつく。
「……もう。あなたが頑張っていることはちゃんとわかっているから大丈夫」
いたずらな指先を握って止めると、今度は互いの指が絡められる。
「なんだ随分聞き分けがいいな。俺は寂しかったぜ」
「そうなの?」
「そりゃあな」
軽く握られた指先がニヤリと笑う口元に触れる。
「なぁ、もっとワガママになってもいいんじゃねぇか」
「あなたは十分私のことを甘やかしてくれていると思うわ。掃除も洗濯もお料理も私よりうまいんだもの。もしこれ以上となると、私はつけあがってしまうかもしれないわよ」
困らせてみようと脅すようにいえば、零は期待していた反応とは逆に楽しげに目を細めた。大いに結構と鷹揚に頷く。
「ワガママの一つや二つ、叶えてやりたくなるんだよ。男の甲斐性ってもんだろ?」
「甲斐性の意味ってそんな感じだったかしら……」
「何でもいいから言ってみてくれ」
「そう。それじゃあ一つ、お願いがあるんだけれど」
小首を傾げた那由多は、ふと思いついたアイデアを口にした。
「私、あなたの頭を撫でてみたい」
ややあって零の前で膝立ちになった那由多は、その頭をそうっと撫でる。
「ふわふわね。私とは違うわ」
指の間をくすぐる感触に那由多は声を弾ませる。きちんとセットされた姿を見ることが圧倒的に多かったので今まで伝えられなかったのだが、彼女は一度この髪にちゃんと触れてみたかったのだった。零からの反応が無いことが心配になり、那由多はちらりとその顔色をうかがう。零はただ二色の瞳を丸くしていた。驚いたようなそれは思いのほか幼い印象を抱かせる。
「触られるのは嫌いだった?」
「……いや、大丈夫だ」
声を掛けると零ははっとして、那由多が触れやすいように少しうつむくと頭を差し出した。彼は基本的に妻の希望に対して否を突きつけることがない。那由多は遠慮をなくし、両手でやわらかい髪をかき混ぜる。くるんと巻いた髪は何度撫でつけてみても毛先がぴょんぴょんと跳ねておかしい。くすりと笑みをこぼせば零が俯いたまま心底不思議そうな声で問う。
「ワガママに入るのかこれ。俺の頭なんか撫ででも楽しいことないだろ」
「そんなことないわよ。あなたも私の髪をよく触るじゃない」
「まぁ」
何か言いたそうではあったが、零はそれ以上は口を開かなかった。
暫く零はされるがまま、大人しく那由多に撫でられていた。眠くなったのかもしれないし、自分でわがままを聞くと言った手前拒絶ができなかっただけなのかもしれない。先ほどの言葉の通り、零はいつも那由多を甘やかすことに余念がなかった。それを純粋に嬉しいと思う反面、もっと頼ってくれていいのにとさみしくも思う。人に何かを渡すのは得意なのに、自分が受け取るのが苦手で不器用な人だ。乱れた前髪でもう表情は伺えない。少しずつでもいろんなものを分け合えたらいいと祈りつつ、名残惜しくも手を離す。
と、零の手が離れてゆこうとした那由多の左手を捕まえ、そのまま元の位置に戻した。
「……もう少しだけ、撫でてくれ」
穏やかな低い声とともに、すり、と頭が動く。目を瞬いた那由多はそっとまた手を動かした。彼女の心臓のもっと奥の場所がきゅうっと締めつけられる。そんな場所に内臓は無いことはよく分かっていたが、じわじわとくすぐったい感情が溢れるのを感じる。普段の彼は少し怖く見られがちだが整った顔に不敵な笑みを浮かべ、自分を表現するための好きな服を着こなして颯爽と歩き、真剣に研究に取り組んでは成果を朗々と語り、那由多にはとびきり甘い。そんな世界で一番格好いい零が。
「かわいい」
思わず溢れた小さな声は零に届いただろうか。ふわりとした感触も相まって、大きなわんちゃんみたいと那由多は笑みを深める。小さな子どもをあやすように撫で、彼女は好奇心のままに零の顔を下から覗き込んだ。溌剌とした瞳は瞼の向こうに隠されていたが、頬から耳にかけてが僅かに赤く染まっている。初めて見る表情にまた胸の奥がきゅっとした。
「かわいいひと」
彫りが深い目元もすっと通った鼻筋もしっかりした顎も何もかもが彼女にとって愛おしかった。顔の輪郭を指先でなぞると、薄く瞼が開かれて視線が絡まる。零は僅かに口角をあげている。
「あんまりじろじろ見ないでくれ。……おかしくなりそうだ」
とびきり甘く鼓膜を震わせて思考を溶かす声も、今日の那由多には効果がない。
「ダメ。見せて」
「終わりだ」
「我儘ね。どうしようかしら」
零の額、瞼、頬、鼻先に唇で触れる。それは普段零が那由多にしているものと全く同じ動きだったが、最後唇へ触れることはせずに鼻先が触れそうな至近距離で動きを止める。
「……なぁもう十分俺で遊んだだろ?」
焦れたように零の手が那由多の背を引き寄せるように滑った。それでも那由多は零を見つめるに留める。そうすれば零が折れることを知っているからだった。
「……わかったよ俺の負けだ。もう好きにしてくれ」
案の定零は仕方がないなと首を振って両手をあげた。
「本当に嫌なときはちゃんと教えてちょうだいね」
「あぁ。わかってる」
那由多は満足げに微笑んで、いい子にご褒美の口づけを落とした。
◇◇◇
くすくすと笑いながら繰り返される啄むようなキスと、それによってもたらされたじれったさを抱えながらも、零は那由多にされて嫌なことは無いだろうなとぼんやり考える。先ほどから零から触れようとする度に、那由多にダメだと手を膝まで戻されるのだがそれすら不快感はない。暫く楽しげに零に触れていた那由多が、すっと身を引いて零を見た。
「ぎゅってしてもいい?」
今日はずいぶんと積極的だ。やはりさみしい思いをさせていたのだろうと思う。ハグは歓迎する、が、那由多はにこりと笑って腕を広げて待ちの姿勢だ。零が動かずにいると、どうぞ?と首を傾げる。
なるほど、広げられた腕の中に自分で入れということらしい。好きな女にいつでも格好いいと思われたいという小さなプライドが頭をもたげたのか。人に弱みを見せれば最後いいように利用されるということを知っているが故の抵抗感か。自分でもよく分からなかったが零は一瞬ためらった。
「きて」
聖母にも小悪魔にも見える曖昧な微笑みに抗えず、零はどうにでもなれと半ばヤケクソにその腕に導かれることを選んだ。わざと少し体重をかけると二人分の体重を支えられなかった那由多は重力に負けてベットへと倒れ込む。きゃあと楽しそうな声があがった。どこもかしこもやわらかい身体に包まれて、ふんわりとシャンプーやボディクリームの甘い花の香りが零の肺を満たす。那由多に触れられたところから自身の境界が曖昧になるような不思議な感覚をおぼえた。やわらかな胸もとに埋まるとその奥から、とくりとくりと鼓動が伝わる。あたたかい湯に浸かったかのようなそれはじわりと意識すら溶かしてゆく。何か伝えたいのに思考は解けてゆくばかり。
「疲れてるのね」
那由多が端に寄せられていた肌触りのいい毛布を器用に引き寄せ二人の身体を覆う。衣擦れよりも優しい、いつもよりも少し低く感じる声が骨を伝わって零の鼓膜を揺らした。ちっぽけな己のプライドも肉欲も忘れるほど、触れるだけで満ち足りた心地になるのはなぜだろうか。再びそっと頭を撫でられる。ほかの人間に触れられるのはごめんだが、那由多ならそれも構わない。不思議と落ち着く。
身じろいで収まりの良い場所を探した那由多が、幼子にするように零を抱きしめ一定のリズムで背をたたく。いつの間にか部屋の照明も落とされている。那由多はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私ね、あなたが甘えてくれたことが嬉しいのよ。あなたにとって私は、弱みを見せてもいい人だという信頼だと思うもの。だからこれからもたまにはこうして甘えてくれたら嬉しい。
……これが私の一番のワガママなのかもしれないわね」
それなら俺だってそうだと言ってやりたいのに、身体はすっかり眠る準備を終えて脳からの指令が末端まで伝わらない。あぁ、全く格好がつかない。明日は思い切り那由多を甘やかそうと心に決め、零は諦めて瞼をおろした。
穏やかな笑みを含めた「おやすみなさい」はどこか懐かしく零の意識を夢へ誘った。
零那由
このところ零は忙しく、今日も夜の十一時をまわって帰宅し、壁掛け時計の短針が真上を過ぎてからようやく風呂へと向かったところだった。先に寝ていていいと言われていたものの、いつもより覇気のない声が気にかかり那由多は零を待つことに決めた。広いベットの上、天気予報で少し寒くなりそうな予報だったのでおろした毛布の隣に座る。彼女の好みに合わせたそれは淡い色合いで少し零の好みとは違ったかもしれない。そう思いながら肌触りの良い表面に手のひらを押しつけてはその感触を楽しんでいた。
そうこうするうちに、ガチャリと寝室の扉が開く。あくびを噛み殺しながら入ってきたのはもちろん零だ。
「待っててくれたのか」
ぱっと表情を変えやわらかな笑みを浮かべた彼がベットに腰をおろすと、ぐっとマットレスが沈み込む。那由多は傾斜に導かれるようにして零のすぐ近くまで座る場所をずらし、わざと甘えるように肩口をつついた。
「このところ忙しかったでしょう?
もしあなたがよければ、寝る前に少しおしゃべりしたかったの」
「この一週間はほとんど食事も一緒にできなくて悪ぃな」
零は那由多の細い腰に腕をまわすと、自分の膝の上へ引き寄せるようにして抱きしめる。風呂上がりで普段よりも温かい身体にしっかりとつつまれ、那由多はくぐもった声で返事を返す。
「謝らないで。いつもお疲れさま」
背を優しくたたいてみたが、腕の力は弱まらない。諦めた那由多は身体の力を抜いて零の胸に寄り添った。零は少しの隙間も許さないと言わんばかりにさらにしっかりと腕に力をこめると、喉の奥を鳴らして笑う。その姿はさながら猫のようだ。那由多は少し苦しかったものの、できるだけぎゅっと抱きしめ返して応える。広い背には腕が回りきらなかったためパジャマの布を軽く握った。えんじ色のフランネルのパジャマは、那由多がポケットにシマエナガのワンポイントの刺繍を施したものだ。はじめて渡した日は「那由多のじゃないんだよな?」と明らかにサイズの大きな上着を手に二度も確認していたが、最近はスウェット地のものよりもこちらを好んで着ているようだった。せっけんの香りと暖かさは眠気を誘う。背中だけ握ったらシワになるかしらとぼんやり考え、パジャマなのだから気にすることもないと結論づける。
「……寂しかったろ?」
しばらく体温を分け合ったあと、零はからかうようにそう言ってやっと腕を緩めた。あわせて腕を解き、顔をあげた那由多は困ったように眉を下げる。
「寂しくなかったと思うの?」
「質問を質問で返すのはどうなんだ」
零は指先で那由多の頬にかかる髪を耳にかけてやり、ついでに小さな鼻先をつつく。
「……もう。あなたが頑張っていることはちゃんとわかっているから大丈夫」
いたずらな指先を握って止めると、今度は互いの指が絡められる。
「なんだ随分聞き分けがいいな。俺は寂しかったぜ」
「そうなの?」
「そりゃあな」
軽く握られた指先がニヤリと笑う口元に触れる。
「なぁ、もっとワガママになってもいいんじゃねぇか」
「あなたは十分私のことを甘やかしてくれていると思うわ。掃除も洗濯もお料理も私よりうまいんだもの。もしこれ以上となると、私はつけあがってしまうかもしれないわよ」
困らせてみようと脅すようにいえば、零は期待していた反応とは逆に楽しげに目を細めた。大いに結構と鷹揚に頷く。
「ワガママの一つや二つ、叶えてやりたくなるんだよ。男の甲斐性ってもんだろ?」
「甲斐性の意味ってそんな感じだったかしら……」
「何でもいいから言ってみてくれ」
「そう。それじゃあ一つ、お願いがあるんだけれど」
小首を傾げた那由多は、ふと思いついたアイデアを口にした。
「私、あなたの頭を撫でてみたい」
ややあって零の前で膝立ちになった那由多は、その頭をそうっと撫でる。
「ふわふわね。私とは違うわ」
指の間をくすぐる感触に那由多は声を弾ませる。きちんとセットされた姿を見ることが圧倒的に多かったので今まで伝えられなかったのだが、彼女は一度この髪にちゃんと触れてみたかったのだった。零からの反応が無いことが心配になり、那由多はちらりとその顔色をうかがう。零はただ二色の瞳を丸くしていた。驚いたようなそれは思いのほか幼い印象を抱かせる。
「触られるのは嫌いだった?」
「……いや、大丈夫だ」
声を掛けると零ははっとして、那由多が触れやすいように少しうつむくと頭を差し出した。彼は基本的に妻の希望に対して否を突きつけることがない。那由多は遠慮をなくし、両手でやわらかい髪をかき混ぜる。くるんと巻いた髪は何度撫でつけてみても毛先がぴょんぴょんと跳ねておかしい。くすりと笑みをこぼせば零が俯いたまま心底不思議そうな声で問う。
「ワガママに入るのかこれ。俺の頭なんか撫ででも楽しいことないだろ」
「そんなことないわよ。あなたも私の髪をよく触るじゃない」
「まぁ」
何か言いたそうではあったが、零はそれ以上は口を開かなかった。
暫く零はされるがまま、大人しく那由多に撫でられていた。眠くなったのかもしれないし、自分でわがままを聞くと言った手前拒絶ができなかっただけなのかもしれない。先ほどの言葉の通り、零はいつも那由多を甘やかすことに余念がなかった。それを純粋に嬉しいと思う反面、もっと頼ってくれていいのにとさみしくも思う。人に何かを渡すのは得意なのに、自分が受け取るのが苦手で不器用な人だ。乱れた前髪でもう表情は伺えない。少しずつでもいろんなものを分け合えたらいいと祈りつつ、名残惜しくも手を離す。
と、零の手が離れてゆこうとした那由多の左手を捕まえ、そのまま元の位置に戻した。
「……もう少しだけ、撫でてくれ」
穏やかな低い声とともに、すり、と頭が動く。目を瞬いた那由多はそっとまた手を動かした。彼女の心臓のもっと奥の場所がきゅうっと締めつけられる。そんな場所に内臓は無いことはよく分かっていたが、じわじわとくすぐったい感情が溢れるのを感じる。普段の彼は少し怖く見られがちだが整った顔に不敵な笑みを浮かべ、自分を表現するための好きな服を着こなして颯爽と歩き、真剣に研究に取り組んでは成果を朗々と語り、那由多にはとびきり甘い。そんな世界で一番格好いい零が。
「かわいい」
思わず溢れた小さな声は零に届いただろうか。ふわりとした感触も相まって、大きなわんちゃんみたいと那由多は笑みを深める。小さな子どもをあやすように撫で、彼女は好奇心のままに零の顔を下から覗き込んだ。溌剌とした瞳は瞼の向こうに隠されていたが、頬から耳にかけてが僅かに赤く染まっている。初めて見る表情にまた胸の奥がきゅっとした。
「かわいいひと」
彫りが深い目元もすっと通った鼻筋もしっかりした顎も何もかもが彼女にとって愛おしかった。顔の輪郭を指先でなぞると、薄く瞼が開かれて視線が絡まる。零は僅かに口角をあげている。
「あんまりじろじろ見ないでくれ。……おかしくなりそうだ」
とびきり甘く鼓膜を震わせて思考を溶かす声も、今日の那由多には効果がない。
「ダメ。見せて」
「終わりだ」
「我儘ね。どうしようかしら」
零の額、瞼、頬、鼻先に唇で触れる。それは普段零が那由多にしているものと全く同じ動きだったが、最後唇へ触れることはせずに鼻先が触れそうな至近距離で動きを止める。
「……なぁもう十分俺で遊んだだろ?」
焦れたように零の手が那由多の背を引き寄せるように滑った。それでも那由多は零を見つめるに留める。そうすれば零が折れることを知っているからだった。
「……わかったよ俺の負けだ。もう好きにしてくれ」
案の定零は仕方がないなと首を振って両手をあげた。
「本当に嫌なときはちゃんと教えてちょうだいね」
「あぁ。わかってる」
那由多は満足げに微笑んで、いい子にご褒美の口づけを落とした。
◇◇◇
くすくすと笑いながら繰り返される啄むようなキスと、それによってもたらされたじれったさを抱えながらも、零は那由多にされて嫌なことは無いだろうなとぼんやり考える。先ほどから零から触れようとする度に、那由多にダメだと手を膝まで戻されるのだがそれすら不快感はない。暫く楽しげに零に触れていた那由多が、すっと身を引いて零を見た。
「ぎゅってしてもいい?」
今日はずいぶんと積極的だ。やはりさみしい思いをさせていたのだろうと思う。ハグは歓迎する、が、那由多はにこりと笑って腕を広げて待ちの姿勢だ。零が動かずにいると、どうぞ?と首を傾げる。
なるほど、広げられた腕の中に自分で入れということらしい。好きな女にいつでも格好いいと思われたいという小さなプライドが頭をもたげたのか。人に弱みを見せれば最後いいように利用されるということを知っているが故の抵抗感か。自分でもよく分からなかったが零は一瞬ためらった。
「きて」
聖母にも小悪魔にも見える曖昧な微笑みに抗えず、零はどうにでもなれと半ばヤケクソにその腕に導かれることを選んだ。わざと少し体重をかけると二人分の体重を支えられなかった那由多は重力に負けてベットへと倒れ込む。きゃあと楽しそうな声があがった。どこもかしこもやわらかい身体に包まれて、ふんわりとシャンプーやボディクリームの甘い花の香りが零の肺を満たす。那由多に触れられたところから自身の境界が曖昧になるような不思議な感覚をおぼえた。やわらかな胸もとに埋まるとその奥から、とくりとくりと鼓動が伝わる。あたたかい湯に浸かったかのようなそれはじわりと意識すら溶かしてゆく。何か伝えたいのに思考は解けてゆくばかり。
「疲れてるのね」
那由多が端に寄せられていた肌触りのいい毛布を器用に引き寄せ二人の身体を覆う。衣擦れよりも優しい、いつもよりも少し低く感じる声が骨を伝わって零の鼓膜を揺らした。ちっぽけな己のプライドも肉欲も忘れるほど、触れるだけで満ち足りた心地になるのはなぜだろうか。再びそっと頭を撫でられる。ほかの人間に触れられるのはごめんだが、那由多ならそれも構わない。不思議と落ち着く。
身じろいで収まりの良い場所を探した那由多が、幼子にするように零を抱きしめ一定のリズムで背をたたく。いつの間にか部屋の照明も落とされている。那由多はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私ね、あなたが甘えてくれたことが嬉しいのよ。あなたにとって私は、弱みを見せてもいい人だという信頼だと思うもの。だからこれからもたまにはこうして甘えてくれたら嬉しい。
……これが私の一番のワガママなのかもしれないわね」
それなら俺だってそうだと言ってやりたいのに、身体はすっかり眠る準備を終えて脳からの指令が末端まで伝わらない。あぁ、全く格好がつかない。明日は思い切り那由多を甘やかそうと心に決め、零は諦めて瞼をおろした。
穏やかな笑みを含めた「おやすみなさい」はどこか懐かしく零の意識を夢へ誘った。
垂涎の
垂涎の
一左馬♀
ふんわりと過去捏造
左馬刻を訪ねた一郎は目の前の光景を見て首を捻る。左馬刻と簓が活動拠点としている事務所は普段彼らの嗜むタバコの苦いニオイが漂っているのだが、今日は様子が違った。ドアを開けた瞬間からとにかく甘ったるい匂いが満ちていて、それだけで胸焼けしそうだ。おそるおそる部屋をのぞくと、ソファでぐったりとしている簓と目が合う。
「おはよーさん。一郎……」
「簓さん、どうしたんすか」
力なく手をあげる簓の顔色は悪い。この二人は時々ふざけてるのかと思うような飲み会を開催しいる時がある。もっとも一郎は多少興味はあれどまだ酒は飲んでおらず、二人が実際どのように夜を過ごしたのか詳しくは知らない。
先日も昼近くなって事務所を訪ねるとおびただしい数の酒瓶と缶、吸い殻が山となった灰皿に囲まれソファや床でぐったりとしているのを見つけた。(しんどくなるまで飲まなきゃいいのに)という言葉を飲み込み、足元に気をつけながら窓を開けてみる。さっと風が部屋にはいり、こもった空気が新鮮な空気へ置き換わる。ブラインドをあげたので陽の光が当たったのだろう。左馬刻が僅かに呻いた。この光景を見るのは少し嫌いだ。一郎にはまだわからない世界で二人が楽しく過ごしていたのも、格好いい左馬刻さんじゃないのも、昨日見たままの服が乱れているのも嫌だった。そんなことを言う度胸も権利もないのでいつも言葉をのみ込むしかない。
「一郎やん。ええとこに来てくれたわ……」
簓が頭だけ起こすと左馬刻のポケットからマネークリップに挟まれた札束を抜き取り、ぽいっと一郎へと投げてよこす。
「……キャベジン二本お願い。おつりで好きなもん買うてええからな」
がさがさの声で弱々しく言うとまたソファへと沈み込む。想定より分厚いそれに戸惑っていると、左馬刻はほんの一瞬一郎へと視線を投げてから日の当たらない方へと顔を向けて寝直す体勢に入る。否定が飛んで来ないということは実質肯定だ。一郎は、「わかりました」と返してドラッグストアまで走る。
というのはもうあまり珍しい光景ではない。そんな二日酔いでグロッキーな日よりも今日の簓の顔色は悪かった。
「大丈夫っすか」
「一郎、代わってくれ……」
簓に手招きされて部屋に入ると、ソファとセットのローテーブルの上は一面のお菓子で溢れていた。甘い香りの正体はコレかと一郎は鼻を鼻を鳴らす。酒意外のものがこのテーブルへこんなにところ狭しと並んでいるところは見たことがなかった。
「どうしたんすか、これ」
「どうもこうもないわ、左馬刻や。さ、ま、と、き」
「いや、左馬刻さんがなんで……?」
チョコレート、クッキー、一郎には名前がわからないがみたことのある焼き菓子たち。それと左馬刻がうまく結びつかない。
「おい簓、休憩は終わったか……って、一郎じゃねえか」
「……っす」
軽く頭を下げた一郎が次に見たのは、湯気をたてるトレーを持った左馬刻だった。髪を軽くまとめているのでピアスがよく見え、身につけている見たことのない淡い水色のエプロンがかわいい。すたすたと歩いてきた左馬刻は簓の前のお菓子たちを押しやってスペースを作ると、持ってきたトレーから皿に乗せられたチョコレートのケーキをどんと置いた。
「もう勘弁したってぇな。ほら、せっかく来てくれたし一郎にくわせたらええやん。歳も近いし味覚も近いやろ」
「ダメだ。俺様はテメェの舌を買ってるんだよ」
「もう無理やって」
「一口食え」
「ひい、一郎助けて……!」
左馬刻がチョコレートケーキにスプーンをいれると、中からとろりとチョコレートが溢れ出る。差し出されたスプーンを簓は拒否して、一郎の口へと突っ込んだ。とろりととろけたあつあつのチョコレートと外側のふわっとしたスポンジ、それから何かのジャムのような酸味が口いっぱいに広がる。
「どない?」
「……美味いっす」
簓は真剣に頷く。
「それから?」
「甘いな、と」
「ほんで?」
「えっ、と。すげぇ、う、うまい……?」
簓は手で目元を隠すとソファへ沈み込んだ。一方の左馬刻は肩を竦めている。
「あちゃあ」
「ほらな、」
なんとなく馬鹿にされたような気がして一郎がむっとしている間に、左馬刻が問答無用で簓の口へとチョコレートケーキ第二弾を突っ込む。もごもごと咀嚼した簓は、ややあってそれを飲み下す。
「……うまいけど、一郎も言うとったようにちょっと甘いんちゃう?俺はもうちょいビターチョコ増やしてもええと思う。あとフォンダンショコラってベリーもええけど、甘さは控えめにして、アプリコットとか入れる方が合歓ちゃんの好みちゃうかなぁ。ほら、この間ザッハトルテがおいしかったって言うとったし。あとは生地がもうちょいしっとりしとるほうが冷めてから食べるときにええかなと思った」
左馬刻は頷き立ち上がった。
「あと二つ作ってっから、冷めてからまた食えよ」
「堪忍やでほんま……」
お菓子の評論会が開かれていることはわかったが、理由が全くわからない。再度キッチンへ向かおうとする左馬刻をひきとめ、一郎は根本を二人に問うた。
「何してるんすかこれ」
「何ってバレンタインの予行演習や」
「合歓が食うんだ、半端なもんは作れねえだろ」
「バレンタイン……」
一郎は脱力する。つまり、妹においしいスイーツを食べさせたい左馬刻が練習台に簓を使っているのだ。机いっぱいのお菓子をみる限り、きっと朝からずっと。ちなみに今はまだ一月の後半である。
「簓さん……」
一郎は簓に同情しつつも、僅かにもやもやとした気持ちを抱える。食べることであれば一郎にもできるし、おそらく簓よりもたくさん食べられる。市販品ならともかく、普段は忙しくしている左馬刻の手の込んだ手作り品である。一郎としては簓が羨ましくてたまらなかった。それが顔にでていたのか、左馬刻が形のいい眉を寄せて一郎の頭を小突く。
「お前は何食っても『うまい』しか言わねぇだろ」
「そんなこと……」
一郎はぼんやりと今まで左馬刻に料理を作ってもらったりご飯を食べに連れて行ってもらった時のことを思い出す。焼き肉は肉が柔らかくてうまかった。中華は見たことない麺と蒸された餃子みたいなものがうまかった。即席の炒め物は何が入っているかよく分からないけれど白米がすすんでうまかった……。ぐうの音も出ない惨状に自分でも愕然とする。
目を丸くした一郎を見て簓がカラカラと笑った。
「左馬刻とおると、一郎嬉しそうやもんなあ。食べもんの味なんて関係ないわな」
「えっ、いやそんな」
ドキッとした一郎が動いた拍子に、強かにローテーブルへ足をぶつけた。がちゃんと机の上にあった皿やお菓子たちも跳ねる。
「痛って!」
「おい、大人しくしろ」
「……っす」
涙目の一郎が膝を擦っていると、左馬刻が一度キッチンへ引っ込み、新しい皿とフォーク、それからあたたかいお茶を一郎の前に置いた。
「簓が食った後なら全部食っていい」
「マジすか」
やった、と呟いた一郎の頭を左馬刻が雑にかき混ぜる。
「うわ」
「簓が手を付けてねぇのもいっぱいあるから、おまえの兄弟の分も後で包んでやるよ」
見上げると長いまつげに縁どられた深紅の双眸がやわらかくこちらを見ている。頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。しなやかな指先が地肌をくすぐるのがむずがゆいような心地よいような、よく分からない感覚だった。
「……そろそろアイスが固まるな」
する、と離れてゆく手が名残惜しい。それでも引き留める理由も見つけられず、一郎は左馬刻を見送るしかなかった。
ハートの形のチョコレートを皿にとり、一口かじる。予想より中身が柔らかく咥内の温度でとろけるそれは、ナッツのような香ばしいいい香りがした。
「うま……」
もくもくとお菓子を口へと運ぶ一郎の横で、簓はタバコに火をつけた。
「コーヒーが足らんわ」
一左馬♀
ふんわりと過去捏造
左馬刻を訪ねた一郎は目の前の光景を見て首を捻る。左馬刻と簓が活動拠点としている事務所は普段彼らの嗜むタバコの苦いニオイが漂っているのだが、今日は様子が違った。ドアを開けた瞬間からとにかく甘ったるい匂いが満ちていて、それだけで胸焼けしそうだ。おそるおそる部屋をのぞくと、ソファでぐったりとしている簓と目が合う。
「おはよーさん。一郎……」
「簓さん、どうしたんすか」
力なく手をあげる簓の顔色は悪い。この二人は時々ふざけてるのかと思うような飲み会を開催しいる時がある。もっとも一郎は多少興味はあれどまだ酒は飲んでおらず、二人が実際どのように夜を過ごしたのか詳しくは知らない。
先日も昼近くなって事務所を訪ねるとおびただしい数の酒瓶と缶、吸い殻が山となった灰皿に囲まれソファや床でぐったりとしているのを見つけた。(しんどくなるまで飲まなきゃいいのに)という言葉を飲み込み、足元に気をつけながら窓を開けてみる。さっと風が部屋にはいり、こもった空気が新鮮な空気へ置き換わる。ブラインドをあげたので陽の光が当たったのだろう。左馬刻が僅かに呻いた。この光景を見るのは少し嫌いだ。一郎にはまだわからない世界で二人が楽しく過ごしていたのも、格好いい左馬刻さんじゃないのも、昨日見たままの服が乱れているのも嫌だった。そんなことを言う度胸も権利もないのでいつも言葉をのみ込むしかない。
「一郎やん。ええとこに来てくれたわ……」
簓が頭だけ起こすと左馬刻のポケットからマネークリップに挟まれた札束を抜き取り、ぽいっと一郎へと投げてよこす。
「……キャベジン二本お願い。おつりで好きなもん買うてええからな」
がさがさの声で弱々しく言うとまたソファへと沈み込む。想定より分厚いそれに戸惑っていると、左馬刻はほんの一瞬一郎へと視線を投げてから日の当たらない方へと顔を向けて寝直す体勢に入る。否定が飛んで来ないということは実質肯定だ。一郎は、「わかりました」と返してドラッグストアまで走る。
というのはもうあまり珍しい光景ではない。そんな二日酔いでグロッキーな日よりも今日の簓の顔色は悪かった。
「大丈夫っすか」
「一郎、代わってくれ……」
簓に手招きされて部屋に入ると、ソファとセットのローテーブルの上は一面のお菓子で溢れていた。甘い香りの正体はコレかと一郎は鼻を鼻を鳴らす。酒意外のものがこのテーブルへこんなにところ狭しと並んでいるところは見たことがなかった。
「どうしたんすか、これ」
「どうもこうもないわ、左馬刻や。さ、ま、と、き」
「いや、左馬刻さんがなんで……?」
チョコレート、クッキー、一郎には名前がわからないがみたことのある焼き菓子たち。それと左馬刻がうまく結びつかない。
「おい簓、休憩は終わったか……って、一郎じゃねえか」
「……っす」
軽く頭を下げた一郎が次に見たのは、湯気をたてるトレーを持った左馬刻だった。髪を軽くまとめているのでピアスがよく見え、身につけている見たことのない淡い水色のエプロンがかわいい。すたすたと歩いてきた左馬刻は簓の前のお菓子たちを押しやってスペースを作ると、持ってきたトレーから皿に乗せられたチョコレートのケーキをどんと置いた。
「もう勘弁したってぇな。ほら、せっかく来てくれたし一郎にくわせたらええやん。歳も近いし味覚も近いやろ」
「ダメだ。俺様はテメェの舌を買ってるんだよ」
「もう無理やって」
「一口食え」
「ひい、一郎助けて……!」
左馬刻がチョコレートケーキにスプーンをいれると、中からとろりとチョコレートが溢れ出る。差し出されたスプーンを簓は拒否して、一郎の口へと突っ込んだ。とろりととろけたあつあつのチョコレートと外側のふわっとしたスポンジ、それから何かのジャムのような酸味が口いっぱいに広がる。
「どない?」
「……美味いっす」
簓は真剣に頷く。
「それから?」
「甘いな、と」
「ほんで?」
「えっ、と。すげぇ、う、うまい……?」
簓は手で目元を隠すとソファへ沈み込んだ。一方の左馬刻は肩を竦めている。
「あちゃあ」
「ほらな、」
なんとなく馬鹿にされたような気がして一郎がむっとしている間に、左馬刻が問答無用で簓の口へとチョコレートケーキ第二弾を突っ込む。もごもごと咀嚼した簓は、ややあってそれを飲み下す。
「……うまいけど、一郎も言うとったようにちょっと甘いんちゃう?俺はもうちょいビターチョコ増やしてもええと思う。あとフォンダンショコラってベリーもええけど、甘さは控えめにして、アプリコットとか入れる方が合歓ちゃんの好みちゃうかなぁ。ほら、この間ザッハトルテがおいしかったって言うとったし。あとは生地がもうちょいしっとりしとるほうが冷めてから食べるときにええかなと思った」
左馬刻は頷き立ち上がった。
「あと二つ作ってっから、冷めてからまた食えよ」
「堪忍やでほんま……」
お菓子の評論会が開かれていることはわかったが、理由が全くわからない。再度キッチンへ向かおうとする左馬刻をひきとめ、一郎は根本を二人に問うた。
「何してるんすかこれ」
「何ってバレンタインの予行演習や」
「合歓が食うんだ、半端なもんは作れねえだろ」
「バレンタイン……」
一郎は脱力する。つまり、妹においしいスイーツを食べさせたい左馬刻が練習台に簓を使っているのだ。机いっぱいのお菓子をみる限り、きっと朝からずっと。ちなみに今はまだ一月の後半である。
「簓さん……」
一郎は簓に同情しつつも、僅かにもやもやとした気持ちを抱える。食べることであれば一郎にもできるし、おそらく簓よりもたくさん食べられる。市販品ならともかく、普段は忙しくしている左馬刻の手の込んだ手作り品である。一郎としては簓が羨ましくてたまらなかった。それが顔にでていたのか、左馬刻が形のいい眉を寄せて一郎の頭を小突く。
「お前は何食っても『うまい』しか言わねぇだろ」
「そんなこと……」
一郎はぼんやりと今まで左馬刻に料理を作ってもらったりご飯を食べに連れて行ってもらった時のことを思い出す。焼き肉は肉が柔らかくてうまかった。中華は見たことない麺と蒸された餃子みたいなものがうまかった。即席の炒め物は何が入っているかよく分からないけれど白米がすすんでうまかった……。ぐうの音も出ない惨状に自分でも愕然とする。
目を丸くした一郎を見て簓がカラカラと笑った。
「左馬刻とおると、一郎嬉しそうやもんなあ。食べもんの味なんて関係ないわな」
「えっ、いやそんな」
ドキッとした一郎が動いた拍子に、強かにローテーブルへ足をぶつけた。がちゃんと机の上にあった皿やお菓子たちも跳ねる。
「痛って!」
「おい、大人しくしろ」
「……っす」
涙目の一郎が膝を擦っていると、左馬刻が一度キッチンへ引っ込み、新しい皿とフォーク、それからあたたかいお茶を一郎の前に置いた。
「簓が食った後なら全部食っていい」
「マジすか」
やった、と呟いた一郎の頭を左馬刻が雑にかき混ぜる。
「うわ」
「簓が手を付けてねぇのもいっぱいあるから、おまえの兄弟の分も後で包んでやるよ」
見上げると長いまつげに縁どられた深紅の双眸がやわらかくこちらを見ている。頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。しなやかな指先が地肌をくすぐるのがむずがゆいような心地よいような、よく分からない感覚だった。
「……そろそろアイスが固まるな」
する、と離れてゆく手が名残惜しい。それでも引き留める理由も見つけられず、一郎は左馬刻を見送るしかなかった。
ハートの形のチョコレートを皿にとり、一口かじる。予想より中身が柔らかく咥内の温度でとろけるそれは、ナッツのような香ばしいいい香りがした。
「うま……」
もくもくとお菓子を口へと運ぶ一郎の横で、簓はタバコに火をつけた。
「コーヒーが足らんわ」
殻の中の夢
殻の中の夢
ろささ・零那由
零が静かな部屋で一人、とある資料を捲っていた時だった。蘆笙が修学旅行の引率から戻るのだと、簓が電話をかけてきた。
『明日は俺も久々のオフやねん、せやから今日の夜は蘆笙ん家集合な!』
小学生の子供のように弾んだ声がそう告げる。零が適当に肯定の言葉を返すと彼はますます嬉しそうに笑った。すぐに電話の向こうでマネージャーに呼ばれたらしい簓は『ほなね』と慌てて残し電話を切る。零は通話終了の画面を眺めながら、今日の手土産に頭を巡らせた。
十九時すぎ、蘆笙の家には既に簓と零がいた。このところ忙しかったと見え、簓の顔色がやや悪い。だがそれを覆す勢いで彼は得意の喋りを披露していた。零と二人、コンビニの餃子をつまみに早々に一本目のビールの缶があく。
「蘆笙のやつ遅いなぁ」
「しょうがねぇだろ。『先生』っつーのはいつの世も忙しいモンなんだからよ」
「そんなもんなんやろか。ご苦労やでほんま」
「売れっ子漫才師を心配させるたぁ贅沢だねぇ」
「何やねん、俺ら仲間やろ。心配ぐらいするわ」
「そんだけかぁ?」
「他に何があんねん。
次は何にする?俺はビールかなぁ」
「おいちゃんもそれで」
二本目を取るために簓は立ち上がる。横を通りながら、簓がちらりと零の顔色を伺った。それはほぼ無意識の簓の癖で、彼は鋭い観察眼と洞察力によって人の心を見透かすのが上手い。表には出さないが口よりもさらによく回る頭は称賛と警戒に値する。だがよくわきまえているのが彼のよいところだった。
勝手知ったるキッチンで目当てのものを手に入れて、簓はすぐにもどった。
「ほい」
「ありがとよ」
各々プルタブを引くと、カシュという小気味良い音が重なる。無言のまま缶をぶつけて二人とも二本目も景気よく流し込んだ。秋口にはいりやや肌寒くなったが、いつ飲んでもビールは美味い。くあぁ、と簓が声をあげたところで、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
「蘆笙おかえり!」
「ただいま……、って俺の部屋を毎度毎度自分の家のようにお前ら……」
どさりと重い荷物を廊下へ置く音がして、玄関から三歩の和室へやっと家主がもどってきた。
「邪魔してるぜ」
「邪魔すんねやったら帰ってくれ」
「まぁそう言わんと、蘆笙もはよ飲もうや」
「ちょお待て、手洗ってくるわ」
ぺたぺたと足音をたてて洗面台へ消えた蘆笙は、すぐに自分の分のビールを手に戻った。改めて三人で缶をぶつけて声を重ねる。
「乾杯!」
「お疲れ〜。大変やったんちゃうん修学旅行の引率」
「ほんまやで。大変やったわ。慣れん場所やし、危ないもんも人も気をつけなあかんし、生徒らも流石に浮かれるやつもおるし。
まあそれでもあんなに楽しそうにしてくれて、思い出になるんやったらええわ」
きつい目元を柔らかく緩めた蘆笙がビールをあおる。恒例の深夜の見張りのためか、目元に隈をつくっていたが、はぁと満足そうなそのため息に彼の充実度合いが見えた。
「よかったやん」
そう言って缶を掲げる簓に、蘆笙は笑って自分の缶をぶつけた。
「お前こそ大変やったんちゃうか。俺はオオサカテレビが映らん地区におったからあれやけど、今日も生放送があったんやろ。イベントMCもやるとか言うてなかったか」
「そやで。今日もこのヌルサラさんが爆笑かっさらったったわ。
結構おもろいイベンやってな、こう仮装した素人さんたちの出しもんを……」
鬱屈も屈折も忌憚もなく、互いの仕事の話に花を咲かせる若者二人を肴に零も酒を飲み干す。思ったよりもすぐに空いてしまったので、手土産の「とっておき」の日本酒の瓶を手に取った。
「ほらお前ら、酒の味がわかるうちに味わっとけよ」
簓が机の上に準備してあったグラスをそれぞれの前へ置く。
「おおきにな!
お、それカナザワディビジョンの有名なやつやん」
「よく知ってるじゃねぇか。鰭酒と合うんだよなコレが」
「今日は冷凍餃子やけどな」
「せや、俺もつまみにと思ってお土産買うてきてん」
色の白い蘆笙は、もう既に朱の差した顔でいつもよりも朗らかに笑う。横着して身体を伸ばして取ったのは、ジンギスカン味のポテトチップスだった。
「また絶妙なチョイスだな」
素直な零の感想を、簓が笑い飛ばす。
「わからんで、むっちゃ美味いかもしれんやん」
ばりっと派手な色の袋を開いた蘆笙からそれぞれが受け取って口に入れる。
「あ〜」
「うん」
「これはなんとも」
ぱりぱりと咀嚼すると確かにジンギスカンらしい濃い味がするのだが、ラムを表現しているらしき匂いがどうにも鼻につく。三人は顔を見合わせてから噴き出した。
「買った俺が言うのも何やけど、なんともいえん味やな……」
「まぁいいじゃねぇか、話のネタにくらいなるだろ」
「俺は悔しいわ。微妙すぎてリアクション取れんかった……!」
眉を顰めた蘆笙は、もう一枚!と手を伸ばす簓に無理をするなと釘をさす。
「口直しと行こうぜ」
それぞれのグラスへ日本酒をなみなみと注げば、二人はそろって問題の土産物から手を離した。零のとっておきの酒は、香りは華やかだがきりりと辛口でさっぱりと飲みやすい。
「くぅ、滲みるわぁ」
「というか、意外にも合うんちゃうかコレと」
「遠慮せず飲めよ」
ついつい箸も進み、机の上の餃子も蘆笙の土産物も、思いのほか早く片付きそうであった。
「うぅん、」
今日も真っ先にダウンしたのは蘆笙で、楽しげに語っていたのも束の間、気がつけばこっくりこっくりと船を漕いでおり、かと思うと後ろへばたりと倒れ込んだ。
「あかんわ、てんじょうまわっとる」
「回ってへん回ってへん」
斜めにズレた眼鏡を取ってやりながら、簓はその目の前に指を二本目をたててみせる。
「お客さん大変!こんなところに倒れてもうて!
コレは何本に見えます?よぉ見て!」
「バカにすなよ、二本にみえとるわ!」
「じゃあこれは!」
チームのハンドサインを蘆笙の鼻先に押し付ける。視界を覆う指から顔を背けようと唸る蘆笙は、鬱陶しそうに叫んだ。
「いやちかい。見えんわ!」
簓は深刻な表情を作ると零を振り返る。
「まあ大変!先生、どないしましょ」
「ん?あぁ、心拍数測っとけ」
「はい!」
適当に合わせた零の言葉に従って簓が蘆笙の服を捲った。
「先生大変や!腹筋割れすぎて板チョコみたいになってもうてます!」
きゃあと裏声の簓は酔いのためかもうコント師の顔を保てそうにない。
「あぁ、こんなに見事に割れちまってたらなぁ、残念だが……」
代わりに今度は零が深刻な顔で首を横に振る。
「そんな、先生なんとかならんのですか」
「いや、ちぎったパンがもとに戻ることはない」
「だれがちぎりパンや!
おまえらぁ、いいかげんにせえよ!だいたいおまえらも腹筋くらいわれとるやろが」
仕返しとばかりに簓のシャツを引いた蘆笙に簓はついに堪えきれずに笑いだした。
「あはは、くすぐったいわ!ごめんて、もう。ほら止めてぇな」
簓は引き倒され、大の大人たちが文字通り笑い転がる。いつもはきっちりと後ろへ撫でつけられている蘆笙の、髪は崩れ簓は血色ののった目元に涙を滲ませている。何がどうなったのか、いつの間にかくすぐり合いがはじまり、やれやれとその様子を見下ろす零は、かつてどこかで見たことがあるような光景に口角をあげた。
「れい、なにわろてんねん。おまえもはらだしてみ」
「おっと、俺を脱がすのはちぃとばかし高くつくぜぇ」
笑いすぎて震えている簓を抑えて起き上がると、蘆笙はびしっと零を指差した。
「……っく。
そんな、シャツあけて、きとって。はらがだせんことあるかいな!」
「おいおい大丈夫かぁ?」
勢いよく起き上がったせいか蘆笙は、目眩に襲われたらしい。ふらふらと上体をゆらしていて、危険を察知した簓が僅かに身体をずらしていた。
「ひゅう!やったれ蘆笙!」
「面白いもんなんてでてこねぇよったく」
すっかり据わった目でしばらく何事かつぶやいていた蘆笙は、先ほど横になったことでさらに酔いが回ったのか最後にはついにぱたりと横になり、寝息を立て始めた。隣りでその顔を暫く眺めた簓は、はぁ笑った笑ったと身体を起こし、出しっぱなしの腹筋にきちんと服をかけてやった。
「零は、まだいけるやろ?もうちょい飲もうや」
グラスに残っていたぶんを飲み干し、つまみを口にしようと箸を取ろうとしてその手をとめた。机の上はいつの間にか、酒しか残ってはいない。
「ありゃ、もうなんもないな」
めんどくさいけどコンビニでも行くかとぼやく簓に、零はグラスを置いて立ち上がる。
「……しょうがねぇ。ちょっと待ってな」
「冷蔵庫は卵しかあらへんかったで」
しっかりした足取りでキッチンへたった零が、かちゃかちゃと調理器具を取り出す音を聞いて、簓はおやと首を傾げる。彼が知る限り、零がキッチンにたった姿をみたことはなかった。興味をひかれ、日本酒で満たしたグラス二つを手に後を追った。
明らかに前に立つ男とは高さのあわない調理台にどんぶりがひとつ。零が片手で手際よく卵を割り入れている。流しの縁に零の分のグラスを置き、簓はそのチグハグな光景を眺めた。四つの卵に目分量で粉末出汁と水とが入った。零の目が食器のあたりを彷徨っているのを見て、簓は引き出しからあまり使われた形跡のない菜箸を取り出して渡す。眉をあげてありがとよと返すと零はそのままあっという間に卵を溶き、いつの間にか一口コンロにかけられていたフライパンへ油をひいた。それは今思いついたというよりはよく慣れた人の動きで、簓はへぇと感心する。
「なんや零、料理できるんやな」
「今どき料理の一つもできなきゃモテないぜ」
「モテたいんかいな。というよりお前、今まで料理なんてしたことなかったやん。俺等となんか食べる時も外食かデリバリーやったし」
「能ある鷹は何とやらってな。……簓、砂糖かみりんはねぇか」
「うーんどうやったかな。調味料はコンロの下なんやけど」
そういいながら簓が冷蔵庫を開けると、隅の方にきっきりと口を閉じられた砂糖の袋があった。
「ほい。……悪いんやけど、俺甘い卵焼きよう食わんで」
「隠し味だから心配すんな」
ひとつまみの砂糖にほんの少しの醤油。そして零は最後に簓が置いたグラスから少しだけ日本酒を卵液へと足した。十分あたたまったフライパンへそれを流し込むと、じゅわっという音ともに出汁と卵のいい香りがひろがった。
「おお、うまそう」
「なんだよまだ俺の腕を疑ってんのか?」
軽くかき混ぜた卵が固まる前に零が手首のスナップと菜箸で器用にそれを三つ折りにした。パチパチと手をたたく簓に零は肩をすくめてみせる。
「ホンマに意外やったわ。自分、この世で一番料理とか家庭的なもんから遠いやん」
簓はくるくると層を重ねる卵と、派手な服を生まれたときからこの格好でしたと言わんばかりに着こなす零とを交互に見る。
「俺ほど家庭的な男もいねぇよ」
「まぁたそれや。騙されへんで」
つれねぇなぁとこぼす零は作業を続けながら、ふと懐かしい声を聞いた気がした。
昔、こうして飲んでいるときにたびたびねだられたことがある。
「ねぇ、私あれが食べたいわ」
やわらかな頬を酒精に染め僅かに首を傾げたその人は、アルコールの力を借りたときだけ滅多に言わないわがままを少しだけ口にした。
「アレってなんだよ?」
このリクエストはその日によって内容が変わるものだった。顔にかかるさらりとした髪を小さな耳にかけてやりながら問う。
「今日はね、あなたが作った卵焼きがいいわ。だって私が作るより美味しいんだもの。お酒にもよく合うし……。付け合わせの大根おろしは私がやるから。
ね、おねがい」
そう言われると何でも叶えてやりたくなった。必要とされることが嬉しかったのか、出来立ての料理を頬張って「ふふ、おいしいわ」と表情をとろけさせる姿が好きだったのか。今は中華も和食もフレンチも、望むなら何だって作ってやれるのに。可愛いわがままを告げる声はなく、それを食べてくれる人だけがいない。
「皿は……っと、コレでええか?」
白い大皿を取り出した簓が聞いても反応がない。変わらず器用に卵を焼く零はぼうっとどこか遠くをみていた。いつもの不敵な笑みがよく似合う表情が一瞬だけ揺らいだ気がする。その瞬間、簓は零が誰かのために料理をする『家庭的な男』に見える錯覚を覚えた。
「零?」
呼ばれた零ははっとしたように視線を動かして簓を見る。そこにはまるで嘘のように、欠片も先ほどまでのおだやかな光は残っていなかった。
「皿をそのまま持ってろよ」
あっと思うまもなく、熱々のフライパンがひっくり返される。そっとフライパンがどかされると、簓の目の前に出汁をたっぷりと含んでぷるぷるの卵焼きが鎮座していた。
「おぉ」
調理台へ皿を置くと、零はさっとそれをカットして端の一切れをあちっといいながら口に放り込んだ。簓もそれを真似て反対の端をつまむ。
「あっふい、にゃ。……うまい」
あつあつの卵焼きは見た目の通りふわふわで、歯をたてるとじゅわりと出汁が広がった。上品な味付けだが、最後に足した日本酒の香りのせいか、手元の酒によく合う。零と簓は無言のままグラスをあけた。
蘆笙が転がるリビングに戻ると、零は座ることなくコートを羽織った。やや不自然な口角が気になり簓が声をかける。
「なんや、帰るんか?」
「煙草が無ぇのを思い出したんだよ。ちょっくらコンビニへ出てくる。……すぐ戻ってくるさ」
「わかった、気ぃつけてな」
ふらりと出ていった零は、卵焼きがすっかり冷めても戻らなかった。
「また騙されたわ」
簓は部屋の壁掛け時計の秒針の音を聞きながら、座布団を枕に蘆笙の横に転がった。それなりにアルコールに侵された脳は、半分夢のように断続的に今日の場面をハイライトする。仕事はうまくいったこともいかなかったこともあり、大変だった。蘆笙と四日ぶりに会えて嬉しかった。飲むのはやはりとても楽しい。店以外であったかい卵焼きを食べたのはごく幼い時以来だった。そういえば想像はつかないが、零にも大切な人がいたのだろう。どうしてその人が近くにいないのか簓には分からないし、たずねる気にもならない。とりとめのないそれらが簓の瞼をゆっくりと押し下げる。簓の大切な人は今隣にいるが、自分の気持ちと蘆笙の気持ちが重ならないであろうことはよくわかっていた。
「まあ、世の中ままならんこともあるわな」
ただ隣にいられることを感謝して彼は眠りについた。
次に簓が目を覚ましたのは狭い布団の中だった。ふと見ると、ごくごく至近距離に蘆笙の整った顔がある。朝から見るには刺激の強いそれに、目が潰れそうになり思わず目を閉じ、そしてすぐに開けた。
「ん、まて。なんで俺等がおんなじ布団に居んねん」
簓の記憶は昨日目を閉じたところまでだ。そのあと布団に入った覚えはない。妙な想像をして汗が噴き出してしまい、心臓が跳ねた。いやいやまさかとそっと布団をめくる。着衣は乱れていたが、昨日転げ回ったせいだろう。そうであれ、そうに違いない。簓は兎にも角にも何もなければいいと思いたかった。
そっと布団を抜け出すと、部屋はすっかり綺麗になっていた。メモが一つ、見覚えのある字で『残りモンは冷蔵庫。運んでやった礼は今度でいいぜ』とだけ書かれている。
「なんや、零かいな……」
どっと疲れてメモを握る。はっきりとそう示されたことはなかったが、零には簓の気持ちが読まれているのかもしれないという薄っすらとした予感があった。紙切れはゴミ箱へと放り込む。蘆笙は当分起きないだろう。簓は水を飲むとリビングの座布団を枕に再び横になった。次に目を覚ましたら、いつも通り一緒に昼食を食べに行くのだ。少しひんやりする畳が心地よく、簓は再び瞼を閉じた。
ろささ・零那由
零が静かな部屋で一人、とある資料を捲っていた時だった。蘆笙が修学旅行の引率から戻るのだと、簓が電話をかけてきた。
『明日は俺も久々のオフやねん、せやから今日の夜は蘆笙ん家集合な!』
小学生の子供のように弾んだ声がそう告げる。零が適当に肯定の言葉を返すと彼はますます嬉しそうに笑った。すぐに電話の向こうでマネージャーに呼ばれたらしい簓は『ほなね』と慌てて残し電話を切る。零は通話終了の画面を眺めながら、今日の手土産に頭を巡らせた。
十九時すぎ、蘆笙の家には既に簓と零がいた。このところ忙しかったと見え、簓の顔色がやや悪い。だがそれを覆す勢いで彼は得意の喋りを披露していた。零と二人、コンビニの餃子をつまみに早々に一本目のビールの缶があく。
「蘆笙のやつ遅いなぁ」
「しょうがねぇだろ。『先生』っつーのはいつの世も忙しいモンなんだからよ」
「そんなもんなんやろか。ご苦労やでほんま」
「売れっ子漫才師を心配させるたぁ贅沢だねぇ」
「何やねん、俺ら仲間やろ。心配ぐらいするわ」
「そんだけかぁ?」
「他に何があんねん。
次は何にする?俺はビールかなぁ」
「おいちゃんもそれで」
二本目を取るために簓は立ち上がる。横を通りながら、簓がちらりと零の顔色を伺った。それはほぼ無意識の簓の癖で、彼は鋭い観察眼と洞察力によって人の心を見透かすのが上手い。表には出さないが口よりもさらによく回る頭は称賛と警戒に値する。だがよくわきまえているのが彼のよいところだった。
勝手知ったるキッチンで目当てのものを手に入れて、簓はすぐにもどった。
「ほい」
「ありがとよ」
各々プルタブを引くと、カシュという小気味良い音が重なる。無言のまま缶をぶつけて二人とも二本目も景気よく流し込んだ。秋口にはいりやや肌寒くなったが、いつ飲んでもビールは美味い。くあぁ、と簓が声をあげたところで、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
「蘆笙おかえり!」
「ただいま……、って俺の部屋を毎度毎度自分の家のようにお前ら……」
どさりと重い荷物を廊下へ置く音がして、玄関から三歩の和室へやっと家主がもどってきた。
「邪魔してるぜ」
「邪魔すんねやったら帰ってくれ」
「まぁそう言わんと、蘆笙もはよ飲もうや」
「ちょお待て、手洗ってくるわ」
ぺたぺたと足音をたてて洗面台へ消えた蘆笙は、すぐに自分の分のビールを手に戻った。改めて三人で缶をぶつけて声を重ねる。
「乾杯!」
「お疲れ〜。大変やったんちゃうん修学旅行の引率」
「ほんまやで。大変やったわ。慣れん場所やし、危ないもんも人も気をつけなあかんし、生徒らも流石に浮かれるやつもおるし。
まあそれでもあんなに楽しそうにしてくれて、思い出になるんやったらええわ」
きつい目元を柔らかく緩めた蘆笙がビールをあおる。恒例の深夜の見張りのためか、目元に隈をつくっていたが、はぁと満足そうなそのため息に彼の充実度合いが見えた。
「よかったやん」
そう言って缶を掲げる簓に、蘆笙は笑って自分の缶をぶつけた。
「お前こそ大変やったんちゃうか。俺はオオサカテレビが映らん地区におったからあれやけど、今日も生放送があったんやろ。イベントMCもやるとか言うてなかったか」
「そやで。今日もこのヌルサラさんが爆笑かっさらったったわ。
結構おもろいイベンやってな、こう仮装した素人さんたちの出しもんを……」
鬱屈も屈折も忌憚もなく、互いの仕事の話に花を咲かせる若者二人を肴に零も酒を飲み干す。思ったよりもすぐに空いてしまったので、手土産の「とっておき」の日本酒の瓶を手に取った。
「ほらお前ら、酒の味がわかるうちに味わっとけよ」
簓が机の上に準備してあったグラスをそれぞれの前へ置く。
「おおきにな!
お、それカナザワディビジョンの有名なやつやん」
「よく知ってるじゃねぇか。鰭酒と合うんだよなコレが」
「今日は冷凍餃子やけどな」
「せや、俺もつまみにと思ってお土産買うてきてん」
色の白い蘆笙は、もう既に朱の差した顔でいつもよりも朗らかに笑う。横着して身体を伸ばして取ったのは、ジンギスカン味のポテトチップスだった。
「また絶妙なチョイスだな」
素直な零の感想を、簓が笑い飛ばす。
「わからんで、むっちゃ美味いかもしれんやん」
ばりっと派手な色の袋を開いた蘆笙からそれぞれが受け取って口に入れる。
「あ〜」
「うん」
「これはなんとも」
ぱりぱりと咀嚼すると確かにジンギスカンらしい濃い味がするのだが、ラムを表現しているらしき匂いがどうにも鼻につく。三人は顔を見合わせてから噴き出した。
「買った俺が言うのも何やけど、なんともいえん味やな……」
「まぁいいじゃねぇか、話のネタにくらいなるだろ」
「俺は悔しいわ。微妙すぎてリアクション取れんかった……!」
眉を顰めた蘆笙は、もう一枚!と手を伸ばす簓に無理をするなと釘をさす。
「口直しと行こうぜ」
それぞれのグラスへ日本酒をなみなみと注げば、二人はそろって問題の土産物から手を離した。零のとっておきの酒は、香りは華やかだがきりりと辛口でさっぱりと飲みやすい。
「くぅ、滲みるわぁ」
「というか、意外にも合うんちゃうかコレと」
「遠慮せず飲めよ」
ついつい箸も進み、机の上の餃子も蘆笙の土産物も、思いのほか早く片付きそうであった。
「うぅん、」
今日も真っ先にダウンしたのは蘆笙で、楽しげに語っていたのも束の間、気がつけばこっくりこっくりと船を漕いでおり、かと思うと後ろへばたりと倒れ込んだ。
「あかんわ、てんじょうまわっとる」
「回ってへん回ってへん」
斜めにズレた眼鏡を取ってやりながら、簓はその目の前に指を二本目をたててみせる。
「お客さん大変!こんなところに倒れてもうて!
コレは何本に見えます?よぉ見て!」
「バカにすなよ、二本にみえとるわ!」
「じゃあこれは!」
チームのハンドサインを蘆笙の鼻先に押し付ける。視界を覆う指から顔を背けようと唸る蘆笙は、鬱陶しそうに叫んだ。
「いやちかい。見えんわ!」
簓は深刻な表情を作ると零を振り返る。
「まあ大変!先生、どないしましょ」
「ん?あぁ、心拍数測っとけ」
「はい!」
適当に合わせた零の言葉に従って簓が蘆笙の服を捲った。
「先生大変や!腹筋割れすぎて板チョコみたいになってもうてます!」
きゃあと裏声の簓は酔いのためかもうコント師の顔を保てそうにない。
「あぁ、こんなに見事に割れちまってたらなぁ、残念だが……」
代わりに今度は零が深刻な顔で首を横に振る。
「そんな、先生なんとかならんのですか」
「いや、ちぎったパンがもとに戻ることはない」
「だれがちぎりパンや!
おまえらぁ、いいかげんにせえよ!だいたいおまえらも腹筋くらいわれとるやろが」
仕返しとばかりに簓のシャツを引いた蘆笙に簓はついに堪えきれずに笑いだした。
「あはは、くすぐったいわ!ごめんて、もう。ほら止めてぇな」
簓は引き倒され、大の大人たちが文字通り笑い転がる。いつもはきっちりと後ろへ撫でつけられている蘆笙の、髪は崩れ簓は血色ののった目元に涙を滲ませている。何がどうなったのか、いつの間にかくすぐり合いがはじまり、やれやれとその様子を見下ろす零は、かつてどこかで見たことがあるような光景に口角をあげた。
「れい、なにわろてんねん。おまえもはらだしてみ」
「おっと、俺を脱がすのはちぃとばかし高くつくぜぇ」
笑いすぎて震えている簓を抑えて起き上がると、蘆笙はびしっと零を指差した。
「……っく。
そんな、シャツあけて、きとって。はらがだせんことあるかいな!」
「おいおい大丈夫かぁ?」
勢いよく起き上がったせいか蘆笙は、目眩に襲われたらしい。ふらふらと上体をゆらしていて、危険を察知した簓が僅かに身体をずらしていた。
「ひゅう!やったれ蘆笙!」
「面白いもんなんてでてこねぇよったく」
すっかり据わった目でしばらく何事かつぶやいていた蘆笙は、先ほど横になったことでさらに酔いが回ったのか最後にはついにぱたりと横になり、寝息を立て始めた。隣りでその顔を暫く眺めた簓は、はぁ笑った笑ったと身体を起こし、出しっぱなしの腹筋にきちんと服をかけてやった。
「零は、まだいけるやろ?もうちょい飲もうや」
グラスに残っていたぶんを飲み干し、つまみを口にしようと箸を取ろうとしてその手をとめた。机の上はいつの間にか、酒しか残ってはいない。
「ありゃ、もうなんもないな」
めんどくさいけどコンビニでも行くかとぼやく簓に、零はグラスを置いて立ち上がる。
「……しょうがねぇ。ちょっと待ってな」
「冷蔵庫は卵しかあらへんかったで」
しっかりした足取りでキッチンへたった零が、かちゃかちゃと調理器具を取り出す音を聞いて、簓はおやと首を傾げる。彼が知る限り、零がキッチンにたった姿をみたことはなかった。興味をひかれ、日本酒で満たしたグラス二つを手に後を追った。
明らかに前に立つ男とは高さのあわない調理台にどんぶりがひとつ。零が片手で手際よく卵を割り入れている。流しの縁に零の分のグラスを置き、簓はそのチグハグな光景を眺めた。四つの卵に目分量で粉末出汁と水とが入った。零の目が食器のあたりを彷徨っているのを見て、簓は引き出しからあまり使われた形跡のない菜箸を取り出して渡す。眉をあげてありがとよと返すと零はそのままあっという間に卵を溶き、いつの間にか一口コンロにかけられていたフライパンへ油をひいた。それは今思いついたというよりはよく慣れた人の動きで、簓はへぇと感心する。
「なんや零、料理できるんやな」
「今どき料理の一つもできなきゃモテないぜ」
「モテたいんかいな。というよりお前、今まで料理なんてしたことなかったやん。俺等となんか食べる時も外食かデリバリーやったし」
「能ある鷹は何とやらってな。……簓、砂糖かみりんはねぇか」
「うーんどうやったかな。調味料はコンロの下なんやけど」
そういいながら簓が冷蔵庫を開けると、隅の方にきっきりと口を閉じられた砂糖の袋があった。
「ほい。……悪いんやけど、俺甘い卵焼きよう食わんで」
「隠し味だから心配すんな」
ひとつまみの砂糖にほんの少しの醤油。そして零は最後に簓が置いたグラスから少しだけ日本酒を卵液へと足した。十分あたたまったフライパンへそれを流し込むと、じゅわっという音ともに出汁と卵のいい香りがひろがった。
「おお、うまそう」
「なんだよまだ俺の腕を疑ってんのか?」
軽くかき混ぜた卵が固まる前に零が手首のスナップと菜箸で器用にそれを三つ折りにした。パチパチと手をたたく簓に零は肩をすくめてみせる。
「ホンマに意外やったわ。自分、この世で一番料理とか家庭的なもんから遠いやん」
簓はくるくると層を重ねる卵と、派手な服を生まれたときからこの格好でしたと言わんばかりに着こなす零とを交互に見る。
「俺ほど家庭的な男もいねぇよ」
「まぁたそれや。騙されへんで」
つれねぇなぁとこぼす零は作業を続けながら、ふと懐かしい声を聞いた気がした。
昔、こうして飲んでいるときにたびたびねだられたことがある。
「ねぇ、私あれが食べたいわ」
やわらかな頬を酒精に染め僅かに首を傾げたその人は、アルコールの力を借りたときだけ滅多に言わないわがままを少しだけ口にした。
「アレってなんだよ?」
このリクエストはその日によって内容が変わるものだった。顔にかかるさらりとした髪を小さな耳にかけてやりながら問う。
「今日はね、あなたが作った卵焼きがいいわ。だって私が作るより美味しいんだもの。お酒にもよく合うし……。付け合わせの大根おろしは私がやるから。
ね、おねがい」
そう言われると何でも叶えてやりたくなった。必要とされることが嬉しかったのか、出来立ての料理を頬張って「ふふ、おいしいわ」と表情をとろけさせる姿が好きだったのか。今は中華も和食もフレンチも、望むなら何だって作ってやれるのに。可愛いわがままを告げる声はなく、それを食べてくれる人だけがいない。
「皿は……っと、コレでええか?」
白い大皿を取り出した簓が聞いても反応がない。変わらず器用に卵を焼く零はぼうっとどこか遠くをみていた。いつもの不敵な笑みがよく似合う表情が一瞬だけ揺らいだ気がする。その瞬間、簓は零が誰かのために料理をする『家庭的な男』に見える錯覚を覚えた。
「零?」
呼ばれた零ははっとしたように視線を動かして簓を見る。そこにはまるで嘘のように、欠片も先ほどまでのおだやかな光は残っていなかった。
「皿をそのまま持ってろよ」
あっと思うまもなく、熱々のフライパンがひっくり返される。そっとフライパンがどかされると、簓の目の前に出汁をたっぷりと含んでぷるぷるの卵焼きが鎮座していた。
「おぉ」
調理台へ皿を置くと、零はさっとそれをカットして端の一切れをあちっといいながら口に放り込んだ。簓もそれを真似て反対の端をつまむ。
「あっふい、にゃ。……うまい」
あつあつの卵焼きは見た目の通りふわふわで、歯をたてるとじゅわりと出汁が広がった。上品な味付けだが、最後に足した日本酒の香りのせいか、手元の酒によく合う。零と簓は無言のままグラスをあけた。
蘆笙が転がるリビングに戻ると、零は座ることなくコートを羽織った。やや不自然な口角が気になり簓が声をかける。
「なんや、帰るんか?」
「煙草が無ぇのを思い出したんだよ。ちょっくらコンビニへ出てくる。……すぐ戻ってくるさ」
「わかった、気ぃつけてな」
ふらりと出ていった零は、卵焼きがすっかり冷めても戻らなかった。
「また騙されたわ」
簓は部屋の壁掛け時計の秒針の音を聞きながら、座布団を枕に蘆笙の横に転がった。それなりにアルコールに侵された脳は、半分夢のように断続的に今日の場面をハイライトする。仕事はうまくいったこともいかなかったこともあり、大変だった。蘆笙と四日ぶりに会えて嬉しかった。飲むのはやはりとても楽しい。店以外であったかい卵焼きを食べたのはごく幼い時以来だった。そういえば想像はつかないが、零にも大切な人がいたのだろう。どうしてその人が近くにいないのか簓には分からないし、たずねる気にもならない。とりとめのないそれらが簓の瞼をゆっくりと押し下げる。簓の大切な人は今隣にいるが、自分の気持ちと蘆笙の気持ちが重ならないであろうことはよくわかっていた。
「まあ、世の中ままならんこともあるわな」
ただ隣にいられることを感謝して彼は眠りについた。
次に簓が目を覚ましたのは狭い布団の中だった。ふと見ると、ごくごく至近距離に蘆笙の整った顔がある。朝から見るには刺激の強いそれに、目が潰れそうになり思わず目を閉じ、そしてすぐに開けた。
「ん、まて。なんで俺等がおんなじ布団に居んねん」
簓の記憶は昨日目を閉じたところまでだ。そのあと布団に入った覚えはない。妙な想像をして汗が噴き出してしまい、心臓が跳ねた。いやいやまさかとそっと布団をめくる。着衣は乱れていたが、昨日転げ回ったせいだろう。そうであれ、そうに違いない。簓は兎にも角にも何もなければいいと思いたかった。
そっと布団を抜け出すと、部屋はすっかり綺麗になっていた。メモが一つ、見覚えのある字で『残りモンは冷蔵庫。運んでやった礼は今度でいいぜ』とだけ書かれている。
「なんや、零かいな……」
どっと疲れてメモを握る。はっきりとそう示されたことはなかったが、零には簓の気持ちが読まれているのかもしれないという薄っすらとした予感があった。紙切れはゴミ箱へと放り込む。蘆笙は当分起きないだろう。簓は水を飲むとリビングの座布団を枕に再び横になった。次に目を覚ましたら、いつも通り一緒に昼食を食べに行くのだ。少しひんやりする畳が心地よく、簓は再び瞼を閉じた。
リボンをかけて
リボンをかけて
零那由
那由多の着る服は普段着もフォーマルな服も、シンプルで形のきれいなデザインが多い。例えば今日彼女が身を包もうとしている淡いグリーンのワンピースも、装飾はほとんどないが胸の下で切り替えが入るエンパイアラインが彼女の姿勢の良さを際立たせる。だが今は中途半端に背中のファスナーが開いたままなので、生地の重みに引かれてやや裾が前のめりになっていた。彼女は寝室の姿見の前で共布のグリーンのリボンベルトを締めるべきか、シルバーの金具のついたベルトにするべきか、はたまたなにもつけないままにすべきかに大いに頭を悩ませていた。
「決まったか?」
声をかけたのは零で、彼は室内に置かれた一人用のソファでくつろぎながらコーヒーを嗜んでいる。膝に一冊本が置かれているが、かれこれ一頁だって読み進めてはいない。よくあることだった。
「難しいわ。式じゃなくて、披露宴代わりのレストランでのパーティーでしょう?
あまり堅苦しくてもいけないし、あまり派手でも良くないし……」
二人の共通の知人が入籍するにあたり、式は挙げずに簡単なパーティーを催すのだ。研究者仲間ばかりで堅苦しくはないが、招待状に書かれた店名はそれなりの店である。那由多は二本のベルトを両手に一つずつ持って零を振り返る。
「あなたはどう思う?」
これは非常に難しい問いだ。正直なところ、学会での質疑応答よりも回答の難易度は高い。零はそうだな、と顎に手をやりながら素早くこの危機を乗り越える術を画策した。
「そのリボンがいい」
ここからが勝負である。
「子供っぽくないかしら」
「そんなことはねぇだろ。同じ色のほうが落ち着いて見える」
零の記憶に新しい真っ白なドレス姿とは違うが、小柄でも那由多は決して子供っぽくはない。状況の想定と、那由多の顔色とをうかがいながら言葉を紡いでいく。ここで「でも」という言葉が出なければ決め打ちだ。もし、何か言葉がでてきた場合は、既に彼女の中には答えがあるのでそちらを肯定すればいい。零は立ち上がると那由多の後ろへまわり、姿見にうつる姿に向かって自信たっぷりに頷いてみせた。
「こっちなら、もし現場で嫌になっても外しちまうってのもアリだしな。
心配しなくても、何を着てても似合う」
一応自分の意見を最後まで述べて様子を見れば、那由多は少し考えてからシルバーのベルトを鏡台へと置いた。
「……あなたの言う通りね。こちらにするわ」
本人もほっとした様子の那由多からリボンを取り上げ、零はそのまま服の背中のファスナーに手をかける。
「自分でできるわよ」
「いいから」
シルクのスリップの上を背中のカーブに沿ってファスナーが上がっていく。薄い生地がファスナーの歯に噛まないように、軽く腰元の布を押さえて生地を張る。くすぐったいわ、と身じろぐ那由多をなだめつつ美しい布が彼女を一分の隙もなく包むのを眺める。このファスナーを次に降ろすのは誰だろうか。ふと、零は嫌な想像をして手が止まった。
「噛んじゃったの?」
のんきに首を傾げた那由多と鏡越しに目があう。瑞々しい肌と澄んだ瞳は清廉で、小鳥のように囀る唇は柔らかなコーラルピンクで彩られている。昔なじみの中にはこのひとに憧れていたものがいやしないだろうか。
「いや」
「……もしかして、上がらない?」
はっと口元を手で押さえた那由多に向けて首を振る。
「いや」
腰に添えていた左手を、彼女の胸、みぞおちあたりへ移動させた。ふに、と柔らかい脂肪が零の指を押し返す。
「息を止めたほうがいいかしら……?」
おそるおそる聞く那由多には何も返さない。真っ白な背中、肩甲骨の間。背骨に沿った窪みがアイボリーのレースの向こうへと消えていた。この滑らかな肌に汗がつたう様を知っているのは今までも、これからもどうか己だけであれと身勝手に願う。
零は低く屈むと、衝動的にその背中へと口づけた。ぢゅ、と音をたてて触れる生暖かさと甘い痛みを那由多は知っている。逃れようとしても胸元の腕がそれを許さなかった。零が身を起こす頃には真っ白だった背に小さな赤い跡がひとつくっきりと浮かんでいた。普段那由多を傷つけることも傷が残るかもしれないこともしない零がこうするのは本当に珍しいことで、那由多も、なにより零自身もその行動に驚いていた。
「なにしてるの」
「……悪い」
すり、と指先で跡をなぞる。消えないそれを見て、どこか安心した自分がいる事に零は頭を抱えたいような気持ちだった。
「理由を教えて」
そんなものはない。が、那由多があまりにも真剣なので零は己の衝動の意味を紐解いて言葉にする。
「那由多は男が女を押し倒したときに何が見えたら一番嫌だと思う」
質問の意図が理解できず、那由多は下がり気味の眉をひそめた。
「わからないわ」
「……他の男との情事の跡だよ。それが一番がっかりする。
特に那由多みたいなタイプの女を狙うような男には覿面だ」
「あなたね、私があなた以外に押し倒されるような事があると思うの。
私は好きな人としかそんなことしないわ」
「違う、そうじゃない。那由多のことは一ミリだって疑っちゃいない。男と女とじゃあどうしたって力の差があるだろ。
もちろん、俺も極力一緒にいるしそんなこと起こさせやねぇさ。でも、万が一……」
零は首を振った。つまるところ、那由多を誰にも渡したくないのだ。誰かが触れられるのも、じろじろと見られるのも、邪な妄想の材料にされるのもごめんだった。零は今までの人生においてはじめて抱えた、己の行動を制御できないほどの感情をひとり持て余していた。零のことを鏡越しに見ていた那由多は、小さく息を吐いた。
「……心配してくれているのね」
那由多の小さな手が、零の手に重なる。
「次はちゃんと、はじめからそう教えてね。あなたが嫌なことも、弱気になるようなことも全部よ」
「……努力する」
「あと、服を着せてくれるときに変なことしちゃダメ。わかった?」
「あぁ」
「ちゃんと返事をして」
「わかったわかった。約束する」
零は守れない約束はしない。那由多はその言葉を聞いてうん、と頷いた。
「じゃあ仲直りね」
最後十五センチのファスナーをあげ、華奢な身体を抱きしめるようにして腕をまわし、器用にリボンベルトを結ぶ。
「できたぞ」
零はからりと笑う。
「ありがとう、とっても助かったわ」
振り返って微笑む那由多は零の記憶にあるどんな女性よりも美しい。流れるように口づけようと屈んだところを、那由多が手のひらで防いだ。
「今はリップを直す時間がないわ。早く行きましょう」
仕方なくその小さな爪に唇を寄せ、零は車の鍵を手に取った。
零那由
那由多の着る服は普段着もフォーマルな服も、シンプルで形のきれいなデザインが多い。例えば今日彼女が身を包もうとしている淡いグリーンのワンピースも、装飾はほとんどないが胸の下で切り替えが入るエンパイアラインが彼女の姿勢の良さを際立たせる。だが今は中途半端に背中のファスナーが開いたままなので、生地の重みに引かれてやや裾が前のめりになっていた。彼女は寝室の姿見の前で共布のグリーンのリボンベルトを締めるべきか、シルバーの金具のついたベルトにするべきか、はたまたなにもつけないままにすべきかに大いに頭を悩ませていた。
「決まったか?」
声をかけたのは零で、彼は室内に置かれた一人用のソファでくつろぎながらコーヒーを嗜んでいる。膝に一冊本が置かれているが、かれこれ一頁だって読み進めてはいない。よくあることだった。
「難しいわ。式じゃなくて、披露宴代わりのレストランでのパーティーでしょう?
あまり堅苦しくてもいけないし、あまり派手でも良くないし……」
二人の共通の知人が入籍するにあたり、式は挙げずに簡単なパーティーを催すのだ。研究者仲間ばかりで堅苦しくはないが、招待状に書かれた店名はそれなりの店である。那由多は二本のベルトを両手に一つずつ持って零を振り返る。
「あなたはどう思う?」
これは非常に難しい問いだ。正直なところ、学会での質疑応答よりも回答の難易度は高い。零はそうだな、と顎に手をやりながら素早くこの危機を乗り越える術を画策した。
「そのリボンがいい」
ここからが勝負である。
「子供っぽくないかしら」
「そんなことはねぇだろ。同じ色のほうが落ち着いて見える」
零の記憶に新しい真っ白なドレス姿とは違うが、小柄でも那由多は決して子供っぽくはない。状況の想定と、那由多の顔色とをうかがいながら言葉を紡いでいく。ここで「でも」という言葉が出なければ決め打ちだ。もし、何か言葉がでてきた場合は、既に彼女の中には答えがあるのでそちらを肯定すればいい。零は立ち上がると那由多の後ろへまわり、姿見にうつる姿に向かって自信たっぷりに頷いてみせた。
「こっちなら、もし現場で嫌になっても外しちまうってのもアリだしな。
心配しなくても、何を着てても似合う」
一応自分の意見を最後まで述べて様子を見れば、那由多は少し考えてからシルバーのベルトを鏡台へと置いた。
「……あなたの言う通りね。こちらにするわ」
本人もほっとした様子の那由多からリボンを取り上げ、零はそのまま服の背中のファスナーに手をかける。
「自分でできるわよ」
「いいから」
シルクのスリップの上を背中のカーブに沿ってファスナーが上がっていく。薄い生地がファスナーの歯に噛まないように、軽く腰元の布を押さえて生地を張る。くすぐったいわ、と身じろぐ那由多をなだめつつ美しい布が彼女を一分の隙もなく包むのを眺める。このファスナーを次に降ろすのは誰だろうか。ふと、零は嫌な想像をして手が止まった。
「噛んじゃったの?」
のんきに首を傾げた那由多と鏡越しに目があう。瑞々しい肌と澄んだ瞳は清廉で、小鳥のように囀る唇は柔らかなコーラルピンクで彩られている。昔なじみの中にはこのひとに憧れていたものがいやしないだろうか。
「いや」
「……もしかして、上がらない?」
はっと口元を手で押さえた那由多に向けて首を振る。
「いや」
腰に添えていた左手を、彼女の胸、みぞおちあたりへ移動させた。ふに、と柔らかい脂肪が零の指を押し返す。
「息を止めたほうがいいかしら……?」
おそるおそる聞く那由多には何も返さない。真っ白な背中、肩甲骨の間。背骨に沿った窪みがアイボリーのレースの向こうへと消えていた。この滑らかな肌に汗がつたう様を知っているのは今までも、これからもどうか己だけであれと身勝手に願う。
零は低く屈むと、衝動的にその背中へと口づけた。ぢゅ、と音をたてて触れる生暖かさと甘い痛みを那由多は知っている。逃れようとしても胸元の腕がそれを許さなかった。零が身を起こす頃には真っ白だった背に小さな赤い跡がひとつくっきりと浮かんでいた。普段那由多を傷つけることも傷が残るかもしれないこともしない零がこうするのは本当に珍しいことで、那由多も、なにより零自身もその行動に驚いていた。
「なにしてるの」
「……悪い」
すり、と指先で跡をなぞる。消えないそれを見て、どこか安心した自分がいる事に零は頭を抱えたいような気持ちだった。
「理由を教えて」
そんなものはない。が、那由多があまりにも真剣なので零は己の衝動の意味を紐解いて言葉にする。
「那由多は男が女を押し倒したときに何が見えたら一番嫌だと思う」
質問の意図が理解できず、那由多は下がり気味の眉をひそめた。
「わからないわ」
「……他の男との情事の跡だよ。それが一番がっかりする。
特に那由多みたいなタイプの女を狙うような男には覿面だ」
「あなたね、私があなた以外に押し倒されるような事があると思うの。
私は好きな人としかそんなことしないわ」
「違う、そうじゃない。那由多のことは一ミリだって疑っちゃいない。男と女とじゃあどうしたって力の差があるだろ。
もちろん、俺も極力一緒にいるしそんなこと起こさせやねぇさ。でも、万が一……」
零は首を振った。つまるところ、那由多を誰にも渡したくないのだ。誰かが触れられるのも、じろじろと見られるのも、邪な妄想の材料にされるのもごめんだった。零は今までの人生においてはじめて抱えた、己の行動を制御できないほどの感情をひとり持て余していた。零のことを鏡越しに見ていた那由多は、小さく息を吐いた。
「……心配してくれているのね」
那由多の小さな手が、零の手に重なる。
「次はちゃんと、はじめからそう教えてね。あなたが嫌なことも、弱気になるようなことも全部よ」
「……努力する」
「あと、服を着せてくれるときに変なことしちゃダメ。わかった?」
「あぁ」
「ちゃんと返事をして」
「わかったわかった。約束する」
零は守れない約束はしない。那由多はその言葉を聞いてうん、と頷いた。
「じゃあ仲直りね」
最後十五センチのファスナーをあげ、華奢な身体を抱きしめるようにして腕をまわし、器用にリボンベルトを結ぶ。
「できたぞ」
零はからりと笑う。
「ありがとう、とっても助かったわ」
振り返って微笑む那由多は零の記憶にあるどんな女性よりも美しい。流れるように口づけようと屈んだところを、那由多が手のひらで防いだ。
「今はリップを直す時間がないわ。早く行きましょう」
仕方なくその小さな爪に唇を寄せ、零は車の鍵を手に取った。
直径十三ミリの罠
直径十三ミリの罠
零那由
夕食後、零は片付けも終えて風呂がたまるまでの間、ソファにゆったりと腰をおろしついていたテレビ番組を眺めていた。ゴールデンタイムのためかバラエティ企画が進行しており、賑やかな男女の声が聞こえる。那由多はというと、寝室から持ってきたアクセサリーボックスを手に、ぺたぺたとスリッパの音をさせて零の隣へとやってきた。那由多がソファへと腰を下ろす瞬間に、零がその細い腰に手をそえて引く。導かれるまま那由多は零の隣ではなく、長い足の間にすぽりと収まった。彼女は特に動じるでもなくアクセサリーボックスを机に置いて、中から淡いグレーのアクセサリーを磨くためのクロスを取り出した。それを揃えた膝におくと、ネックレスを外すために首の後ろへ手をやる。長い髪が邪魔してか、やや手間取る姿をみて零が微かに笑みを含めて声をかける。
「助けがいるんじゃねぇか」
「……じゃあお願い」
「ほら、髪だけどけてくれ」
那由多は髪を全て自分の右前側に流してネックレスの留め具がよく見えるように僅かに下を向く。ほんの五ミリほどの小さな金具を零は大きな手で器用に外し、ついでに真っ白いうなじにちゅっと音をたてて唇を寄せた。
「きゃっ」
反射的にうなじを手で隠し、勢いよく振り返った那由多の眼前に留め具をきちんととめ直したネックレスをたらして抗議の声を抑える。
「まいどあり」
「もう……」
にっと笑えば那由多はそっと手を離して繊細なつくりのネックレスを受け取った。それを膝の上のクロスで包むと、那由多は僅かに身じろいでおさまりのよい場所を見つけ零に身体を預ける。柔く心地よいぬくもりを抱くように、零は那由多の薄い腹の上で両手を組んだ。
引き続いてテレビ画面の向こうでは賑やかなコントが繰り広げられている。零はもうテレビには興味を失っていたため、シルバーのネックレスを丁寧に磨く妻の細い指の動きを観察した。爪を引っ掛けるためのわずかな出っ張りがあるだけの留め具、幅が一ミリもないような細いチェーン、一粒ダイヤが輝くトップ、と順に柔らかい布で拭き上げてゆく。視線を感じたのか、那由多は軽く説明をする。
「これはね、私が独身の時に誕生日に買ったのよ」
「ずいぶん華奢な作りだな」
ふぅん、と返事を返してから、零は感想を述べる。
「実は二回くらい、チェーンが切れてしまったから修理に出したわ。
バックのベルトを肩に掛けるときに巻き込んでしまったりするよのね」
「へぇ、よくできてるじゃねぇか」
「どうして?」
「持ち主が怪我をする前にちぎれるんだろ?
おかげでこの綺麗な肌に傷がつかずに済むんだから、デザインだけじゃないんだなと思ってな」
考えすぎよ、と那由多はころころと笑う。手入れを終えたネックレスをアクセサリーボックスへ戻そうと身を起こそうとして、零の手に上体を押し戻されてしまった。二度、三度と同じことを繰り返し、ため息をついた那由多は身を捩って伸び上がる。
「意地悪しないで」
先ほどのお返しとばかりに首筋にキスをすると、零の手は解けた。彼は別に驚いたわけではない。その口角が上がっていることに背を向けている那由多は気づいていなかったので、ネックレスを戻すとまた筋肉質な身体に体重を預けた。さっそくするりと手が戻る。
今度は那由多は少し考えて、零の左手をつついた。
「ちょっと手を貸してもらえるかしら?」
「好きに使ってくれ」
組んでいた手を解くと零は左手を那由多の左手の上に重ねる。那由多はその手を軽く握ってから自分の腿へと置いた。那由多が身につけていた左手の薬指の指輪を外すと、零の手を持ち上げて同じ薬指へと嵌めようと試みる。が、当然入るはずもなく、那由多は隣の小指へと指輪を移した。そちらはぎりぎり第一関節を通り、第二関節の前で銀の輪が止まった。もう一つ、那由多は右の小指にあった指輪も外して今度も零の小指へとつけてみようというらしい。明らかに小さな輪に零は思わず呻いた。
「なぁ、外せるようにだけ頼むぜ」
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのか零にはさっぱりわからなかったが、那由多が指輪をつけやすいように小指を軽く伸ばした。ピンクゴールドに小さなルビーが飾られたそれは零が今年の那由多の誕生日に送ったもので、記憶ではリングサイズは一号か二号だったはずだ。わずか直径十三ミリほどのそれは、短く整えられた零の爪の上を通り、第一関節すら通れずに止まった。無骨な手には不釣り合いなキラリと輝く指輪に彩られた小指をしみじみと眺め、那由多は「手が大きいのね」と呟く。
「俺が大きいだけじゃねぇと思うけどな」
「そう?でも私、あなたより大きい人は見たことがないわ。
たくさんものも持てるし、いいことね」
そう言われると零も悪い気はしない。那由多は嵌めたばかりの指輪をひとつ引き抜くと、ネックレスと同じように丁寧に拭き上げはじめる。零はされるがままに指輪を飾る台の役目を果たした。途中、零は手持ち無沙汰になったために右手を服の裾から侵入させて滑らかな素肌へ這わせる。そのたびにつまみ食いを咎めるように、ぺちんと軽くその手をはたかれ叱られる。が、どちらも戯れているだけで本気ではない。
那由多は零の結婚指輪も綺麗に磨き、二人分の指輪があるべき場所へと戻る。ちょうどいいタイミングで風呂の湯が溜まったことを知らせる音楽が流れた。
「お風呂は先に入る?」
立ち上がった那由多の膝裏をすくうように零が手を差し入れ、右手一本で軽々と抱えて立ち上がる。不安定さはなかったが急に高くなる視界に、那由多は今日二度目の小さな悲鳴をあげて零の首にしがみついた。
「何するの?」
「せっかくだから一緒に入るか」
零の翠の瞳は悪戯っぽく輝く。
「何がせっかくなの……」
「いい子にしてた俺に対価があってもいいと思わないか」
「ちっともいい子じゃなかったわよ」
「何にもしやしねぇよ」
「絶対よ?ねぇ」
眉を下げる那由多をキスで誤魔化して、零は浴室へ向かうべく踏み出した。
零那由
夕食後、零は片付けも終えて風呂がたまるまでの間、ソファにゆったりと腰をおろしついていたテレビ番組を眺めていた。ゴールデンタイムのためかバラエティ企画が進行しており、賑やかな男女の声が聞こえる。那由多はというと、寝室から持ってきたアクセサリーボックスを手に、ぺたぺたとスリッパの音をさせて零の隣へとやってきた。那由多がソファへと腰を下ろす瞬間に、零がその細い腰に手をそえて引く。導かれるまま那由多は零の隣ではなく、長い足の間にすぽりと収まった。彼女は特に動じるでもなくアクセサリーボックスを机に置いて、中から淡いグレーのアクセサリーを磨くためのクロスを取り出した。それを揃えた膝におくと、ネックレスを外すために首の後ろへ手をやる。長い髪が邪魔してか、やや手間取る姿をみて零が微かに笑みを含めて声をかける。
「助けがいるんじゃねぇか」
「……じゃあお願い」
「ほら、髪だけどけてくれ」
那由多は髪を全て自分の右前側に流してネックレスの留め具がよく見えるように僅かに下を向く。ほんの五ミリほどの小さな金具を零は大きな手で器用に外し、ついでに真っ白いうなじにちゅっと音をたてて唇を寄せた。
「きゃっ」
反射的にうなじを手で隠し、勢いよく振り返った那由多の眼前に留め具をきちんととめ直したネックレスをたらして抗議の声を抑える。
「まいどあり」
「もう……」
にっと笑えば那由多はそっと手を離して繊細なつくりのネックレスを受け取った。それを膝の上のクロスで包むと、那由多は僅かに身じろいでおさまりのよい場所を見つけ零に身体を預ける。柔く心地よいぬくもりを抱くように、零は那由多の薄い腹の上で両手を組んだ。
引き続いてテレビ画面の向こうでは賑やかなコントが繰り広げられている。零はもうテレビには興味を失っていたため、シルバーのネックレスを丁寧に磨く妻の細い指の動きを観察した。爪を引っ掛けるためのわずかな出っ張りがあるだけの留め具、幅が一ミリもないような細いチェーン、一粒ダイヤが輝くトップ、と順に柔らかい布で拭き上げてゆく。視線を感じたのか、那由多は軽く説明をする。
「これはね、私が独身の時に誕生日に買ったのよ」
「ずいぶん華奢な作りだな」
ふぅん、と返事を返してから、零は感想を述べる。
「実は二回くらい、チェーンが切れてしまったから修理に出したわ。
バックのベルトを肩に掛けるときに巻き込んでしまったりするよのね」
「へぇ、よくできてるじゃねぇか」
「どうして?」
「持ち主が怪我をする前にちぎれるんだろ?
おかげでこの綺麗な肌に傷がつかずに済むんだから、デザインだけじゃないんだなと思ってな」
考えすぎよ、と那由多はころころと笑う。手入れを終えたネックレスをアクセサリーボックスへ戻そうと身を起こそうとして、零の手に上体を押し戻されてしまった。二度、三度と同じことを繰り返し、ため息をついた那由多は身を捩って伸び上がる。
「意地悪しないで」
先ほどのお返しとばかりに首筋にキスをすると、零の手は解けた。彼は別に驚いたわけではない。その口角が上がっていることに背を向けている那由多は気づいていなかったので、ネックレスを戻すとまた筋肉質な身体に体重を預けた。さっそくするりと手が戻る。
今度は那由多は少し考えて、零の左手をつついた。
「ちょっと手を貸してもらえるかしら?」
「好きに使ってくれ」
組んでいた手を解くと零は左手を那由多の左手の上に重ねる。那由多はその手を軽く握ってから自分の腿へと置いた。那由多が身につけていた左手の薬指の指輪を外すと、零の手を持ち上げて同じ薬指へと嵌めようと試みる。が、当然入るはずもなく、那由多は隣の小指へと指輪を移した。そちらはぎりぎり第一関節を通り、第二関節の前で銀の輪が止まった。もう一つ、那由多は右の小指にあった指輪も外して今度も零の小指へとつけてみようというらしい。明らかに小さな輪に零は思わず呻いた。
「なぁ、外せるようにだけ頼むぜ」
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのか零にはさっぱりわからなかったが、那由多が指輪をつけやすいように小指を軽く伸ばした。ピンクゴールドに小さなルビーが飾られたそれは零が今年の那由多の誕生日に送ったもので、記憶ではリングサイズは一号か二号だったはずだ。わずか直径十三ミリほどのそれは、短く整えられた零の爪の上を通り、第一関節すら通れずに止まった。無骨な手には不釣り合いなキラリと輝く指輪に彩られた小指をしみじみと眺め、那由多は「手が大きいのね」と呟く。
「俺が大きいだけじゃねぇと思うけどな」
「そう?でも私、あなたより大きい人は見たことがないわ。
たくさんものも持てるし、いいことね」
そう言われると零も悪い気はしない。那由多は嵌めたばかりの指輪をひとつ引き抜くと、ネックレスと同じように丁寧に拭き上げはじめる。零はされるがままに指輪を飾る台の役目を果たした。途中、零は手持ち無沙汰になったために右手を服の裾から侵入させて滑らかな素肌へ這わせる。そのたびにつまみ食いを咎めるように、ぺちんと軽くその手をはたかれ叱られる。が、どちらも戯れているだけで本気ではない。
那由多は零の結婚指輪も綺麗に磨き、二人分の指輪があるべき場所へと戻る。ちょうどいいタイミングで風呂の湯が溜まったことを知らせる音楽が流れた。
「お風呂は先に入る?」
立ち上がった那由多の膝裏をすくうように零が手を差し入れ、右手一本で軽々と抱えて立ち上がる。不安定さはなかったが急に高くなる視界に、那由多は今日二度目の小さな悲鳴をあげて零の首にしがみついた。
「何するの?」
「せっかくだから一緒に入るか」
零の翠の瞳は悪戯っぽく輝く。
「何がせっかくなの……」
「いい子にしてた俺に対価があってもいいと思わないか」
「ちっともいい子じゃなかったわよ」
「何にもしやしねぇよ」
「絶対よ?ねぇ」
眉を下げる那由多をキスで誤魔化して、零は浴室へ向かうべく踏み出した。
オーバーキル
オーバーキル
ろささ
寒い日だった。
簓はかじかんだ指先をすり合わせてもちっとも暖まらないことに辟易としていた。今日に限って手袋を机の上に置き忘れてしまったのだ。最初に気づいたのはエレベーターに乗ってからで、別に急ぐ訳でもないので取りに戻ってもよかったのに、なんとなくそのままここまできてしまった。その結果が今の真っ赤になった指先である。両手にはあっと息を吐いてみても、焼け石に水、というより氷に水で少し後悔していた。
容赦なく侵入してくる冷気を極力防ぐようにマフラーに首を埋め、両手はポケットへ突っ込んだ。この際少々見た目がだらしなかろうが仕方がない。
「簓!」
冬の空気を小気味よく破ったのは、待っていた蘆笙の声だった。
「おつかれさん〜!」
片手を挙げてひらりと振る。ばたばたと走ってきた蘆笙は簓の前で止まると、膝に手をついて乱れた呼吸を無理やり整えようと大きく息を吐いた。
「はぁ……っと、すまん!結構、待ったやろ」
「別にそうでもないで。集合時間決めとったわけでもないし」
「いや、お前が。今どこかって連絡、くれたあとに。電車、止まってもうて……!」
蘆笙はいつものオールバックが乱れて、この寒いのに額に汗を浮かべている。それだけで続きは不要だった。
「そんなんええよ、蘆笙こそずいぶん走ったんちゃう?」
「あぁ、いや。二駅くらいや、大した事ないで」
「二駅って普通に歩いたら二十分とか三十分とかかかる距離やろ……。こんな深夜にどんな体力しとんねん。
なんや悪いわ、急がんでよかったのに」
「俺が早う来たかったんや」
「あぁ……、うん」
さらりと言った蘆笙はようやく呼吸が通常のリズムを取り戻したのか、身体を起こして軽く伸びをしている。簓は面白さの欠片もない自分の間の抜けた返事に頭を抱えるべきか、跳ねた心臓を体内に押し留めるためにこのまま黙っておくべきかが分からずに悩んだ。そんなことを知る由もない蘆笙は、神社に向けて歩き出す。
「寒かったやろ、はよ行くで」
「えっと、そやな。行こか」
結局うまい返しのひとつも思い浮かばないまま、隣を歩くほかないのだった。
人気のない、街灯だけが並ぶ暗い道を二人で歩く。深夜の集合には理由があった。一月一日を迎えてすぐ、新年の挨拶をメッセージで交わしていた二人だったが、唐突に簓が『今から初詣に行こうや』と切り出したのがきっかけだった。実家に顔を出しくつろいでいた蘆笙は、簓がこちらに戻っていることを知らなかったのでずいぶんと驚いた。簓は普段は明るく対人関係も円滑な男だったが、自分の家にはほとんど寄り付かない。理由は聞いたことがないが、蘆笙自身知っている限り彼が実家に戻っているのをみたのは一度だけだった。
『急にどうしたんや』と返せば『ちょっと部屋片付けなあかんくて』『そんなことより、行くか?』『もしかして、もう寝るところやった?』ぽんぽんとリズムよく送られてくるメッセージを目で追いながら、帰っとるんやったら、一言声をかけてくれたらメシくらい誘うのに、と返信をしようとして手を止める。
数秒の後、打ち込んだメッセージは消して、ただ短く『いこか』と返した。
賑やかなスタンプが続いたあと、神社の場所がのったページが送られてきた。有名な場所ではないが芸能の神が祀られていて、昔二人で参拝した記憶があった。
「懐かしいな、」
そうつぶやいてみても画面の向こうの簓には届かない。程なくして新しいメッセージが届く。
『待っとるわ。近づいたら連絡してな!』
蘆笙は『わかった』と返して時計を見る。今ならぎりぎり電車もあるだろう。おそらく寒い中、簓は一人なのだ。蘆笙は「よし」とつぶやき財布をポケットへねじ込んで、早々に寒空の中へと飛び出したのだった。
神社に着くと、参道にはそれなりに人が集っていた。本殿から鳥居のあたりまで何組もの人が並んでいる。二人もおとなしくその最後尾へと加わった。あたりが暗いからか、簓のことに気づく人もいない。気づいていて話しかけてこないだけなのかもしれないが、簓には今はありがたかった。
「なぁ、蘆笙は神さんに何お願いするん」
「そりゃ生徒らの健康と、時期やし受験の成功やな」
みんなできるだけ希望する進路に進めたらいいと、何気ない問いかけにも蘆笙は真面目くさって答える。そう答えるであろうことは簓には予想がついていた。いつも誰よりも面白くて優しい男だからだ。
「さすがやな、蘆笙センセ」
「お前の先生ちゃうわ。
簓は?やっぱり芸事がうまくいくようにか?」
「んー俺かぁ」
簓は指を一本づつ立てる。
「まずはやっぱり今年もぎょうさん人を笑かせますように。それから、ディビジョンラップバトルで三人でテッペン取れますように。
あとはそうやな。蘆笙が丸付けしながら寝てもうても、酔うて腹出して寝ても、風邪ひきませんように……」
「おい、俺は小学生か。腹なんて出して寝たことないわ」
「嘘や〜、この間の居酒屋蘆笙でひっくり返っとったやん。服めくっても動きもせんかったで」
「いやめくるな。そもそも俺んちやぞ、どこでどう寝てもええやろ」
「アカンアカン。風邪引いたら寒くって俺のギャグがないと温もらんようになるで」
「お前のギャグであったまったことがあるかい。おとなしく喋っとれ」
「誰が動きがやかましいやって?」
「お前やお前!
……はあ、もうええわ」
簓はその声につい続けて口を飛び出そうになった締めの挨拶を舌先でなんとか留める。蘆笙の横ではいつでも何を話しても拾ってもらえるという安心感があってか、いつも以上に舌が滑らかになる。当たり前のようなこの瞬間が当たり前ではないことを、ここへ以前来たときは知らなかった。じりじりと足を進めながら話していると、骨身にしみるあの寒さも忘れてしまう。
「そんで、ほんまは?」
蘆笙が眼鏡を綺麗な指先で押し上げながら簓を見る。肌の白い蘆笙は、流石に冷えてきたのか鼻先も指先も透けるように赤くなっている。
「こういうのは、言わんほうがええんやで」
丸いレンズ越しでも鋭い眼光から逃げるように茶化す。蘆笙は大袈裟にため息をついてみせた。
「人に言わせといてそれかい。ほんならお前、俺の言うた願い事忘れろよ。生徒らのためのもんやからな。
しゃぁないから、俺は聞かんといたるわ。……お前のお願い、叶うとええな」
最後の一言は吐いた白い息と同じくらい、ふわりと温かくて。やはり返す言葉が見つからず、簓はただ頷く。
ちょうど参拝の番が回ってきて、二人で慌てて小銭を探す。
「やっぱりここは五円やろ。ご縁がありますようにってな……ってあらへんわ」
簓の声はからりといつも通りで、自分の財布の小銭入れをひっくり返してはじゃら、と手のひらの中で硬貨を転がす。蘆笙も同じく財布の名を覗いて首を捻った。
「俺もないわ。適当に百円でもいれるか」
「お、太っ腹!まあ気持ちやな気持ち」
簓はつかんでいた小銭をそのまはま賽銭箱へと放る。続く蘆笙も百円を投げ入れ、二人分の気持ちは景気よくジャラジャラ音をたてた。鈴を鳴らして二礼し、神様にご挨拶と二度両手を叩く。そのまま心のなかで願い事をとなえ、ちらりと隣を見た。蘆笙はしっかりと目を閉じて口元がもごもごとさせている。余りの真剣な様子に、少し笑いが込み上げた。それにならってもう一度本殿へ向き直る。自分よりも他人を優先する生真面目な男が、どうか一年幸せであればいいと真剣に祈った。
最後に一礼して列を離れる。すぐにおみくじを指さす簓を蘆笙が「ちょっと待っとってくれ」と手で制し、どこかへ駆けてゆく。トイレかな、と簓は一足先に八角形の入れ物を振っておみくじの紙を一枚取り出した。それを読む前に蘆笙が戻る。
「ほら」
その手にはピンク色のスチール缶があった。赤い文字で甘酒と書かれたそれは蘆笙の両手に一本ずつ握られている。簓はやや戸惑いながらも礼を告げた。
「おお、ありがとう」
別に甘酒は二人の好物というわけでもなく、わざわざ買って飲む習慣もない。
「寒いやろ。あったまり」
蘆笙はそう言いながら、自分の分を開けて飲んだ。度のない眼鏡のレンズが白く曇る。促されるまま簓も一口甘酒を飲むと、喉から胃の底がじわりと温まる。そういえば、昨日の昼からなにも食べていないのを思い出した。
「……めっちゃうまいわ」
「せやろ。たまにはアルコール抜きでもええよな」
目元を緩めた蘆笙に簓も口角をあげて返す。暫く二人で甘酒を啜る。
「忙しいやろ年末年始なんて……」
はっと蘆笙は自分の腕を見る。どうやら時計を探しているらしい。
「なんか用事やった?」
のんびりと返した簓が自分の携帯電話で時間を見た。午前一時半というところだ。用事があるにしては少々微妙な時間ではある。
「用事やった?ちゃうわ、
お前もししかせんでもこの後生放送か!
もうすぐ入りなんちゃう、はよ、はよ行かな。駅まで送ろうか?
いや、電車はもうあらへんか……?」
慌てふためいて簓の手ごと携帯を掴んで画面を覗き込んだ蘆笙がぶつぶつと呟く。
「とりあえずタクシー呼ぶか?」
鼻先がつきそうなほど近い距離に、簓はそっと身体を仰け反らせる。
「……落ち着け蘆笙。大丈夫やって、このあとマネージャーさんが車で迎えきてくれんねん」
「なんや、ほんならよかったわ……」
はーっと息を吐いた蘆笙は安心しきっているようだが、簓はそれどころではない。至近距離で見るには、その顔面はちょっと綺麗すぎる。その上、未だにガッチリと手を掴まれているのも良くない。甘酒の分とは違う熱がじわじわと昇ってくる。誤魔化すように簓はからからと笑い声をあげた。
「熱愛かと思われるくらい近いわ!」
「間違ってへんやろ」
「え」
鋭いツッコミを期待したというのに、蘆笙はごく真面目な顔で少しだけ首を傾げた。ロマンチックさの欠片もない動画を一時停止したかのように固まる自分がそのレンズに映っていた。
「コンビ愛がなんとかっちゅう番組やったやろ。俺、お前と組んだったの、ほんまに楽しかったし良かったと思っとる」
「え、ええ?」
壊れたラジオのような音しか出すことができない。自慢の舌は脳の混乱に巻き込まれて動かない。
「今年も一年頑張れよ」
「お、おう」
ようやくそれだけ返す。周りは真っ暗なはずだが、その空間だけが眩しい。言うだけ言って、蘆笙はようやくその手を離した。
「……懐かしい場所やったな。お前の話すネタになったらええんやけど。
ほんで、待ち合わせ場所どこや。さっと飲んではよ行くで」
いや、俺にこのあとどんな気持ちで仕事せえちゅうねん。なんにも頭に入らんわ。そう言いたいのを甘酒で飲み下す。そうだ、蘆笙はこういう男だった。
上がりすぎた体温を下げるべく、おみくじの紙で顔をあおぐ。もうその中身はなんだろうとかまわない。簓は周りが暗いことに心からの感謝を捧げた。
ろささ
寒い日だった。
簓はかじかんだ指先をすり合わせてもちっとも暖まらないことに辟易としていた。今日に限って手袋を机の上に置き忘れてしまったのだ。最初に気づいたのはエレベーターに乗ってからで、別に急ぐ訳でもないので取りに戻ってもよかったのに、なんとなくそのままここまできてしまった。その結果が今の真っ赤になった指先である。両手にはあっと息を吐いてみても、焼け石に水、というより氷に水で少し後悔していた。
容赦なく侵入してくる冷気を極力防ぐようにマフラーに首を埋め、両手はポケットへ突っ込んだ。この際少々見た目がだらしなかろうが仕方がない。
「簓!」
冬の空気を小気味よく破ったのは、待っていた蘆笙の声だった。
「おつかれさん〜!」
片手を挙げてひらりと振る。ばたばたと走ってきた蘆笙は簓の前で止まると、膝に手をついて乱れた呼吸を無理やり整えようと大きく息を吐いた。
「はぁ……っと、すまん!結構、待ったやろ」
「別にそうでもないで。集合時間決めとったわけでもないし」
「いや、お前が。今どこかって連絡、くれたあとに。電車、止まってもうて……!」
蘆笙はいつものオールバックが乱れて、この寒いのに額に汗を浮かべている。それだけで続きは不要だった。
「そんなんええよ、蘆笙こそずいぶん走ったんちゃう?」
「あぁ、いや。二駅くらいや、大した事ないで」
「二駅って普通に歩いたら二十分とか三十分とかかかる距離やろ……。こんな深夜にどんな体力しとんねん。
なんや悪いわ、急がんでよかったのに」
「俺が早う来たかったんや」
「あぁ……、うん」
さらりと言った蘆笙はようやく呼吸が通常のリズムを取り戻したのか、身体を起こして軽く伸びをしている。簓は面白さの欠片もない自分の間の抜けた返事に頭を抱えるべきか、跳ねた心臓を体内に押し留めるためにこのまま黙っておくべきかが分からずに悩んだ。そんなことを知る由もない蘆笙は、神社に向けて歩き出す。
「寒かったやろ、はよ行くで」
「えっと、そやな。行こか」
結局うまい返しのひとつも思い浮かばないまま、隣を歩くほかないのだった。
人気のない、街灯だけが並ぶ暗い道を二人で歩く。深夜の集合には理由があった。一月一日を迎えてすぐ、新年の挨拶をメッセージで交わしていた二人だったが、唐突に簓が『今から初詣に行こうや』と切り出したのがきっかけだった。実家に顔を出しくつろいでいた蘆笙は、簓がこちらに戻っていることを知らなかったのでずいぶんと驚いた。簓は普段は明るく対人関係も円滑な男だったが、自分の家にはほとんど寄り付かない。理由は聞いたことがないが、蘆笙自身知っている限り彼が実家に戻っているのをみたのは一度だけだった。
『急にどうしたんや』と返せば『ちょっと部屋片付けなあかんくて』『そんなことより、行くか?』『もしかして、もう寝るところやった?』ぽんぽんとリズムよく送られてくるメッセージを目で追いながら、帰っとるんやったら、一言声をかけてくれたらメシくらい誘うのに、と返信をしようとして手を止める。
数秒の後、打ち込んだメッセージは消して、ただ短く『いこか』と返した。
賑やかなスタンプが続いたあと、神社の場所がのったページが送られてきた。有名な場所ではないが芸能の神が祀られていて、昔二人で参拝した記憶があった。
「懐かしいな、」
そうつぶやいてみても画面の向こうの簓には届かない。程なくして新しいメッセージが届く。
『待っとるわ。近づいたら連絡してな!』
蘆笙は『わかった』と返して時計を見る。今ならぎりぎり電車もあるだろう。おそらく寒い中、簓は一人なのだ。蘆笙は「よし」とつぶやき財布をポケットへねじ込んで、早々に寒空の中へと飛び出したのだった。
神社に着くと、参道にはそれなりに人が集っていた。本殿から鳥居のあたりまで何組もの人が並んでいる。二人もおとなしくその最後尾へと加わった。あたりが暗いからか、簓のことに気づく人もいない。気づいていて話しかけてこないだけなのかもしれないが、簓には今はありがたかった。
「なぁ、蘆笙は神さんに何お願いするん」
「そりゃ生徒らの健康と、時期やし受験の成功やな」
みんなできるだけ希望する進路に進めたらいいと、何気ない問いかけにも蘆笙は真面目くさって答える。そう答えるであろうことは簓には予想がついていた。いつも誰よりも面白くて優しい男だからだ。
「さすがやな、蘆笙センセ」
「お前の先生ちゃうわ。
簓は?やっぱり芸事がうまくいくようにか?」
「んー俺かぁ」
簓は指を一本づつ立てる。
「まずはやっぱり今年もぎょうさん人を笑かせますように。それから、ディビジョンラップバトルで三人でテッペン取れますように。
あとはそうやな。蘆笙が丸付けしながら寝てもうても、酔うて腹出して寝ても、風邪ひきませんように……」
「おい、俺は小学生か。腹なんて出して寝たことないわ」
「嘘や〜、この間の居酒屋蘆笙でひっくり返っとったやん。服めくっても動きもせんかったで」
「いやめくるな。そもそも俺んちやぞ、どこでどう寝てもええやろ」
「アカンアカン。風邪引いたら寒くって俺のギャグがないと温もらんようになるで」
「お前のギャグであったまったことがあるかい。おとなしく喋っとれ」
「誰が動きがやかましいやって?」
「お前やお前!
……はあ、もうええわ」
簓はその声につい続けて口を飛び出そうになった締めの挨拶を舌先でなんとか留める。蘆笙の横ではいつでも何を話しても拾ってもらえるという安心感があってか、いつも以上に舌が滑らかになる。当たり前のようなこの瞬間が当たり前ではないことを、ここへ以前来たときは知らなかった。じりじりと足を進めながら話していると、骨身にしみるあの寒さも忘れてしまう。
「そんで、ほんまは?」
蘆笙が眼鏡を綺麗な指先で押し上げながら簓を見る。肌の白い蘆笙は、流石に冷えてきたのか鼻先も指先も透けるように赤くなっている。
「こういうのは、言わんほうがええんやで」
丸いレンズ越しでも鋭い眼光から逃げるように茶化す。蘆笙は大袈裟にため息をついてみせた。
「人に言わせといてそれかい。ほんならお前、俺の言うた願い事忘れろよ。生徒らのためのもんやからな。
しゃぁないから、俺は聞かんといたるわ。……お前のお願い、叶うとええな」
最後の一言は吐いた白い息と同じくらい、ふわりと温かくて。やはり返す言葉が見つからず、簓はただ頷く。
ちょうど参拝の番が回ってきて、二人で慌てて小銭を探す。
「やっぱりここは五円やろ。ご縁がありますようにってな……ってあらへんわ」
簓の声はからりといつも通りで、自分の財布の小銭入れをひっくり返してはじゃら、と手のひらの中で硬貨を転がす。蘆笙も同じく財布の名を覗いて首を捻った。
「俺もないわ。適当に百円でもいれるか」
「お、太っ腹!まあ気持ちやな気持ち」
簓はつかんでいた小銭をそのまはま賽銭箱へと放る。続く蘆笙も百円を投げ入れ、二人分の気持ちは景気よくジャラジャラ音をたてた。鈴を鳴らして二礼し、神様にご挨拶と二度両手を叩く。そのまま心のなかで願い事をとなえ、ちらりと隣を見た。蘆笙はしっかりと目を閉じて口元がもごもごとさせている。余りの真剣な様子に、少し笑いが込み上げた。それにならってもう一度本殿へ向き直る。自分よりも他人を優先する生真面目な男が、どうか一年幸せであればいいと真剣に祈った。
最後に一礼して列を離れる。すぐにおみくじを指さす簓を蘆笙が「ちょっと待っとってくれ」と手で制し、どこかへ駆けてゆく。トイレかな、と簓は一足先に八角形の入れ物を振っておみくじの紙を一枚取り出した。それを読む前に蘆笙が戻る。
「ほら」
その手にはピンク色のスチール缶があった。赤い文字で甘酒と書かれたそれは蘆笙の両手に一本ずつ握られている。簓はやや戸惑いながらも礼を告げた。
「おお、ありがとう」
別に甘酒は二人の好物というわけでもなく、わざわざ買って飲む習慣もない。
「寒いやろ。あったまり」
蘆笙はそう言いながら、自分の分を開けて飲んだ。度のない眼鏡のレンズが白く曇る。促されるまま簓も一口甘酒を飲むと、喉から胃の底がじわりと温まる。そういえば、昨日の昼からなにも食べていないのを思い出した。
「……めっちゃうまいわ」
「せやろ。たまにはアルコール抜きでもええよな」
目元を緩めた蘆笙に簓も口角をあげて返す。暫く二人で甘酒を啜る。
「忙しいやろ年末年始なんて……」
はっと蘆笙は自分の腕を見る。どうやら時計を探しているらしい。
「なんか用事やった?」
のんびりと返した簓が自分の携帯電話で時間を見た。午前一時半というところだ。用事があるにしては少々微妙な時間ではある。
「用事やった?ちゃうわ、
お前もししかせんでもこの後生放送か!
もうすぐ入りなんちゃう、はよ、はよ行かな。駅まで送ろうか?
いや、電車はもうあらへんか……?」
慌てふためいて簓の手ごと携帯を掴んで画面を覗き込んだ蘆笙がぶつぶつと呟く。
「とりあえずタクシー呼ぶか?」
鼻先がつきそうなほど近い距離に、簓はそっと身体を仰け反らせる。
「……落ち着け蘆笙。大丈夫やって、このあとマネージャーさんが車で迎えきてくれんねん」
「なんや、ほんならよかったわ……」
はーっと息を吐いた蘆笙は安心しきっているようだが、簓はそれどころではない。至近距離で見るには、その顔面はちょっと綺麗すぎる。その上、未だにガッチリと手を掴まれているのも良くない。甘酒の分とは違う熱がじわじわと昇ってくる。誤魔化すように簓はからからと笑い声をあげた。
「熱愛かと思われるくらい近いわ!」
「間違ってへんやろ」
「え」
鋭いツッコミを期待したというのに、蘆笙はごく真面目な顔で少しだけ首を傾げた。ロマンチックさの欠片もない動画を一時停止したかのように固まる自分がそのレンズに映っていた。
「コンビ愛がなんとかっちゅう番組やったやろ。俺、お前と組んだったの、ほんまに楽しかったし良かったと思っとる」
「え、ええ?」
壊れたラジオのような音しか出すことができない。自慢の舌は脳の混乱に巻き込まれて動かない。
「今年も一年頑張れよ」
「お、おう」
ようやくそれだけ返す。周りは真っ暗なはずだが、その空間だけが眩しい。言うだけ言って、蘆笙はようやくその手を離した。
「……懐かしい場所やったな。お前の話すネタになったらええんやけど。
ほんで、待ち合わせ場所どこや。さっと飲んではよ行くで」
いや、俺にこのあとどんな気持ちで仕事せえちゅうねん。なんにも頭に入らんわ。そう言いたいのを甘酒で飲み下す。そうだ、蘆笙はこういう男だった。
上がりすぎた体温を下げるべく、おみくじの紙で顔をあおぐ。もうその中身はなんだろうとかまわない。簓は周りが暗いことに心からの感謝を捧げた。
蜘蛛の網に足を掬われ
蜘蛛の網に足を掬われ
ナゴ獄♀
「トリックオアトリートっす!」
十月三十一日。よく晴れた空の高くにイワシの群れのような雲が泳ぐ休日、獄の自宅に明るい声とともに十四が現れた。いつもよりキラキラとしたメイクに黒いマント、細身の黒いパンツはそのままだが、上半身は華やかなフリルとアクセサリーに彩られた白いブラウスだ。頭からはどこで手に入れてきたか分からない、黒い捻れた角が二本生えている。なるほどそのままライブへ行けそうなビジュアル系らしい格好だ。ピタリとポーズをとった姿はきっとそのままブロマイドにだってできるだろう。背景が獄の自宅でなければの話であるが。
獄は何も言わず、ただ手に持っていたタバコを灰皿に押し付けてその火を消した。
「邪魔すんぜ、とりあえず菓子よこせ」
当然のように上がりこむ空劫は、十四とは正反対のいつも通りの服装だ。ただ一点、目元に穴だけ開けた薄茶の紙袋をすっぽりと被っていた。見覚えのある店名と縁についたままのビニールのテープに生活感が溢れている。横柄な態度と相まってどちらかというと仮装というよりも銀行強盗という方が近い。我が物顔でソファで隣に沈んだ空劫の頭を獄が叩くと紙袋が大げさな音をたてた。
「お前らアポイントって知ってるか」
何度勝手に入ってくるなと言ってみてもとにかく無駄だったので、最近の獄はこの二人に新しい概念を覚えさせようと苦心していた。
「知らね」
「そんなことより、どうっすか?
この悪魔仮装、めちゃくちゃ良くできてるっすよね!」
十四が華麗にターンすれば、ふわりと広がったマントの後ろから小ぶりなコウモリの羽と彼の膝ほどまである尻尾がのぞいた。
「人と会う時はあらかじめ連絡をだな……」
「空劫さんにはずっと前から伝えてあったのに、今日自分が行ってから準備したんすよ」
「菓子を食うのに仮装がいるんだろ、ちゃんとしたじゃねぇか」
「いやいや、せめてシーツ被って欲しいっす」
「あんなデケェ布に穴開けたらもったいねぇだろうが」
「お前ら俺の話を聞け!」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてるっすよ」
「聞いてねぇだろ、ったく本当に毎度毎度……」
「ほら、ちゃんと連絡したっす」
十四が示した画面には、ちょうど十分前の日時が書かれたメッセージに、確かに『今から獄さんのお家に空劫さんと向かうっす』と書かれている。
「そんなもん連絡になるか!」
「えぇ、自分はちゃんと思い出したのに……」
「次は前日には思い出してくれ、頼むから」
「はぁい。それより、この仮装似合ってないっすか? 今年は気合いを入れてきた、悪魔になってみたっす」
やっぱりなんにも聞いてないだろと獄は頭を抱える。
「いや、似合っちゃいるんだけどな。そこじゃなくて」
「やった! 空劫さん、聞きました?
頑張った甲斐があったっす!」
獄が頭を抱えても今からこの情報がかわるわけでもない。にこにこと衣装のこだわりを語りはじめた十四をみて、もう今日は好きにさせてやろうと獄は諦めた。
「それで、空劫はそれなんの仮装だ」
「知らん。そのへんにあったもの被っただけだから、まあ強いて言えば紙袋お化けか?」
だって拙僧には関係のねえ行事だし。十四に気を使ったのか、やや小さく続く言葉に獄は納得する。
「坊主には関係ねぇよな」
「それはそれとして菓子は食うからよこせ」
「本当にお前は、」
半顔になった獄はやれやれと立ち上がりキッチンへと消える。程なくしてお盆に三つのマグカップとプラスチック容器をのせて戻った。
「間に合せのコンビニのだからな。文句言うなよ」
獄がそう言ってそれぞれの前に置いたのはかぼちゃプリンだった。中央に絞られた生クリームの白とのコントラストが、卵のプリンとは違う鮮やかな黄色の色味を引き立てる。獄の宣言通り、この時期のコンビニの定番スイーツだった。
「うわ、これ美味しいやつっすよね!」
「南瓜か。なんだよちゃんと三つあるじゃねぇか」
獄は空劫の頭をまた軽く叩く。ぱすんとその拍子に目の位置がズレてしまったのか、空劫はバカスカ叩くなイテェなと言いながら早々に紙袋を取り去った。紙袋お化けからただの空劫にもどった彼の前から順にプリンの横へマグカップを並べる。その中にはカフェオレのような色味の液体か湯気を立てていたが、ほわりと浮かんだ湯気と一緒に鼻をくすぐるのはコーヒーではなくほうじ茶の香りだった。
「茶に牛乳いれるなよ」
眉間にシワを寄せる空劫に獄が少し笑う。
「知らないんすか空劫さん。ほうじ茶ラテめちゃくちゃ美味しいんすよ」
有名コーヒーチェーンでたまに飲むのだと力説する十四を、空劫が怪訝そうな顔で見つめる。
「お前、煎茶にも牛乳ぶち込んで飲むんか」
「お茶には入れないっすけど、でもほら抹茶ラテとかも美味しいじゃないっすか。ね、獄さん」
「まあ好みはあるだろうがな」
やっとのことで広いソファに横並びになっていただきますと手を合わせる。三人は早速プリンをスプーンで口に運ぶ。かぼちゃのしゃりっとした繊維感があっても滑らかなそれは自然な甘みで口内を満たす。ほろ苦いカラメルがまた一口を誘う。秋の味覚は知らずにそれぞれの口角を上げた。
「やっぱり美味しいっすね!」
「そうだな」
へにゃりと眉を下げた十四が頬をおさえる。獄はそれに同意した。空劫はスプーン置いてマグカップを覗いている。ふーっと息を吹きかけてから、初めての餌を食べる猫のように僅かにほうじ茶ラテを口に含んだ。一秒ほど検討したあとで、二、三度目を瞬く。
「うまい、か?」
まだ慣れないのか僅かに首を傾げつつも、今度は普段の飲み物と変わらない量を口に流している。悪くはなかったらしいと獄はくすくすと笑った。
甘い物と温かい飲み物は気分をおちつけて、他愛のない世間話を引っ張り出す。最近の出来事からなんてことのないバカな話まで、穏やかな時間はあっという間に過ぎてゆく。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせる十四と空劫。食器を手早く片付けた獄がソファにもどると、背もたれに深く身体を預けていた空劫がひょいと起き上がった。そのままなんの前触れもなく、まるでそうするのが当たり前かのように自然な動作で獄に口付ける。
「は? いや、っちょっと、待っ……」
獄が身を引くよりもはやくがっしりした手が後頭部へ周り、退路を塞がれる。
「こ、ら。何し、」
抗議をしようと不用意に口を開けば、熱い舌に口腔内への侵入を許す。歯列をなぞり、軟口蓋をくすぐる刺激に思わず身体を震わせれば、背後からするりと伸びてきた腕に抱きすくめられる。
「獄さん、自分もまだ足りないっす」
お菓子よりも随分と甘い甘い声が右耳から獄の脳を侵す。言葉は全て飲み込まれ、むぐ、というくぐもった音にしかならない。回された腕がするりと獄の薄い腹を撫でた。驚いた拍子に獄はがり、と空劫の唇に歯を当ててしまった。
「ってぇ」
空劫はどちらのものかわからない唾液で濡れた唇に滲んだ血を親指で拭う。ぎらりと光る金色が獄を刺すように見つめている。その視線から目をそらし、キスから解放された獄は慌てて身を捩った。
「っ、おい、お前ら何考えて」
「拙僧は菓子かいたずらかどっちかなんて言ってねぇだろ」
空劫の手が獄の太腿へと乗せられ、だから悪戯する権利があるよなとにやりと笑う。身を引いた獄は十四の胸にぽすりと収まってしまう。くつくつと体温と一緒に喉奥の笑い声が身体に響く。
「空劫さんに、いじわるされちゃうってことっすね。自分は今日は悪魔っすから、お菓子よりももっといいトリートほしいっす」
「おい、やめ……」
ハロウィンの夜はすぐそこに迫っていた。
ナゴ獄♀
「トリックオアトリートっす!」
十月三十一日。よく晴れた空の高くにイワシの群れのような雲が泳ぐ休日、獄の自宅に明るい声とともに十四が現れた。いつもよりキラキラとしたメイクに黒いマント、細身の黒いパンツはそのままだが、上半身は華やかなフリルとアクセサリーに彩られた白いブラウスだ。頭からはどこで手に入れてきたか分からない、黒い捻れた角が二本生えている。なるほどそのままライブへ行けそうなビジュアル系らしい格好だ。ピタリとポーズをとった姿はきっとそのままブロマイドにだってできるだろう。背景が獄の自宅でなければの話であるが。
獄は何も言わず、ただ手に持っていたタバコを灰皿に押し付けてその火を消した。
「邪魔すんぜ、とりあえず菓子よこせ」
当然のように上がりこむ空劫は、十四とは正反対のいつも通りの服装だ。ただ一点、目元に穴だけ開けた薄茶の紙袋をすっぽりと被っていた。見覚えのある店名と縁についたままのビニールのテープに生活感が溢れている。横柄な態度と相まってどちらかというと仮装というよりも銀行強盗という方が近い。我が物顔でソファで隣に沈んだ空劫の頭を獄が叩くと紙袋が大げさな音をたてた。
「お前らアポイントって知ってるか」
何度勝手に入ってくるなと言ってみてもとにかく無駄だったので、最近の獄はこの二人に新しい概念を覚えさせようと苦心していた。
「知らね」
「そんなことより、どうっすか?
この悪魔仮装、めちゃくちゃ良くできてるっすよね!」
十四が華麗にターンすれば、ふわりと広がったマントの後ろから小ぶりなコウモリの羽と彼の膝ほどまである尻尾がのぞいた。
「人と会う時はあらかじめ連絡をだな……」
「空劫さんにはずっと前から伝えてあったのに、今日自分が行ってから準備したんすよ」
「菓子を食うのに仮装がいるんだろ、ちゃんとしたじゃねぇか」
「いやいや、せめてシーツ被って欲しいっす」
「あんなデケェ布に穴開けたらもったいねぇだろうが」
「お前ら俺の話を聞け!」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてるっすよ」
「聞いてねぇだろ、ったく本当に毎度毎度……」
「ほら、ちゃんと連絡したっす」
十四が示した画面には、ちょうど十分前の日時が書かれたメッセージに、確かに『今から獄さんのお家に空劫さんと向かうっす』と書かれている。
「そんなもん連絡になるか!」
「えぇ、自分はちゃんと思い出したのに……」
「次は前日には思い出してくれ、頼むから」
「はぁい。それより、この仮装似合ってないっすか? 今年は気合いを入れてきた、悪魔になってみたっす」
やっぱりなんにも聞いてないだろと獄は頭を抱える。
「いや、似合っちゃいるんだけどな。そこじゃなくて」
「やった! 空劫さん、聞きました?
頑張った甲斐があったっす!」
獄が頭を抱えても今からこの情報がかわるわけでもない。にこにこと衣装のこだわりを語りはじめた十四をみて、もう今日は好きにさせてやろうと獄は諦めた。
「それで、空劫はそれなんの仮装だ」
「知らん。そのへんにあったもの被っただけだから、まあ強いて言えば紙袋お化けか?」
だって拙僧には関係のねえ行事だし。十四に気を使ったのか、やや小さく続く言葉に獄は納得する。
「坊主には関係ねぇよな」
「それはそれとして菓子は食うからよこせ」
「本当にお前は、」
半顔になった獄はやれやれと立ち上がりキッチンへと消える。程なくしてお盆に三つのマグカップとプラスチック容器をのせて戻った。
「間に合せのコンビニのだからな。文句言うなよ」
獄がそう言ってそれぞれの前に置いたのはかぼちゃプリンだった。中央に絞られた生クリームの白とのコントラストが、卵のプリンとは違う鮮やかな黄色の色味を引き立てる。獄の宣言通り、この時期のコンビニの定番スイーツだった。
「うわ、これ美味しいやつっすよね!」
「南瓜か。なんだよちゃんと三つあるじゃねぇか」
獄は空劫の頭をまた軽く叩く。ぱすんとその拍子に目の位置がズレてしまったのか、空劫はバカスカ叩くなイテェなと言いながら早々に紙袋を取り去った。紙袋お化けからただの空劫にもどった彼の前から順にプリンの横へマグカップを並べる。その中にはカフェオレのような色味の液体か湯気を立てていたが、ほわりと浮かんだ湯気と一緒に鼻をくすぐるのはコーヒーではなくほうじ茶の香りだった。
「茶に牛乳いれるなよ」
眉間にシワを寄せる空劫に獄が少し笑う。
「知らないんすか空劫さん。ほうじ茶ラテめちゃくちゃ美味しいんすよ」
有名コーヒーチェーンでたまに飲むのだと力説する十四を、空劫が怪訝そうな顔で見つめる。
「お前、煎茶にも牛乳ぶち込んで飲むんか」
「お茶には入れないっすけど、でもほら抹茶ラテとかも美味しいじゃないっすか。ね、獄さん」
「まあ好みはあるだろうがな」
やっとのことで広いソファに横並びになっていただきますと手を合わせる。三人は早速プリンをスプーンで口に運ぶ。かぼちゃのしゃりっとした繊維感があっても滑らかなそれは自然な甘みで口内を満たす。ほろ苦いカラメルがまた一口を誘う。秋の味覚は知らずにそれぞれの口角を上げた。
「やっぱり美味しいっすね!」
「そうだな」
へにゃりと眉を下げた十四が頬をおさえる。獄はそれに同意した。空劫はスプーン置いてマグカップを覗いている。ふーっと息を吹きかけてから、初めての餌を食べる猫のように僅かにほうじ茶ラテを口に含んだ。一秒ほど検討したあとで、二、三度目を瞬く。
「うまい、か?」
まだ慣れないのか僅かに首を傾げつつも、今度は普段の飲み物と変わらない量を口に流している。悪くはなかったらしいと獄はくすくすと笑った。
甘い物と温かい飲み物は気分をおちつけて、他愛のない世間話を引っ張り出す。最近の出来事からなんてことのないバカな話まで、穏やかな時間はあっという間に過ぎてゆく。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせる十四と空劫。食器を手早く片付けた獄がソファにもどると、背もたれに深く身体を預けていた空劫がひょいと起き上がった。そのままなんの前触れもなく、まるでそうするのが当たり前かのように自然な動作で獄に口付ける。
「は? いや、っちょっと、待っ……」
獄が身を引くよりもはやくがっしりした手が後頭部へ周り、退路を塞がれる。
「こ、ら。何し、」
抗議をしようと不用意に口を開けば、熱い舌に口腔内への侵入を許す。歯列をなぞり、軟口蓋をくすぐる刺激に思わず身体を震わせれば、背後からするりと伸びてきた腕に抱きすくめられる。
「獄さん、自分もまだ足りないっす」
お菓子よりも随分と甘い甘い声が右耳から獄の脳を侵す。言葉は全て飲み込まれ、むぐ、というくぐもった音にしかならない。回された腕がするりと獄の薄い腹を撫でた。驚いた拍子に獄はがり、と空劫の唇に歯を当ててしまった。
「ってぇ」
空劫はどちらのものかわからない唾液で濡れた唇に滲んだ血を親指で拭う。ぎらりと光る金色が獄を刺すように見つめている。その視線から目をそらし、キスから解放された獄は慌てて身を捩った。
「っ、おい、お前ら何考えて」
「拙僧は菓子かいたずらかどっちかなんて言ってねぇだろ」
空劫の手が獄の太腿へと乗せられ、だから悪戯する権利があるよなとにやりと笑う。身を引いた獄は十四の胸にぽすりと収まってしまう。くつくつと体温と一緒に喉奥の笑い声が身体に響く。
「空劫さんに、いじわるされちゃうってことっすね。自分は今日は悪魔っすから、お菓子よりももっといいトリートほしいっす」
「おい、やめ……」
ハロウィンの夜はすぐそこに迫っていた。
角砂糖の雨
角砂糖の雨
じゅしひと♀
※ジューンブライドがテーマのオムニバス形式のシリーズ
1.祝福
『お花見をしませんか』
十四の送ったメッセージにはすぐに既読のマークがついた。
休日に少し遅い朝食を終え、テレビの中のスプリングコートのアナウンサーが「明日は雨」という予報を読み上げるのを聞いて、慌てて送ったものだった。メッセージの相手は獄で、今日が休日であることは知っていた。
『もうしてる』
程なくして見覚えのある靴のつま先と桜色の道の写真が添えられた飾り気のない言葉がかえってくる。獄はすでに花見を楽しんでいるらしい。出遅れてしまった焦りとともに誰かと一緒なのかと問えば、ひとりだと返ってきた。つづけてナゴヤでもそこそこに有名な公園の名前。十四は急いで所要時間を検索した。十五分後に家を出れば一時間以内にその場所までたどり着ける。
『自分も今から行くっす!』
そのメッセージに返信はなかったが、獄が嫌ならそもそも場所を送ってはこない。沈黙を肯定と受け取って十四は自室へと急いだ。準備の時間がどんなに短かろうと、好きな人に会いに行くのに手は抜けない。いつだって一番格好いい自分を見て欲しかった。
無事に乗ることができた予定の電車は大きな遅れもなく目的地の最寄り駅にたどり着いた。おそらく目的を同じとする多くの人たちに流されるようにして駅舎を出る。あいにく空は薄く曇っていたが、春らしく暖かかったので別段気にもならなかった。駅を出た旨をメッセージとして送り、そのまま公園内へと歩みを進める。入口からすでに見事なソメイヨシノの並木が出迎えてくれ、周囲のざわめきも喜色を含む明るい音となった。長身を生かしてきょろきょろとあたりを見回してみるも入口近くに獄の姿はない。そんな時手元に一通メッセージが届いた。
『道なりに進んで広場の奥、右側に細い道があるからそこを真っ直ぐ』
案内に従い屋台の続く広い通りを抜ける。ソースの焦げるいい匂いも、丸い形のカステラの甘い香りも、きらきらしたフルーツの飴も足を止める理由にはならない。人ごみを縫うように抜けると言葉の通り大きな広場があった。噴水を横目に家族連れや団体客の広げたとりどりのレジャーシートの列を進んでゆく。きもちのよい風が吹くたびに小さな花弁が舞う。
「右側の細い道、右側の細い道、っとあれかな……?」
周りに桜の木は見当たらないが、ひっそりとした小道が確かにあった。新緑の季節と呼ぶにはまだ木々の葉は心もとなく、行き交う人もほとんどいないため、少し寂しい印象だ。やや不安になりながらも砂利道を進む。二つほどゆるやかなカーブを曲がった先にはわずかに開けた場所があった。一本だけ桜の木があるその場所は、広場からも離れているためか人気がない。
「よぉ」
桜の木に向かい合うようにひっそりと置かれた木陰のベンチに一人、獄は足を組んで座っていた。ふわっと目元が下がるこの顔が十四は好きだった。
「獄さん!」
駆けよれば獄は隣に置いていた鞄を反対側へと避ける。座ってもよいということなのだろう。遠慮なく隣へ腰をおろし、獄を見やる。オーバーサイズの白いシャツに細身のベージュのパンツ、ゴールドのパーツの細い黒のベルト。一見すると仕事服に見えそうだが、素材と着こなしで適度にカジュアルで、いつもと違うざっくりとまとめられた髪型も相まって休日なのだと特別な空気を感じる。
「迷わなかったか」
「はいっす」
柔らかな声に笑顔を返し、そのあとでわざとふくれっ面を作って見せる。
「それよりひどいっすよ。お花見するなら最初から誘ってほしかったっす」
「ははっ、仕方ねーだろ、俺も今日思いついたんだから」
「珍しいっすね、獄さんがそいういう行き当たりばったりなことするの」
「明日が雨だっていうからな」
薄紅色の色の爪がのった指先が十四の額を小突いて笑う。同じことを考えていたのが嬉しくてふくれっ面はすぐにへにゃりと崩れてしまった。
「えへ、自分たちお揃いっすね」
「はいはい」
甘く笑みを含んだ声にアマンダの入ったカバンを胸の前で抱きしめる。獄はベンチに置いていた紙コップに入っていた飲み物をあおるとふぅとひとつ息を吐いた。わずかな酒精に十四は鼻を鳴らす。
「あ、それビールっすか」
「なんだよ急に」
「ほんとに珍しいっすね」
基本的に獄は空却や十四の前では飲酒も喫煙も控えている。よって酔っぱらった獄を見ることはあまりないので、思わず物珍し気にその姿を見てしまう。
「こっちは成人なんだから別にいいだろ、大体お前が来るとは思ってなかったしな」
「しかも二杯目っす!」
「めざといな、お前」
紙コップの重なりを指摘すれば、獄が眉尻を下げた。この顔も珍しい。よくよくその顔を見れば、メイクだけではない血色の良さが分かる。
「だからご機嫌なんすね」
今日は会ってからというもの、笑顔が絶えないわけだ。その原因が自分ではないことに少し置いて行かれたような気がする。
「そんな顔するな、ほら」
空になったらしい紙コップと鞄を持って獄が立ち上がる。
「行くぞ」
同時に柔らかな風が桜の木を揺らした。光が透ける獄の髪に秒速五センチメートルの祝福が降りかかる。
「ほら」
なぜだか叫びだしたくなるような胸の痛みを飲み込んで、差し出された手をぎゅっと握る。
「はいっす」
この光景をどこかでまた見たいと十四は強く願うのだった。
2.装い
アーケードの一区画で行われている蚤の市のようなフリーマーケットのような、それなりの規模の露店市が開催されていた。アンティークな雑貨や、様々な古着、使用感がいい味を出している家具を取り扱う店もあれば、手作りのアクセサリーを取り扱うような店もあった。ゴールデンウィークということもあり人の賑わいもかなりある。獄は後で何か掘り出し物でも探してみようと考えつつ、隣の区画にある行きつけの花屋へと足を運んだ。
店先を彩る初夏らしいバラやカーネーション、アスターなど華やかな生花たちを尻目に、店の奥へと進む。今日は自分のための花ではなく、獄の大切な人のための花を探しに来たのだった。よくあるリンドウや菊を手に取ろうとしたとき、ふと小ぶりな白い花が目についた。つややかな濃い緑の葉の間からすらりと湾曲した茎がのび、釣り鐘型の小さな白い花が並ぶ様子もかわいらしいスズランだった。
先日ニュースで見たフランスの風習を思い出し、幸福が訪れるというその花の前で立ち止まる。わずかな逡巡のあとで、たまには変わったものでもいいかと獄は店員を呼び止めたのだった。
「ひとやさーーーーーん!」
人ごみの中でも良く通る声によばれ、獄は危うく手にしていた白磁のティーセットを取り落とすところだった。苦笑いをしている店主に断りを入れて検討していたそれをそっと戻すと、獄は顔をあげた。十数メートル向こうで、良く見知った青年――十四が大きく手を振りながら人ごみをかき分けるようにこちらへと向かってきていた。通行と商売の邪魔にならないように、と獄は道の端に避けてその到着を待ってやる。
「奇遇っすね!
お休みの日に会えるとは思ってなかったっす」
駆け寄った十四はわずかに息を切らせ、その場でわずかに跳ねるようにして喜びを表現している。
「ちょっと花屋に用事でな。お前は?」
十四は手にしていた紙袋の中を見せるように少し開いた。
「自分は衣装を買いに。古着とかハンドメイドって面白いものがお手頃価格で手に入るんすよ」
ちらとのぞきこめば、確かに装飾の多いコートのような服に、キラキラとしたブローチや、レースで編まれた手袋のような小物がおさまっている。なるほどと納得していると、十四がはっとした顔で獄の後方を見た。
「獄さん、あれ見たいっす!」
「えっ?」
ぱっと掴まれた腕をひかれるがまま、獄も歩き出す。十四とは目線が異なる獄は目的地が見えず、人ごみでせっかくのブーケがつぶれてしまわぬようにするのが精いっぱいだった。つかまれた時と同じくらい唐突に力強い手がするりと離れる。金色のメッシュを追いかけてニ、三人の間を抜けるとようやくその隣にたどり着いた。危ないだろうと文句を言おうとした瞬間に、ふわりと白い何かを頭からかぶせられた。視界が奪われる、というほどの物ではない。顔をあげればそれをかぶせたらしい張本人とごく薄い布ごしに視線がぶつかった。
ぐるりと花模様のレースに縁どられたヴェールの中に閉じ込められた獄は、十四が人生で見てきたどんなものよりも。
「かわいい」
雑踏に紛れてしまうほどの小さな囁き声が、蜂蜜よりも甘く獄の鼓膜を揺らす。獄はそれを聞かなかったことにして、そっと繊細な布を外した。
「急に腕を引っ張るな、それから店のものを勝手に触るな」
「つい、次の新曲にぴったりだなって思って興奮しちゃったっす。ごめんなさい」
眉を顰める獄から布を受け取ると、すぐに十四は店の主にその代金を支払った。改めてみればそれはアイボリーがかった古いマリアヴェールのようだ。
「いい買い物できたっす。次の新曲は天使をテーマにしてて、」
美しい布を紙袋に収めた十四の腕を、今度は獄が引っ張った。
「わかったから、邪魔になる前に行くぞ」
「あ、獄さん、次はあっちの靴が……!」
「うるさい、後で見に行ってやるから一旦落ち着け」
白昼夢のように一瞬の出来事に追いつかれてしまわないように獄のヒールが地面を蹴った。
3.煌めき
その日、十四は獄の自宅を訪ねていた。
玄関のチャイムを鳴らして、備え付けのインターホンのカメラに向かって手を振る。レンズの下の小さなスピーカーはガザガザとしたノイズと一緒に、うめき声ともため息とも取れない声をかえした。ややあってクレセント錠がまわる音がし、ゆっくりと扉が開く。少しゆったりとした服に髪を下した獄が扉に身体を預けるようにして十四に相対した。
「どうしたんだよ急に」
「なんとなく会いたくなってきちゃったっす」
「なんとなくってなぁ……」
これ見よがしなため息とともに獄が左手を額に添えた。その日は朝からしとしとと雨が降っていたせいか、昨日までの疲れからか、そんなに調子が良くない。正直なところ、こどもの世話をするつもりもなければ、誰かに会うつもりもなかった。よって適当な理由をつけて十四を帰し、ゆっくりとした休日を確保することにする。
「今日はなにも予定はないんすよね?」
獄の思惑を知ってかしらずか、十四はそんな言葉とともにこてんと首をかしげる。一昨日空却と三人で会ったときに、何気ない会話の中で週末の予定について話をしていた。空却はどこかの法要があるという話だったが、確かにそのきには獄の予定は何も入っていなかった。
「だからって急に来るなよ。
あと、来るならせめて連絡くらいしろ。アポイントを取れ」
予定も事情もあったものではないだろうとつづければ、もっともな言葉に十四の綺麗な瞳がゆれる。
「もしかしてなんか用事がはいっちゃったんすか……?」
形のいい眉がだんだんと下がってゆく。ここに拒絶をぶつけるのはわずかに気がひけてしまう。獄の中に罪悪感のようなものが顔を出していた。雨の中せっかくここまで来ているのだし……という気持ちと、それにしたって勝手すぎるという気持ちの間で天秤が揺れ動く。
どこかで見たような困り顔にうかがうように覗き込まれると、焦燥感にも似た何かに突き動かされるのだ。
「……いや、用事はないが」
しばらくの沈黙の後、結局折れたのは獄だった。
とたんに十四はぱあっと花のかんばせをほころばせる。
「ケーキ買ったんすよ。一緒に食べましょ、ね!」
そう言って小さな白い箱をみせれば獄はわずかに目を見開く。人の好意を無下にできない獄の天秤は傾いたまま止まった。この短時間で何度目かの盛大なため息とともに扉に預けていた身を引いてドアの隙間を広げてやる。
「おじゃまします!」
すっかり元気になった十四はいそいそと玄関をくぐった。他人の家に入るときに感じる自分とは少し違う匂いが鼻をくすぐる。珈琲と煙草の苦い香りの向こうにあるすこし甘い匂いが十四は好きだった。
「お前、本当に用事があったらどうする気だったんだ……」
扉を戻した獄がつぶやく声は聞かなかったことにする。
「適当に座ってろ、コーヒーいれてやるから」
「はぁい」
足取りも軽くリビングへと進み、勝手にここと決めた席に着く。机の上にあったひろげたままの雑誌は、閉じて獄がいつも使っているラックへ新聞とともに片づけた。スペースを確保したので白い箱を机に置き、クッションを抱えるとそわそわと獄を待つ。
ほどなくして、香ばしい香りの湯気の立つカップを二つ持った獄がキッチンから現れた。
「ほら」
十四の前に置かれたのは来客用のうすい水色のカップだ。隣に置かれた獄の白いカップ中身は普通のコーヒーだったが、十四のものにはミルクがはじめから入っている。靴を付けたわけではなかったが、きっと砂糖も入っているに違いなかった。わざわざ自分のために作られたそれを十四はにこやかに見つめて、ありがとうございますと告げる。
「客人には飲み物くらいふるまうだろ普通。
それよりどんなケーキなんだ?皿を持ってくる」
待ってましたと十四は箱に手をかけた。
「かわいいんすよ、ほら」
現れたケーキは一つだった。普通のピースのケーキよりは少しだけ大きいのだが、形はホールケーキをそのまま小さくしたような丸い形をしている。ケーキの上部は真っ白な生クリームが波うってまるで繊細なドレスの裾のようで、中心には小さなチョコレートのプレートが品よくのっている。なるほど、と声をあげた獄は一度キッチンにもどると、小さめのナイフと、カップにも似合いそうな水色の装飾のついた皿とフォークとを持ってもどった。
「ほら」
促されてナイフを握った十四は、もったいないとも思いつつケーキを真ん中で等分にした。ナイフを返せば、獄は器用にナイフをケーキサーバーのようにして底面へ差し入れ、それぞれの皿へと移す。チョコレートののったほうは、十四の前に置かれた。
手早く箱やナイフを片付けた獄がソファへ腰を下ろし、ふたりで並んで座る。それがなんだかくすぐったくて十四はクッションの端を握った。
「えへへ、」
「なんだよ」
「何でもないっす。食べましょう」
「ったく、食べたら帰れよ」
いただきますと手を重ねてから、それぞれが白いケーキへフォークをたてる。ふんわりとしたスポンジはすんなりときりわけることができて、口に運べば優しくほどけた。
「へぇ、うまいな」
思わず獄は目を見開く。スポンジの間にはフルーツなどはなく、うすく薄くクリームが挟まるのみでシンプルなつくりだ。その分スポンジにこだわりがあるのか、しっとりしたそれはほかの店のものよりも少し卵の味が濃いようだった。量が多いように見えた生クリームもあまり甘さがなく食べやすい。コーヒーに合いそうな、獄も好みの味だった。
「ここのケーキ、いつも誕生日とか特別な時に食べるんすよ。
気に入ってもらえて自分もうれしいっす」
十四はにこにことそう答える。
しばらくのあいだ他愛もない話をつづけながら、ケーキとコーヒーをゆっくりと楽しんだ。
「あれ、そういえば珍しいっすね」
十四の目がカップを持ち上げる獄の指先にとまった。
いつも綺麗に手入れをされ、プロの手によって派手すぎないシンプルなネイルが施されているされている爪が、今日はなんの装飾もなく素のままであった。
「あぁ、昨日の夕方一本はがれたんだよ。他の指ももう変え時が近かったし一本だけ修復するのもどうかと思ってな。
とはいえ昨日は 店に無理矢理時間取ってもらったようなもんで、全部の指にデザインを入れる時間は到底なかったから、とりあえずオフだけ頼んだんだ」
その時のことを思い出したのか、獄はわずかに眉を顰め、カップを置いて己の爪を見る。
「問題は今日明日は予約がいっぱいだったことだな。まぁ来週どこかで時間を作るさ」
「じゃあ自分がやってみてもいいっすか」
十四はすっと手を挙げた。
「獄さん確かセルフネイルの道具も持ってたっすよね」
「……持ってはいるが」
「自分も結構ネイルするんで、次にお店に行くまでの間くらいなら!
フレンチもワンカラーでもアレンジでもできるっす!」
皿を片付ける間中隣でプレゼンをされ、結局勢いに押された獄は十四の前にネイルのセットを並べることになった。
「わ、すごい、これ夏向けの限定のカラーっすよね。こっちのブランドはどんなカラーでも肌なじみがいいって噂で気になってたんすけど、自分が買うにはちょっと勇気がいるから買えなかったやつ……!」
目を輝かせてあれこれ検分していた十四だが、しばらくしてようやく獄を振りかえった。
「道具も充実してるんで、何でもできそうっす!」
「何でもできるかもしれんが、仕事をするんだからそんなに派手なのにはしないからな」
「デザインなどんなのがいいっすかね」
「だから凝ったのでなくていいんだよ」
あれこれと案を出しながらイメージを固めてゆく。極力シンプルにしたい獄と、特別なことをやってみたい十四との間でしばらくの攻防戦ののち、最終的に肌なじみの良いシアなオフホワイトをベースにして、一本だけ淡いカラーで花のデザインを入れるということで決着がついた。
「どっと疲れた……」
獄は深くソファに身を沈める。
十四はクッションを一つ獄の膝上に乗せて両手を置くように促した。ひとやはソファに身を沈めたまま指示に従った。十四はさらにもう一つのクッションを床に置き、そこを自分の席と決める。身長の高い彼が床に座れば、ちょうど獄の手が作業をしやすい位置に来た。
「無理はしなくていいからな」
爪の油分を拭く十四に獄が声をかける。実のことを言うとやや心配なのであった。十四のネイルといえば、現在彼の手元を飾っている黒のワンカラーをはじめ、ライブの時など日常生活に支障をきたさないか心配になるようなデザインを施しているときもある。また、自分でやるのと人に施すのでは勝手も違うだろう。
「失礼しまーす」
すっかりネイリスト気分の十四は準備をすると早速ベースコートを獄の指先へのせていった。獄の心配をよそに、その手元に危なげはない。当然プロとは比べるまでもないが、長い指は器用に筆を操りはみ出すこともよれることもなく丁寧に進んでゆく。そのあとに使うカラーもきちんと獄の指定の物が机に並べられていた。
作業をするまなざしは真剣そのもので、それ以上声をかけるのもなんだか憚られる。部屋はしんとしてパラパラと雨が屋根に当たる音だけが遠くに聞こえた。獄は一旦任せてみるかと肩の力を抜いたのだった。
「これでよし」
十四がそう言って筆を置いたのはそれから一時間以上たってからだった。カラーを施した後に右手の薬指へ淡い色で青い紫陽花を描き上げ、後は乾くのを待ってトップコードで仕上げるだけというところだ。水彩画のような紫陽花は十四の目から見てもなかなかきれいにできていて、その出来栄えを見てもらおうと顔をあげて気づく。
獄は静かに寝息を立てていた。
疲れがたまっていたのだろう。うっすらと目の下に隈ができていても、いつものようにしっかりとしたメイクをしていなくても、十四は美しいこの人がどうしようもなく好きだった。一回り小さい手にそっと自分の手を重ねる。獄の瞼は開く気配がない。
十四の心の中にちょっとした悪戯心がわいた。音を立てないよう道具箱から目ぼしいものをとりだし、先ほどまで重ねていた左手から薬指をそっととった。簡単なアレンジを施した後に満足げに頷き、静かに立ち上がって、柔らかな素材のストールをもってくると眠る獄の肩へとかける。その拍子に獄の髪が一筋はらりと崩れてその顔にかかった。
十四はゆっくりと身体を寄せ、ソファの背もたれに手をついて獄を見下ろす。こんなに間近で獄の顔を見るのは初めてかもしれなかった。冬の朝のような薄い色の瞳は瞼の向こうに隠され、長いまつげが影を落とす頬はまろく、わずかに開いたつややかな唇は誘うようにわずかに開かれて甘くすら感じる吐息をこぼしている。吸い寄せられるように十四はさらに身をかがめた。雨の音すらもう遠くて聞こえないのに、自分の心臓の音だけが獄に聞こえてしまうのではないかと思うほどにうるさかった。ガラスの彫刻に触れるよりも繊細に、綺麗な指先がその髪をすくって小さな耳へとかける。
十四はゆっくりと目を閉じる。鼻先がわずかに触れた。
「……いつか、きっと」
囁きは届かずに、雨粒と一緒に地面へ落ちていった。
「上手いもんだな」
純粋な感心から獄は自分の指先と十四とを見比べる。
つやりと輝くワンカラーで統一された爪のうち、左右の薬指にだけアレンジが施されている。右手には丸い紫陽花が想像していたよりも落ち着いた印象で爪を染め、左手には微細なラメのシルバーと紫陽花と同じブルーのラインが細く入っている。アクセントとして添えらえた透明で小さなストーンがキラリと輝いていた。
「雨粒みたいできれいだ」
そのことば通り、嫌味のない程度かつ手元にアクセサリーがなくとも上品で華やかに見える仕上がりだった。
「喜んでもらえてよかったっす……!」
はにかんだ十四はアマンダを手に帰り支度をしていた。いつの間にか雨は止み、レースのカーテンの向こうからさす光がオレンジ色に染まっている。
「途中寝ちまって悪いな、今度埋め合わせするから何か考えておいてくれ」
ややバツの悪そうな獄は玄関先まで十四を送りながら頬を掻く。その言葉に十四はあっと声をあげた。
「じゃあ、今度やるライブを見に来てほしいっす!
モノトーンがテーマなんすけど、衣装に今までになくらい凝っててテンションが上がるんすよ。新曲に合わせた構成にはするつもりで、鉄板は抑えつつちょっと豪華で大人っぽい感じに仕上げようって話をしてて……」
その場でくるりと回って見せながらライブの演出について語りだすが、当然語り終わる前に玄関の扉の前へたどり着いてしまう。ふっと言葉がとぎれ、二人の間に静寂が訪れた。扉を開けながら十四は肩越しに振り返って獄の瞳を真っ直ぐにとらえる。
「自分、獄さんに『格好いい』って言ってもらえるようになるまで頑張るんで
もうちょっとだけ待っててほしいっす」
扉の隙間から差す夕日が眩しくて、獄からその表情はうかがえない。だが、光に透ける睫毛の下で、宝石のような瞳がちかちかと輝いていることだけはわかった。
獄が口を開くよりも早く「じゃあまた今度!」という言葉とともに踏み出していった青年の背はあんなに広かっただろうか。静かになった玄関で獄はしばらくの間立ち尽くすのだった。
じゅしひと♀
※ジューンブライドがテーマのオムニバス形式のシリーズ
1.祝福
『お花見をしませんか』
十四の送ったメッセージにはすぐに既読のマークがついた。
休日に少し遅い朝食を終え、テレビの中のスプリングコートのアナウンサーが「明日は雨」という予報を読み上げるのを聞いて、慌てて送ったものだった。メッセージの相手は獄で、今日が休日であることは知っていた。
『もうしてる』
程なくして見覚えのある靴のつま先と桜色の道の写真が添えられた飾り気のない言葉がかえってくる。獄はすでに花見を楽しんでいるらしい。出遅れてしまった焦りとともに誰かと一緒なのかと問えば、ひとりだと返ってきた。つづけてナゴヤでもそこそこに有名な公園の名前。十四は急いで所要時間を検索した。十五分後に家を出れば一時間以内にその場所までたどり着ける。
『自分も今から行くっす!』
そのメッセージに返信はなかったが、獄が嫌ならそもそも場所を送ってはこない。沈黙を肯定と受け取って十四は自室へと急いだ。準備の時間がどんなに短かろうと、好きな人に会いに行くのに手は抜けない。いつだって一番格好いい自分を見て欲しかった。
無事に乗ることができた予定の電車は大きな遅れもなく目的地の最寄り駅にたどり着いた。おそらく目的を同じとする多くの人たちに流されるようにして駅舎を出る。あいにく空は薄く曇っていたが、春らしく暖かかったので別段気にもならなかった。駅を出た旨をメッセージとして送り、そのまま公園内へと歩みを進める。入口からすでに見事なソメイヨシノの並木が出迎えてくれ、周囲のざわめきも喜色を含む明るい音となった。長身を生かしてきょろきょろとあたりを見回してみるも入口近くに獄の姿はない。そんな時手元に一通メッセージが届いた。
『道なりに進んで広場の奥、右側に細い道があるからそこを真っ直ぐ』
案内に従い屋台の続く広い通りを抜ける。ソースの焦げるいい匂いも、丸い形のカステラの甘い香りも、きらきらしたフルーツの飴も足を止める理由にはならない。人ごみを縫うように抜けると言葉の通り大きな広場があった。噴水を横目に家族連れや団体客の広げたとりどりのレジャーシートの列を進んでゆく。きもちのよい風が吹くたびに小さな花弁が舞う。
「右側の細い道、右側の細い道、っとあれかな……?」
周りに桜の木は見当たらないが、ひっそりとした小道が確かにあった。新緑の季節と呼ぶにはまだ木々の葉は心もとなく、行き交う人もほとんどいないため、少し寂しい印象だ。やや不安になりながらも砂利道を進む。二つほどゆるやかなカーブを曲がった先にはわずかに開けた場所があった。一本だけ桜の木があるその場所は、広場からも離れているためか人気がない。
「よぉ」
桜の木に向かい合うようにひっそりと置かれた木陰のベンチに一人、獄は足を組んで座っていた。ふわっと目元が下がるこの顔が十四は好きだった。
「獄さん!」
駆けよれば獄は隣に置いていた鞄を反対側へと避ける。座ってもよいということなのだろう。遠慮なく隣へ腰をおろし、獄を見やる。オーバーサイズの白いシャツに細身のベージュのパンツ、ゴールドのパーツの細い黒のベルト。一見すると仕事服に見えそうだが、素材と着こなしで適度にカジュアルで、いつもと違うざっくりとまとめられた髪型も相まって休日なのだと特別な空気を感じる。
「迷わなかったか」
「はいっす」
柔らかな声に笑顔を返し、そのあとでわざとふくれっ面を作って見せる。
「それよりひどいっすよ。お花見するなら最初から誘ってほしかったっす」
「ははっ、仕方ねーだろ、俺も今日思いついたんだから」
「珍しいっすね、獄さんがそいういう行き当たりばったりなことするの」
「明日が雨だっていうからな」
薄紅色の色の爪がのった指先が十四の額を小突いて笑う。同じことを考えていたのが嬉しくてふくれっ面はすぐにへにゃりと崩れてしまった。
「えへ、自分たちお揃いっすね」
「はいはい」
甘く笑みを含んだ声にアマンダの入ったカバンを胸の前で抱きしめる。獄はベンチに置いていた紙コップに入っていた飲み物をあおるとふぅとひとつ息を吐いた。わずかな酒精に十四は鼻を鳴らす。
「あ、それビールっすか」
「なんだよ急に」
「ほんとに珍しいっすね」
基本的に獄は空却や十四の前では飲酒も喫煙も控えている。よって酔っぱらった獄を見ることはあまりないので、思わず物珍し気にその姿を見てしまう。
「こっちは成人なんだから別にいいだろ、大体お前が来るとは思ってなかったしな」
「しかも二杯目っす!」
「めざといな、お前」
紙コップの重なりを指摘すれば、獄が眉尻を下げた。この顔も珍しい。よくよくその顔を見れば、メイクだけではない血色の良さが分かる。
「だからご機嫌なんすね」
今日は会ってからというもの、笑顔が絶えないわけだ。その原因が自分ではないことに少し置いて行かれたような気がする。
「そんな顔するな、ほら」
空になったらしい紙コップと鞄を持って獄が立ち上がる。
「行くぞ」
同時に柔らかな風が桜の木を揺らした。光が透ける獄の髪に秒速五センチメートルの祝福が降りかかる。
「ほら」
なぜだか叫びだしたくなるような胸の痛みを飲み込んで、差し出された手をぎゅっと握る。
「はいっす」
この光景をどこかでまた見たいと十四は強く願うのだった。
2.装い
アーケードの一区画で行われている蚤の市のようなフリーマーケットのような、それなりの規模の露店市が開催されていた。アンティークな雑貨や、様々な古着、使用感がいい味を出している家具を取り扱う店もあれば、手作りのアクセサリーを取り扱うような店もあった。ゴールデンウィークということもあり人の賑わいもかなりある。獄は後で何か掘り出し物でも探してみようと考えつつ、隣の区画にある行きつけの花屋へと足を運んだ。
店先を彩る初夏らしいバラやカーネーション、アスターなど華やかな生花たちを尻目に、店の奥へと進む。今日は自分のための花ではなく、獄の大切な人のための花を探しに来たのだった。よくあるリンドウや菊を手に取ろうとしたとき、ふと小ぶりな白い花が目についた。つややかな濃い緑の葉の間からすらりと湾曲した茎がのび、釣り鐘型の小さな白い花が並ぶ様子もかわいらしいスズランだった。
先日ニュースで見たフランスの風習を思い出し、幸福が訪れるというその花の前で立ち止まる。わずかな逡巡のあとで、たまには変わったものでもいいかと獄は店員を呼び止めたのだった。
「ひとやさーーーーーん!」
人ごみの中でも良く通る声によばれ、獄は危うく手にしていた白磁のティーセットを取り落とすところだった。苦笑いをしている店主に断りを入れて検討していたそれをそっと戻すと、獄は顔をあげた。十数メートル向こうで、良く見知った青年――十四が大きく手を振りながら人ごみをかき分けるようにこちらへと向かってきていた。通行と商売の邪魔にならないように、と獄は道の端に避けてその到着を待ってやる。
「奇遇っすね!
お休みの日に会えるとは思ってなかったっす」
駆け寄った十四はわずかに息を切らせ、その場でわずかに跳ねるようにして喜びを表現している。
「ちょっと花屋に用事でな。お前は?」
十四は手にしていた紙袋の中を見せるように少し開いた。
「自分は衣装を買いに。古着とかハンドメイドって面白いものがお手頃価格で手に入るんすよ」
ちらとのぞきこめば、確かに装飾の多いコートのような服に、キラキラとしたブローチや、レースで編まれた手袋のような小物がおさまっている。なるほどと納得していると、十四がはっとした顔で獄の後方を見た。
「獄さん、あれ見たいっす!」
「えっ?」
ぱっと掴まれた腕をひかれるがまま、獄も歩き出す。十四とは目線が異なる獄は目的地が見えず、人ごみでせっかくのブーケがつぶれてしまわぬようにするのが精いっぱいだった。つかまれた時と同じくらい唐突に力強い手がするりと離れる。金色のメッシュを追いかけてニ、三人の間を抜けるとようやくその隣にたどり着いた。危ないだろうと文句を言おうとした瞬間に、ふわりと白い何かを頭からかぶせられた。視界が奪われる、というほどの物ではない。顔をあげればそれをかぶせたらしい張本人とごく薄い布ごしに視線がぶつかった。
ぐるりと花模様のレースに縁どられたヴェールの中に閉じ込められた獄は、十四が人生で見てきたどんなものよりも。
「かわいい」
雑踏に紛れてしまうほどの小さな囁き声が、蜂蜜よりも甘く獄の鼓膜を揺らす。獄はそれを聞かなかったことにして、そっと繊細な布を外した。
「急に腕を引っ張るな、それから店のものを勝手に触るな」
「つい、次の新曲にぴったりだなって思って興奮しちゃったっす。ごめんなさい」
眉を顰める獄から布を受け取ると、すぐに十四は店の主にその代金を支払った。改めてみればそれはアイボリーがかった古いマリアヴェールのようだ。
「いい買い物できたっす。次の新曲は天使をテーマにしてて、」
美しい布を紙袋に収めた十四の腕を、今度は獄が引っ張った。
「わかったから、邪魔になる前に行くぞ」
「あ、獄さん、次はあっちの靴が……!」
「うるさい、後で見に行ってやるから一旦落ち着け」
白昼夢のように一瞬の出来事に追いつかれてしまわないように獄のヒールが地面を蹴った。
3.煌めき
その日、十四は獄の自宅を訪ねていた。
玄関のチャイムを鳴らして、備え付けのインターホンのカメラに向かって手を振る。レンズの下の小さなスピーカーはガザガザとしたノイズと一緒に、うめき声ともため息とも取れない声をかえした。ややあってクレセント錠がまわる音がし、ゆっくりと扉が開く。少しゆったりとした服に髪を下した獄が扉に身体を預けるようにして十四に相対した。
「どうしたんだよ急に」
「なんとなく会いたくなってきちゃったっす」
「なんとなくってなぁ……」
これ見よがしなため息とともに獄が左手を額に添えた。その日は朝からしとしとと雨が降っていたせいか、昨日までの疲れからか、そんなに調子が良くない。正直なところ、こどもの世話をするつもりもなければ、誰かに会うつもりもなかった。よって適当な理由をつけて十四を帰し、ゆっくりとした休日を確保することにする。
「今日はなにも予定はないんすよね?」
獄の思惑を知ってかしらずか、十四はそんな言葉とともにこてんと首をかしげる。一昨日空却と三人で会ったときに、何気ない会話の中で週末の予定について話をしていた。空却はどこかの法要があるという話だったが、確かにそのきには獄の予定は何も入っていなかった。
「だからって急に来るなよ。
あと、来るならせめて連絡くらいしろ。アポイントを取れ」
予定も事情もあったものではないだろうとつづければ、もっともな言葉に十四の綺麗な瞳がゆれる。
「もしかしてなんか用事がはいっちゃったんすか……?」
形のいい眉がだんだんと下がってゆく。ここに拒絶をぶつけるのはわずかに気がひけてしまう。獄の中に罪悪感のようなものが顔を出していた。雨の中せっかくここまで来ているのだし……という気持ちと、それにしたって勝手すぎるという気持ちの間で天秤が揺れ動く。
どこかで見たような困り顔にうかがうように覗き込まれると、焦燥感にも似た何かに突き動かされるのだ。
「……いや、用事はないが」
しばらくの沈黙の後、結局折れたのは獄だった。
とたんに十四はぱあっと花のかんばせをほころばせる。
「ケーキ買ったんすよ。一緒に食べましょ、ね!」
そう言って小さな白い箱をみせれば獄はわずかに目を見開く。人の好意を無下にできない獄の天秤は傾いたまま止まった。この短時間で何度目かの盛大なため息とともに扉に預けていた身を引いてドアの隙間を広げてやる。
「おじゃまします!」
すっかり元気になった十四はいそいそと玄関をくぐった。他人の家に入るときに感じる自分とは少し違う匂いが鼻をくすぐる。珈琲と煙草の苦い香りの向こうにあるすこし甘い匂いが十四は好きだった。
「お前、本当に用事があったらどうする気だったんだ……」
扉を戻した獄がつぶやく声は聞かなかったことにする。
「適当に座ってろ、コーヒーいれてやるから」
「はぁい」
足取りも軽くリビングへと進み、勝手にここと決めた席に着く。机の上にあったひろげたままの雑誌は、閉じて獄がいつも使っているラックへ新聞とともに片づけた。スペースを確保したので白い箱を机に置き、クッションを抱えるとそわそわと獄を待つ。
ほどなくして、香ばしい香りの湯気の立つカップを二つ持った獄がキッチンから現れた。
「ほら」
十四の前に置かれたのは来客用のうすい水色のカップだ。隣に置かれた獄の白いカップ中身は普通のコーヒーだったが、十四のものにはミルクがはじめから入っている。靴を付けたわけではなかったが、きっと砂糖も入っているに違いなかった。わざわざ自分のために作られたそれを十四はにこやかに見つめて、ありがとうございますと告げる。
「客人には飲み物くらいふるまうだろ普通。
それよりどんなケーキなんだ?皿を持ってくる」
待ってましたと十四は箱に手をかけた。
「かわいいんすよ、ほら」
現れたケーキは一つだった。普通のピースのケーキよりは少しだけ大きいのだが、形はホールケーキをそのまま小さくしたような丸い形をしている。ケーキの上部は真っ白な生クリームが波うってまるで繊細なドレスの裾のようで、中心には小さなチョコレートのプレートが品よくのっている。なるほど、と声をあげた獄は一度キッチンにもどると、小さめのナイフと、カップにも似合いそうな水色の装飾のついた皿とフォークとを持ってもどった。
「ほら」
促されてナイフを握った十四は、もったいないとも思いつつケーキを真ん中で等分にした。ナイフを返せば、獄は器用にナイフをケーキサーバーのようにして底面へ差し入れ、それぞれの皿へと移す。チョコレートののったほうは、十四の前に置かれた。
手早く箱やナイフを片付けた獄がソファへ腰を下ろし、ふたりで並んで座る。それがなんだかくすぐったくて十四はクッションの端を握った。
「えへへ、」
「なんだよ」
「何でもないっす。食べましょう」
「ったく、食べたら帰れよ」
いただきますと手を重ねてから、それぞれが白いケーキへフォークをたてる。ふんわりとしたスポンジはすんなりときりわけることができて、口に運べば優しくほどけた。
「へぇ、うまいな」
思わず獄は目を見開く。スポンジの間にはフルーツなどはなく、うすく薄くクリームが挟まるのみでシンプルなつくりだ。その分スポンジにこだわりがあるのか、しっとりしたそれはほかの店のものよりも少し卵の味が濃いようだった。量が多いように見えた生クリームもあまり甘さがなく食べやすい。コーヒーに合いそうな、獄も好みの味だった。
「ここのケーキ、いつも誕生日とか特別な時に食べるんすよ。
気に入ってもらえて自分もうれしいっす」
十四はにこにことそう答える。
しばらくのあいだ他愛もない話をつづけながら、ケーキとコーヒーをゆっくりと楽しんだ。
「あれ、そういえば珍しいっすね」
十四の目がカップを持ち上げる獄の指先にとまった。
いつも綺麗に手入れをされ、プロの手によって派手すぎないシンプルなネイルが施されているされている爪が、今日はなんの装飾もなく素のままであった。
「あぁ、昨日の夕方一本はがれたんだよ。他の指ももう変え時が近かったし一本だけ修復するのもどうかと思ってな。
とはいえ昨日は 店に無理矢理時間取ってもらったようなもんで、全部の指にデザインを入れる時間は到底なかったから、とりあえずオフだけ頼んだんだ」
その時のことを思い出したのか、獄はわずかに眉を顰め、カップを置いて己の爪を見る。
「問題は今日明日は予約がいっぱいだったことだな。まぁ来週どこかで時間を作るさ」
「じゃあ自分がやってみてもいいっすか」
十四はすっと手を挙げた。
「獄さん確かセルフネイルの道具も持ってたっすよね」
「……持ってはいるが」
「自分も結構ネイルするんで、次にお店に行くまでの間くらいなら!
フレンチもワンカラーでもアレンジでもできるっす!」
皿を片付ける間中隣でプレゼンをされ、結局勢いに押された獄は十四の前にネイルのセットを並べることになった。
「わ、すごい、これ夏向けの限定のカラーっすよね。こっちのブランドはどんなカラーでも肌なじみがいいって噂で気になってたんすけど、自分が買うにはちょっと勇気がいるから買えなかったやつ……!」
目を輝かせてあれこれ検分していた十四だが、しばらくしてようやく獄を振りかえった。
「道具も充実してるんで、何でもできそうっす!」
「何でもできるかもしれんが、仕事をするんだからそんなに派手なのにはしないからな」
「デザインなどんなのがいいっすかね」
「だから凝ったのでなくていいんだよ」
あれこれと案を出しながらイメージを固めてゆく。極力シンプルにしたい獄と、特別なことをやってみたい十四との間でしばらくの攻防戦ののち、最終的に肌なじみの良いシアなオフホワイトをベースにして、一本だけ淡いカラーで花のデザインを入れるということで決着がついた。
「どっと疲れた……」
獄は深くソファに身を沈める。
十四はクッションを一つ獄の膝上に乗せて両手を置くように促した。ひとやはソファに身を沈めたまま指示に従った。十四はさらにもう一つのクッションを床に置き、そこを自分の席と決める。身長の高い彼が床に座れば、ちょうど獄の手が作業をしやすい位置に来た。
「無理はしなくていいからな」
爪の油分を拭く十四に獄が声をかける。実のことを言うとやや心配なのであった。十四のネイルといえば、現在彼の手元を飾っている黒のワンカラーをはじめ、ライブの時など日常生活に支障をきたさないか心配になるようなデザインを施しているときもある。また、自分でやるのと人に施すのでは勝手も違うだろう。
「失礼しまーす」
すっかりネイリスト気分の十四は準備をすると早速ベースコートを獄の指先へのせていった。獄の心配をよそに、その手元に危なげはない。当然プロとは比べるまでもないが、長い指は器用に筆を操りはみ出すこともよれることもなく丁寧に進んでゆく。そのあとに使うカラーもきちんと獄の指定の物が机に並べられていた。
作業をするまなざしは真剣そのもので、それ以上声をかけるのもなんだか憚られる。部屋はしんとしてパラパラと雨が屋根に当たる音だけが遠くに聞こえた。獄は一旦任せてみるかと肩の力を抜いたのだった。
「これでよし」
十四がそう言って筆を置いたのはそれから一時間以上たってからだった。カラーを施した後に右手の薬指へ淡い色で青い紫陽花を描き上げ、後は乾くのを待ってトップコードで仕上げるだけというところだ。水彩画のような紫陽花は十四の目から見てもなかなかきれいにできていて、その出来栄えを見てもらおうと顔をあげて気づく。
獄は静かに寝息を立てていた。
疲れがたまっていたのだろう。うっすらと目の下に隈ができていても、いつものようにしっかりとしたメイクをしていなくても、十四は美しいこの人がどうしようもなく好きだった。一回り小さい手にそっと自分の手を重ねる。獄の瞼は開く気配がない。
十四の心の中にちょっとした悪戯心がわいた。音を立てないよう道具箱から目ぼしいものをとりだし、先ほどまで重ねていた左手から薬指をそっととった。簡単なアレンジを施した後に満足げに頷き、静かに立ち上がって、柔らかな素材のストールをもってくると眠る獄の肩へとかける。その拍子に獄の髪が一筋はらりと崩れてその顔にかかった。
十四はゆっくりと身体を寄せ、ソファの背もたれに手をついて獄を見下ろす。こんなに間近で獄の顔を見るのは初めてかもしれなかった。冬の朝のような薄い色の瞳は瞼の向こうに隠され、長いまつげが影を落とす頬はまろく、わずかに開いたつややかな唇は誘うようにわずかに開かれて甘くすら感じる吐息をこぼしている。吸い寄せられるように十四はさらに身をかがめた。雨の音すらもう遠くて聞こえないのに、自分の心臓の音だけが獄に聞こえてしまうのではないかと思うほどにうるさかった。ガラスの彫刻に触れるよりも繊細に、綺麗な指先がその髪をすくって小さな耳へとかける。
十四はゆっくりと目を閉じる。鼻先がわずかに触れた。
「……いつか、きっと」
囁きは届かずに、雨粒と一緒に地面へ落ちていった。
「上手いもんだな」
純粋な感心から獄は自分の指先と十四とを見比べる。
つやりと輝くワンカラーで統一された爪のうち、左右の薬指にだけアレンジが施されている。右手には丸い紫陽花が想像していたよりも落ち着いた印象で爪を染め、左手には微細なラメのシルバーと紫陽花と同じブルーのラインが細く入っている。アクセントとして添えらえた透明で小さなストーンがキラリと輝いていた。
「雨粒みたいできれいだ」
そのことば通り、嫌味のない程度かつ手元にアクセサリーがなくとも上品で華やかに見える仕上がりだった。
「喜んでもらえてよかったっす……!」
はにかんだ十四はアマンダを手に帰り支度をしていた。いつの間にか雨は止み、レースのカーテンの向こうからさす光がオレンジ色に染まっている。
「途中寝ちまって悪いな、今度埋め合わせするから何か考えておいてくれ」
ややバツの悪そうな獄は玄関先まで十四を送りながら頬を掻く。その言葉に十四はあっと声をあげた。
「じゃあ、今度やるライブを見に来てほしいっす!
モノトーンがテーマなんすけど、衣装に今までになくらい凝っててテンションが上がるんすよ。新曲に合わせた構成にはするつもりで、鉄板は抑えつつちょっと豪華で大人っぽい感じに仕上げようって話をしてて……」
その場でくるりと回って見せながらライブの演出について語りだすが、当然語り終わる前に玄関の扉の前へたどり着いてしまう。ふっと言葉がとぎれ、二人の間に静寂が訪れた。扉を開けながら十四は肩越しに振り返って獄の瞳を真っ直ぐにとらえる。
「自分、獄さんに『格好いい』って言ってもらえるようになるまで頑張るんで
もうちょっとだけ待っててほしいっす」
扉の隙間から差す夕日が眩しくて、獄からその表情はうかがえない。だが、光に透ける睫毛の下で、宝石のような瞳がちかちかと輝いていることだけはわかった。
獄が口を開くよりも早く「じゃあまた今度!」という言葉とともに踏み出していった青年の背はあんなに広かっただろうか。静かになった玄関で獄はしばらくの間立ち尽くすのだった。
北極星の真下
北極星の真下
零那由
!単体でも差し支えありませんが、「花束はあなたのため」を読了を前提としています
零と那由多にとって特別な日。その部屋では、落ち着いた調度品と那由多が零の帰りを待っていた。
「ただいま。……少し寒くないか」
零は持ってきた荷物をテーブルへ、自身のコートはコートハンガーへとかけながら部屋の空調を確認する。温度も湿度も調整するためにリモコンを操作した後、彼は持参した花束を手慣れた様子で飾り付ける。
「昔、庭にも咲いていたが、これほど花らしい花もないよな」
暖色系の十本ほどのガーベラが主体の花束を飾れば、部屋はぐっと明るい雰囲気となった。この花には花占いのイメージがあると言ったのは那由多だった。その言葉に、意地悪く植物の花弁の数はおよそ決まっているんだから奇数か偶数かで占う前に結果がわかるといえば、そんなことはわかっているロマンの問題だと頬を膨らませていたのが懐かしい。予想通りの表情がおかしかった。零にとっては今でもこの花については花弁の数がフィボナッチ数列に従うか否かの方がずっと興味深い。
続いてテーブルの上の紙袋を開ける。ワインと数品のささやかな料理が手品のようにやや狭いサイドテーブルを賑わわせた。
「今年は忙しくてな、出来合いで悪い。
あぁ、でもワインは面白いのを選んでみてな。最近気に入ってるワイナリーが造ってるもので……、オレンジワインはあまり飲んだことなかったよなぁ?」
言葉とともに、トパーズのように美しい液体がグラスを満たす。ウイスキーともまた違う、明るめの色のついた影は照明の光を通して瞬くようだった。
「乾杯」
チン、と澄んだ音を立てて二つのグラスがぶつかる。グラスを回せばふわりとした芳醇でややスパイシーな香り、一口含めば複雑ながら酸味と甘味を感じ、食事と合わせるのに丁度よい風味だった。ゆったりとそれらを楽しむ。
アルコールが回れば口も滑らかになるもので、話題は最近の息子たちの様子に始まり、過去の記念日の話まで多岐にわたった。
「……そんなこともあったよな」
喉の奥を鳴らしてくつくつと笑った零はおもむろにグラスを置いて席を立つ。コートハンガーのもとに、彼の手の平ほどの小さな紙袋を一つ隠していたのだ。
「今年はこれを那由多に」
袋からキラキラとした化粧箱を一つ取り出す。白いリボンはいつかの花束のラッピングとよく似ていた。するりとリボンを解いて箱を開けると、一本のリップが姿を現し、零は自らその蓋を開けで中身を繰り出した。こっくりとした赤色が那由多にもよく見るよう、斜めにカットされた端をくるりと回してみせる。
「お前に似合うかと思って。
……いや、わかってる。那由多はもっと地味な色が好みだろ。でも少し試してみてくれ。
もし気に入らなかったら今度は新しい色を一緒に見に行こう」
真新しいそれを零はためらう事なく己の人差し指にとった。そのまま僅かに開いた那由多の唇へと指を這わす。色を失いかけているその場所にいつかの日の花とよく似た色が乗った。
「肌の色が白いからか? 赤も似合うな」
一つ頷き、満足げな零は口紅をサイドテーブルへ置く。一見ぱっと華やかになったように見えるが、強い赤色はかえって那由多の青ざめた肌の色を際立たせた。指を軽く拭ってから、いつものように零はするりと那由多の髪に指を通す。何度も梳いた髪は指の間から逃げるようにさらさらと彼女の胸元へと落ちた。
青ざめた肌、ごく僅かに上下する胸、油っけのない髪。ベットにひとり横たわる彼女はずっと、それこそ十年以上もの間、固く瞳を閉ざしたままだった。薄い身体はたくさんの計器とチューブに繋がっており、モニターたちが口をきくことができない彼女のかわりに生命活動の様子を示す。真っ白なシーツ、真っ白な布団、真っ白のワンピース。その上にはせめてもと明るい花柄のタオルケットが一枚かけられていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
電子音が秒針よりもやや緩やかに音を刻む。零が喋るのをやめてしまうと、その音は一層際立った。部屋の中には微かに二人分の息遣いのみが数分間か、数時間か、重りあう。
「……一郎は、俺に似てると思ってたよ」
沈黙に耐えられないといったように零が再び言葉を紡ぎはじめる。大きな左手が、揃いの指輪がいまにも抜け落ちてしまいそうな華奢な手を握る。今日は珍しく彼の指にも銀の輪が光っていた。
「あいつ、俺のことを止めようとするんだ。笑えるだろ。
だがおかしなもんでなぁ、ある瞬間たけお前によく似ていたように見えたぜ。……那由多のことはほとんど覚えちゃいないだろうに。血は侮れねぇなぁ。
お前なら、あのときなんて言った? あぁ、最後にお前が俺を叱ってくれたのはいつだったろうな」
諦めたような、懐かしむような、そんな独り言は宙にとける。記憶を擦り切れるほど思い返しても時は無常にも零から那由多を奪ってゆき、零は那由多の声を思い出せなくなって久しい。なにせ記録媒体は皆戦争で焼けてしまっていた。それでも彼女が生きた証のこどもたちは今日まで生き延びて生意気にも零の前に立ちはだかろうとしている。
「……格好悪いところを見せたな。俺が感傷的になってもどうしようもない。全く、お前の前ではいつも格好良くありたいんだけどな。つい気が抜ける」
バツが悪そうに吐息のような苦笑をこぼす零は那由多の頬を、輪郭を指の背で撫でる。言浚の手に落ちた際に一時的に不安定になったバイタルはやっと回復し、どこか落ち着いた様子だ。零の唯一の弱点で逆鱗であるたった一人の女。前の研究室が荒らされた時の心臓が握りつぶされるような感覚だった。身柄の引き渡しの際に、瞳の奥が冷たい女狐のような女がにやにやと口角だけを上げて『あらぁ、貴方は王子様にも茨にすらなれないんだものぉ。可哀想』と言う。零はその横をなんでもない顔で通り過ぎたが、内心は穏やかではい。腹立たしいことに、実際その通りだったからだ。
その一件で呼び起こされたのは、きっと世間にとっては遠い昔の記憶。どうして那由多なんだとずっと抱えている感情を腹の底にしっかりとしまい込む。この部屋に横たわる彼女を見る度に、欠けているものの大きさを痛いほどに実感した。その場所は何でも埋められず、穴の空いた器は何も留めることができずに今に至る。それほどの苦しみを背負うくらいなら、いっそ彼女を死なせてやれ、すべて忘れて楽になれと星が囁く。知らずに指の関節が白くなるほど零は那由多の手を強く握っていた。それに気づいて少し冷静さが戻った。血が沸き立つも、頭は冴えわたる。今できることはやるべきことはなんだと、己に問う。手を握る力を緩めて労わるように指を絡める。昔のように握り返してはくれなくても、この体温をどうしても手放すことができなかった。ややあって零は自分の時計を確認する。
「もうこんな時間か。さみしい思いをさせてばかりですまなねぇな。そろそろ行く。
愛しているよ。今までも、これからも。だからどうか――」
零は、屈み込むと那由多にそっと口付ける。
「お前が望んだ世界になれば、きっと目覚めたくもなるだろ」
鼻先が触れるような距離でしばらく見つめてみても心拍を保証する電子音が一定の音を奏でるだけで、長い睫毛が震えることはない。そうだ。神はいない。おとぎ話のような奇跡はこの世界では起こらないことを零が一番よく知っている。一握の砂が指の間からこぼれ落ちるように、零がどれだけ心血を注いでも時が徐々に彼女を蝕んでいた。
「いってきます」
まだ返事は返ってこない。
無機質で人の気配のないこの研究室で、いっそ異常ともとれる、唯一あたたかみが残る部屋。零が積み上げた彼女への贈り物が部屋の隅のガラスケースに飾られている。コートを羽織った零はそこに今日のリップを化粧箱とともに片付けると、もう一度妻へと視線を送り、そっと部屋のドアを閉めた。
有象無象がなんと言おうと関係はない。零にとってここが世界の中心であることに間違いはなかった。
零那由
!単体でも差し支えありませんが、「花束はあなたのため」を読了を前提としています
零と那由多にとって特別な日。その部屋では、落ち着いた調度品と那由多が零の帰りを待っていた。
「ただいま。……少し寒くないか」
零は持ってきた荷物をテーブルへ、自身のコートはコートハンガーへとかけながら部屋の空調を確認する。温度も湿度も調整するためにリモコンを操作した後、彼は持参した花束を手慣れた様子で飾り付ける。
「昔、庭にも咲いていたが、これほど花らしい花もないよな」
暖色系の十本ほどのガーベラが主体の花束を飾れば、部屋はぐっと明るい雰囲気となった。この花には花占いのイメージがあると言ったのは那由多だった。その言葉に、意地悪く植物の花弁の数はおよそ決まっているんだから奇数か偶数かで占う前に結果がわかるといえば、そんなことはわかっているロマンの問題だと頬を膨らませていたのが懐かしい。予想通りの表情がおかしかった。零にとっては今でもこの花については花弁の数がフィボナッチ数列に従うか否かの方がずっと興味深い。
続いてテーブルの上の紙袋を開ける。ワインと数品のささやかな料理が手品のようにやや狭いサイドテーブルを賑わわせた。
「今年は忙しくてな、出来合いで悪い。
あぁ、でもワインは面白いのを選んでみてな。最近気に入ってるワイナリーが造ってるもので……、オレンジワインはあまり飲んだことなかったよなぁ?」
言葉とともに、トパーズのように美しい液体がグラスを満たす。ウイスキーともまた違う、明るめの色のついた影は照明の光を通して瞬くようだった。
「乾杯」
チン、と澄んだ音を立てて二つのグラスがぶつかる。グラスを回せばふわりとした芳醇でややスパイシーな香り、一口含めば複雑ながら酸味と甘味を感じ、食事と合わせるのに丁度よい風味だった。ゆったりとそれらを楽しむ。
アルコールが回れば口も滑らかになるもので、話題は最近の息子たちの様子に始まり、過去の記念日の話まで多岐にわたった。
「……そんなこともあったよな」
喉の奥を鳴らしてくつくつと笑った零はおもむろにグラスを置いて席を立つ。コートハンガーのもとに、彼の手の平ほどの小さな紙袋を一つ隠していたのだ。
「今年はこれを那由多に」
袋からキラキラとした化粧箱を一つ取り出す。白いリボンはいつかの花束のラッピングとよく似ていた。するりとリボンを解いて箱を開けると、一本のリップが姿を現し、零は自らその蓋を開けで中身を繰り出した。こっくりとした赤色が那由多にもよく見るよう、斜めにカットされた端をくるりと回してみせる。
「お前に似合うかと思って。
……いや、わかってる。那由多はもっと地味な色が好みだろ。でも少し試してみてくれ。
もし気に入らなかったら今度は新しい色を一緒に見に行こう」
真新しいそれを零はためらう事なく己の人差し指にとった。そのまま僅かに開いた那由多の唇へと指を這わす。色を失いかけているその場所にいつかの日の花とよく似た色が乗った。
「肌の色が白いからか? 赤も似合うな」
一つ頷き、満足げな零は口紅をサイドテーブルへ置く。一見ぱっと華やかになったように見えるが、強い赤色はかえって那由多の青ざめた肌の色を際立たせた。指を軽く拭ってから、いつものように零はするりと那由多の髪に指を通す。何度も梳いた髪は指の間から逃げるようにさらさらと彼女の胸元へと落ちた。
青ざめた肌、ごく僅かに上下する胸、油っけのない髪。ベットにひとり横たわる彼女はずっと、それこそ十年以上もの間、固く瞳を閉ざしたままだった。薄い身体はたくさんの計器とチューブに繋がっており、モニターたちが口をきくことができない彼女のかわりに生命活動の様子を示す。真っ白なシーツ、真っ白な布団、真っ白のワンピース。その上にはせめてもと明るい花柄のタオルケットが一枚かけられていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
電子音が秒針よりもやや緩やかに音を刻む。零が喋るのをやめてしまうと、その音は一層際立った。部屋の中には微かに二人分の息遣いのみが数分間か、数時間か、重りあう。
「……一郎は、俺に似てると思ってたよ」
沈黙に耐えられないといったように零が再び言葉を紡ぎはじめる。大きな左手が、揃いの指輪がいまにも抜け落ちてしまいそうな華奢な手を握る。今日は珍しく彼の指にも銀の輪が光っていた。
「あいつ、俺のことを止めようとするんだ。笑えるだろ。
だがおかしなもんでなぁ、ある瞬間たけお前によく似ていたように見えたぜ。……那由多のことはほとんど覚えちゃいないだろうに。血は侮れねぇなぁ。
お前なら、あのときなんて言った? あぁ、最後にお前が俺を叱ってくれたのはいつだったろうな」
諦めたような、懐かしむような、そんな独り言は宙にとける。記憶を擦り切れるほど思い返しても時は無常にも零から那由多を奪ってゆき、零は那由多の声を思い出せなくなって久しい。なにせ記録媒体は皆戦争で焼けてしまっていた。それでも彼女が生きた証のこどもたちは今日まで生き延びて生意気にも零の前に立ちはだかろうとしている。
「……格好悪いところを見せたな。俺が感傷的になってもどうしようもない。全く、お前の前ではいつも格好良くありたいんだけどな。つい気が抜ける」
バツが悪そうに吐息のような苦笑をこぼす零は那由多の頬を、輪郭を指の背で撫でる。言浚の手に落ちた際に一時的に不安定になったバイタルはやっと回復し、どこか落ち着いた様子だ。零の唯一の弱点で逆鱗であるたった一人の女。前の研究室が荒らされた時の心臓が握りつぶされるような感覚だった。身柄の引き渡しの際に、瞳の奥が冷たい女狐のような女がにやにやと口角だけを上げて『あらぁ、貴方は王子様にも茨にすらなれないんだものぉ。可哀想』と言う。零はその横をなんでもない顔で通り過ぎたが、内心は穏やかではい。腹立たしいことに、実際その通りだったからだ。
その一件で呼び起こされたのは、きっと世間にとっては遠い昔の記憶。どうして那由多なんだとずっと抱えている感情を腹の底にしっかりとしまい込む。この部屋に横たわる彼女を見る度に、欠けているものの大きさを痛いほどに実感した。その場所は何でも埋められず、穴の空いた器は何も留めることができずに今に至る。それほどの苦しみを背負うくらいなら、いっそ彼女を死なせてやれ、すべて忘れて楽になれと星が囁く。知らずに指の関節が白くなるほど零は那由多の手を強く握っていた。それに気づいて少し冷静さが戻った。血が沸き立つも、頭は冴えわたる。今できることはやるべきことはなんだと、己に問う。手を握る力を緩めて労わるように指を絡める。昔のように握り返してはくれなくても、この体温をどうしても手放すことができなかった。ややあって零は自分の時計を確認する。
「もうこんな時間か。さみしい思いをさせてばかりですまなねぇな。そろそろ行く。
愛しているよ。今までも、これからも。だからどうか――」
零は、屈み込むと那由多にそっと口付ける。
「お前が望んだ世界になれば、きっと目覚めたくもなるだろ」
鼻先が触れるような距離でしばらく見つめてみても心拍を保証する電子音が一定の音を奏でるだけで、長い睫毛が震えることはない。そうだ。神はいない。おとぎ話のような奇跡はこの世界では起こらないことを零が一番よく知っている。一握の砂が指の間からこぼれ落ちるように、零がどれだけ心血を注いでも時が徐々に彼女を蝕んでいた。
「いってきます」
まだ返事は返ってこない。
無機質で人の気配のないこの研究室で、いっそ異常ともとれる、唯一あたたかみが残る部屋。零が積み上げた彼女への贈り物が部屋の隅のガラスケースに飾られている。コートを羽織った零はそこに今日のリップを化粧箱とともに片付けると、もう一度妻へと視線を送り、そっと部屋のドアを閉めた。
有象無象がなんと言おうと関係はない。零にとってここが世界の中心であることに間違いはなかった。
花束はあなたのため
花束はあなたのため
零那由
!過去捏造
その日は零と那由多にとって大切な日だった。理由は明白で、ちょうど一年前に彼らは入籍したのだ。所謂結婚記念日というやつで、張り切った妻が料理を手作りしたいというので零はそれを快く受け入れた。調べておいたレストランにはまたいつでも行けばいい。定時も待ち遠しく仕事を終えた零は少し寄り道をしてから自宅へと戻ったのだった。
カチ、カチ、カチ。
家の中でアナログ時計の秒針が時を刻む。
その音を消さぬように、零は人生でこんなに静かに動いたことはないだろうと思えるほど、そっとリビングのドアを開いた。秒針をメトロノーム代わりに、微かに柔らかい鼻歌が聞こえる。曲名は忘れたが、聞き覚えのあるクラシックだった。ベートーヴェンだったかもしれない。最近よくピアノのそばに置かれている楽譜集を思い出そうとしてみても、記憶にあるのは楽譜を見つめる那由多の横顔ばかりで曲名はやはり浮かばなかった。軽やかな鼻歌は続き、彼女は何も気づかずのん気に鍋の中身を覗いている。滑るように大きく三歩。キッチンから死角の壁に凭れる。左手に抱えた花束のラッピングが壁に当たり、かさかさと音をたてた。はた、と止まる歌。
「零さん……?」
訝しげに那由多は小さく囁いた。その声には応えずに、零は意思を持って花束を軽く振る。先程よりも賑やかにがさがさと音が鳴った。数秒の沈黙の後、鍋の蓋を置く音がして、ゆっくりと軽い足音が動く。
「零さん?」
柱の陰からそろりと小さな頭が半分ほど覗いた。
「ばあ」
ちょうどその顔のあたりに花を差し出せば、きゃ、と声が上がった。縮こまった肩に零の右手が触れ、指通りのよい髪を梳くように耳の後ろをくすぐる。よく知った温度にゆっくりと肩から力が抜けてゆく。そろりと目を開いた那由多は、僅かに零の方へ首を傾げて猫のように目を細めた。
「アネモネですね、かわいい。
……私に?」
「那由多は好きだろ、花」
園芸種の花の名前は零にはよくわからないが、この花はいろんな色があるのだと花屋の前で笑う姿をよく覚えていた。家のあちこちにも花が生けられ、庭には季節の花が咲いている。
「ふふ、ありがとうございます。
ご存知でしょうが、お花は大好きですのでうれしい」
受け取った那由多は胸に花束を抱く。鮮やかな色の花は、見た目に反して控えめな柑橘のような香りを放っている。
「爽やかないい香り」
「那由多のことなら何でも知ってる。
しかしまぁ相変わらず妖精みたいだな」
「もう、」
花束から顔を上げ、困ったように那由多の眉が下がるが、滑らかな頬はじわりと薔薇色に染まった。零はその輪郭を指の背で撫でる。
「俺の言葉を信じてねぇな、女神に例え直してもいいぞ」
「またそうやって冗談ばっかり。零さんこそ神様は信じてないんじゃありませんでした?」
「お前を信じているから、妖精でも女神でもいいんだよ。
とにかく綺麗だ。筆舌に尽くしがたいほどな」
花を手にたおやかに微笑む姿は何度見てもそう思わせるのだから仕方がない。この一瞬のためなら妻も通う花屋の中年女性に「また奥さんへ贈り物?」などとからかわれることも、曖昧に愛想笑いを返さなければならないことも苦ではない。
頬を撫でる手を止め、最後にもう一度髪に指を通してから、毛先を後ろへ流すようにさらりと払った。離した手のかわりに長い睫毛に縁取られた優しい瞳と目が合うよう大きな体躯を屈め、低く囁く。
「なぁ、花だけか?」
一瞬驚いた那由多が零の瞳を覗き返すと、
とろける翠の奥に期待が見える。何かを伝えるのをこらえるように口を閉じていたが、その口角は上がったままだ。ややあって那由多は言葉の意味に気づくと、鈴を振るように声を上げて僅かに身体を揺すった。一緒にアネモネが楽しそうに揺れる。
「もちろん零さんも大好きですよ」
「も?」
零は欲深く聞き返す。
「……仕方のない人」
那由多は目の前の大きな子どものような男の首に腕をまわす。零の大きな手は軽々と華奢な身体を持ち上げると、その胸に引き寄せて閉じ込めた。
「アネモネの花言葉を、もし知ってくれていたら嬉しいです」
頬が触れるほどの距離、零の耳元で那由多が囁く。話題に出した花束を那由多はゆるく握ったのだろう。首の後ろあたりに薄い花弁が触れた。
「教えてくれないか」
アネモネの香りを覚えながらそう返し、零はこそばゆさを甘受する。
「白色は『真実』、ピンクは『希望』」
くすりと笑みを含んだ声は、ほとんど吐息に近い。
「赤色は、『君を愛す』」
腕を解き、身体を起こした那由多ははにかんだ。
「ねぇ、零さん。
月並みな言葉かもしれませんが、いつもあなたの幸せを祈っています。毎日私と一緒にいてくれて、大切にしてくれてありがとうございます」
零にはずっと己がどこか欠けているような、何者か分からないような、そんな漠然とした焦燥感と飢餓感があった。社会は弱者の味方ではない。足りないものを埋めるために、いろんなことを、人を、ものを、利用して吸収した。彼は賢く、才にも運にも恵まれた。だがたくさんのものを得ても、空白は埋まることはなかった。
「……私、あなたを愛しています」
だがどうだろうか。吸い込まれるような瞳に映る男は、自身も見たことがないほど穏やかな、そして少し泣きそうな顔をしていた。零は那由多に触れるたびに、形はわからずとも、一番深い部分がぴたりと埋まるのがわかる。空っぽだったその場所に、時を重ねるごとに注がれる視線や言葉が降り積もる。
「ずっとここで笑っていてくれ。俺もお前だけを愛している。
……ははっ、これじゃまるで誓いの言葉だな」
喉元までせり上がった震えを抑えるために零は冗談ぽく笑ってみせる。
「じゃあ、閉じ込めておかなくちゃいけませんね」
那由多がゆっくりと瞼を閉じた。それはまるで昨年の再演だ。純白のベールもヴァージンロードも必要ない。今の二人には関係がなかった。
ふわりと触れるだけの口づけ。
唇が離れると同時に二人の視線がごく至近距離で絡まった。おかしくて、くすぐったくて、どちらともなく笑い出す。零はじっとしていられず、その場で那由多を抱きしめながら踊るようにくるりとまわった。いつもより高い視界で振り回された那由多が明るい声を上げる。気を良くした零は、もう二、三度回るが、強かに壁に肘を打ち付けちょっと呻いた。
「大丈夫ですか?」
「……全然」
少し強がった零が足を止めた拍子に二人の鼻先が触れる。それもまたおかしくてそろって吹き出した。
ひとしきり笑った後でやっと零は那由多を床へ降ろした。なんでもないほんの数歩の距離を手を繋いで歩く。
「それじゃあご飯にしましょう。お花も生けなくちゃ」
「いや、その花は毒があるんだろ。俺がやる」
「大丈夫ですから」
「いや駄目だ。お前は凝りだすと止まらないからな」
「零さん鏡を見たほうがいいですよ」
洗面所で手を洗え、というのとかけているらしい。那由多は半眼でリビングのドアを花束で示した。
「男がひとり映るだけだからやめておく。
でも花は本当に俺がやるから置いておいてくれ。その可愛い手や顔が荒れたらどうする」
「もう、一人でできます! あと、さっきからずっとですけれど、あんまりかわいいって言わないでください……!」
それはもう可愛らしく那由多は憤っていた。怒りの表現かアネモネを掲げており、零は何かの動物の威嚇を思い出したが黙っておいた。彼とてわざわざ結婚記念日に妻の機嫌を損ねるような馬鹿な真似はしたくないので花から話を逸らす。
「なんでだ、可愛いのは事実なのに」
「また! 本当にもう大丈夫です」
つんとそっぽをむく横顔も彫刻にしておきたいほどだった。
「嫌なら言わないように気をつけるが……」
他ならぬ那由多の頼みであれば、一切言わないという選択肢は取らないが極力要望には応えたいと思う。思ったよりも零の声が暗かったのか、那由多は渋々といった形で口を開いた。
「嫌とかではないんです。というよりも嬉しいんです。ただほどほどにしていただきたくて。
……だって、零さんに褒められると私、うれしくなっちゃって、その。ドキドキしちゃいますから、大変で」
途中から声は勢いをなくし、最後の方はもごもごとすっかり小さくなってしまった。
「へぇ」
零の声は腹の底に響くような音だった。その温度に覚えのあった那由多は慌てて零から離れようとしたが、一足早く零に繋いだ手を引かれた。するりと指が絡まり、ずっと大きな手に握り込まれるともう離すことはできない。
「ダメ、だめですよ!」
「何が駄目なんだ」
「とにかくだめです……!」
那由多は花束を抱えたまま視線を泳がせている。
「お前は」
零は一つ溜息を吐き、そっと花束を取り上げるとそれをソファに投げた。
「あっ」
「花束は逃げやしないからな」
お前と違って。という言葉は言わなくとも伝わった。
「待って。本当に一つ忘れているのを思い出しました」
眉を上げる零に那由多はきちんと向き直った。
「おかえりなさい」
あまりにもいつも通りのそれは、零の毒気を抜くには十分で。
「あぁ、ただいま」
ただただ平凡で幸せな一日がそこにはあった。
零那由
!過去捏造
その日は零と那由多にとって大切な日だった。理由は明白で、ちょうど一年前に彼らは入籍したのだ。所謂結婚記念日というやつで、張り切った妻が料理を手作りしたいというので零はそれを快く受け入れた。調べておいたレストランにはまたいつでも行けばいい。定時も待ち遠しく仕事を終えた零は少し寄り道をしてから自宅へと戻ったのだった。
カチ、カチ、カチ。
家の中でアナログ時計の秒針が時を刻む。
その音を消さぬように、零は人生でこんなに静かに動いたことはないだろうと思えるほど、そっとリビングのドアを開いた。秒針をメトロノーム代わりに、微かに柔らかい鼻歌が聞こえる。曲名は忘れたが、聞き覚えのあるクラシックだった。ベートーヴェンだったかもしれない。最近よくピアノのそばに置かれている楽譜集を思い出そうとしてみても、記憶にあるのは楽譜を見つめる那由多の横顔ばかりで曲名はやはり浮かばなかった。軽やかな鼻歌は続き、彼女は何も気づかずのん気に鍋の中身を覗いている。滑るように大きく三歩。キッチンから死角の壁に凭れる。左手に抱えた花束のラッピングが壁に当たり、かさかさと音をたてた。はた、と止まる歌。
「零さん……?」
訝しげに那由多は小さく囁いた。その声には応えずに、零は意思を持って花束を軽く振る。先程よりも賑やかにがさがさと音が鳴った。数秒の沈黙の後、鍋の蓋を置く音がして、ゆっくりと軽い足音が動く。
「零さん?」
柱の陰からそろりと小さな頭が半分ほど覗いた。
「ばあ」
ちょうどその顔のあたりに花を差し出せば、きゃ、と声が上がった。縮こまった肩に零の右手が触れ、指通りのよい髪を梳くように耳の後ろをくすぐる。よく知った温度にゆっくりと肩から力が抜けてゆく。そろりと目を開いた那由多は、僅かに零の方へ首を傾げて猫のように目を細めた。
「アネモネですね、かわいい。
……私に?」
「那由多は好きだろ、花」
園芸種の花の名前は零にはよくわからないが、この花はいろんな色があるのだと花屋の前で笑う姿をよく覚えていた。家のあちこちにも花が生けられ、庭には季節の花が咲いている。
「ふふ、ありがとうございます。
ご存知でしょうが、お花は大好きですのでうれしい」
受け取った那由多は胸に花束を抱く。鮮やかな色の花は、見た目に反して控えめな柑橘のような香りを放っている。
「爽やかないい香り」
「那由多のことなら何でも知ってる。
しかしまぁ相変わらず妖精みたいだな」
「もう、」
花束から顔を上げ、困ったように那由多の眉が下がるが、滑らかな頬はじわりと薔薇色に染まった。零はその輪郭を指の背で撫でる。
「俺の言葉を信じてねぇな、女神に例え直してもいいぞ」
「またそうやって冗談ばっかり。零さんこそ神様は信じてないんじゃありませんでした?」
「お前を信じているから、妖精でも女神でもいいんだよ。
とにかく綺麗だ。筆舌に尽くしがたいほどな」
花を手にたおやかに微笑む姿は何度見てもそう思わせるのだから仕方がない。この一瞬のためなら妻も通う花屋の中年女性に「また奥さんへ贈り物?」などとからかわれることも、曖昧に愛想笑いを返さなければならないことも苦ではない。
頬を撫でる手を止め、最後にもう一度髪に指を通してから、毛先を後ろへ流すようにさらりと払った。離した手のかわりに長い睫毛に縁取られた優しい瞳と目が合うよう大きな体躯を屈め、低く囁く。
「なぁ、花だけか?」
一瞬驚いた那由多が零の瞳を覗き返すと、
とろける翠の奥に期待が見える。何かを伝えるのをこらえるように口を閉じていたが、その口角は上がったままだ。ややあって那由多は言葉の意味に気づくと、鈴を振るように声を上げて僅かに身体を揺すった。一緒にアネモネが楽しそうに揺れる。
「もちろん零さんも大好きですよ」
「も?」
零は欲深く聞き返す。
「……仕方のない人」
那由多は目の前の大きな子どものような男の首に腕をまわす。零の大きな手は軽々と華奢な身体を持ち上げると、その胸に引き寄せて閉じ込めた。
「アネモネの花言葉を、もし知ってくれていたら嬉しいです」
頬が触れるほどの距離、零の耳元で那由多が囁く。話題に出した花束を那由多はゆるく握ったのだろう。首の後ろあたりに薄い花弁が触れた。
「教えてくれないか」
アネモネの香りを覚えながらそう返し、零はこそばゆさを甘受する。
「白色は『真実』、ピンクは『希望』」
くすりと笑みを含んだ声は、ほとんど吐息に近い。
「赤色は、『君を愛す』」
腕を解き、身体を起こした那由多ははにかんだ。
「ねぇ、零さん。
月並みな言葉かもしれませんが、いつもあなたの幸せを祈っています。毎日私と一緒にいてくれて、大切にしてくれてありがとうございます」
零にはずっと己がどこか欠けているような、何者か分からないような、そんな漠然とした焦燥感と飢餓感があった。社会は弱者の味方ではない。足りないものを埋めるために、いろんなことを、人を、ものを、利用して吸収した。彼は賢く、才にも運にも恵まれた。だがたくさんのものを得ても、空白は埋まることはなかった。
「……私、あなたを愛しています」
だがどうだろうか。吸い込まれるような瞳に映る男は、自身も見たことがないほど穏やかな、そして少し泣きそうな顔をしていた。零は那由多に触れるたびに、形はわからずとも、一番深い部分がぴたりと埋まるのがわかる。空っぽだったその場所に、時を重ねるごとに注がれる視線や言葉が降り積もる。
「ずっとここで笑っていてくれ。俺もお前だけを愛している。
……ははっ、これじゃまるで誓いの言葉だな」
喉元までせり上がった震えを抑えるために零は冗談ぽく笑ってみせる。
「じゃあ、閉じ込めておかなくちゃいけませんね」
那由多がゆっくりと瞼を閉じた。それはまるで昨年の再演だ。純白のベールもヴァージンロードも必要ない。今の二人には関係がなかった。
ふわりと触れるだけの口づけ。
唇が離れると同時に二人の視線がごく至近距離で絡まった。おかしくて、くすぐったくて、どちらともなく笑い出す。零はじっとしていられず、その場で那由多を抱きしめながら踊るようにくるりとまわった。いつもより高い視界で振り回された那由多が明るい声を上げる。気を良くした零は、もう二、三度回るが、強かに壁に肘を打ち付けちょっと呻いた。
「大丈夫ですか?」
「……全然」
少し強がった零が足を止めた拍子に二人の鼻先が触れる。それもまたおかしくてそろって吹き出した。
ひとしきり笑った後でやっと零は那由多を床へ降ろした。なんでもないほんの数歩の距離を手を繋いで歩く。
「それじゃあご飯にしましょう。お花も生けなくちゃ」
「いや、その花は毒があるんだろ。俺がやる」
「大丈夫ですから」
「いや駄目だ。お前は凝りだすと止まらないからな」
「零さん鏡を見たほうがいいですよ」
洗面所で手を洗え、というのとかけているらしい。那由多は半眼でリビングのドアを花束で示した。
「男がひとり映るだけだからやめておく。
でも花は本当に俺がやるから置いておいてくれ。その可愛い手や顔が荒れたらどうする」
「もう、一人でできます! あと、さっきからずっとですけれど、あんまりかわいいって言わないでください……!」
それはもう可愛らしく那由多は憤っていた。怒りの表現かアネモネを掲げており、零は何かの動物の威嚇を思い出したが黙っておいた。彼とてわざわざ結婚記念日に妻の機嫌を損ねるような馬鹿な真似はしたくないので花から話を逸らす。
「なんでだ、可愛いのは事実なのに」
「また! 本当にもう大丈夫です」
つんとそっぽをむく横顔も彫刻にしておきたいほどだった。
「嫌なら言わないように気をつけるが……」
他ならぬ那由多の頼みであれば、一切言わないという選択肢は取らないが極力要望には応えたいと思う。思ったよりも零の声が暗かったのか、那由多は渋々といった形で口を開いた。
「嫌とかではないんです。というよりも嬉しいんです。ただほどほどにしていただきたくて。
……だって、零さんに褒められると私、うれしくなっちゃって、その。ドキドキしちゃいますから、大変で」
途中から声は勢いをなくし、最後の方はもごもごとすっかり小さくなってしまった。
「へぇ」
零の声は腹の底に響くような音だった。その温度に覚えのあった那由多は慌てて零から離れようとしたが、一足早く零に繋いだ手を引かれた。するりと指が絡まり、ずっと大きな手に握り込まれるともう離すことはできない。
「ダメ、だめですよ!」
「何が駄目なんだ」
「とにかくだめです……!」
那由多は花束を抱えたまま視線を泳がせている。
「お前は」
零は一つ溜息を吐き、そっと花束を取り上げるとそれをソファに投げた。
「あっ」
「花束は逃げやしないからな」
お前と違って。という言葉は言わなくとも伝わった。
「待って。本当に一つ忘れているのを思い出しました」
眉を上げる零に那由多はきちんと向き直った。
「おかえりなさい」
あまりにもいつも通りのそれは、零の毒気を抜くには十分で。
「あぁ、ただいま」
ただただ平凡で幸せな一日がそこにはあった。
友引につき
友引につき
空獄
!特殊設定:人外パロ
それは去年のひどく蒸し暑い昼下がりのことだった。お盆の初日、獄は仕事の都合で兄の墓参りへ行けない分、せめてもと空厳寺の門をくぐっていた。
「あぁ、聞いていますよ。どうぞこちらへ」
手水鉢に花を浮かべていた作務衣の男がにこやかに会釈をする。それに黙礼を返し、獄はお供えの品々と上着を抱え直した。
住職の灼空は檀家の元を飛び回っているが、獄のために留守役に本堂へ通すよう言付けていてくれたらしい。すんなりと奥へ導かれて室内へ上がる。ジワジワと煩かった蝉時雨か遠くなり、灼熱の陽射しから遠ざかると、思わずほっと息をついてしまう。今年の夏は特に暑かった。磨きかげられた廊下をぬけるぬるい風は残念なことに風鈴を鳴らすほどの力もない。きしきしと板を鳴らしてすすんでいると、先をゆく男が程々のところで足を止める、右手で廊下の先を示した。
「そこの角を曲がったところですので。あとはごゆっくり」
灼空がこの男に何をどう告げたのかはわからないが、ありがたいことに一人きりにしてくれるらしい。
「どうも」
気遣いに今度はきちんと会釈を返し、獄はさらに歩みを進めた。
本堂へ足を一歩踏み入れると、ぐっと白檀の香りが濃くなった。湿度も相まって重たい空気を肺に吸いつつ、獄はそれなりに手際よく持参したお供えものを置いてゆく。暑さに当てられて少々元気のなくなった仏花、白いロウソクに箱入りの線香、そして兄が好きだったお菓子。その包装紙をなぞると、懐かしい姿が思い出された。
「もし帰ってきてんのなら顔くらい見せろよな」
静かな部屋でそう呟いてみても、返る言葉はない。深い悲しみと後悔の上に、兄を死に追いやった人物への黒い感情が何年経ってもくすぶっている。部屋でひとり物言わぬ姿になった兄の虚ろな瞳が今もまぶたにこびりついている。そうだ、諦めきれるはずがない。この日が来ると酸素を吹き込まれたかのように憎悪が燃える。荘厳な仏像の前に立つには不適切なのかもしれないが、その一片を吐き出すように長く息を吐いた。
「クソ、待ってろよ」
吐き捨ててみたところで、賛同するものも否定するものももういなかった。御仏の姿を座布団へ腰を下ろす。神も仏もない現実を生きている獄だが、なんとはなしに兄は天国にいるのだと信じている。いつまでもそうしているわけにもいかず、ロウソクと線香へ火を灯すべく獄はシャツの胸ポケットを探った。鈍く光るお気に入りのジッポは蓋を開けようと指をかけるとつるりとその指先からこぼれた。
「おっ、」
火が付いていないのは幸いだったが、それは古めかしい金色のお鈴の上へ真っ直ぐに落下していく。瞬間だった。
りいぃん!
そう聞こえた瞬間に恐ろしい衝撃が脳天を突き抜けた。誰かに殴られたかのごとく激しく視界がブレて明滅する。
「……っ!」
何かを思うまもなく獄の意識は闇へと沈んだのだった。
「……い、ぉ……!」
「だ……い、や!!」
遠くでなにかを言い争う声が聞こえていた。
(煩いな……)
反射的にそう思った獄の額に誰かが触れた。大きくはないが随分と優しく、どこか懐かしい感覚すら呼び起こす手だった。何かを思い出す前に手は一度離れ、今度は指先で輪郭を辿るように頬を撫でる。ふ、と何かが軽くなった。その感覚に引きずられるようにして獄は目を覚ます。
「……うるせぇなこのクソ坊主!」
「こっちのセリフだクソガキ!」
途端、頭上から降り掛かったのは罵声だった。
茜色に染まる和室で鬼の形相の灼空と、見知らぬ赤髪の少年が言い争っていた。
「人間は繊細なんだ、なんてことしてくれとるか!
お前なんぞ炉に放り込んでやる!」
「やれるもんならやってみろ、俺を失って困るのはそっちだろーが!」
年の頃は高校生くらいだろうか。鮮やかな短髪と口を開けたときに覗く犬歯が特徴的だ。すこぶる口が悪い上に、あの灼空をここまで怒らせるのもなかなかだ。
「何も困らんわ。人を殴るような妖かしをここへおいて置けるか!」
「言ってろ! こっちは神様だぞ、ちったぁ崇めやがれ!」
額を突き合わせて睨み合う様子を下から眺める。灼空はぐっと低い声で脅すように少年に指を突きつけた。
「成りかけがでかい口をきくな」
「なりかけだぁ……?」
理解できない単語が飛び交いはじめたあたりで状況を理解することを諦めた獄はそっと手を挙げた。極力二人を刺激しないようにするためだった。だが残念なことに努力は報われず、少年が恐ろしい気迫で拳を畳へ振り下ろす。衝撃に一瞬身体が浮くほどだった。
「俺は神だ」
絞り出すように口にした少年が今一度拳を握るより速く、灼空の手刀が振り下ろされる。
「喝っ……!」
気迫の籠もった声とともに手刀は少年の頭に決まり、そのままの勢いで真下にいた獄へ突っ込んだ。
ゴチン。
獄が再び意識を飛ばす直前、視線がぶつかる。少年の瞳は人のものとは思えない炎の色を宿して煌々と輝いていた。
次に獄が目を覚ましたのはもう日も沈む頃で、トラブルへ巻き込んだお詫びにと食事をご馳走になりながら自分が意識を失うことになったあらましを聞いていた。
「……俺は本堂でライターが落ちたのに焦ったコイツに殴られたんですね」
それには確かにこちらの非がないわけでもない。なんども頭を下げる灼空を押し留めつつ、獄は部屋の隅に仁王立ちになっている少年に視線を送る。ここまではきちんと理解できている。ただ、問題はその後だ。
「そして、コイツは幽霊かなにかだと?」
「コイツじゃねぇ。空却だ」
溌剌とした少年、改め空却はそれはものすごく不遜な態度で獄を見下ろしていた。
「お前がここを焼こうとしていたから止めてやったんだよ。神である俺がな」
ふん、と鼻を鳴らす空却の言葉に獄は頭を抱えた。
「いや分からん。神ってなんだ、最近の若者の流行か?」
「だーかーら、神は神だよ!
人が魂を込めて作った物は、大事に使われると神になる。お前そんなことも知らねぇのかよ!」
「そんな非現実的なことがあるわけないだろ……」
この調子である。
見かねた灼空が信じられないかもしれないが、と前置きして空却について語りはじめた。
「江戸の時代にうちじゃない寺の建立にあたって作られたのがこのお鈴だ。外側の細かい彫り物、そして重さを見るに本物の金細工で当時はかなり値の張るものだったはずだ。時代を追うごとに持ち主を変え、19年ほど前に父がこの寺へ持って来た」
灼空の手には確かに昼間見たような気もする小ぶりのお鈴がある。空却は勝手に触るなと言っているものの、別に無理に取り返そうなどとはしてこない。
「こいつは出来がいい貴重な品なのに、この通りの暴れ馬でな。自我をなんとなく得るようになってからはあちらこちらと遊びわまり、まえの寺ではお手上げだとここへ流れてきたわけだ。ここなら……」
灼空は一度言葉を切る。あとを引き取ったのは意外にも空却だった。
「ここなら俺みたいな本来見えないものが『見える』坊主がいるからな」
「みえる……」
「空厳寺にはそういうものが生まれつくことが多い」
灼空は嘘をついているようには見えなかった。つまり、獄の理解の範疇を超えた話ではあるが、この世には幽霊やら何やらが存在しており、空厳寺は昔からそれに関わっていたということらしい。
「初めは他の悪さをするものと一緒に祓ってしまおうと試みたが活きが良くてな」
「そんな有象無象と一緒にするんじゃねぇよ」
「まあこの通りだもんで、お釈迦様の前じゃあ悪さもしないだろうと本堂へ置いていたら、このところうるさく騒ぎ出してなぁ」
こめかみを抑えた灼空をみてニィと笑った空却は、きっともう何度も繰り返してきたのであろう言葉を紡ぐ。
「九十九の年月を経て人に大切にされてきたものは、力を得て九十九の神となる。拙僧は何処へでも好きなところへ行き、好きなように過ごす。もう、誰かの思うようにはならねぇよ」
強い力を持った言葉が部屋に響く。だから、若い姿なんだな。獄はなぜかそこをストンと理解した。
「――今までは他の人に干渉したりなんてことはできなかったのにまったく……」
灼空は一つ大きく息を吐くと、改めて獄へと向き直った。
「コイツはあと数日で付喪神と成る。そうなれば今のように半端なものではなく、一人前にやっていけるだろう。だがそれまでは人と揉め事を起こさないようにしたい。
無茶な頼みとは承知の上で、獄くん。ひとまず数日、このバカを預かってはくれないか」
「おい!」
不満げな空却には構わず、灼空は続けた。
「この時期はこちらも忙しく、ここへ押さえつけておくのは難しい。もし勝手に外をうろつかれて問題でも起こされた日にはたまったものではない。ただでさえ不安定なときに万が一鬼のように堕ちても困る。その点獄くんなら安心ができる。どうか頼めないだろうか」
夕方の言い争いとはかけ離れた、静かな声だった。そこには20年近くお鈴を大切に守り、使い、神をつくる一端となった人の姿があった。
「人とはなにか、教えてやってはくれないか」
深く頭を下げた灼空に、獄は思わずゆっくりと頷く。その向こう、空却は複雑な表情でぴしりと伸びた背中を見ていた。
翌朝。ひょんなことから少年一人を預かることとなってしまった獄は、早速困りごとに直面していた。
「おい、起きろ」
「んだよ、うるぇな。せっかくあのクソ寺を出られたんだ、俺は好きにやる」
布団を被る空却を起こすのは三度目だった。神になりかけのお鈴が眠るのか甚だ疑問だったが、基本は人と同じように過ごすらしい。
「片付けが進まねえからさっさと起きろ」
休日に家事を済ませてしまいたい獄は、ついに布団の端を持って引き剥がしにかかる。
「うぉわ」
ごろり、と転がった身体は俊敏な山猫のような動きでベットから着地した。枕元に置いていたらしいお鈴が空却のあとを追うようにころんと落っこちたのを慌てて受け止める。
「おい、クソヤロー!
俺の『本体』に傷が入ったらどうしてくれんだよ!」
「あ? さっさと行動しないのが悪い」
シーツを剥がした獄はスタスタと部屋を出ていき、その後ろをついて空却が歩く。
「こっちは金でできてんだ。落ちて彫り物が潰れたりしたら神じゃなくなるかもしれないだろ」
ぶつぶつと不満を漏らす空却を、米と卵、納豆の前にある椅子へ押し込める。獄が洗濯機をかけて出てきても、空却はなぜか椅子の上でただじっとしていた。
「食わないのか?」
やはり神とやはらは飯を食わないのかと訝しげに眉を寄せた獄に、空却は驚いた顔を返す。
「食っていいのか?」
あれだけの不機嫌を忘れたかのように、空却は箸をとった。卵焼きをおそるおそるといった形で摘むと大きな口に放り込む。途端、ふにゃりと様相を崩した。
「……!」
あまりにあどけない様子に毒気を抜かれた獄は、コーヒーを片手に向かいへ腰をおろした。
「飯は食ってなかったのか?」
「なんとなく見てただけだな。身体を持ってなかったから」
「あぁ、なるほど」
恐る恐るだったのは初めだけで、すぐに箸は止まらなくなった。ほかほかとした米をかき込み、喉を詰まらせかけては慌てて味噌汁を流し込む。納豆の粘りには苦戦しながらも、あっという間に朝食はその胃の中へと消えていった。
「ご馳走様」
いつか見た灼空とよく似た仕草でそう言うと、空却は箸を置いた。緑茶とコーヒーを片手に無言のままそろってテレビを眺める。キラキラと光る夏の海を背景に猛暑日を伝えるキャスターの笑顔が映り、それはまるで穏やかな休日の始まりだった。
「なぁ」
沈黙を破ったのは空却だった。
「拙僧は空却」
「ん?」
唐突に名乗りはじめた空却は椅子の上で器用に身をよじり獄にしっかりと向き直った。
「波羅夷空却。あいつが付けた。息子がほしかったんだと」
意図を理解した獄もカップを置いて向き直る。
「俺は天国獄。弁護士だ」
空却はきゅっと目を細める。
「ひとや、獄か。
……世話んなる。よろしくな」
不器用なそれはどうやら微笑んでいるらしい。獄はふっと吹き出すと手を差し出した。
「俺もお前が何かはまだ良くわからねぇが、よろしくな」
こうして一人とひとつ、奇妙な共同生活が始まった。
二日が過ぎなんとか生活も落ち着きを見せ始めた頃だった。海が見たいと騒いだ空却との押し問答の末、獄は仕方なく車を出していた。コンビニで食料を調達していると、ジャケットの裾を空却が引く。
「なぁ、獄」
「なんだ」
山盛り持ったお菓子を獄のカゴへ落とし、つい、と顎で入り口を示した。
「あれ、なんだ?」
獄が目を移すと店の外には目を引く青年が立っていた。
数人の集団に囲まれてもなお目立つ身長、メッシュの入った長い髪。濃い目の化粧を差し引いても整った顔立ちは自信満々のように見えるのに、ひどく顔色が悪い。
「十四……?」
不穏な空気に獄が踏み出すより速く、空却が歩き出していた。
「おい、無茶はするなよ!」
「どうぞー」
後を追おうとしたところで気の抜けた声とともに獄はレジで捕まる。店員のバーコードを読むのが今日に限って遅いような気がしてならない。横目でハラハラと見守れば、案の定唐突に現れた空却に十四の周りにいたガラの悪そうな男たちが絡んでいた。あのなりかけの付喪神というやつはおそらく根は悪くないのだろうが、初対面の獄を殴り飛ばすようなものである。獄の位置からでも剣呑な明かりを灯した瞳が赤みを帯びていく。のんびりと商品を袋へつめていた店員に紙幣を押し付けると、獄はさっと商品を掴んだ。
「釣銭は募金箱へ入れておいてくれ」
獄が店外へ出ようとした瞬間、びりりとした衝撃で自動ドアが共振した。そんなに強く殴りかかったようには見えないのに、ガラの悪そうな男たちが浮きあがり積み重なる。
「ったく、あいつ」
「獄さん!」
あわあわと十四が獄に駆け寄るのと、男たちが叫び声を上げて走り出すのと、空却が笑い出すのがほとんど同時だった。驚いて様子を見に来た店員を見て、獄は二人の弁護をしなければあとが面倒になることを悟る。
「おまえらは車で待っとけ」
くれぐれも何もするなと特に空却へ念を押し、獄は再び店内へと戻った。
「ほらよ」
空却は男のうち一人が打ち捨てていったぬいぐるみを十四に向かって放った。
「アマンダ!」
少し汚れたぬいぐるみを抱えた十四はほっと安堵のため息をついた。
「そうだ、助けてくれてありがとうございますっす。
自分はどうもああいう人たちが苦手で……」
はにかむ十四に空却は険しい顔を向けた。
「拙僧が助けたのは『アマンダ』だけだからな」
「えっ、と?」
きょとんと目を見開く十四の額を空却が弾く。
「お前は修行が足りねぇ。しゃんとして、ソイツに感謝しろ。んで、もっと大事にしろよ」
「いっ、ハイっす!」
涙目で額をさすりつつ、十四は空却へもう一度頭を下げた。
「それでも自分も助かったんで、お礼を……。
ところであの、名前を聞いてもいいっすか?」
「あ?」
「自分は四十物十四っす」
「……空却」
ずいと身を乗り出す十四に押され、空却は思わず答えた。
「空却さんっすね!
獄さんの依頼人さんっすか?」
「いや、依頼人じゃねぇよ。まあ、世話になってるといやそうだけど、拙僧のが立場は上だしな」
「なんか複雑なんすねぇ」
何を思ったのか十四はうんうんと一人で納得すると、大きな手でそっとアマンダを撫でた。
「自分は昔獄さんにお世話になってて、」
続く言葉を聞きながら、空却はアマンダを見つめてあぁ、と小さく返事をした。
「……獄さんは自分の神様なんすよ!」
にこり、そう笑う十四を眩しそうに見つめて、空却は目元を緩めた。
「お前はいいやつなんだろーな。気に入った」
コツコツと窓を叩いた獄により会話は一度終了する。ライブ会場へ行くという十四を送りつつ、賑やかになった車内で空却は目を閉じた。
「神様、か」
結局空却と獄が海岸についたのは、日が沈むころだった。オレンジに染まる海と空に太陽が道をつくっている。
「おぉ」
空却はなぜだかひどくその光景に心を惹かれ、靴に砂が入るのも構わずに走り出した。
「転ぶなよ!」
あっという間に波打ち際まで到達した背中を追い、ゆっくりと足跡を辿りながら獄もその景色にしばし見とれた。ざざん、と寄せては引く波の音も、日中よりも涼しい風が心地よい。
「獄ぁ!」
存外無邪気に波と戯れていた空却が随分遠くから大きく手招きをしている。
「ったく、」
獄は靴を脱いでまだ熱い砂を踏んだ。
じきに砂は湿り気を帯び、波が足を洗う。
「獄!」
「なんだ、そんなに叫ばなくても聞こえて……」
その時だった。
ざあっと先程までとは全く違う嫌な風が砂と水飛沫を巻き込んで吹きつける。
「……ぁ!」
思わず閉じた瞼をあげると、ありえないものが目の前にいた。それは、酷く懐かしく、優しく、獄を手招いてた。
「あ、兄……」
逆光で表情こそ隠されているものの、その姿を見間違える筈はなかった。口元はどこか笑っているように見える獄の兄は、海の上を滑るように移動していた。ありえないことだが、獄はこの数日神になりかけのお鈴を世話している。なら、もしかしたら、幽霊だっていてもおかしくはないのではないか。
「まっ、待ってくれ!」
その手に届きそうで届かない。獄はざぶざぶと波をかき分けてその姿を追った。
「獄!」
腰まで水に浸かった獄の肩を掴んだのは空却だった。そのまま思い切り揺さぶるも、獄の視線はその兄らしき影から離れることはなく、振り払われないように抑え込むのにも苦労する。その姿は今までの獄の様子からはかけ離れたものだった。
「やめろ、止まれ!」
そう叫んでも波の中で獄を引き止めるには、空却の体格が足りない。それどころか空却を引きずったまま一歩、二歩と先へ進む。獄の耳には『こっちだ』と、何度もそう呼ぶ声が聴こえていた。懐かしい声が。
「離せ、……聞きたいことがあるんだ、言わなきゃならねぇことがあるんだ。
兄貴、待ってくれ!」
「あれはお前の兄貴じゃねぇ!」
空却は獄の兄のことは知らない。ただ、彼の目には獄とは異なるものが見えていた。学生服の人らしき形をとっていてもその向こうに無数の手が透けて見える。水気を含んで浮腫んだ手は仲間を欲しがる怪異にしか見えないのだ。怨念ともよべるそれは獄にも空却にも太刀打ちできるようなものではない。増して、獄を形作る一員となるような優しいものではない。
「お前に、ただの物に兄弟の何がわかる!」
空却は獄の声に返す言葉を持っていなかった。獄の言葉は正しい。水は既に空却の胸元まで迫り、水気を含んだ衣服で掴んでいた手が滑った。
「クソっ」
空却は獄が離れた瞬間、今までとは逆に思い切りその肩を押した。つんのめる獄の背を踏み台に獄と怪異の間に飛び込む。水飛沫があがり、まさに今獄へ触れようとしていた怪異の手らしきものを弾いて着地した。
「獄、悪ぃな」
空却は突然の塩水に咽る獄の胸ぐらを掴むと思い切り頭突きを食らわせた。
「痛、っ」
「拙僧には確かに人のことはわからねぇ。
ただな、これがお前の家族でないのはわかる。付き合いは短いけど獄はいろんな人も物も大事にできるやつだとわかってる。そんなやつの兄貴が生者を海に引きずり込んだりはしねぇってこともな」
「……!」
顔をあげた獄が反論のために開いた口は放つべき言葉を忘れた。もう沈みかける夕日を背に、いつかのように爛々と輝く瞳があった。空却の本体を表すような炎から生まれた金色の光だ。その瞳は憐れみとも慈しみともとれる表情を湛えていた。ぺたり。水中から伸びる手が空却に縋る。
「おい、」
「大体家族ならちゃんとわかってやれよ。お前の兄貴は、拙僧ンとこへ来たときから、ちゃんと、お前の側にいただろ」
ぺたり、ぺたり。手の数が増えてゆき、獄の目にもそれが認識できるほどになる。それは確かにこの世のものとは思えなかった。
「……お前」
獄の言葉を押し止めるように首を振り、空却はカラカラと笑う。
「カッコつけてもな、こいつら追い払うほどの力は拙僧には無ぇ。神にはまだ成りきれて無いんだよ。だからまぁ暫く静かに過ごすと決めた。海中も悪くねぇだろ」
彼がポケットの奥へしまっていたお鈴が引きずり出され、比重の重たいそれはいとも容易く波間へ消えてしまう。
「その三日、楽しかったぜ。
次に出会ったら、そのときは」
「空却!」
空却の瞳が片方浮腫んだ手に覆われ、波がその頭上から赤い髪を隠そうと押し寄せる。最後に獄が呼んだ声は届いただろうか。溶けるように緩められた瞳は最後まで獄から外されることはなかった。
「お前と家族に――」
ざぷん。
重たいものが水に沈む音だけを残して、嵐のような少年はその姿を消した。その波に押し戻されるように海岸へと運ばれた獄が再び沖見たときには、ただ静かな夜の海が広がっているだけだった。
その後、誰かが通報したのか警察らによる捜索が行われるも、当然少年は見つからなかった。そして金のお鈴も。
毎年夏の暑い日になると、獄は海に来て赤い花を流している。
「ここで待っててやるよ」
一人呟き煙草の煙を燻らすと、潮騒の奥からりぃんと誰かが返事を返すようだった。
空獄
!特殊設定:人外パロ
それは去年のひどく蒸し暑い昼下がりのことだった。お盆の初日、獄は仕事の都合で兄の墓参りへ行けない分、せめてもと空厳寺の門をくぐっていた。
「あぁ、聞いていますよ。どうぞこちらへ」
手水鉢に花を浮かべていた作務衣の男がにこやかに会釈をする。それに黙礼を返し、獄はお供えの品々と上着を抱え直した。
住職の灼空は檀家の元を飛び回っているが、獄のために留守役に本堂へ通すよう言付けていてくれたらしい。すんなりと奥へ導かれて室内へ上がる。ジワジワと煩かった蝉時雨か遠くなり、灼熱の陽射しから遠ざかると、思わずほっと息をついてしまう。今年の夏は特に暑かった。磨きかげられた廊下をぬけるぬるい風は残念なことに風鈴を鳴らすほどの力もない。きしきしと板を鳴らしてすすんでいると、先をゆく男が程々のところで足を止める、右手で廊下の先を示した。
「そこの角を曲がったところですので。あとはごゆっくり」
灼空がこの男に何をどう告げたのかはわからないが、ありがたいことに一人きりにしてくれるらしい。
「どうも」
気遣いに今度はきちんと会釈を返し、獄はさらに歩みを進めた。
本堂へ足を一歩踏み入れると、ぐっと白檀の香りが濃くなった。湿度も相まって重たい空気を肺に吸いつつ、獄はそれなりに手際よく持参したお供えものを置いてゆく。暑さに当てられて少々元気のなくなった仏花、白いロウソクに箱入りの線香、そして兄が好きだったお菓子。その包装紙をなぞると、懐かしい姿が思い出された。
「もし帰ってきてんのなら顔くらい見せろよな」
静かな部屋でそう呟いてみても、返る言葉はない。深い悲しみと後悔の上に、兄を死に追いやった人物への黒い感情が何年経ってもくすぶっている。部屋でひとり物言わぬ姿になった兄の虚ろな瞳が今もまぶたにこびりついている。そうだ、諦めきれるはずがない。この日が来ると酸素を吹き込まれたかのように憎悪が燃える。荘厳な仏像の前に立つには不適切なのかもしれないが、その一片を吐き出すように長く息を吐いた。
「クソ、待ってろよ」
吐き捨ててみたところで、賛同するものも否定するものももういなかった。御仏の姿を座布団へ腰を下ろす。神も仏もない現実を生きている獄だが、なんとはなしに兄は天国にいるのだと信じている。いつまでもそうしているわけにもいかず、ロウソクと線香へ火を灯すべく獄はシャツの胸ポケットを探った。鈍く光るお気に入りのジッポは蓋を開けようと指をかけるとつるりとその指先からこぼれた。
「おっ、」
火が付いていないのは幸いだったが、それは古めかしい金色のお鈴の上へ真っ直ぐに落下していく。瞬間だった。
りいぃん!
そう聞こえた瞬間に恐ろしい衝撃が脳天を突き抜けた。誰かに殴られたかのごとく激しく視界がブレて明滅する。
「……っ!」
何かを思うまもなく獄の意識は闇へと沈んだのだった。
「……い、ぉ……!」
「だ……い、や!!」
遠くでなにかを言い争う声が聞こえていた。
(煩いな……)
反射的にそう思った獄の額に誰かが触れた。大きくはないが随分と優しく、どこか懐かしい感覚すら呼び起こす手だった。何かを思い出す前に手は一度離れ、今度は指先で輪郭を辿るように頬を撫でる。ふ、と何かが軽くなった。その感覚に引きずられるようにして獄は目を覚ます。
「……うるせぇなこのクソ坊主!」
「こっちのセリフだクソガキ!」
途端、頭上から降り掛かったのは罵声だった。
茜色に染まる和室で鬼の形相の灼空と、見知らぬ赤髪の少年が言い争っていた。
「人間は繊細なんだ、なんてことしてくれとるか!
お前なんぞ炉に放り込んでやる!」
「やれるもんならやってみろ、俺を失って困るのはそっちだろーが!」
年の頃は高校生くらいだろうか。鮮やかな短髪と口を開けたときに覗く犬歯が特徴的だ。すこぶる口が悪い上に、あの灼空をここまで怒らせるのもなかなかだ。
「何も困らんわ。人を殴るような妖かしをここへおいて置けるか!」
「言ってろ! こっちは神様だぞ、ちったぁ崇めやがれ!」
額を突き合わせて睨み合う様子を下から眺める。灼空はぐっと低い声で脅すように少年に指を突きつけた。
「成りかけがでかい口をきくな」
「なりかけだぁ……?」
理解できない単語が飛び交いはじめたあたりで状況を理解することを諦めた獄はそっと手を挙げた。極力二人を刺激しないようにするためだった。だが残念なことに努力は報われず、少年が恐ろしい気迫で拳を畳へ振り下ろす。衝撃に一瞬身体が浮くほどだった。
「俺は神だ」
絞り出すように口にした少年が今一度拳を握るより速く、灼空の手刀が振り下ろされる。
「喝っ……!」
気迫の籠もった声とともに手刀は少年の頭に決まり、そのままの勢いで真下にいた獄へ突っ込んだ。
ゴチン。
獄が再び意識を飛ばす直前、視線がぶつかる。少年の瞳は人のものとは思えない炎の色を宿して煌々と輝いていた。
次に獄が目を覚ましたのはもう日も沈む頃で、トラブルへ巻き込んだお詫びにと食事をご馳走になりながら自分が意識を失うことになったあらましを聞いていた。
「……俺は本堂でライターが落ちたのに焦ったコイツに殴られたんですね」
それには確かにこちらの非がないわけでもない。なんども頭を下げる灼空を押し留めつつ、獄は部屋の隅に仁王立ちになっている少年に視線を送る。ここまではきちんと理解できている。ただ、問題はその後だ。
「そして、コイツは幽霊かなにかだと?」
「コイツじゃねぇ。空却だ」
溌剌とした少年、改め空却はそれはものすごく不遜な態度で獄を見下ろしていた。
「お前がここを焼こうとしていたから止めてやったんだよ。神である俺がな」
ふん、と鼻を鳴らす空却の言葉に獄は頭を抱えた。
「いや分からん。神ってなんだ、最近の若者の流行か?」
「だーかーら、神は神だよ!
人が魂を込めて作った物は、大事に使われると神になる。お前そんなことも知らねぇのかよ!」
「そんな非現実的なことがあるわけないだろ……」
この調子である。
見かねた灼空が信じられないかもしれないが、と前置きして空却について語りはじめた。
「江戸の時代にうちじゃない寺の建立にあたって作られたのがこのお鈴だ。外側の細かい彫り物、そして重さを見るに本物の金細工で当時はかなり値の張るものだったはずだ。時代を追うごとに持ち主を変え、19年ほど前に父がこの寺へ持って来た」
灼空の手には確かに昼間見たような気もする小ぶりのお鈴がある。空却は勝手に触るなと言っているものの、別に無理に取り返そうなどとはしてこない。
「こいつは出来がいい貴重な品なのに、この通りの暴れ馬でな。自我をなんとなく得るようになってからはあちらこちらと遊びわまり、まえの寺ではお手上げだとここへ流れてきたわけだ。ここなら……」
灼空は一度言葉を切る。あとを引き取ったのは意外にも空却だった。
「ここなら俺みたいな本来見えないものが『見える』坊主がいるからな」
「みえる……」
「空厳寺にはそういうものが生まれつくことが多い」
灼空は嘘をついているようには見えなかった。つまり、獄の理解の範疇を超えた話ではあるが、この世には幽霊やら何やらが存在しており、空厳寺は昔からそれに関わっていたということらしい。
「初めは他の悪さをするものと一緒に祓ってしまおうと試みたが活きが良くてな」
「そんな有象無象と一緒にするんじゃねぇよ」
「まあこの通りだもんで、お釈迦様の前じゃあ悪さもしないだろうと本堂へ置いていたら、このところうるさく騒ぎ出してなぁ」
こめかみを抑えた灼空をみてニィと笑った空却は、きっともう何度も繰り返してきたのであろう言葉を紡ぐ。
「九十九の年月を経て人に大切にされてきたものは、力を得て九十九の神となる。拙僧は何処へでも好きなところへ行き、好きなように過ごす。もう、誰かの思うようにはならねぇよ」
強い力を持った言葉が部屋に響く。だから、若い姿なんだな。獄はなぜかそこをストンと理解した。
「――今までは他の人に干渉したりなんてことはできなかったのにまったく……」
灼空は一つ大きく息を吐くと、改めて獄へと向き直った。
「コイツはあと数日で付喪神と成る。そうなれば今のように半端なものではなく、一人前にやっていけるだろう。だがそれまでは人と揉め事を起こさないようにしたい。
無茶な頼みとは承知の上で、獄くん。ひとまず数日、このバカを預かってはくれないか」
「おい!」
不満げな空却には構わず、灼空は続けた。
「この時期はこちらも忙しく、ここへ押さえつけておくのは難しい。もし勝手に外をうろつかれて問題でも起こされた日にはたまったものではない。ただでさえ不安定なときに万が一鬼のように堕ちても困る。その点獄くんなら安心ができる。どうか頼めないだろうか」
夕方の言い争いとはかけ離れた、静かな声だった。そこには20年近くお鈴を大切に守り、使い、神をつくる一端となった人の姿があった。
「人とはなにか、教えてやってはくれないか」
深く頭を下げた灼空に、獄は思わずゆっくりと頷く。その向こう、空却は複雑な表情でぴしりと伸びた背中を見ていた。
翌朝。ひょんなことから少年一人を預かることとなってしまった獄は、早速困りごとに直面していた。
「おい、起きろ」
「んだよ、うるぇな。せっかくあのクソ寺を出られたんだ、俺は好きにやる」
布団を被る空却を起こすのは三度目だった。神になりかけのお鈴が眠るのか甚だ疑問だったが、基本は人と同じように過ごすらしい。
「片付けが進まねえからさっさと起きろ」
休日に家事を済ませてしまいたい獄は、ついに布団の端を持って引き剥がしにかかる。
「うぉわ」
ごろり、と転がった身体は俊敏な山猫のような動きでベットから着地した。枕元に置いていたらしいお鈴が空却のあとを追うようにころんと落っこちたのを慌てて受け止める。
「おい、クソヤロー!
俺の『本体』に傷が入ったらどうしてくれんだよ!」
「あ? さっさと行動しないのが悪い」
シーツを剥がした獄はスタスタと部屋を出ていき、その後ろをついて空却が歩く。
「こっちは金でできてんだ。落ちて彫り物が潰れたりしたら神じゃなくなるかもしれないだろ」
ぶつぶつと不満を漏らす空却を、米と卵、納豆の前にある椅子へ押し込める。獄が洗濯機をかけて出てきても、空却はなぜか椅子の上でただじっとしていた。
「食わないのか?」
やはり神とやはらは飯を食わないのかと訝しげに眉を寄せた獄に、空却は驚いた顔を返す。
「食っていいのか?」
あれだけの不機嫌を忘れたかのように、空却は箸をとった。卵焼きをおそるおそるといった形で摘むと大きな口に放り込む。途端、ふにゃりと様相を崩した。
「……!」
あまりにあどけない様子に毒気を抜かれた獄は、コーヒーを片手に向かいへ腰をおろした。
「飯は食ってなかったのか?」
「なんとなく見てただけだな。身体を持ってなかったから」
「あぁ、なるほど」
恐る恐るだったのは初めだけで、すぐに箸は止まらなくなった。ほかほかとした米をかき込み、喉を詰まらせかけては慌てて味噌汁を流し込む。納豆の粘りには苦戦しながらも、あっという間に朝食はその胃の中へと消えていった。
「ご馳走様」
いつか見た灼空とよく似た仕草でそう言うと、空却は箸を置いた。緑茶とコーヒーを片手に無言のままそろってテレビを眺める。キラキラと光る夏の海を背景に猛暑日を伝えるキャスターの笑顔が映り、それはまるで穏やかな休日の始まりだった。
「なぁ」
沈黙を破ったのは空却だった。
「拙僧は空却」
「ん?」
唐突に名乗りはじめた空却は椅子の上で器用に身をよじり獄にしっかりと向き直った。
「波羅夷空却。あいつが付けた。息子がほしかったんだと」
意図を理解した獄もカップを置いて向き直る。
「俺は天国獄。弁護士だ」
空却はきゅっと目を細める。
「ひとや、獄か。
……世話んなる。よろしくな」
不器用なそれはどうやら微笑んでいるらしい。獄はふっと吹き出すと手を差し出した。
「俺もお前が何かはまだ良くわからねぇが、よろしくな」
こうして一人とひとつ、奇妙な共同生活が始まった。
二日が過ぎなんとか生活も落ち着きを見せ始めた頃だった。海が見たいと騒いだ空却との押し問答の末、獄は仕方なく車を出していた。コンビニで食料を調達していると、ジャケットの裾を空却が引く。
「なぁ、獄」
「なんだ」
山盛り持ったお菓子を獄のカゴへ落とし、つい、と顎で入り口を示した。
「あれ、なんだ?」
獄が目を移すと店の外には目を引く青年が立っていた。
数人の集団に囲まれてもなお目立つ身長、メッシュの入った長い髪。濃い目の化粧を差し引いても整った顔立ちは自信満々のように見えるのに、ひどく顔色が悪い。
「十四……?」
不穏な空気に獄が踏み出すより速く、空却が歩き出していた。
「おい、無茶はするなよ!」
「どうぞー」
後を追おうとしたところで気の抜けた声とともに獄はレジで捕まる。店員のバーコードを読むのが今日に限って遅いような気がしてならない。横目でハラハラと見守れば、案の定唐突に現れた空却に十四の周りにいたガラの悪そうな男たちが絡んでいた。あのなりかけの付喪神というやつはおそらく根は悪くないのだろうが、初対面の獄を殴り飛ばすようなものである。獄の位置からでも剣呑な明かりを灯した瞳が赤みを帯びていく。のんびりと商品を袋へつめていた店員に紙幣を押し付けると、獄はさっと商品を掴んだ。
「釣銭は募金箱へ入れておいてくれ」
獄が店外へ出ようとした瞬間、びりりとした衝撃で自動ドアが共振した。そんなに強く殴りかかったようには見えないのに、ガラの悪そうな男たちが浮きあがり積み重なる。
「ったく、あいつ」
「獄さん!」
あわあわと十四が獄に駆け寄るのと、男たちが叫び声を上げて走り出すのと、空却が笑い出すのがほとんど同時だった。驚いて様子を見に来た店員を見て、獄は二人の弁護をしなければあとが面倒になることを悟る。
「おまえらは車で待っとけ」
くれぐれも何もするなと特に空却へ念を押し、獄は再び店内へと戻った。
「ほらよ」
空却は男のうち一人が打ち捨てていったぬいぐるみを十四に向かって放った。
「アマンダ!」
少し汚れたぬいぐるみを抱えた十四はほっと安堵のため息をついた。
「そうだ、助けてくれてありがとうございますっす。
自分はどうもああいう人たちが苦手で……」
はにかむ十四に空却は険しい顔を向けた。
「拙僧が助けたのは『アマンダ』だけだからな」
「えっ、と?」
きょとんと目を見開く十四の額を空却が弾く。
「お前は修行が足りねぇ。しゃんとして、ソイツに感謝しろ。んで、もっと大事にしろよ」
「いっ、ハイっす!」
涙目で額をさすりつつ、十四は空却へもう一度頭を下げた。
「それでも自分も助かったんで、お礼を……。
ところであの、名前を聞いてもいいっすか?」
「あ?」
「自分は四十物十四っす」
「……空却」
ずいと身を乗り出す十四に押され、空却は思わず答えた。
「空却さんっすね!
獄さんの依頼人さんっすか?」
「いや、依頼人じゃねぇよ。まあ、世話になってるといやそうだけど、拙僧のが立場は上だしな」
「なんか複雑なんすねぇ」
何を思ったのか十四はうんうんと一人で納得すると、大きな手でそっとアマンダを撫でた。
「自分は昔獄さんにお世話になってて、」
続く言葉を聞きながら、空却はアマンダを見つめてあぁ、と小さく返事をした。
「……獄さんは自分の神様なんすよ!」
にこり、そう笑う十四を眩しそうに見つめて、空却は目元を緩めた。
「お前はいいやつなんだろーな。気に入った」
コツコツと窓を叩いた獄により会話は一度終了する。ライブ会場へ行くという十四を送りつつ、賑やかになった車内で空却は目を閉じた。
「神様、か」
結局空却と獄が海岸についたのは、日が沈むころだった。オレンジに染まる海と空に太陽が道をつくっている。
「おぉ」
空却はなぜだかひどくその光景に心を惹かれ、靴に砂が入るのも構わずに走り出した。
「転ぶなよ!」
あっという間に波打ち際まで到達した背中を追い、ゆっくりと足跡を辿りながら獄もその景色にしばし見とれた。ざざん、と寄せては引く波の音も、日中よりも涼しい風が心地よい。
「獄ぁ!」
存外無邪気に波と戯れていた空却が随分遠くから大きく手招きをしている。
「ったく、」
獄は靴を脱いでまだ熱い砂を踏んだ。
じきに砂は湿り気を帯び、波が足を洗う。
「獄!」
「なんだ、そんなに叫ばなくても聞こえて……」
その時だった。
ざあっと先程までとは全く違う嫌な風が砂と水飛沫を巻き込んで吹きつける。
「……ぁ!」
思わず閉じた瞼をあげると、ありえないものが目の前にいた。それは、酷く懐かしく、優しく、獄を手招いてた。
「あ、兄……」
逆光で表情こそ隠されているものの、その姿を見間違える筈はなかった。口元はどこか笑っているように見える獄の兄は、海の上を滑るように移動していた。ありえないことだが、獄はこの数日神になりかけのお鈴を世話している。なら、もしかしたら、幽霊だっていてもおかしくはないのではないか。
「まっ、待ってくれ!」
その手に届きそうで届かない。獄はざぶざぶと波をかき分けてその姿を追った。
「獄!」
腰まで水に浸かった獄の肩を掴んだのは空却だった。そのまま思い切り揺さぶるも、獄の視線はその兄らしき影から離れることはなく、振り払われないように抑え込むのにも苦労する。その姿は今までの獄の様子からはかけ離れたものだった。
「やめろ、止まれ!」
そう叫んでも波の中で獄を引き止めるには、空却の体格が足りない。それどころか空却を引きずったまま一歩、二歩と先へ進む。獄の耳には『こっちだ』と、何度もそう呼ぶ声が聴こえていた。懐かしい声が。
「離せ、……聞きたいことがあるんだ、言わなきゃならねぇことがあるんだ。
兄貴、待ってくれ!」
「あれはお前の兄貴じゃねぇ!」
空却は獄の兄のことは知らない。ただ、彼の目には獄とは異なるものが見えていた。学生服の人らしき形をとっていてもその向こうに無数の手が透けて見える。水気を含んで浮腫んだ手は仲間を欲しがる怪異にしか見えないのだ。怨念ともよべるそれは獄にも空却にも太刀打ちできるようなものではない。増して、獄を形作る一員となるような優しいものではない。
「お前に、ただの物に兄弟の何がわかる!」
空却は獄の声に返す言葉を持っていなかった。獄の言葉は正しい。水は既に空却の胸元まで迫り、水気を含んだ衣服で掴んでいた手が滑った。
「クソっ」
空却は獄が離れた瞬間、今までとは逆に思い切りその肩を押した。つんのめる獄の背を踏み台に獄と怪異の間に飛び込む。水飛沫があがり、まさに今獄へ触れようとしていた怪異の手らしきものを弾いて着地した。
「獄、悪ぃな」
空却は突然の塩水に咽る獄の胸ぐらを掴むと思い切り頭突きを食らわせた。
「痛、っ」
「拙僧には確かに人のことはわからねぇ。
ただな、これがお前の家族でないのはわかる。付き合いは短いけど獄はいろんな人も物も大事にできるやつだとわかってる。そんなやつの兄貴が生者を海に引きずり込んだりはしねぇってこともな」
「……!」
顔をあげた獄が反論のために開いた口は放つべき言葉を忘れた。もう沈みかける夕日を背に、いつかのように爛々と輝く瞳があった。空却の本体を表すような炎から生まれた金色の光だ。その瞳は憐れみとも慈しみともとれる表情を湛えていた。ぺたり。水中から伸びる手が空却に縋る。
「おい、」
「大体家族ならちゃんとわかってやれよ。お前の兄貴は、拙僧ンとこへ来たときから、ちゃんと、お前の側にいただろ」
ぺたり、ぺたり。手の数が増えてゆき、獄の目にもそれが認識できるほどになる。それは確かにこの世のものとは思えなかった。
「……お前」
獄の言葉を押し止めるように首を振り、空却はカラカラと笑う。
「カッコつけてもな、こいつら追い払うほどの力は拙僧には無ぇ。神にはまだ成りきれて無いんだよ。だからまぁ暫く静かに過ごすと決めた。海中も悪くねぇだろ」
彼がポケットの奥へしまっていたお鈴が引きずり出され、比重の重たいそれはいとも容易く波間へ消えてしまう。
「その三日、楽しかったぜ。
次に出会ったら、そのときは」
「空却!」
空却の瞳が片方浮腫んだ手に覆われ、波がその頭上から赤い髪を隠そうと押し寄せる。最後に獄が呼んだ声は届いただろうか。溶けるように緩められた瞳は最後まで獄から外されることはなかった。
「お前と家族に――」
ざぷん。
重たいものが水に沈む音だけを残して、嵐のような少年はその姿を消した。その波に押し戻されるように海岸へと運ばれた獄が再び沖見たときには、ただ静かな夜の海が広がっているだけだった。
その後、誰かが通報したのか警察らによる捜索が行われるも、当然少年は見つからなかった。そして金のお鈴も。
毎年夏の暑い日になると、獄は海に来て赤い花を流している。
「ここで待っててやるよ」
一人呟き煙草の煙を燻らすと、潮騒の奥からりぃんと誰かが返事を返すようだった。
ビー玉の向こう
ビー玉の向こう
獄+寂♀
神宮寺寂雷はその日、生まれて初めて校舎裏という場所に呼び出されてほんの少しわくわくしていた。呼び出しの相手は隣のクラスの女の子だった。体育祭では獄とペアを組んでダンスをしていて、確か生徒会も一緒にやっていて、そして一月ほど前に獄の彼女になった人だ。なんだか浮かれた様子の獄になにかあったのかと尋ねたら、珍しい顔をして「付き合うことになったんだ」と早口に返されたのが懐かしい。
彼女は毎日明るい色の髪を綺麗に巻いていて、派手すぎず地味すぎないキラキラのメイクもかわいくて、苦手な科目も獄と一緒に頑張って取り組む。本当に努力家のいい子だ。寂雷が彼女に持っている印象は素直にその一言に付きた。以前は寂雷にもわりによく話してくれていたのになぜかこのところ少し冷たくされているような気がして、なにか気に触るようなことでもしてしまったのかと気になっていたところの呼び出しである。寂雷としては一度落ち着いて話がしてみたかった。
さて少々早く着いてしまったので対面したら何から話してみようかと思案しながらこめかみを指先で叩いていると、彼女はローファーの踵を鳴らして颯爽と現れた。ひらめくスカートも大きめのネクタイも今日もとても可愛いらしい。
「こんにちは」
寂雷が示した親愛の微笑みと挨拶が見えなかったかのような険しい顔で、彼女は早速一歩詰め寄った。おかげでその首にあるネクタイの小さな引きつれが目について、それが獄のだということに気づく。校内で恋人同士がネクタイを交換することがはやっていることは寂雷も知っていた。
「ねぇ神宮寺さん。もうやめようよ」
開口一番そう言われ、寂雷は少なからず面食らった。
「何をやめればいいのか聞いてもいいかい?」
そっと問い返せば、ぎゅっと彼女の眉間のしわが深くなる。
「あたし達の邪魔しないでよ」
それは声音も含めて幼子が大切なおもちゃを取られたときによく似ていた。やはり知らない間になにか嫌な思いをさせてしまったに違いない。寂雷はごめんね、と形のいい眉尻を下げた。かつて、親友にわかってないのに謝るなと言われたことをよく守り、そのまま言葉を続ける。
「二人の邪魔をしているつもりはなかったけれど、なにか……」
残念ながら最後まで紡がれる前に、普段より一段低い声が重なる。
「獄くんはあたしのものなんだよ?」
それは正しくない。
「獄は獄のものだよ」
そう思ったときに口に出してしまうのが寂雷の悪い癖だった。
「そんなんじゃないよ。わかるでしょ?
獄はあたしの彼氏なの」
とんがった声が鼓膜を刺す。
「そうだね。獄はいつも嬉しそうにきみの話をしているよ」
聞いている寂雷も嬉しくなるくらいなのだ。それが彼女に伝わっていないはずはない。だというのに今の彼女にはそれに気づいていないのだろうか。普段の聡明さが欠けているように思えて仕方がない。興味深く、朱が差した頬を眺めた。
「ねえ、そういうところだよ。彼氏は彼女以外の女の子と出かけたり、二人でしゃべったりしないの。そんなの浮気じゃん」
「浮気だなんて、」
寝耳に水、青天の霹靂だと寂雷は頭を振る。
「なにいい子ぶってんの。獄くんのこと私にとられて悔しいの」
全くもってそうではない。彼女は何かを誤解して苦しんでいるらしかった。
「誤解をしないでほしい。私達は別に恋愛をしているわけではないんだ。獄はきみのことをとても大切にしているよ」
穏やかだが力強く事実を紡いだ必死の説得は彼女に届いたのか、膨らんだ風船のようだった威勢がすうっと萎んでゆく。
「……そんなのわかってるよ。でも嫌なの。嫉妬だよ。わかってるよ。あたしが一番しんどいんだよ」
わっと泣き出してしまった彼女の震える背をさすり、寂雷は小さな子に言い聞かせるように優しく言葉をかけた。
「大丈夫だよ。獄はきみ以外の女の子に興味を持っていないから」
それは親友の目から見た確かな真実だった。あんなに嬉しそうに浮かれる獄を寂雷は知らない。きっとこのこの子前でしか見せない獄の顔があるのだと、嬉しくも少し寂しく感じた。今この場にいる二人は、ある意味同じ感情を共有するものだった。
しばらくの沈黙のあと、白くてきれいな指の間から涙声が溢れる。
「じゃあ、もう獄と二人で出かけたりしないで」
「どうして? 友達なのに」
その時の燃え上がる炎のきらめきを宿した瞳を、寂雷は決して忘れないだろう。その瞳があんまりにも美しくて見惚れていたせいで、振りかぶられた手が見えていたのに避けることができなかった。
バチン。
「神宮寺さんって本当、」
打たれた左の頬が熱い。涙でぐちゃぐちゃでも、彼女はやはりとても可愛い。
「おい、お前ら何やって……!」
彼女の言葉が紡がれるよりも先に、話題の獄の声が響く。駆け寄った彼は二人を引き離すように寂雷の肩を引き、彼女に向き合うように間に体を割り込ませる。
「何があった」
「知らないっ!」
そう言われて状況を察せないほど獄は鈍い男ではない。
「知らないじゃないだろ、なんで寂雷を殴ってるんだよ。
コイツは俺のただのダチだって言っただろ」
ふ、と彼女の身体から力が抜けた。何か伝えようと開いた口をゆっくりと閉じると、その瞳に諦観を浮かべる。涙が一筋つうっと流れてまろい頬から垂れ落ちた。
「……もういいよ。バイバイ」
「おい、まだ話は!」
たっと軽い足音を立てて彼女は走り去る。
あ、と間抜けな声を漏らしたのは寂雷だった。当然その声に彼女の足が止まるはずもない。あっという間に角を曲がって見えなくなった制服姿に寂雷は途方に暮れた。
「獄、その。……ごめん」
「あ?」
獄が振り返ると、寂雷が左の頬を腫らして迷子の子どものような顔をしていた。
「追いかけてあげて、彼女泣いていたんだ。君のこと、本当に好きなんだよ」
寂雷は目の前で起こったことをうまく処理できずにいた。目の前の友人の傷ついた顔も、彼女のあの透き通ってしまった瞳も、己が引き起こしたのだということはわかる。そんな姿に獄は深く溜め息を吐く。待ってろと一言言いおいて、獄は踵を返すとスタスタとどこかへ消える。寂雷は時を忘れてしばらくその場でぼうっとしていた。炎のように美しい彼女は獄と会えただろうか。獄はきちんと彼女の話を聞いて、そっと抱きしめてやっただろうか。どうでもいい想像が脳内を巡る。そっと目を閉じた。ズキズキとした痛みだけが現実感を伴い、寂雷をその場に留める。どのくらいそうしていただろうか。
「ほら」
ずい、と目の前に水色のハンカチが差し出された。
「あ、」
そこにいたのは獄だった。
「どうして……」
ここにいるのか、彼女はどうしたのかと訝しむ。そんな寂雷に、獄はハンカチを押し当てた。水で濡らされたそれはひんやりとしていて、患部の熱を奪う。心地よいが、押し当てる力が強い。
「痛いよ」
「なら自分で持て」
無言のままハンカチを受け取った。何か言いたげなアイスブルーの視線に獄は、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「前々からお前と喋るなって言われててな。でもお前だろ、喋らないわけにもいかないし。悪かった、迷惑かけて
理由がどうあれ、ダチを殴るやつなんかこっちから願い下げだ。暴力で何かが解決する訳ないだろ」
強がりだ。わざと明るく振る舞う声が空虚に響く。
「だいたいお前ものこのことついていって挑発に乗るな。お前の感覚はちょっと変わってるんだから、どうせうまく話なんかできないだろ。軽くあしらっとけばよかったんだよ」
いつもうまいことやってるだろと獄が寂雷の肩を小突いた。
「心配するな。後で話をしておく、今はお互い冷静になったほうがいいんだ」
それでも唇を引き結んだままの寂雷に、落ち着いた声でそっと言葉を紡ぐ。
「だから、そんな顔するなよ」
君たちは完璧な円だったじゃないか。バランスが取れていて、幸せそうで、美しくて。私はそれを見るのが何より好きだったのに。そう伝えようも、自分がその言葉を口にする資格はないように感じられた。謝るのもまた、何かが違う。獄と寂雷の間にあるのは、甘酸っぱい恋などではない。当然衝動的な性愛でもない。打てば響く、竹馬の友とはこのことだと胸を張って告げられる。だというのに今、音にすべき言葉が見つけられない。寂雷が最後に震える唇から発したのは、彼女がいつも素直に願っているたった一つの願いだ。
「……ただ、君には幸せでいてほしいんだ」
「知ってるよ」
穏やかな声だった。
獄+寂♀
神宮寺寂雷はその日、生まれて初めて校舎裏という場所に呼び出されてほんの少しわくわくしていた。呼び出しの相手は隣のクラスの女の子だった。体育祭では獄とペアを組んでダンスをしていて、確か生徒会も一緒にやっていて、そして一月ほど前に獄の彼女になった人だ。なんだか浮かれた様子の獄になにかあったのかと尋ねたら、珍しい顔をして「付き合うことになったんだ」と早口に返されたのが懐かしい。
彼女は毎日明るい色の髪を綺麗に巻いていて、派手すぎず地味すぎないキラキラのメイクもかわいくて、苦手な科目も獄と一緒に頑張って取り組む。本当に努力家のいい子だ。寂雷が彼女に持っている印象は素直にその一言に付きた。以前は寂雷にもわりによく話してくれていたのになぜかこのところ少し冷たくされているような気がして、なにか気に触るようなことでもしてしまったのかと気になっていたところの呼び出しである。寂雷としては一度落ち着いて話がしてみたかった。
さて少々早く着いてしまったので対面したら何から話してみようかと思案しながらこめかみを指先で叩いていると、彼女はローファーの踵を鳴らして颯爽と現れた。ひらめくスカートも大きめのネクタイも今日もとても可愛いらしい。
「こんにちは」
寂雷が示した親愛の微笑みと挨拶が見えなかったかのような険しい顔で、彼女は早速一歩詰め寄った。おかげでその首にあるネクタイの小さな引きつれが目について、それが獄のだということに気づく。校内で恋人同士がネクタイを交換することがはやっていることは寂雷も知っていた。
「ねぇ神宮寺さん。もうやめようよ」
開口一番そう言われ、寂雷は少なからず面食らった。
「何をやめればいいのか聞いてもいいかい?」
そっと問い返せば、ぎゅっと彼女の眉間のしわが深くなる。
「あたし達の邪魔しないでよ」
それは声音も含めて幼子が大切なおもちゃを取られたときによく似ていた。やはり知らない間になにか嫌な思いをさせてしまったに違いない。寂雷はごめんね、と形のいい眉尻を下げた。かつて、親友にわかってないのに謝るなと言われたことをよく守り、そのまま言葉を続ける。
「二人の邪魔をしているつもりはなかったけれど、なにか……」
残念ながら最後まで紡がれる前に、普段より一段低い声が重なる。
「獄くんはあたしのものなんだよ?」
それは正しくない。
「獄は獄のものだよ」
そう思ったときに口に出してしまうのが寂雷の悪い癖だった。
「そんなんじゃないよ。わかるでしょ?
獄はあたしの彼氏なの」
とんがった声が鼓膜を刺す。
「そうだね。獄はいつも嬉しそうにきみの話をしているよ」
聞いている寂雷も嬉しくなるくらいなのだ。それが彼女に伝わっていないはずはない。だというのに今の彼女にはそれに気づいていないのだろうか。普段の聡明さが欠けているように思えて仕方がない。興味深く、朱が差した頬を眺めた。
「ねえ、そういうところだよ。彼氏は彼女以外の女の子と出かけたり、二人でしゃべったりしないの。そんなの浮気じゃん」
「浮気だなんて、」
寝耳に水、青天の霹靂だと寂雷は頭を振る。
「なにいい子ぶってんの。獄くんのこと私にとられて悔しいの」
全くもってそうではない。彼女は何かを誤解して苦しんでいるらしかった。
「誤解をしないでほしい。私達は別に恋愛をしているわけではないんだ。獄はきみのことをとても大切にしているよ」
穏やかだが力強く事実を紡いだ必死の説得は彼女に届いたのか、膨らんだ風船のようだった威勢がすうっと萎んでゆく。
「……そんなのわかってるよ。でも嫌なの。嫉妬だよ。わかってるよ。あたしが一番しんどいんだよ」
わっと泣き出してしまった彼女の震える背をさすり、寂雷は小さな子に言い聞かせるように優しく言葉をかけた。
「大丈夫だよ。獄はきみ以外の女の子に興味を持っていないから」
それは親友の目から見た確かな真実だった。あんなに嬉しそうに浮かれる獄を寂雷は知らない。きっとこのこの子前でしか見せない獄の顔があるのだと、嬉しくも少し寂しく感じた。今この場にいる二人は、ある意味同じ感情を共有するものだった。
しばらくの沈黙のあと、白くてきれいな指の間から涙声が溢れる。
「じゃあ、もう獄と二人で出かけたりしないで」
「どうして? 友達なのに」
その時の燃え上がる炎のきらめきを宿した瞳を、寂雷は決して忘れないだろう。その瞳があんまりにも美しくて見惚れていたせいで、振りかぶられた手が見えていたのに避けることができなかった。
バチン。
「神宮寺さんって本当、」
打たれた左の頬が熱い。涙でぐちゃぐちゃでも、彼女はやはりとても可愛い。
「おい、お前ら何やって……!」
彼女の言葉が紡がれるよりも先に、話題の獄の声が響く。駆け寄った彼は二人を引き離すように寂雷の肩を引き、彼女に向き合うように間に体を割り込ませる。
「何があった」
「知らないっ!」
そう言われて状況を察せないほど獄は鈍い男ではない。
「知らないじゃないだろ、なんで寂雷を殴ってるんだよ。
コイツは俺のただのダチだって言っただろ」
ふ、と彼女の身体から力が抜けた。何か伝えようと開いた口をゆっくりと閉じると、その瞳に諦観を浮かべる。涙が一筋つうっと流れてまろい頬から垂れ落ちた。
「……もういいよ。バイバイ」
「おい、まだ話は!」
たっと軽い足音を立てて彼女は走り去る。
あ、と間抜けな声を漏らしたのは寂雷だった。当然その声に彼女の足が止まるはずもない。あっという間に角を曲がって見えなくなった制服姿に寂雷は途方に暮れた。
「獄、その。……ごめん」
「あ?」
獄が振り返ると、寂雷が左の頬を腫らして迷子の子どものような顔をしていた。
「追いかけてあげて、彼女泣いていたんだ。君のこと、本当に好きなんだよ」
寂雷は目の前で起こったことをうまく処理できずにいた。目の前の友人の傷ついた顔も、彼女のあの透き通ってしまった瞳も、己が引き起こしたのだということはわかる。そんな姿に獄は深く溜め息を吐く。待ってろと一言言いおいて、獄は踵を返すとスタスタとどこかへ消える。寂雷は時を忘れてしばらくその場でぼうっとしていた。炎のように美しい彼女は獄と会えただろうか。獄はきちんと彼女の話を聞いて、そっと抱きしめてやっただろうか。どうでもいい想像が脳内を巡る。そっと目を閉じた。ズキズキとした痛みだけが現実感を伴い、寂雷をその場に留める。どのくらいそうしていただろうか。
「ほら」
ずい、と目の前に水色のハンカチが差し出された。
「あ、」
そこにいたのは獄だった。
「どうして……」
ここにいるのか、彼女はどうしたのかと訝しむ。そんな寂雷に、獄はハンカチを押し当てた。水で濡らされたそれはひんやりとしていて、患部の熱を奪う。心地よいが、押し当てる力が強い。
「痛いよ」
「なら自分で持て」
無言のままハンカチを受け取った。何か言いたげなアイスブルーの視線に獄は、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「前々からお前と喋るなって言われててな。でもお前だろ、喋らないわけにもいかないし。悪かった、迷惑かけて
理由がどうあれ、ダチを殴るやつなんかこっちから願い下げだ。暴力で何かが解決する訳ないだろ」
強がりだ。わざと明るく振る舞う声が空虚に響く。
「だいたいお前ものこのことついていって挑発に乗るな。お前の感覚はちょっと変わってるんだから、どうせうまく話なんかできないだろ。軽くあしらっとけばよかったんだよ」
いつもうまいことやってるだろと獄が寂雷の肩を小突いた。
「心配するな。後で話をしておく、今はお互い冷静になったほうがいいんだ」
それでも唇を引き結んだままの寂雷に、落ち着いた声でそっと言葉を紡ぐ。
「だから、そんな顔するなよ」
君たちは完璧な円だったじゃないか。バランスが取れていて、幸せそうで、美しくて。私はそれを見るのが何より好きだったのに。そう伝えようも、自分がその言葉を口にする資格はないように感じられた。謝るのもまた、何かが違う。獄と寂雷の間にあるのは、甘酸っぱい恋などではない。当然衝動的な性愛でもない。打てば響く、竹馬の友とはこのことだと胸を張って告げられる。だというのに今、音にすべき言葉が見つけられない。寂雷が最後に震える唇から発したのは、彼女がいつも素直に願っているたった一つの願いだ。
「……ただ、君には幸せでいてほしいんだ」
「知ってるよ」
穏やかな声だった。
陽炎
陽炎
一左馬
!TDD時代
その年の夏は酷く暑かった。ニュースが連日のように記録的猛暑、熱中症患者の数が最高記録だと騒ぎ立てている。そんな日でも悲しいかな学生というのは制服を着込んでせっせと歩くのである。服を着ているのも煩わしいくらいで、一郎は白いワイシャツの裾をズボンから引っ張り出し、ボタンをいつもより一つ多く開けた。だがそれでも足りない。試しに胸元を掴みバサバサと振ってみるも、体温と同じくらいの温度の空気が肌を撫でただけだった。
こんな日はキンキンのコーラをイッキ飲みだ。一郎は固く心に決めて近頃毎日のように通う『アジト』へ向かうのだった。
アジトなどと大げさなことを言ってみたものの、そこは雑居ビルの中にあるちょっとした事務所のような場所だった。ただ一郎だけがその場所にある種の敬意を込めてそう呼んでいるに過ぎない。
詳しくは知らされていないが、左馬刻が事務所として構えた部屋の一つらしい。そんなことを考えているうちに建物の外階段へと到着した。ローファーと鉄がぶつかる甲高い音を響かせてから踊り場を曲がればすぐに扉が見える。そこでちょうど鍵を回そうとしていたのが左馬刻だった。一郎が声をかける前にぱっと顔が上がる。厳しい表情がわずかに緩むのを目の端に捉えつつ一郎は軽く頭を下げた。
「よう」
短い言葉が返されてドアが開く。一郎はさっとその扉を抑えた。左馬刻を見送り、室内のむっとする熱気を感じつつ、あとに続く。
「あっちいな」
地を這うような低い声は機嫌の悪い証だ。示し合わせたように部屋の二箇所の窓をそれぞれが開ける。外も暑かったが、今の室内に比べればいくらかマシでぬるい風がサウナのような熱気を押し流す。
「うわ、左馬刻さんめちゃくちゃ日に焼けてますね」
クーラーのリモコンの設定温度を最低まで下げていた左馬刻が己の腕を見た。
「今日は外回りの仕事があったんだよ」
人一倍色素の薄い左馬刻は日に焼けると赤くなるタイプらしい。鼻や頬のあたりは見るからに痛そうだ。
「それより鬱陶しいのはこの暑さだろ。
いつもみてぇに乱数がいるかと思ったのにアテが外れたわ」
「最近締切が?って籠もってましたもんね」
この部屋に最初にいるのはたいてい乱数が左馬刻だった。一郎はその次で、寂雷が最後のことが多い。少し寒いくらいに冷やされた部屋は誰かのおかげだったのだ。心のなかで感謝しつつ、開けた窓と日差しを遮るためのブラインドをおろして定位置につく。いつの間にか左馬刻がコーラの瓶と炭酸水の瓶を机に並べていた。コーラを一郎に押しやりながら、左馬刻は肌に張り付いたアロハを引き剥がすように首元をバサリと振る。いつもより大きく開いた首元につうと流れる汗を一郎の二色の瞳が追った。
「なんだよ」
「あ、いや。コーラ、あざす」
左馬刻の言葉に一郎は慌ててコーラへと手を伸ばした。栓を抜いたそれを流し込むと口の中も喉もビリピリとした刺激に洗われて一瞬暑さを忘れる。ふぅ、と気の抜けた吐息が口から漏れる。左馬刻も同じように炭酸水を置いて一つ息を吐いた。
「一郎、」
「ハイ」
ローテーブルを挟んだ向こう側で、左馬刻が二人がけのソファに横になる。
「しばらく経ったら起こせよ」
「あっ、ハイ」
一郎は素直に頷いた。時計を見れば十五時過ぎだ。他の誰かが来たらそのときに、そうでなければ三十分ほどで起こすことに決める。左馬刻は暑さで消耗しているのかよく手入れをされたデッキシューズを肘掛けの向こうで交差させ、早々に瞼を閉じていた。大きな音を立てるわけにも、かと言って細かい作業をする気もなれず、手持ち無沙汰のまま一郎は再度コーラに手を伸ばした。
ときおり瓶を傾けながら左馬刻を盗み見る。想像より長いまつげが上を向き、形の良い唇が僅かに開いている。火照った肌と、滲んでは流れる汗。迫り上がる何かをコーラと一緒に腹の中に落とし込む。
クーラーの設定温度を限界まで下げたのに、まだまだ肺から体に巡る空気があつい。左馬刻の胸は規則正しく上下を繰り返す。部屋の中なのに、その熱も蝉時雨もガラスや壁越しに一郎を焼くようだ。
「もし――」
二人ではやや広すぎる部屋。その静寂を一郎は唐突に破ってしまった。水面に雫を落とすようにぽとりと言葉が滑り落ちる。
「アンタが抱かせてくれたら、俺の一生ぜんぶやるのに」
カチコチと時計の音だけが響く。
何故唐突にそんなことを口走ったのかはわからない。聞かれただろうか。先程までとはまた違う意味の汗が一郎の背を伝う。左馬刻をじっと見つめた。耳元で心臓が鳴っている。
相変わらず綺麗かな顔がそこにある。呼吸のリズムも変わっていない。
知らずに詰めていた息を長く吐き出した。きっと大丈夫だ。暑さのせいだ。夢みたいなものだ。何度も心のなかで繰り返す。緊張の糸を解いた一郎は空になった瓶を手に取りキッチンへと向かう。
「クソガキが、ナマ言ってんじゃねぇぞ」
ガン、と頭を殴られたような衝撃だった。が、辛うじて瓶を取り落とさなかった一郎は何も聞こえなかったふりをして足を進める。左馬刻も別にそれ以上言葉を重ねることはない。それも白昼夢だったのではないかとさえ思う。腹の中でさっきのコーラが爆ぜている。空の瓶はゴミ箱の中で嗤った。
一左馬
!TDD時代
その年の夏は酷く暑かった。ニュースが連日のように記録的猛暑、熱中症患者の数が最高記録だと騒ぎ立てている。そんな日でも悲しいかな学生というのは制服を着込んでせっせと歩くのである。服を着ているのも煩わしいくらいで、一郎は白いワイシャツの裾をズボンから引っ張り出し、ボタンをいつもより一つ多く開けた。だがそれでも足りない。試しに胸元を掴みバサバサと振ってみるも、体温と同じくらいの温度の空気が肌を撫でただけだった。
こんな日はキンキンのコーラをイッキ飲みだ。一郎は固く心に決めて近頃毎日のように通う『アジト』へ向かうのだった。
アジトなどと大げさなことを言ってみたものの、そこは雑居ビルの中にあるちょっとした事務所のような場所だった。ただ一郎だけがその場所にある種の敬意を込めてそう呼んでいるに過ぎない。
詳しくは知らされていないが、左馬刻が事務所として構えた部屋の一つらしい。そんなことを考えているうちに建物の外階段へと到着した。ローファーと鉄がぶつかる甲高い音を響かせてから踊り場を曲がればすぐに扉が見える。そこでちょうど鍵を回そうとしていたのが左馬刻だった。一郎が声をかける前にぱっと顔が上がる。厳しい表情がわずかに緩むのを目の端に捉えつつ一郎は軽く頭を下げた。
「よう」
短い言葉が返されてドアが開く。一郎はさっとその扉を抑えた。左馬刻を見送り、室内のむっとする熱気を感じつつ、あとに続く。
「あっちいな」
地を這うような低い声は機嫌の悪い証だ。示し合わせたように部屋の二箇所の窓をそれぞれが開ける。外も暑かったが、今の室内に比べればいくらかマシでぬるい風がサウナのような熱気を押し流す。
「うわ、左馬刻さんめちゃくちゃ日に焼けてますね」
クーラーのリモコンの設定温度を最低まで下げていた左馬刻が己の腕を見た。
「今日は外回りの仕事があったんだよ」
人一倍色素の薄い左馬刻は日に焼けると赤くなるタイプらしい。鼻や頬のあたりは見るからに痛そうだ。
「それより鬱陶しいのはこの暑さだろ。
いつもみてぇに乱数がいるかと思ったのにアテが外れたわ」
「最近締切が?って籠もってましたもんね」
この部屋に最初にいるのはたいてい乱数が左馬刻だった。一郎はその次で、寂雷が最後のことが多い。少し寒いくらいに冷やされた部屋は誰かのおかげだったのだ。心のなかで感謝しつつ、開けた窓と日差しを遮るためのブラインドをおろして定位置につく。いつの間にか左馬刻がコーラの瓶と炭酸水の瓶を机に並べていた。コーラを一郎に押しやりながら、左馬刻は肌に張り付いたアロハを引き剥がすように首元をバサリと振る。いつもより大きく開いた首元につうと流れる汗を一郎の二色の瞳が追った。
「なんだよ」
「あ、いや。コーラ、あざす」
左馬刻の言葉に一郎は慌ててコーラへと手を伸ばした。栓を抜いたそれを流し込むと口の中も喉もビリピリとした刺激に洗われて一瞬暑さを忘れる。ふぅ、と気の抜けた吐息が口から漏れる。左馬刻も同じように炭酸水を置いて一つ息を吐いた。
「一郎、」
「ハイ」
ローテーブルを挟んだ向こう側で、左馬刻が二人がけのソファに横になる。
「しばらく経ったら起こせよ」
「あっ、ハイ」
一郎は素直に頷いた。時計を見れば十五時過ぎだ。他の誰かが来たらそのときに、そうでなければ三十分ほどで起こすことに決める。左馬刻は暑さで消耗しているのかよく手入れをされたデッキシューズを肘掛けの向こうで交差させ、早々に瞼を閉じていた。大きな音を立てるわけにも、かと言って細かい作業をする気もなれず、手持ち無沙汰のまま一郎は再度コーラに手を伸ばした。
ときおり瓶を傾けながら左馬刻を盗み見る。想像より長いまつげが上を向き、形の良い唇が僅かに開いている。火照った肌と、滲んでは流れる汗。迫り上がる何かをコーラと一緒に腹の中に落とし込む。
クーラーの設定温度を限界まで下げたのに、まだまだ肺から体に巡る空気があつい。左馬刻の胸は規則正しく上下を繰り返す。部屋の中なのに、その熱も蝉時雨もガラスや壁越しに一郎を焼くようだ。
「もし――」
二人ではやや広すぎる部屋。その静寂を一郎は唐突に破ってしまった。水面に雫を落とすようにぽとりと言葉が滑り落ちる。
「アンタが抱かせてくれたら、俺の一生ぜんぶやるのに」
カチコチと時計の音だけが響く。
何故唐突にそんなことを口走ったのかはわからない。聞かれただろうか。先程までとはまた違う意味の汗が一郎の背を伝う。左馬刻をじっと見つめた。耳元で心臓が鳴っている。
相変わらず綺麗かな顔がそこにある。呼吸のリズムも変わっていない。
知らずに詰めていた息を長く吐き出した。きっと大丈夫だ。暑さのせいだ。夢みたいなものだ。何度も心のなかで繰り返す。緊張の糸を解いた一郎は空になった瓶を手に取りキッチンへと向かう。
「クソガキが、ナマ言ってんじゃねぇぞ」
ガン、と頭を殴られたような衝撃だった。が、辛うじて瓶を取り落とさなかった一郎は何も聞こえなかったふりをして足を進める。左馬刻も別にそれ以上言葉を重ねることはない。それも白昼夢だったのではないかとさえ思う。腹の中でさっきのコーラが爆ぜている。空の瓶はゴミ箱の中で嗤った。
ゼロを超えて
ゼロを超えて
零那由
!過去捏造
三週間前はシンプルな包みがきれいなキャンディだった。オーロラのように輝く透明なセロファンの中には宝石のように色とりどりの飴が入っており、しばらくの間彼女の目の舌を楽しませた。また、先週はわずかな塩気があとを引くバタークッキーだった。小ぶりな缶を開けるとバターの幸せな香りがして、歯ざわりはさっくりとしていて舌の上でほろりとほどける。ついつい手が伸びてしまうのをぐっとこらえ、少しずつ大切に食べたのだった。そして今、彼女の目の前には銀色の箔で店名が書かれた紺色の小箱が鎮座している。その店名はよく知っているものだった。というのも、彼女が幼い頃から好きなとある有名なチョコレートショップのものだったからである。特別な日に食べた記憶のあるそれは、大人になった今でも頑張ったときのご褒美として時々口にしていた。
小さな研究室の隅、どこかの部屋から譲り受けた古ぼけた応接セットにはやや不釣り合いなようでもある。もっとも、休憩のために白いマグカップとともにそこに座る彼女こそ、この場所に似つかわしくないのかもしれない。色褪せたローソファの上、背筋を伸ばして座る姿は花のようだった。
「あの、こちらは」
静かに手の中のカップを置いた那由多は、純粋なる疑問をもって小箱からそれを置いた主へと目を移した。目線はぐっと天井近く、ずいぶん高くで止まる。彼女を見下ろしているのは、平均よりもずいぶんと大柄な若い男――山田零だった。よれた白衣を翻した彼は無言のまま簡易キッチンへと足を運び、コーヒーメーカーを操作した。
「山田さん」
「……たまたま百貨店に用事があったんだよ」
コポコポと音を立てるコーヒーメーカーの前で自身のタンブラーを満たしながら、零はなんでもないように言葉を続ける。
「先月の学会の帰りだったか。好きだって話してただろ」
「覚えてらっしゃたんですね」
那由多の声には、はっきりと意外だという気持ちがのっていた。その様子に零は肩を竦め、声へ僅かに笑いを含ませた。
「毎日顔を突き合わせてりゃあな。上司もいないんだから持って帰るなり食べるなり」
湯気をあげるタンブラーを片手にスタスタと歩いて再び来客セットの前へ戻ると、那由多の向かいにどかりと腰を下ろす。古いソファは苦しげにきしみつつその体重を受け止めた。
「でも、いつも私ばかりいただくわけにも……」
困り顔の彼女の代わりに、零が小箱を開ける。艷やかなチョコレートは宝石のように行儀よく整列していた。六つ入りのそれらの中に、おそらく好きなものがあったのだろう。困り顔をしつつも、那由多の瞳がキラリと光ったのを零は見逃しはしなかった。自分の読みがあたったことに僅かに口角を上げ、空気を変えるべく話題を逸らしてみる。
「そんなことより。お前、よその奴に俺のこと親切だなんだと言ってるらしいじゃねぇか。
よくもまあ適当なことを。他の連中から俺がなんて呼ばれてるか知ってるだろ」
那由多はやや言いにくそうに先程までとはまた違った複雑な顔をした。
「……その。詐欺師、というのが一番良く聞きますね……。
山田さんは優しい方なのに」
きっと皆さん優秀な頭脳をやっかんでいるんですね、と続ける。実に正直な答えだ。零は猫のように目を細めた。
「いや流石に『優しい』は言いすぎだろ」
「そんなことありません。
でも、あんまりの同意は得られなくて……」
「本人が否定するくらいだからな」
頭脳が優秀であるということについて異論はないが、優しいという部分については認識に齟齬があるだろう。
「でも、いつも『ついでだ』と言って、私が研究の資料を運ぶときは一緒に運んでくださっていますよね。この間のお昼はひとりでは入りにくかったカウンターのお店に一緒に入っていただきました。こうして時々お菓子もいただいたり……。
あとあの時も。私を心配してくださったでしょう?」
小首を傾げた那由多は細い指を折りながら数え、ね、と同意を求めたが、零は否定の意味を込めてひらりと手を振った。ちなみに、「あの時」というのは目の前の女のお人好しが天元を突破し、飲み会だか合コンだかの帰り道に別の学部の男にホテル街へと連れ去られそうになってしたときのことだ。きっと零がいなければ、男の思惑は叶っていたに違いなく、思い起こしてはゾッとする。育ちの良い彼女は性善説を根底の思想として生きている。それは零には理解しがたいことだった。
ともあれ、彼女の言う優しいという認識には納得し、零はひとつ踏み込んで試してみることにする。
「それは俺の下心だ。
……と、言ったら?」
「おかしなことをおっしゃるんですね」
片眉を上げた零に、那由多は口元を隠してくすくすと笑う。
「本気だ。お前を取って食うためならどうする。
世間知らずのお嬢様なんていくらでも使い道はあるんだぜ」
「使い道なんて。
ふふ、でも、本当におかしいです」
肩を揺らしていた彼女は一口コーヒーで喉を潤してから零を見る。
「だって、本当に私に対して害意があるのなら、あなたはいくらでも私にひどいことをする機会があるのに。
今もこうして二人きりで、それこそ詐欺師みたいに騙すなんて簡単でしょう」
「へぇ」
まあ俺でなくても簡単だろうと思った言葉は口にせず、零もコーヒーを一口飲み下した。
「もう、本気にしていませんね。正直にお話しすると、はじめ山田さんは皆さんの言うように怖い人だと思っていたんです。
でも、今は私、山田さんのことを優しい人だと信じていますから」
真っ直ぐな信頼は、出会ったばかりのお互い気にも留めていなかった頃に比べれはずいぶんと前進したといえる。が、行き過ぎると零の思惑からは外れるのだ。匙加減を間違えるわけにはいかない。
「アンタに警戒心とか猜疑心が足りないんだろ。
未だに信じられねぇな、あの整然とした文章を書いてるのがこんなお人好しとはなぁ」
「さっきからひどいです」
ひとまずこの話題はおしまいだと混ぜっ返してから、零は思い出したようなふりをしてチョコレートの小箱をふくれる那由多の方へ押しやった。
「ほら、休憩時間あと十五分だろ」
「あ、ありがとうございます」
彼女は今度は素直にそれを手に取った。桜色の指先がそっと箱を取り上げ、綺麗とつぶやく口元はみずみずしさを湛えてゆるく弧を描く。
今日のやり取りの中で自分の行動の成果を確認した零は、ソファの高さに対して余っていた足を組んで座りなおした。やや意地の悪い笑みを浮かべる。
「あぁそうだ。俺は意味のない行動はしない。
そのあたりをよく考えたうえでそれを口に入れろよ」
二度、三度と瞬きをして零の双色の眼を見つめていた那由多は何を思ったかふわりと破顔した。
「じゃあ二人で食べましょうね」
そう言って小箱をテーブルの中央へと戻す。きっと慌てるであろうという予想に反して返ってきた意味のわからない行動と言動に、今度は零が那由多の顔をまじまじと眺めることになった。その顔は普段と変わらず儚げで、いたずらっぽく上げられた口角があまりみない表情を作っているだけだった。
「……なんで俺が」
「だってほら、もし私を騙すつもりだったとしても、二人で食べたら共犯ですから」
「なんだそりゃ」
「何でしょうね、ふふ。私もわからなくなってしまいました」
夢見がちだが不思議と続きを読ませる説得力のある文章を書く理論屋はどこへ行ったのだろうか。彼女なりの冗談なのか、それとも零の話をうまいことはぐらかしたのか。あまりにもめちゃくちゃな理論に脱力する。そんな零を尻目にすっかりチョコレートへと興味を移した彼女はううんと小さく唸った。
「このなかならどれが食べたいですか?
私はこの赤いハートのラズベリー風味のプラリネがおすすめなんですけれど……。でも山田さんは普段甘いものはあまり召し上がりませんよね。もし甘いものが苦手でしたらこちらのウイスキー風味のトリュフはビターで食べやすいかもしれません。あとはこちらのコーヒーのクリームのものもとっても美味しいので……」
一つずつ味の解説を始めてしまい、その熱量はもはや零が余計な口をはさむ余裕もない。なるほど人の心というのは零が思うよりもずいぶんと複雑なものらしかった。
重い溜め息を吐き、低く告げる。
「容赦なく騙くらかしてやるからな」
下地は整ったのだ。情けも容赦も慈悲もくれてやるつもりはなかった。大半の人間の彼に対する認識は正しく、山田零という男は狙った獲物をみすみす逃すような生易しい男ではない。
「ふふ、どうぞ共犯者さん」
この世で唯一それを知らない彼女の小さな口に、見るからに甘ったるいホワイトチョコのトリュフを押し込む。頬を抑えてとろける表情を浮かべたのをながめて、今度は囁くように告げた。
「覚悟をしろよ」
それは忠告ではなく、宣戦布告であった。
零那由
!過去捏造
三週間前はシンプルな包みがきれいなキャンディだった。オーロラのように輝く透明なセロファンの中には宝石のように色とりどりの飴が入っており、しばらくの間彼女の目の舌を楽しませた。また、先週はわずかな塩気があとを引くバタークッキーだった。小ぶりな缶を開けるとバターの幸せな香りがして、歯ざわりはさっくりとしていて舌の上でほろりとほどける。ついつい手が伸びてしまうのをぐっとこらえ、少しずつ大切に食べたのだった。そして今、彼女の目の前には銀色の箔で店名が書かれた紺色の小箱が鎮座している。その店名はよく知っているものだった。というのも、彼女が幼い頃から好きなとある有名なチョコレートショップのものだったからである。特別な日に食べた記憶のあるそれは、大人になった今でも頑張ったときのご褒美として時々口にしていた。
小さな研究室の隅、どこかの部屋から譲り受けた古ぼけた応接セットにはやや不釣り合いなようでもある。もっとも、休憩のために白いマグカップとともにそこに座る彼女こそ、この場所に似つかわしくないのかもしれない。色褪せたローソファの上、背筋を伸ばして座る姿は花のようだった。
「あの、こちらは」
静かに手の中のカップを置いた那由多は、純粋なる疑問をもって小箱からそれを置いた主へと目を移した。目線はぐっと天井近く、ずいぶん高くで止まる。彼女を見下ろしているのは、平均よりもずいぶんと大柄な若い男――山田零だった。よれた白衣を翻した彼は無言のまま簡易キッチンへと足を運び、コーヒーメーカーを操作した。
「山田さん」
「……たまたま百貨店に用事があったんだよ」
コポコポと音を立てるコーヒーメーカーの前で自身のタンブラーを満たしながら、零はなんでもないように言葉を続ける。
「先月の学会の帰りだったか。好きだって話してただろ」
「覚えてらっしゃたんですね」
那由多の声には、はっきりと意外だという気持ちがのっていた。その様子に零は肩を竦め、声へ僅かに笑いを含ませた。
「毎日顔を突き合わせてりゃあな。上司もいないんだから持って帰るなり食べるなり」
湯気をあげるタンブラーを片手にスタスタと歩いて再び来客セットの前へ戻ると、那由多の向かいにどかりと腰を下ろす。古いソファは苦しげにきしみつつその体重を受け止めた。
「でも、いつも私ばかりいただくわけにも……」
困り顔の彼女の代わりに、零が小箱を開ける。艷やかなチョコレートは宝石のように行儀よく整列していた。六つ入りのそれらの中に、おそらく好きなものがあったのだろう。困り顔をしつつも、那由多の瞳がキラリと光ったのを零は見逃しはしなかった。自分の読みがあたったことに僅かに口角を上げ、空気を変えるべく話題を逸らしてみる。
「そんなことより。お前、よその奴に俺のこと親切だなんだと言ってるらしいじゃねぇか。
よくもまあ適当なことを。他の連中から俺がなんて呼ばれてるか知ってるだろ」
那由多はやや言いにくそうに先程までとはまた違った複雑な顔をした。
「……その。詐欺師、というのが一番良く聞きますね……。
山田さんは優しい方なのに」
きっと皆さん優秀な頭脳をやっかんでいるんですね、と続ける。実に正直な答えだ。零は猫のように目を細めた。
「いや流石に『優しい』は言いすぎだろ」
「そんなことありません。
でも、あんまりの同意は得られなくて……」
「本人が否定するくらいだからな」
頭脳が優秀であるということについて異論はないが、優しいという部分については認識に齟齬があるだろう。
「でも、いつも『ついでだ』と言って、私が研究の資料を運ぶときは一緒に運んでくださっていますよね。この間のお昼はひとりでは入りにくかったカウンターのお店に一緒に入っていただきました。こうして時々お菓子もいただいたり……。
あとあの時も。私を心配してくださったでしょう?」
小首を傾げた那由多は細い指を折りながら数え、ね、と同意を求めたが、零は否定の意味を込めてひらりと手を振った。ちなみに、「あの時」というのは目の前の女のお人好しが天元を突破し、飲み会だか合コンだかの帰り道に別の学部の男にホテル街へと連れ去られそうになってしたときのことだ。きっと零がいなければ、男の思惑は叶っていたに違いなく、思い起こしてはゾッとする。育ちの良い彼女は性善説を根底の思想として生きている。それは零には理解しがたいことだった。
ともあれ、彼女の言う優しいという認識には納得し、零はひとつ踏み込んで試してみることにする。
「それは俺の下心だ。
……と、言ったら?」
「おかしなことをおっしゃるんですね」
片眉を上げた零に、那由多は口元を隠してくすくすと笑う。
「本気だ。お前を取って食うためならどうする。
世間知らずのお嬢様なんていくらでも使い道はあるんだぜ」
「使い道なんて。
ふふ、でも、本当におかしいです」
肩を揺らしていた彼女は一口コーヒーで喉を潤してから零を見る。
「だって、本当に私に対して害意があるのなら、あなたはいくらでも私にひどいことをする機会があるのに。
今もこうして二人きりで、それこそ詐欺師みたいに騙すなんて簡単でしょう」
「へぇ」
まあ俺でなくても簡単だろうと思った言葉は口にせず、零もコーヒーを一口飲み下した。
「もう、本気にしていませんね。正直にお話しすると、はじめ山田さんは皆さんの言うように怖い人だと思っていたんです。
でも、今は私、山田さんのことを優しい人だと信じていますから」
真っ直ぐな信頼は、出会ったばかりのお互い気にも留めていなかった頃に比べれはずいぶんと前進したといえる。が、行き過ぎると零の思惑からは外れるのだ。匙加減を間違えるわけにはいかない。
「アンタに警戒心とか猜疑心が足りないんだろ。
未だに信じられねぇな、あの整然とした文章を書いてるのがこんなお人好しとはなぁ」
「さっきからひどいです」
ひとまずこの話題はおしまいだと混ぜっ返してから、零は思い出したようなふりをしてチョコレートの小箱をふくれる那由多の方へ押しやった。
「ほら、休憩時間あと十五分だろ」
「あ、ありがとうございます」
彼女は今度は素直にそれを手に取った。桜色の指先がそっと箱を取り上げ、綺麗とつぶやく口元はみずみずしさを湛えてゆるく弧を描く。
今日のやり取りの中で自分の行動の成果を確認した零は、ソファの高さに対して余っていた足を組んで座りなおした。やや意地の悪い笑みを浮かべる。
「あぁそうだ。俺は意味のない行動はしない。
そのあたりをよく考えたうえでそれを口に入れろよ」
二度、三度と瞬きをして零の双色の眼を見つめていた那由多は何を思ったかふわりと破顔した。
「じゃあ二人で食べましょうね」
そう言って小箱をテーブルの中央へと戻す。きっと慌てるであろうという予想に反して返ってきた意味のわからない行動と言動に、今度は零が那由多の顔をまじまじと眺めることになった。その顔は普段と変わらず儚げで、いたずらっぽく上げられた口角があまりみない表情を作っているだけだった。
「……なんで俺が」
「だってほら、もし私を騙すつもりだったとしても、二人で食べたら共犯ですから」
「なんだそりゃ」
「何でしょうね、ふふ。私もわからなくなってしまいました」
夢見がちだが不思議と続きを読ませる説得力のある文章を書く理論屋はどこへ行ったのだろうか。彼女なりの冗談なのか、それとも零の話をうまいことはぐらかしたのか。あまりにもめちゃくちゃな理論に脱力する。そんな零を尻目にすっかりチョコレートへと興味を移した彼女はううんと小さく唸った。
「このなかならどれが食べたいですか?
私はこの赤いハートのラズベリー風味のプラリネがおすすめなんですけれど……。でも山田さんは普段甘いものはあまり召し上がりませんよね。もし甘いものが苦手でしたらこちらのウイスキー風味のトリュフはビターで食べやすいかもしれません。あとはこちらのコーヒーのクリームのものもとっても美味しいので……」
一つずつ味の解説を始めてしまい、その熱量はもはや零が余計な口をはさむ余裕もない。なるほど人の心というのは零が思うよりもずいぶんと複雑なものらしかった。
重い溜め息を吐き、低く告げる。
「容赦なく騙くらかしてやるからな」
下地は整ったのだ。情けも容赦も慈悲もくれてやるつもりはなかった。大半の人間の彼に対する認識は正しく、山田零という男は狙った獲物をみすみす逃すような生易しい男ではない。
「ふふ、どうぞ共犯者さん」
この世で唯一それを知らない彼女の小さな口に、見るからに甘ったるいホワイトチョコのトリュフを押し込む。頬を抑えてとろける表情を浮かべたのをながめて、今度は囁くように告げた。
「覚悟をしろよ」
それは忠告ではなく、宣戦布告であった。
5月の夢
5月の夢
零那由
!過去捏造
春のそよぐ風に、やわく髪をかき回される夢を見た。
林檎の木には白い花が咲いていて、零の波打つ髪を乱した風が小さな花弁をさらってゆく。風の形を浮かび上がらせる草原も、新緑と花とが葉桜のようにも見える林檎の木も、零は知らない。だからそれが夢だというのがわかった。
手足が鉛にでもなったかのように重たい。心は凪いでいるのに、地面に沈みそうなほど疲れていた。肺の中の空気をゆっくりと吐く。最後まで吐ききると、反動でしっとりと僅かに甘い空気が空気が胸を満たした。
再び花に目を向ける。
ふと、眼前の光景を見せてやりたいなと思う。普段よりも回転の鈍い頭によぎるのは一人の女で、零とは違う光に透ける真っ直ぐな髪を風に遊ばせて、もともと下がっている目尻をますます下げて顔をほころばせるのだろう。あのとろけるような笑みは零の気に入りだった。知らず上がった口角に気づかぬまま目を閉じる。間もなく重い手足に引きずられるように身体が沈み込んだ。
急な浮遊感に襲われ、反射的に手足が痙攣するかのように動いた。その感覚に引っ張られ弾かれたように零の意識が浮上する。何が起こったかよくわからないまま、目を開ければよく見知った顔がそこにあった。
「零さん?」
「あぁ」
気遣わしげに呼ばれた名に脊髄で返事を返す。自分の声が耳から脳に伝わり徐々に混乱していた思考回路が繋がりだした。よく見知ったどころか先程まで会いたいと思っていた相手はこちらを見下ろしていて、流れ落ちた髪の向こうにはリビングの天井があった。左目の視界が悪く、腕が動かしづらい。変わりに右手でそっとあたりを探れば指先が空をかいたあと、身体の下の布地に触れる。覚えのあるそれはどうやらソファらしい。首の後ろがやわくて温かい。ストンと納得をした。それは美しい夢も見るはずだ。
「お疲れだったんですね」
細くなめらかな指先に隈があるであろう目元をそっとなぞられる。伝わるわずかな熱と労いの言葉をうけて、つながった思考回路に時計を巻き戻すように記憶が蘇る。
すべてのはじまりは職場でのできごとだった。
いけ好かない大学の学部長を黙らせようと実験を重ねて馬鹿みたいに分厚い資料をこしらえ叩きつけた。が、奴はろくに中身を見もせずに次の雑誌の掲載に間に合うようにそれをまとめ上げろという。嫌な笑いで資料を突き返され、馬鹿みたいな指令に直属の上司となる男と顔を見合わせたのが2週間前だっただろうか。そこからはまさに地獄のような日々で、書いては直し読み返しまた書いては消しての繰り返しだ。大詰めのこの数日は食事も睡眠もままならなかった。15時までに提出の論文を14時58分に出版元へ送ったのが今日。送信完了と受領の連絡を受けて苦楽を共にした上司とともに椅子に沈んだ。
煙草とコーヒーとエナジードリンク、パンの袋の切れ端と大量の紙切れで荒れ果てた研究室でも、その一瞬だけは勝利の喜びに浸った。これからどんな修正が来るかわからないが、よほどのことがない限りはなんとかなるだろう。
「今日は解散、部屋はもう週明けに片付けよう」
緩慢な動作で水を飲む上司の言葉に零は軽く頷き返し、手近にあった財布をポケットへ入れた。何が入っていたか忘れたが机の下から鞄を引っ張り出して目についた、家から持ち込んだタオルやら丸めていた着替えやらを詰め込んだ。
「俺は少し寝てから帰るよ。お前もひどい顔だぞ、少し休んでいったらどうだ?」
帰りに事故でも起こしたら可愛い娘が悲しむからなあと続ける上司には悪いが、零にそのつもりはなかった。紙の束を2つほど崩して見つけた鍵を右手に握って立ち上がる。
「俺は帰る」
なにか蹴飛ばしたような気もしたが、そもそも鳥の巣より荒れ果てた研究室だ。何も気に留めることなく零は部屋を出た。階段を駆け下りて、足早に駐車場を目指す。助手席に鞄を放り、自身も愛車に乗り込んだ。平日の比較的空いている道路ですら、今の零にはあまりに障害が多く思える。
狙ったかのように赤に変わる信号に舌打ちし、法定速度以下でのんびり走る車をかわしながら、人差し指でハンドルを叩く。静かな車内に耐えられなくて、ラジオをつけた。気の抜けるような音楽が気に入らなくてまたすぐにそれを消す。ただ家に帰りたかった。
待望の家について、零は一瞬考える。ドアを開けるのに何故か少し緊張して、いつもより慎重にノブを回した。きぃと小さな音を立てて扉はあっさりと開き、いつも通り玄関には小さな靴が一足きちんと揃えて置かれていた。いつも通りの光景に安堵すると同時に、鍵もドアロックもかかっていなかったことに眉をひそめ、後で不用心を注意しようと脳内のメモに刻む。
リビングのドアを開けると明るい室内のソファで洗濯物を畳んでいたらしい妻、那由他がはっと振り返った。驚きの表情が見る間に喜色に染まってゆく。
「おかえりなさい零さん……!」
鈴を振ったような明るい声に今までの嫌なことも疲れもなにもかも吹き飛んだ。
「ただいま」
そっと華奢な肩に触れ、ソファを回り込む。立ち上がった那由多の手から落ちた洗濯物を拾ってやろうと屈んだとき、酷い目眩に襲われた。平衡感覚を失った身体は姿勢を真っ直ぐに保てなかった。
「零さん!」
焦る声に応えられないまま、ぶつりと意識が途切れた。
そこまでの記憶を取り戻し、ようやく現在の状況を正しく理解した。
「寒くありませんか?
もう少し横になっていてください」
甘い声の誘惑に負けず、零は起き上がり一人で座り直した。両膝に肘をつき、かがみ込むように両手に顔を埋める。
「あぁ……」
ざりと掌に髭の感触がし、地の底を這うような声が漏れた。恐ろしいことに眠気覚ましに最後にシャワーを浴びたのが今日か昨日か定かではない。風呂に入っていない男の匂いなど最悪。ましてや研究室では気を静めるためにろくに換気もせずに煙草をふかした。新妻を前にとんだ失態を犯したわけで、ため息を吐いて頭を抱えたくなるものである。伝えるべきことも伝えたいことも山程あれど、喉につかえて出てこない。身体より重たくなった気持ちにつられ、思い出したように頭が痛んだ。
暫しの逡巡のあと、小さくくぐもった声を絞り出す。
「……今何時だ」
「まだ17時ですよ」
「悪い、重かっただろ」
「そんなこと、大丈夫です。
私こそごめんなさい。零さんをベットまで運べたら良かったのですけれど……」
平均よりかなり大柄な零を、その肩までしかない小柄な彼女が運ぶのはさすがに無理があるだろう。そんなことはいいんだとその先の言葉を手のひらで遮った。
横目で伺った那由多の顔に失望の色はなかったが、代わりに少しの怒りが見え、内臓が冷えるような奇妙な感覚がした。
視線に気づいた那由多は零に向き直る。わずかに膝が触れた。
「私も科学者の端くれですから、あなたの研究が世のためになることも、時には忙しく立ち回る必要があることもわかります。
でも、あまり無茶はしないで」
いつもと変わらない優しい声だ。零は知り合ってこの方、那由多が声を荒らげたところを見たことがない。そんなことよくわかっていると返したいところではあったが、今回については売られた自ら喧嘩を買ったという後ろめたさがあり、言葉を押し止める。
「わざわざ夜中に家に戻って、ご飯とお風呂を済ませたら出ていってしまうし。着替えと差し入れを持っていってもお顔を見れなくて……、もう少し、頼ってほしいのに」
うん、ともううん、ともつかない唸り声のような音が自分の喉から鳴った。寂しい思いをさせたとは思う。だが零も何も思わなかったわけではない。むしろ、一度緊張の糸を切ればあの修羅場には戻ることができないと、可愛い妻の寝顔を眺めるに留まった強靭な理性を褒めたいところだ。わざわざ自分を訪ねてくれたと知ったときの喜びも、やたら馴れ馴れしく絡んでいた別の研究室の職員を後で少々シメたことも、那由多は知らなくていいと思う。もちろん自分からは口が裂けても言うつもりはなかったので、彼女は知ることはないだろうが。
「いや、俺は別にお前を……」
那由多も論理的な思考が得意な方だ。筋道を立てて話せば少しでもなにかわかってもらえるのではないかと双色の瞳を真っ直ぐに向ける。俯いていた那由多もそれに合わせて顔を上げた。
澄んだ両の目に薄く涙の膜が張っている。女の涙は武器とはよく言ったものだ。その透明な雫を溢された日には、立ち尽くす以外何ができるだろうか。
「私が大切だと思う貴方を大切にしてください」
含みのある言葉だ。だが重たかった身体から力が抜ける。じわじわと冷えた内臓に血が通い、心臓の鼓動の音を聞いた。
「……わかった」
「約束ですよ。絶対ですからね」
零の両の頬を包むように手が伸びて、髪に指が差し込まれる。数回頷けばそのまま夢の中と同じように優しく撫でられた。零の完全なる敗北をもってその会話は終了した。
目を閉じた零は暫くそのこそばゆい感触を甘んじて受け入れていたが、身体から力を抜けるとぐらりと自身の身体が傾いたので再度目を開ける。今度は眼の前の那由多を巻き込む前にソファの背もたれへと手をかけることができた。
「やっぱりもう少し寝ましょう。ベットへ行きますか?」
首を横にふり、そっとその手をほどいた。
「シャワー浴びてくる」
「大丈夫ですか?」
「あぁ」
立ち上がると背中や首の関節が小気味よく鳴った。
「腹が減ってるんだが、何か食べれるものがあれば準備しておいてくれないか」
「えぇ、お夕飯の準備しちゃいますね」
食欲があるとわかってか那由多の顔も緩む。立ち上がり、何かあったら呼んでくださいね、と零に向き直ると手を差し出した。小さなその手を借りる、というよりは引き寄せないように注意しながら零も立ち上がった。
「今日はポトフとドリアですよ」
温かな手を引き、低い位置のつむじに唇を落とす。そこは確かに帰りたかった我が家だった。
零那由
!過去捏造
春のそよぐ風に、やわく髪をかき回される夢を見た。
林檎の木には白い花が咲いていて、零の波打つ髪を乱した風が小さな花弁をさらってゆく。風の形を浮かび上がらせる草原も、新緑と花とが葉桜のようにも見える林檎の木も、零は知らない。だからそれが夢だというのがわかった。
手足が鉛にでもなったかのように重たい。心は凪いでいるのに、地面に沈みそうなほど疲れていた。肺の中の空気をゆっくりと吐く。最後まで吐ききると、反動でしっとりと僅かに甘い空気が空気が胸を満たした。
再び花に目を向ける。
ふと、眼前の光景を見せてやりたいなと思う。普段よりも回転の鈍い頭によぎるのは一人の女で、零とは違う光に透ける真っ直ぐな髪を風に遊ばせて、もともと下がっている目尻をますます下げて顔をほころばせるのだろう。あのとろけるような笑みは零の気に入りだった。知らず上がった口角に気づかぬまま目を閉じる。間もなく重い手足に引きずられるように身体が沈み込んだ。
急な浮遊感に襲われ、反射的に手足が痙攣するかのように動いた。その感覚に引っ張られ弾かれたように零の意識が浮上する。何が起こったかよくわからないまま、目を開ければよく見知った顔がそこにあった。
「零さん?」
「あぁ」
気遣わしげに呼ばれた名に脊髄で返事を返す。自分の声が耳から脳に伝わり徐々に混乱していた思考回路が繋がりだした。よく見知ったどころか先程まで会いたいと思っていた相手はこちらを見下ろしていて、流れ落ちた髪の向こうにはリビングの天井があった。左目の視界が悪く、腕が動かしづらい。変わりに右手でそっとあたりを探れば指先が空をかいたあと、身体の下の布地に触れる。覚えのあるそれはどうやらソファらしい。首の後ろがやわくて温かい。ストンと納得をした。それは美しい夢も見るはずだ。
「お疲れだったんですね」
細くなめらかな指先に隈があるであろう目元をそっとなぞられる。伝わるわずかな熱と労いの言葉をうけて、つながった思考回路に時計を巻き戻すように記憶が蘇る。
すべてのはじまりは職場でのできごとだった。
いけ好かない大学の学部長を黙らせようと実験を重ねて馬鹿みたいに分厚い資料をこしらえ叩きつけた。が、奴はろくに中身を見もせずに次の雑誌の掲載に間に合うようにそれをまとめ上げろという。嫌な笑いで資料を突き返され、馬鹿みたいな指令に直属の上司となる男と顔を見合わせたのが2週間前だっただろうか。そこからはまさに地獄のような日々で、書いては直し読み返しまた書いては消しての繰り返しだ。大詰めのこの数日は食事も睡眠もままならなかった。15時までに提出の論文を14時58分に出版元へ送ったのが今日。送信完了と受領の連絡を受けて苦楽を共にした上司とともに椅子に沈んだ。
煙草とコーヒーとエナジードリンク、パンの袋の切れ端と大量の紙切れで荒れ果てた研究室でも、その一瞬だけは勝利の喜びに浸った。これからどんな修正が来るかわからないが、よほどのことがない限りはなんとかなるだろう。
「今日は解散、部屋はもう週明けに片付けよう」
緩慢な動作で水を飲む上司の言葉に零は軽く頷き返し、手近にあった財布をポケットへ入れた。何が入っていたか忘れたが机の下から鞄を引っ張り出して目についた、家から持ち込んだタオルやら丸めていた着替えやらを詰め込んだ。
「俺は少し寝てから帰るよ。お前もひどい顔だぞ、少し休んでいったらどうだ?」
帰りに事故でも起こしたら可愛い娘が悲しむからなあと続ける上司には悪いが、零にそのつもりはなかった。紙の束を2つほど崩して見つけた鍵を右手に握って立ち上がる。
「俺は帰る」
なにか蹴飛ばしたような気もしたが、そもそも鳥の巣より荒れ果てた研究室だ。何も気に留めることなく零は部屋を出た。階段を駆け下りて、足早に駐車場を目指す。助手席に鞄を放り、自身も愛車に乗り込んだ。平日の比較的空いている道路ですら、今の零にはあまりに障害が多く思える。
狙ったかのように赤に変わる信号に舌打ちし、法定速度以下でのんびり走る車をかわしながら、人差し指でハンドルを叩く。静かな車内に耐えられなくて、ラジオをつけた。気の抜けるような音楽が気に入らなくてまたすぐにそれを消す。ただ家に帰りたかった。
待望の家について、零は一瞬考える。ドアを開けるのに何故か少し緊張して、いつもより慎重にノブを回した。きぃと小さな音を立てて扉はあっさりと開き、いつも通り玄関には小さな靴が一足きちんと揃えて置かれていた。いつも通りの光景に安堵すると同時に、鍵もドアロックもかかっていなかったことに眉をひそめ、後で不用心を注意しようと脳内のメモに刻む。
リビングのドアを開けると明るい室内のソファで洗濯物を畳んでいたらしい妻、那由他がはっと振り返った。驚きの表情が見る間に喜色に染まってゆく。
「おかえりなさい零さん……!」
鈴を振ったような明るい声に今までの嫌なことも疲れもなにもかも吹き飛んだ。
「ただいま」
そっと華奢な肩に触れ、ソファを回り込む。立ち上がった那由多の手から落ちた洗濯物を拾ってやろうと屈んだとき、酷い目眩に襲われた。平衡感覚を失った身体は姿勢を真っ直ぐに保てなかった。
「零さん!」
焦る声に応えられないまま、ぶつりと意識が途切れた。
そこまでの記憶を取り戻し、ようやく現在の状況を正しく理解した。
「寒くありませんか?
もう少し横になっていてください」
甘い声の誘惑に負けず、零は起き上がり一人で座り直した。両膝に肘をつき、かがみ込むように両手に顔を埋める。
「あぁ……」
ざりと掌に髭の感触がし、地の底を這うような声が漏れた。恐ろしいことに眠気覚ましに最後にシャワーを浴びたのが今日か昨日か定かではない。風呂に入っていない男の匂いなど最悪。ましてや研究室では気を静めるためにろくに換気もせずに煙草をふかした。新妻を前にとんだ失態を犯したわけで、ため息を吐いて頭を抱えたくなるものである。伝えるべきことも伝えたいことも山程あれど、喉につかえて出てこない。身体より重たくなった気持ちにつられ、思い出したように頭が痛んだ。
暫しの逡巡のあと、小さくくぐもった声を絞り出す。
「……今何時だ」
「まだ17時ですよ」
「悪い、重かっただろ」
「そんなこと、大丈夫です。
私こそごめんなさい。零さんをベットまで運べたら良かったのですけれど……」
平均よりかなり大柄な零を、その肩までしかない小柄な彼女が運ぶのはさすがに無理があるだろう。そんなことはいいんだとその先の言葉を手のひらで遮った。
横目で伺った那由多の顔に失望の色はなかったが、代わりに少しの怒りが見え、内臓が冷えるような奇妙な感覚がした。
視線に気づいた那由多は零に向き直る。わずかに膝が触れた。
「私も科学者の端くれですから、あなたの研究が世のためになることも、時には忙しく立ち回る必要があることもわかります。
でも、あまり無茶はしないで」
いつもと変わらない優しい声だ。零は知り合ってこの方、那由多が声を荒らげたところを見たことがない。そんなことよくわかっていると返したいところではあったが、今回については売られた自ら喧嘩を買ったという後ろめたさがあり、言葉を押し止める。
「わざわざ夜中に家に戻って、ご飯とお風呂を済ませたら出ていってしまうし。着替えと差し入れを持っていってもお顔を見れなくて……、もう少し、頼ってほしいのに」
うん、ともううん、ともつかない唸り声のような音が自分の喉から鳴った。寂しい思いをさせたとは思う。だが零も何も思わなかったわけではない。むしろ、一度緊張の糸を切ればあの修羅場には戻ることができないと、可愛い妻の寝顔を眺めるに留まった強靭な理性を褒めたいところだ。わざわざ自分を訪ねてくれたと知ったときの喜びも、やたら馴れ馴れしく絡んでいた別の研究室の職員を後で少々シメたことも、那由多は知らなくていいと思う。もちろん自分からは口が裂けても言うつもりはなかったので、彼女は知ることはないだろうが。
「いや、俺は別にお前を……」
那由多も論理的な思考が得意な方だ。筋道を立てて話せば少しでもなにかわかってもらえるのではないかと双色の瞳を真っ直ぐに向ける。俯いていた那由多もそれに合わせて顔を上げた。
澄んだ両の目に薄く涙の膜が張っている。女の涙は武器とはよく言ったものだ。その透明な雫を溢された日には、立ち尽くす以外何ができるだろうか。
「私が大切だと思う貴方を大切にしてください」
含みのある言葉だ。だが重たかった身体から力が抜ける。じわじわと冷えた内臓に血が通い、心臓の鼓動の音を聞いた。
「……わかった」
「約束ですよ。絶対ですからね」
零の両の頬を包むように手が伸びて、髪に指が差し込まれる。数回頷けばそのまま夢の中と同じように優しく撫でられた。零の完全なる敗北をもってその会話は終了した。
目を閉じた零は暫くそのこそばゆい感触を甘んじて受け入れていたが、身体から力を抜けるとぐらりと自身の身体が傾いたので再度目を開ける。今度は眼の前の那由多を巻き込む前にソファの背もたれへと手をかけることができた。
「やっぱりもう少し寝ましょう。ベットへ行きますか?」
首を横にふり、そっとその手をほどいた。
「シャワー浴びてくる」
「大丈夫ですか?」
「あぁ」
立ち上がると背中や首の関節が小気味よく鳴った。
「腹が減ってるんだが、何か食べれるものがあれば準備しておいてくれないか」
「えぇ、お夕飯の準備しちゃいますね」
食欲があるとわかってか那由多の顔も緩む。立ち上がり、何かあったら呼んでくださいね、と零に向き直ると手を差し出した。小さなその手を借りる、というよりは引き寄せないように注意しながら零も立ち上がった。
「今日はポトフとドリアですよ」
温かな手を引き、低い位置のつむじに唇を落とす。そこは確かに帰りたかった我が家だった。
時速二百七十キロメートルの感情
時速二百七十キロメートルの感情
空獄
2022年空獄アンソロ提出作品
かたんことんと規則正しいリズムを刻む揺れに身を任せ、ナゴヤディビジョンの三人は東都を目指していた。
「何回見ても富士山って感動するっすね!」
二人がけの座席をわざわざ向かい合わせにして窓を横に十四がはしゃぐ。ナゴヤを出てしばし、普段のどこか霞んだ姿ではなく、窓いっぱいにそびえる霊峰は確かに見応えがあった。しかし十四の向かいに座る空却は牛飯と書かれた弁当の箱を抱え込むようにしてせっせと箸を動かしていて、なんともいえない返事を返すのみ。それでも十四はめげずに同意を求めるようにして獄を見つめる。
「あぁ、まあ日本一だしな」
輝く瞳に耐えきれず獄は頷いた。彼にとっては別段感動するほどのものでもなかったが、昔友人と初めて富士山へ登ってみようとでかけた際に同じようにはしゃいだのをふと思い出す。
「ほら、空却さんももっと見て」
やや無理矢理に首を窓へ向けられた空却は、落としかけた肉を信じがたい反射速度で掴まえた。それを口に入れてから、箸を持つ手で十四の大きな手を払いのける。
「飯の邪魔をするんじゃねぇよ」
「でも、今見ておかないと損っすよ!」
十四の膝の上でアマンダも跳ねる。へぇと一応目を窓の外へやるあたりが空却の可愛らしいところだった。
「やっぱりいいっすよね」
「そうだ、そんなに山が好きなら次の修行は山登りにするかぁ?」
にっと口の端を上げた空却は十四を見た。
「えぇ、登ったら見えないっすよ」
どこかズレた答えに思わず獄は吹き出した。
「そんなこと心配してる場合か、コイツなら本気で富士山に登るぞ」
「まぁな、やるんなら本気でテッペンとらねぇとだろ。来週にでも行くか!」
あまりに急な展開に十四は目を白黒とさせる。獄は盛大に溜息を吐いてみせた。
「そんな急に行けるか。お前らは装備もないだろ」
「三千メートルくらいなんとかなるだろ」
「山を舐めるなよ」
「三千メートル、登ろうとしてるんすか……?
ちょっと、それは無理っすよお」
「やる前から無理なんて言うんじゃねぇ!」
獄はいつものようにじゃれ合いはじめた二人を眺めて一人笑う。やはりどこか懐かしい光景のような気がするのだった。
獄が無意識に十四を見つめていたので、それを同意とみなした十四ははにかんで首を傾げた。
「どうかしたんすか?」
「なんでもねぇよ。
……富士山へ登るのも悪くないかと思っただけだ」
「獄さんまで!」
ひぇ、などと声をあげた十四に気を取られ、獄は隣に座る空却が何か言いたげに僅かに目を細めたのを見ていなかった。見ていれば何かを掴めたかもしれないが、物事はそう上手くは運ばないのだった。
暫く穏やかに旅は続き、そろそろヨコハマディビジョンへ近づこうかという頃だった。前日の夜はライブだった十四は窓枠へ肘をつきアマンダを抱えてすっかり眠りこんでいる。振動で時折頭が落ちそうになるのだが、その度器用に目覚めるのだから不思議だった。
空却は獄を相手に色々と話をしていたが、それにも飽きたのか言葉を止めた。眠気が来たかと獄がちらと様子を伺うと、空却は十四と同じように窓枠へ肘をついて窓を向いていた。
「眠けりゃ寝ておけよ。東都についてからが本番だからな」
もして寝ていたら聞こえないだろう低い声で獄が言う。返事がないのを確認して、獄は座席へ深く身を預け直した。ゆっくりと深く息を吐き出した。二人は手のかかる子どもたちではあるが、頼もしい仲間でもある。このまま二人が好きなことを好きなだけのびのびと挑戦させてやるのが大人の務めというものだ。そのためなら奥へしまい込んだ登山用具を引っ張り出してくるくらいはしてもいいかと思っている。
訪れた静寂に獄も軽く目を閉じる。そんなときだった。
「獄」
おもむろに空却の声が間近で聞こえる。少し緊張したような声だった。
「なんだよ」
獄は目を開けずに答えた。
「十四の向こうに誰を見てた」
「何だそりゃ」
獄は目を開く。眼の前に煌々と光る瞳があった。トンネルへ入ったのか周りが一段暗くなり、ごうごうと電車の走る音がうるさい。
「拙僧らをお前の過去を慰める道具にするんじゃねぇって言ってんだよ」
周りの音にかき消されそうなひそめられた声なのに、耳に突き刺さるような圧のある言葉だった。いつになく淡々とした様子には怒りでも悲しみでもない何かがある。獄はそこに大きな感情があるのは理解できるのに、それがなにかまだわらがないのだった。
「いったい何の……」
言いかけた獄の視界が金色で一杯になる。と同時にその唇へ少しカサついて熱いものが触れた。眼の前で燃えるものを理解してはいけないと獄の本能が告げていた。
獄の理解が追いつく前にがり、と音がしてその唇に痛みが走る。
「……っ」
ぱっと互いに離れたが、上手く言葉は出てこない。何をしやがると叫ぶとこも、冗談だと笑い飛ばすことも、なにも。
トンネルが終わり、社内がぱっと明るくなる。空却は珍しくバツの悪そうな顔をしてガシガシと頭をかくと、するりと通路へ出て歩き出した。
「頭、冷やしてくるわ」
獄は丸められた背中で揺れるスカジャンの刺繍が揺れるのをただ見送ることしかできないのだった。
単調な列車の音とのどかな景色、穏やかな十四の寝息とはちぐはぐなひりつく痛みだけが、今の出来事が夢ではないと告げていた。
空獄
2022年空獄アンソロ提出作品
かたんことんと規則正しいリズムを刻む揺れに身を任せ、ナゴヤディビジョンの三人は東都を目指していた。
「何回見ても富士山って感動するっすね!」
二人がけの座席をわざわざ向かい合わせにして窓を横に十四がはしゃぐ。ナゴヤを出てしばし、普段のどこか霞んだ姿ではなく、窓いっぱいにそびえる霊峰は確かに見応えがあった。しかし十四の向かいに座る空却は牛飯と書かれた弁当の箱を抱え込むようにしてせっせと箸を動かしていて、なんともいえない返事を返すのみ。それでも十四はめげずに同意を求めるようにして獄を見つめる。
「あぁ、まあ日本一だしな」
輝く瞳に耐えきれず獄は頷いた。彼にとっては別段感動するほどのものでもなかったが、昔友人と初めて富士山へ登ってみようとでかけた際に同じようにはしゃいだのをふと思い出す。
「ほら、空却さんももっと見て」
やや無理矢理に首を窓へ向けられた空却は、落としかけた肉を信じがたい反射速度で掴まえた。それを口に入れてから、箸を持つ手で十四の大きな手を払いのける。
「飯の邪魔をするんじゃねぇよ」
「でも、今見ておかないと損っすよ!」
十四の膝の上でアマンダも跳ねる。へぇと一応目を窓の外へやるあたりが空却の可愛らしいところだった。
「やっぱりいいっすよね」
「そうだ、そんなに山が好きなら次の修行は山登りにするかぁ?」
にっと口の端を上げた空却は十四を見た。
「えぇ、登ったら見えないっすよ」
どこかズレた答えに思わず獄は吹き出した。
「そんなこと心配してる場合か、コイツなら本気で富士山に登るぞ」
「まぁな、やるんなら本気でテッペンとらねぇとだろ。来週にでも行くか!」
あまりに急な展開に十四は目を白黒とさせる。獄は盛大に溜息を吐いてみせた。
「そんな急に行けるか。お前らは装備もないだろ」
「三千メートルくらいなんとかなるだろ」
「山を舐めるなよ」
「三千メートル、登ろうとしてるんすか……?
ちょっと、それは無理っすよお」
「やる前から無理なんて言うんじゃねぇ!」
獄はいつものようにじゃれ合いはじめた二人を眺めて一人笑う。やはりどこか懐かしい光景のような気がするのだった。
獄が無意識に十四を見つめていたので、それを同意とみなした十四ははにかんで首を傾げた。
「どうかしたんすか?」
「なんでもねぇよ。
……富士山へ登るのも悪くないかと思っただけだ」
「獄さんまで!」
ひぇ、などと声をあげた十四に気を取られ、獄は隣に座る空却が何か言いたげに僅かに目を細めたのを見ていなかった。見ていれば何かを掴めたかもしれないが、物事はそう上手くは運ばないのだった。
暫く穏やかに旅は続き、そろそろヨコハマディビジョンへ近づこうかという頃だった。前日の夜はライブだった十四は窓枠へ肘をつきアマンダを抱えてすっかり眠りこんでいる。振動で時折頭が落ちそうになるのだが、その度器用に目覚めるのだから不思議だった。
空却は獄を相手に色々と話をしていたが、それにも飽きたのか言葉を止めた。眠気が来たかと獄がちらと様子を伺うと、空却は十四と同じように窓枠へ肘をついて窓を向いていた。
「眠けりゃ寝ておけよ。東都についてからが本番だからな」
もして寝ていたら聞こえないだろう低い声で獄が言う。返事がないのを確認して、獄は座席へ深く身を預け直した。ゆっくりと深く息を吐き出した。二人は手のかかる子どもたちではあるが、頼もしい仲間でもある。このまま二人が好きなことを好きなだけのびのびと挑戦させてやるのが大人の務めというものだ。そのためなら奥へしまい込んだ登山用具を引っ張り出してくるくらいはしてもいいかと思っている。
訪れた静寂に獄も軽く目を閉じる。そんなときだった。
「獄」
おもむろに空却の声が間近で聞こえる。少し緊張したような声だった。
「なんだよ」
獄は目を開けずに答えた。
「十四の向こうに誰を見てた」
「何だそりゃ」
獄は目を開く。眼の前に煌々と光る瞳があった。トンネルへ入ったのか周りが一段暗くなり、ごうごうと電車の走る音がうるさい。
「拙僧らをお前の過去を慰める道具にするんじゃねぇって言ってんだよ」
周りの音にかき消されそうなひそめられた声なのに、耳に突き刺さるような圧のある言葉だった。いつになく淡々とした様子には怒りでも悲しみでもない何かがある。獄はそこに大きな感情があるのは理解できるのに、それがなにかまだわらがないのだった。
「いったい何の……」
言いかけた獄の視界が金色で一杯になる。と同時にその唇へ少しカサついて熱いものが触れた。眼の前で燃えるものを理解してはいけないと獄の本能が告げていた。
獄の理解が追いつく前にがり、と音がしてその唇に痛みが走る。
「……っ」
ぱっと互いに離れたが、上手く言葉は出てこない。何をしやがると叫ぶとこも、冗談だと笑い飛ばすことも、なにも。
トンネルが終わり、社内がぱっと明るくなる。空却は珍しくバツの悪そうな顔をしてガシガシと頭をかくと、するりと通路へ出て歩き出した。
「頭、冷やしてくるわ」
獄は丸められた背中で揺れるスカジャンの刺繍が揺れるのをただ見送ることしかできないのだった。
単調な列車の音とのどかな景色、穏やかな十四の寝息とはちぐはぐなひりつく痛みだけが、今の出来事が夢ではないと告げていた。
あなたを師匠と呼ばせてください
あなたを師匠と呼ばせてください
見習いDJ+呂久呂
あの日のヨコハマは年末を前に雪がちらつき、しんしんと冷えていた。いつも寝床にするような場所は軒並み休業で、駅は初詣客のために終日ごった返している。困った見習いDJはただ寒さを凌ぐ場所欲しさに地下のライブハウスへと潜り込んだのだった。カウントダウンライブのチラシを眺めて、自分が恐れるような音を流すような曲目が見当たらないことを確認してからそっと裏口へまわった。こういった場所は客としてよりもスタッフに紛れたほうが案外バレないもので、あっさりと舞台袖へ潜り込むことができた。誰もがステージに集中しているので、舞台装置の影の暗がりでじっとしていれば見咎められることもない。舞台照明を浴びて輝くアコースティックギターの音と、切ない歌声を子守唄にゆっくりと目を閉じた。ライブが終わって叩き出されるまでにしっかりと寝ておかなければならない。明日の静かな街並みに思いを馳せつつ、寒さにかじかんだ指先を擦り合わせてから握る。歌詞の意味のわからない単語の羅列がすぐに夢へと誘ってくれた。
穏やかな休息は想像と異なる形で終わりを告げた。ドンッ、と腹の底に響くビートに見習いDJは跳ねるように飛び起きる。
聞こえていたはずの穏やかな旋律は消え、半ば割れた音がきぃんと突き刺さる。殴りつけるような乱暴な重低音に押されるように心臓がめちゃくちゃに暴れだしていた。「サプライズ」「カウントダウン」「DJ」「ラップバトル」耳が単語を拾うのに脳で処理をすることができない。
見習いDJはこの手の大きな音が苦手だった。雷や太鼓、クラッカーの破裂音に体の芯まで響くようなベース音。そんなものを急に耳にすると身体が動きを止めてしまうのだった。本人はよく覚えていないが、幼い頃のただひたすらに恐ろしかった感情が記憶の淵からぶわりと湧き上がってきて手足を支配してしまう。
冷たく震えてきた指先で必死に耳を塞いでも、脳まで揺らす音が襲いかかってくる。明滅しはじめた視界が滲む頃、大きな影に包まれた。酒と煙草の苦い匂いの染み付いた服に額が触れる。あたたかい大きな手が被せるように耳に押し当てられ、全ての音が遠のいた。
「おい、クソガキ」
誰だかはわからない。ただその人の声が胸から骨を伝わってくる。
「しっかり息をしろ」
知らずに息を詰めていたらしく、ひゅうと音を立てて肺へ酸素が流れ込む。強い意志をもった言葉は他の音を押しのけてはっきりと聞こえた。触れた場所から声とともに体温がじわじわと見習いDJへと移り、震えが徐々におさまっていく。
「俺があの耳障りな音を消してきてやる」
呼吸が正常に戻るのを待って、影は重たいヘッドホンを残しするりと離れた。一抹の寂しさを残して見習いDJの視界がひらかれる。
逆光の中、気怠げな足取りの大きな影はぬるりとステージへ侵入し、DJブースにいた男をぐいと押しのける。一瞬の後にブツンと音が消えた。ヘッドホンの向こうでは、あがった悲鳴やざわめきすらその人が腕を挙げただけでぴたりと消え失せ、水を打ったような静寂が訪れる。いまや舞台上は目を伏せた一人の男に支配されていた。見習いDJもまた目が離せないまま、固唾を飲んで何かが始まるその時を待っていた。
ぐっと照明が絞られ、一条のスポットライトでDJブースが浮かび上がる。白金の髪がきらきらと煌めき、挙げられた手がゆっくり機器に触れた。ゆっくりと静かなビートが流れ、ひとつ、ふたつと新しい音が重なる。踊るように指先が動き、あっという間に心地いいグルーブが生まれ会場を包み込んだ。素人の見習いDJにもわかる、それは先程までとは格の違う超絶技巧だった。しっとりとゆるやかなだったリズムは徐々にテンポを上げ、それとともに観客のボルテージも上がっていく。心臓が紡がれた音に合わせるように心地よく高鳴るのだ。ずるりとヘッドホンが肩まで落ちる。会場が割れんばかりの歓声に包まれるころ、見習いDJは初めて嫌いだった音を克服したのだった。
見習いDJ+呂久呂
あの日のヨコハマは年末を前に雪がちらつき、しんしんと冷えていた。いつも寝床にするような場所は軒並み休業で、駅は初詣客のために終日ごった返している。困った見習いDJはただ寒さを凌ぐ場所欲しさに地下のライブハウスへと潜り込んだのだった。カウントダウンライブのチラシを眺めて、自分が恐れるような音を流すような曲目が見当たらないことを確認してからそっと裏口へまわった。こういった場所は客としてよりもスタッフに紛れたほうが案外バレないもので、あっさりと舞台袖へ潜り込むことができた。誰もがステージに集中しているので、舞台装置の影の暗がりでじっとしていれば見咎められることもない。舞台照明を浴びて輝くアコースティックギターの音と、切ない歌声を子守唄にゆっくりと目を閉じた。ライブが終わって叩き出されるまでにしっかりと寝ておかなければならない。明日の静かな街並みに思いを馳せつつ、寒さにかじかんだ指先を擦り合わせてから握る。歌詞の意味のわからない単語の羅列がすぐに夢へと誘ってくれた。
穏やかな休息は想像と異なる形で終わりを告げた。ドンッ、と腹の底に響くビートに見習いDJは跳ねるように飛び起きる。
聞こえていたはずの穏やかな旋律は消え、半ば割れた音がきぃんと突き刺さる。殴りつけるような乱暴な重低音に押されるように心臓がめちゃくちゃに暴れだしていた。「サプライズ」「カウントダウン」「DJ」「ラップバトル」耳が単語を拾うのに脳で処理をすることができない。
見習いDJはこの手の大きな音が苦手だった。雷や太鼓、クラッカーの破裂音に体の芯まで響くようなベース音。そんなものを急に耳にすると身体が動きを止めてしまうのだった。本人はよく覚えていないが、幼い頃のただひたすらに恐ろしかった感情が記憶の淵からぶわりと湧き上がってきて手足を支配してしまう。
冷たく震えてきた指先で必死に耳を塞いでも、脳まで揺らす音が襲いかかってくる。明滅しはじめた視界が滲む頃、大きな影に包まれた。酒と煙草の苦い匂いの染み付いた服に額が触れる。あたたかい大きな手が被せるように耳に押し当てられ、全ての音が遠のいた。
「おい、クソガキ」
誰だかはわからない。ただその人の声が胸から骨を伝わってくる。
「しっかり息をしろ」
知らずに息を詰めていたらしく、ひゅうと音を立てて肺へ酸素が流れ込む。強い意志をもった言葉は他の音を押しのけてはっきりと聞こえた。触れた場所から声とともに体温がじわじわと見習いDJへと移り、震えが徐々におさまっていく。
「俺があの耳障りな音を消してきてやる」
呼吸が正常に戻るのを待って、影は重たいヘッドホンを残しするりと離れた。一抹の寂しさを残して見習いDJの視界がひらかれる。
逆光の中、気怠げな足取りの大きな影はぬるりとステージへ侵入し、DJブースにいた男をぐいと押しのける。一瞬の後にブツンと音が消えた。ヘッドホンの向こうでは、あがった悲鳴やざわめきすらその人が腕を挙げただけでぴたりと消え失せ、水を打ったような静寂が訪れる。いまや舞台上は目を伏せた一人の男に支配されていた。見習いDJもまた目が離せないまま、固唾を飲んで何かが始まるその時を待っていた。
ぐっと照明が絞られ、一条のスポットライトでDJブースが浮かび上がる。白金の髪がきらきらと煌めき、挙げられた手がゆっくり機器に触れた。ゆっくりと静かなビートが流れ、ひとつ、ふたつと新しい音が重なる。踊るように指先が動き、あっという間に心地いいグルーブが生まれ会場を包み込んだ。素人の見習いDJにもわかる、それは先程までとは格の違う超絶技巧だった。しっとりとゆるやかなだったリズムは徐々にテンポを上げ、それとともに観客のボルテージも上がっていく。心臓が紡がれた音に合わせるように心地よく高鳴るのだ。ずるりとヘッドホンが肩まで落ちる。会場が割れんばかりの歓声に包まれるころ、見習いDJは初めて嫌いだった音を克服したのだった。