あなたを師匠と呼ばせてください
見習いDJ+呂久呂
あの日のヨコハマは年末を前に雪がちらつき、しんしんと冷えていた。いつも寝床にするような場所は軒並み休業で、駅は初詣客のために終日ごった返している。困った見習いDJはただ寒さを凌ぐ場所欲しさに地下のライブハウスへと潜り込んだのだった。カウントダウンライブのチラシを眺めて、自分が恐れるような音を流すような曲目が見当たらないことを確認してからそっと裏口へまわった。こういった場所は客としてよりもスタッフに紛れたほうが案外バレないもので、あっさりと舞台袖へ潜り込むことができた。誰もがステージに集中しているので、舞台装置の影の暗がりでじっとしていれば見咎められることもない。舞台照明を浴びて輝くアコースティックギターの音と、切ない歌声を子守唄にゆっくりと目を閉じた。ライブが終わって叩き出されるまでにしっかりと寝ておかなければならない。明日の静かな街並みに思いを馳せつつ、寒さにかじかんだ指先を擦り合わせてから握る。歌詞の意味のわからない単語の羅列がすぐに夢へと誘ってくれた。
穏やかな休息は想像と異なる形で終わりを告げた。ドンッ、と腹の底に響くビートに見習いDJは跳ねるように飛び起きる。
聞こえていたはずの穏やかな旋律は消え、半ば割れた音がきぃんと突き刺さる。殴りつけるような乱暴な重低音に押されるように心臓がめちゃくちゃに暴れだしていた。「サプライズ」「カウントダウン」「DJ」「ラップバトル」耳が単語を拾うのに脳で処理をすることができない。
見習いDJはこの手の大きな音が苦手だった。雷や太鼓、クラッカーの破裂音に体の芯まで響くようなベース音。そんなものを急に耳にすると身体が動きを止めてしまうのだった。本人はよく覚えていないが、幼い頃のただひたすらに恐ろしかった感情が記憶の淵からぶわりと湧き上がってきて手足を支配してしまう。
冷たく震えてきた指先で必死に耳を塞いでも、脳まで揺らす音が襲いかかってくる。明滅しはじめた視界が滲む頃、大きな影に包まれた。酒と煙草の苦い匂いの染み付いた服に額が触れる。あたたかい大きな手が被せるように耳に押し当てられ、全ての音が遠のいた。
「おい、クソガキ」
誰だかはわからない。ただその人の声が胸から骨を伝わってくる。
「しっかり息をしろ」
知らずに息を詰めていたらしく、ひゅうと音を立てて肺へ酸素が流れ込む。強い意志をもった言葉は他の音を押しのけてはっきりと聞こえた。触れた場所から声とともに体温がじわじわと見習いDJへと移り、震えが徐々におさまっていく。
「俺があの耳障りな音を消してきてやる」
呼吸が正常に戻るのを待って、影は重たいヘッドホンを残しするりと離れた。一抹の寂しさを残して見習いDJの視界がひらかれる。
逆光の中、気怠げな足取りの大きな影はぬるりとステージへ侵入し、DJブースにいた男をぐいと押しのける。一瞬の後にブツンと音が消えた。ヘッドホンの向こうでは、あがった悲鳴やざわめきすらその人が腕を挙げただけでぴたりと消え失せ、水を打ったような静寂が訪れる。いまや舞台上は目を伏せた一人の男に支配されていた。見習いDJもまた目が離せないまま、固唾を飲んで何かが始まるその時を待っていた。
ぐっと照明が絞られ、一条のスポットライトでDJブースが浮かび上がる。白金の髪がきらきらと煌めき、挙げられた手がゆっくり機器に触れた。ゆっくりと静かなビートが流れ、ひとつ、ふたつと新しい音が重なる。踊るように指先が動き、あっという間に心地いいグルーブが生まれ会場を包み込んだ。素人の見習いDJにもわかる、それは先程までとは格の違う超絶技巧だった。しっとりとゆるやかなだったリズムは徐々にテンポを上げ、それとともに観客のボルテージも上がっていく。心臓が紡がれた音に合わせるように心地よく高鳴るのだ。ずるりとヘッドホンが肩まで落ちる。会場が割れんばかりの歓声に包まれるころ、見習いDJは初めて嫌いだった音を克服したのだった。