時速二百七十キロメートルの感情
空獄
2022年空獄アンソロ提出作品
かたんことんと規則正しいリズムを刻む揺れに身を任せ、ナゴヤディビジョンの三人は東都を目指していた。
「何回見ても富士山って感動するっすね!」
二人がけの座席をわざわざ向かい合わせにして窓を横に十四がはしゃぐ。ナゴヤを出てしばし、普段のどこか霞んだ姿ではなく、窓いっぱいにそびえる霊峰は確かに見応えがあった。しかし十四の向かいに座る空却は牛飯と書かれた弁当の箱を抱え込むようにしてせっせと箸を動かしていて、なんともいえない返事を返すのみ。それでも十四はめげずに同意を求めるようにして獄を見つめる。
「あぁ、まあ日本一だしな」
輝く瞳に耐えきれず獄は頷いた。彼にとっては別段感動するほどのものでもなかったが、昔友人と初めて富士山へ登ってみようとでかけた際に同じようにはしゃいだのをふと思い出す。
「ほら、空却さんももっと見て」
やや無理矢理に首を窓へ向けられた空却は、落としかけた肉を信じがたい反射速度で掴まえた。それを口に入れてから、箸を持つ手で十四の大きな手を払いのける。
「飯の邪魔をするんじゃねぇよ」
「でも、今見ておかないと損っすよ!」
十四の膝の上でアマンダも跳ねる。へぇと一応目を窓の外へやるあたりが空却の可愛らしいところだった。
「やっぱりいいっすよね」
「そうだ、そんなに山が好きなら次の修行は山登りにするかぁ?」
にっと口の端を上げた空却は十四を見た。
「えぇ、登ったら見えないっすよ」
どこかズレた答えに思わず獄は吹き出した。
「そんなこと心配してる場合か、コイツなら本気で富士山に登るぞ」
「まぁな、やるんなら本気でテッペンとらねぇとだろ。来週にでも行くか!」
あまりに急な展開に十四は目を白黒とさせる。獄は盛大に溜息を吐いてみせた。
「そんな急に行けるか。お前らは装備もないだろ」
「三千メートルくらいなんとかなるだろ」
「山を舐めるなよ」
「三千メートル、登ろうとしてるんすか……?
ちょっと、それは無理っすよお」
「やる前から無理なんて言うんじゃねぇ!」
獄はいつものようにじゃれ合いはじめた二人を眺めて一人笑う。やはりどこか懐かしい光景のような気がするのだった。
獄が無意識に十四を見つめていたので、それを同意とみなした十四ははにかんで首を傾げた。
「どうかしたんすか?」
「なんでもねぇよ。
……富士山へ登るのも悪くないかと思っただけだ」
「獄さんまで!」
ひぇ、などと声をあげた十四に気を取られ、獄は隣に座る空却が何か言いたげに僅かに目を細めたのを見ていなかった。見ていれば何かを掴めたかもしれないが、物事はそう上手くは運ばないのだった。
暫く穏やかに旅は続き、そろそろヨコハマディビジョンへ近づこうかという頃だった。前日の夜はライブだった十四は窓枠へ肘をつきアマンダを抱えてすっかり眠りこんでいる。振動で時折頭が落ちそうになるのだが、その度器用に目覚めるのだから不思議だった。
空却は獄を相手に色々と話をしていたが、それにも飽きたのか言葉を止めた。眠気が来たかと獄がちらと様子を伺うと、空却は十四と同じように窓枠へ肘をついて窓を向いていた。
「眠けりゃ寝ておけよ。東都についてからが本番だからな」
もして寝ていたら聞こえないだろう低い声で獄が言う。返事がないのを確認して、獄は座席へ深く身を預け直した。ゆっくりと深く息を吐き出した。二人は手のかかる子どもたちではあるが、頼もしい仲間でもある。このまま二人が好きなことを好きなだけのびのびと挑戦させてやるのが大人の務めというものだ。そのためなら奥へしまい込んだ登山用具を引っ張り出してくるくらいはしてもいいかと思っている。
訪れた静寂に獄も軽く目を閉じる。そんなときだった。
「獄」
おもむろに空却の声が間近で聞こえる。少し緊張したような声だった。
「なんだよ」
獄は目を開けずに答えた。
「十四の向こうに誰を見てた」
「何だそりゃ」
獄は目を開く。眼の前に煌々と光る瞳があった。トンネルへ入ったのか周りが一段暗くなり、ごうごうと電車の走る音がうるさい。
「拙僧らをお前の過去を慰める道具にするんじゃねぇって言ってんだよ」
周りの音にかき消されそうなひそめられた声なのに、耳に突き刺さるような圧のある言葉だった。いつになく淡々とした様子には怒りでも悲しみでもない何かがある。獄はそこに大きな感情があるのは理解できるのに、それがなにかまだわらがないのだった。
「いったい何の……」
言いかけた獄の視界が金色で一杯になる。と同時にその唇へ少しカサついて熱いものが触れた。眼の前で燃えるものを理解してはいけないと獄の本能が告げていた。
獄の理解が追いつく前にがり、と音がしてその唇に痛みが走る。
「……っ」
ぱっと互いに離れたが、上手く言葉は出てこない。何をしやがると叫ぶとこも、冗談だと笑い飛ばすことも、なにも。
トンネルが終わり、社内がぱっと明るくなる。空却は珍しくバツの悪そうな顔をしてガシガシと頭をかくと、するりと通路へ出て歩き出した。
「頭、冷やしてくるわ」
獄は丸められた背中で揺れるスカジャンの刺繍が揺れるのをただ見送ることしかできないのだった。
単調な列車の音とのどかな景色、穏やかな十四の寝息とはちぐはぐなひりつく痛みだけが、今の出来事が夢ではないと告げていた。