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5月の夢

5月の夢
零那由
!過去捏造

 春のそよぐ風に、やわく髪をかき回される夢を見た。
 林檎の木には白い花が咲いていて、零の波打つ髪を乱した風が小さな花弁をさらってゆく。風の形を浮かび上がらせる草原も、新緑と花とが葉桜のようにも見える林檎の木も、零は知らない。だからそれが夢だというのがわかった。
 手足が鉛にでもなったかのように重たい。心は凪いでいるのに、地面に沈みそうなほど疲れていた。肺の中の空気をゆっくりと吐く。最後まで吐ききると、反動でしっとりと僅かに甘い空気が空気が胸を満たした。
 再び花に目を向ける。
 ふと、眼前の光景を見せてやりたいなと思う。普段よりも回転の鈍い頭によぎるのは一人の女で、零とは違う光に透ける真っ直ぐな髪を風に遊ばせて、もともと下がっている目尻をますます下げて顔をほころばせるのだろう。あのとろけるような笑みは零の気に入りだった。知らず上がった口角に気づかぬまま目を閉じる。間もなく重い手足に引きずられるように身体が沈み込んだ。

 急な浮遊感に襲われ、反射的に手足が痙攣するかのように動いた。その感覚に引っ張られ弾かれたように零の意識が浮上する。何が起こったかよくわからないまま、目を開ければよく見知った顔がそこにあった。
「零さん?」
「あぁ」
 気遣わしげに呼ばれた名に脊髄で返事を返す。自分の声が耳から脳に伝わり徐々に混乱していた思考回路が繋がりだした。よく見知ったどころか先程まで会いたいと思っていた相手はこちらを見下ろしていて、流れ落ちた髪の向こうにはリビングの天井があった。左目の視界が悪く、腕が動かしづらい。変わりに右手でそっとあたりを探れば指先が空をかいたあと、身体の下の布地に触れる。覚えのあるそれはどうやらソファらしい。首の後ろがやわくて温かい。ストンと納得をした。それは美しい夢も見るはずだ。
「お疲れだったんですね」
 細くなめらかな指先に隈があるであろう目元をそっとなぞられる。伝わるわずかな熱と労いの言葉をうけて、つながった思考回路に時計を巻き戻すように記憶が蘇る。

 すべてのはじまりは職場でのできごとだった。
 いけ好かない大学の学部長を黙らせようと実験を重ねて馬鹿みたいに分厚い資料をこしらえ叩きつけた。が、奴はろくに中身を見もせずに次の雑誌の掲載に間に合うようにそれをまとめ上げろという。嫌な笑いで資料を突き返され、馬鹿みたいな指令に直属の上司となる男と顔を見合わせたのが2週間前だっただろうか。そこからはまさに地獄のような日々で、書いては直し読み返しまた書いては消しての繰り返しだ。大詰めのこの数日は食事も睡眠もままならなかった。15時までに提出の論文を14時58分に出版元へ送ったのが今日。送信完了と受領の連絡を受けて苦楽を共にした上司とともに椅子に沈んだ。
 煙草とコーヒーとエナジードリンク、パンの袋の切れ端と大量の紙切れで荒れ果てた研究室でも、その一瞬だけは勝利の喜びに浸った。これからどんな修正が来るかわからないが、よほどのことがない限りはなんとかなるだろう。
「今日は解散、部屋はもう週明けに片付けよう」
 緩慢な動作で水を飲む上司の言葉に零は軽く頷き返し、手近にあった財布をポケットへ入れた。何が入っていたか忘れたが机の下から鞄を引っ張り出して目についた、家から持ち込んだタオルやら丸めていた着替えやらを詰め込んだ。
「俺は少し寝てから帰るよ。お前もひどい顔だぞ、少し休んでいったらどうだ?」
 帰りに事故でも起こしたら可愛い娘が悲しむからなあと続ける上司には悪いが、零にそのつもりはなかった。紙の束を2つほど崩して見つけた鍵を右手に握って立ち上がる。
「俺は帰る」
 なにか蹴飛ばしたような気もしたが、そもそも鳥の巣より荒れ果てた研究室だ。何も気に留めることなく零は部屋を出た。階段を駆け下りて、足早に駐車場を目指す。助手席に鞄を放り、自身も愛車に乗り込んだ。平日の比較的空いている道路ですら、今の零にはあまりに障害が多く思える。
 狙ったかのように赤に変わる信号に舌打ちし、法定速度以下でのんびり走る車をかわしながら、人差し指でハンドルを叩く。静かな車内に耐えられなくて、ラジオをつけた。気の抜けるような音楽が気に入らなくてまたすぐにそれを消す。ただ家に帰りたかった。

 待望の家について、零は一瞬考える。ドアを開けるのに何故か少し緊張して、いつもより慎重にノブを回した。きぃと小さな音を立てて扉はあっさりと開き、いつも通り玄関には小さな靴が一足きちんと揃えて置かれていた。いつも通りの光景に安堵すると同時に、鍵もドアロックもかかっていなかったことに眉をひそめ、後で不用心を注意しようと脳内のメモに刻む。
 リビングのドアを開けると明るい室内のソファで洗濯物を畳んでいたらしい妻、那由他がはっと振り返った。驚きの表情が見る間に喜色に染まってゆく。
「おかえりなさい零さん……!」
 鈴を振ったような明るい声に今までの嫌なことも疲れもなにもかも吹き飛んだ。
「ただいま」
 そっと華奢な肩に触れ、ソファを回り込む。立ち上がった那由多の手から落ちた洗濯物を拾ってやろうと屈んだとき、酷い目眩に襲われた。平衡感覚を失った身体は姿勢を真っ直ぐに保てなかった。
「零さん!」
 焦る声に応えられないまま、ぶつりと意識が途切れた。

 そこまでの記憶を取り戻し、ようやく現在の状況を正しく理解した。
「寒くありませんか?
 もう少し横になっていてください」
 甘い声の誘惑に負けず、零は起き上がり一人で座り直した。両膝に肘をつき、かがみ込むように両手に顔を埋める。
「あぁ……」
 ざりと掌に髭の感触がし、地の底を這うような声が漏れた。恐ろしいことに眠気覚ましに最後にシャワーを浴びたのが今日か昨日か定かではない。風呂に入っていない男の匂いなど最悪。ましてや研究室では気を静めるためにろくに換気もせずに煙草をふかした。新妻を前にとんだ失態を犯したわけで、ため息を吐いて頭を抱えたくなるものである。伝えるべきことも伝えたいことも山程あれど、喉につかえて出てこない。身体より重たくなった気持ちにつられ、思い出したように頭が痛んだ。
 暫しの逡巡のあと、小さくくぐもった声を絞り出す。
「……今何時だ」
「まだ17時ですよ」
「悪い、重かっただろ」
「そんなこと、大丈夫です。
 私こそごめんなさい。零さんをベットまで運べたら良かったのですけれど……」
 平均よりかなり大柄な零を、その肩までしかない小柄な彼女が運ぶのはさすがに無理があるだろう。そんなことはいいんだとその先の言葉を手のひらで遮った。
 横目で伺った那由多の顔に失望の色はなかったが、代わりに少しの怒りが見え、内臓が冷えるような奇妙な感覚がした。
 視線に気づいた那由多は零に向き直る。わずかに膝が触れた。
「私も科学者の端くれですから、あなたの研究が世のためになることも、時には忙しく立ち回る必要があることもわかります。
 でも、あまり無茶はしないで」
 いつもと変わらない優しい声だ。零は知り合ってこの方、那由多が声を荒らげたところを見たことがない。そんなことよくわかっていると返したいところではあったが、今回については売られた自ら喧嘩を買ったという後ろめたさがあり、言葉を押し止める。
「わざわざ夜中に家に戻って、ご飯とお風呂を済ませたら出ていってしまうし。着替えと差し入れを持っていってもお顔を見れなくて……、もう少し、頼ってほしいのに」
 うん、ともううん、ともつかない唸り声のような音が自分の喉から鳴った。寂しい思いをさせたとは思う。だが零も何も思わなかったわけではない。むしろ、一度緊張の糸を切ればあの修羅場には戻ることができないと、可愛い妻の寝顔を眺めるに留まった強靭な理性を褒めたいところだ。わざわざ自分を訪ねてくれたと知ったときの喜びも、やたら馴れ馴れしく絡んでいた別の研究室の職員を後で少々シメたことも、那由多は知らなくていいと思う。もちろん自分からは口が裂けても言うつもりはなかったので、彼女は知ることはないだろうが。
「いや、俺は別にお前を……」
 那由多も論理的な思考が得意な方だ。筋道を立てて話せば少しでもなにかわかってもらえるのではないかと双色の瞳を真っ直ぐに向ける。俯いていた那由多もそれに合わせて顔を上げた。
 澄んだ両の目に薄く涙の膜が張っている。女の涙は武器とはよく言ったものだ。その透明な雫を溢された日には、立ち尽くす以外何ができるだろうか。
「私が大切だと思う貴方を大切にしてください」
 含みのある言葉だ。だが重たかった身体から力が抜ける。じわじわと冷えた内臓に血が通い、心臓の鼓動の音を聞いた。
「……わかった」
「約束ですよ。絶対ですからね」
 零の両の頬を包むように手が伸びて、髪に指が差し込まれる。数回頷けばそのまま夢の中と同じように優しく撫でられた。零の完全なる敗北をもってその会話は終了した。

 目を閉じた零は暫くそのこそばゆい感触を甘んじて受け入れていたが、身体から力を抜けるとぐらりと自身の身体が傾いたので再度目を開ける。今度は眼の前の那由多を巻き込む前にソファの背もたれへと手をかけることができた。
「やっぱりもう少し寝ましょう。ベットへ行きますか?」
 首を横にふり、そっとその手をほどいた。
「シャワー浴びてくる」
「大丈夫ですか?」
「あぁ」
 立ち上がると背中や首の関節が小気味よく鳴った。
「腹が減ってるんだが、何か食べれるものがあれば準備しておいてくれないか」
「えぇ、お夕飯の準備しちゃいますね」
 食欲があるとわかってか那由多の顔も緩む。立ち上がり、何かあったら呼んでくださいね、と零に向き直ると手を差し出した。小さなその手を借りる、というよりは引き寄せないように注意しながら零も立ち上がった。
「今日はポトフとドリアですよ」
 温かな手を引き、低い位置のつむじに唇を落とす。そこは確かに帰りたかった我が家だった。
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