ゼロを超えて
零那由
!過去捏造
三週間前はシンプルな包みがきれいなキャンディだった。オーロラのように輝く透明なセロファンの中には宝石のように色とりどりの飴が入っており、しばらくの間彼女の目の舌を楽しませた。また、先週はわずかな塩気があとを引くバタークッキーだった。小ぶりな缶を開けるとバターの幸せな香りがして、歯ざわりはさっくりとしていて舌の上でほろりとほどける。ついつい手が伸びてしまうのをぐっとこらえ、少しずつ大切に食べたのだった。そして今、彼女の目の前には銀色の箔で店名が書かれた紺色の小箱が鎮座している。その店名はよく知っているものだった。というのも、彼女が幼い頃から好きなとある有名なチョコレートショップのものだったからである。特別な日に食べた記憶のあるそれは、大人になった今でも頑張ったときのご褒美として時々口にしていた。
小さな研究室の隅、どこかの部屋から譲り受けた古ぼけた応接セットにはやや不釣り合いなようでもある。もっとも、休憩のために白いマグカップとともにそこに座る彼女こそ、この場所に似つかわしくないのかもしれない。色褪せたローソファの上、背筋を伸ばして座る姿は花のようだった。
「あの、こちらは」
静かに手の中のカップを置いた那由多は、純粋なる疑問をもって小箱からそれを置いた主へと目を移した。目線はぐっと天井近く、ずいぶん高くで止まる。彼女を見下ろしているのは、平均よりもずいぶんと大柄な若い男――山田零だった。よれた白衣を翻した彼は無言のまま簡易キッチンへと足を運び、コーヒーメーカーを操作した。
「山田さん」
「……たまたま百貨店に用事があったんだよ」
コポコポと音を立てるコーヒーメーカーの前で自身のタンブラーを満たしながら、零はなんでもないように言葉を続ける。
「先月の学会の帰りだったか。好きだって話してただろ」
「覚えてらっしゃたんですね」
那由多の声には、はっきりと意外だという気持ちがのっていた。その様子に零は肩を竦め、声へ僅かに笑いを含ませた。
「毎日顔を突き合わせてりゃあな。上司もいないんだから持って帰るなり食べるなり」
湯気をあげるタンブラーを片手にスタスタと歩いて再び来客セットの前へ戻ると、那由多の向かいにどかりと腰を下ろす。古いソファは苦しげにきしみつつその体重を受け止めた。
「でも、いつも私ばかりいただくわけにも……」
困り顔の彼女の代わりに、零が小箱を開ける。艷やかなチョコレートは宝石のように行儀よく整列していた。六つ入りのそれらの中に、おそらく好きなものがあったのだろう。困り顔をしつつも、那由多の瞳がキラリと光ったのを零は見逃しはしなかった。自分の読みがあたったことに僅かに口角を上げ、空気を変えるべく話題を逸らしてみる。
「そんなことより。お前、よその奴に俺のこと親切だなんだと言ってるらしいじゃねぇか。
よくもまあ適当なことを。他の連中から俺がなんて呼ばれてるか知ってるだろ」
那由多はやや言いにくそうに先程までとはまた違った複雑な顔をした。
「……その。詐欺師、というのが一番良く聞きますね……。
山田さんは優しい方なのに」
きっと皆さん優秀な頭脳をやっかんでいるんですね、と続ける。実に正直な答えだ。零は猫のように目を細めた。
「いや流石に『優しい』は言いすぎだろ」
「そんなことありません。
でも、あんまりの同意は得られなくて……」
「本人が否定するくらいだからな」
頭脳が優秀であるということについて異論はないが、優しいという部分については認識に齟齬があるだろう。
「でも、いつも『ついでだ』と言って、私が研究の資料を運ぶときは一緒に運んでくださっていますよね。この間のお昼はひとりでは入りにくかったカウンターのお店に一緒に入っていただきました。こうして時々お菓子もいただいたり……。
あとあの時も。私を心配してくださったでしょう?」
小首を傾げた那由多は細い指を折りながら数え、ね、と同意を求めたが、零は否定の意味を込めてひらりと手を振った。ちなみに、「あの時」というのは目の前の女のお人好しが天元を突破し、飲み会だか合コンだかの帰り道に別の学部の男にホテル街へと連れ去られそうになってしたときのことだ。きっと零がいなければ、男の思惑は叶っていたに違いなく、思い起こしてはゾッとする。育ちの良い彼女は性善説を根底の思想として生きている。それは零には理解しがたいことだった。
ともあれ、彼女の言う優しいという認識には納得し、零はひとつ踏み込んで試してみることにする。
「それは俺の下心だ。
……と、言ったら?」
「おかしなことをおっしゃるんですね」
片眉を上げた零に、那由多は口元を隠してくすくすと笑う。
「本気だ。お前を取って食うためならどうする。
世間知らずのお嬢様なんていくらでも使い道はあるんだぜ」
「使い道なんて。
ふふ、でも、本当におかしいです」
肩を揺らしていた彼女は一口コーヒーで喉を潤してから零を見る。
「だって、本当に私に対して害意があるのなら、あなたはいくらでも私にひどいことをする機会があるのに。
今もこうして二人きりで、それこそ詐欺師みたいに騙すなんて簡単でしょう」
「へぇ」
まあ俺でなくても簡単だろうと思った言葉は口にせず、零もコーヒーを一口飲み下した。
「もう、本気にしていませんね。正直にお話しすると、はじめ山田さんは皆さんの言うように怖い人だと思っていたんです。
でも、今は私、山田さんのことを優しい人だと信じていますから」
真っ直ぐな信頼は、出会ったばかりのお互い気にも留めていなかった頃に比べれはずいぶんと前進したといえる。が、行き過ぎると零の思惑からは外れるのだ。匙加減を間違えるわけにはいかない。
「アンタに警戒心とか猜疑心が足りないんだろ。
未だに信じられねぇな、あの整然とした文章を書いてるのがこんなお人好しとはなぁ」
「さっきからひどいです」
ひとまずこの話題はおしまいだと混ぜっ返してから、零は思い出したようなふりをしてチョコレートの小箱をふくれる那由多の方へ押しやった。
「ほら、休憩時間あと十五分だろ」
「あ、ありがとうございます」
彼女は今度は素直にそれを手に取った。桜色の指先がそっと箱を取り上げ、綺麗とつぶやく口元はみずみずしさを湛えてゆるく弧を描く。
今日のやり取りの中で自分の行動の成果を確認した零は、ソファの高さに対して余っていた足を組んで座りなおした。やや意地の悪い笑みを浮かべる。
「あぁそうだ。俺は意味のない行動はしない。
そのあたりをよく考えたうえでそれを口に入れろよ」
二度、三度と瞬きをして零の双色の眼を見つめていた那由多は何を思ったかふわりと破顔した。
「じゃあ二人で食べましょうね」
そう言って小箱をテーブルの中央へと戻す。きっと慌てるであろうという予想に反して返ってきた意味のわからない行動と言動に、今度は零が那由多の顔をまじまじと眺めることになった。その顔は普段と変わらず儚げで、いたずらっぽく上げられた口角があまりみない表情を作っているだけだった。
「……なんで俺が」
「だってほら、もし私を騙すつもりだったとしても、二人で食べたら共犯ですから」
「なんだそりゃ」
「何でしょうね、ふふ。私もわからなくなってしまいました」
夢見がちだが不思議と続きを読ませる説得力のある文章を書く理論屋はどこへ行ったのだろうか。彼女なりの冗談なのか、それとも零の話をうまいことはぐらかしたのか。あまりにもめちゃくちゃな理論に脱力する。そんな零を尻目にすっかりチョコレートへと興味を移した彼女はううんと小さく唸った。
「このなかならどれが食べたいですか?
私はこの赤いハートのラズベリー風味のプラリネがおすすめなんですけれど……。でも山田さんは普段甘いものはあまり召し上がりませんよね。もし甘いものが苦手でしたらこちらのウイスキー風味のトリュフはビターで食べやすいかもしれません。あとはこちらのコーヒーのクリームのものもとっても美味しいので……」
一つずつ味の解説を始めてしまい、その熱量はもはや零が余計な口をはさむ余裕もない。なるほど人の心というのは零が思うよりもずいぶんと複雑なものらしかった。
重い溜め息を吐き、低く告げる。
「容赦なく騙くらかしてやるからな」
下地は整ったのだ。情けも容赦も慈悲もくれてやるつもりはなかった。大半の人間の彼に対する認識は正しく、山田零という男は狙った獲物をみすみす逃すような生易しい男ではない。
「ふふ、どうぞ共犯者さん」
この世で唯一それを知らない彼女の小さな口に、見るからに甘ったるいホワイトチョコのトリュフを押し込む。頬を抑えてとろける表情を浮かべたのをながめて、今度は囁くように告げた。
「覚悟をしろよ」
それは忠告ではなく、宣戦布告であった。