陽炎
一左馬
!TDD時代
その年の夏は酷く暑かった。ニュースが連日のように記録的猛暑、熱中症患者の数が最高記録だと騒ぎ立てている。そんな日でも悲しいかな学生というのは制服を着込んでせっせと歩くのである。服を着ているのも煩わしいくらいで、一郎は白いワイシャツの裾をズボンから引っ張り出し、ボタンをいつもより一つ多く開けた。だがそれでも足りない。試しに胸元を掴みバサバサと振ってみるも、体温と同じくらいの温度の空気が肌を撫でただけだった。
こんな日はキンキンのコーラをイッキ飲みだ。一郎は固く心に決めて近頃毎日のように通う『アジト』へ向かうのだった。
アジトなどと大げさなことを言ってみたものの、そこは雑居ビルの中にあるちょっとした事務所のような場所だった。ただ一郎だけがその場所にある種の敬意を込めてそう呼んでいるに過ぎない。
詳しくは知らされていないが、左馬刻が事務所として構えた部屋の一つらしい。そんなことを考えているうちに建物の外階段へと到着した。ローファーと鉄がぶつかる甲高い音を響かせてから踊り場を曲がればすぐに扉が見える。そこでちょうど鍵を回そうとしていたのが左馬刻だった。一郎が声をかける前にぱっと顔が上がる。厳しい表情がわずかに緩むのを目の端に捉えつつ一郎は軽く頭を下げた。
「よう」
短い言葉が返されてドアが開く。一郎はさっとその扉を抑えた。左馬刻を見送り、室内のむっとする熱気を感じつつ、あとに続く。
「あっちいな」
地を這うような低い声は機嫌の悪い証だ。示し合わせたように部屋の二箇所の窓をそれぞれが開ける。外も暑かったが、今の室内に比べればいくらかマシでぬるい風がサウナのような熱気を押し流す。
「うわ、左馬刻さんめちゃくちゃ日に焼けてますね」
クーラーのリモコンの設定温度を最低まで下げていた左馬刻が己の腕を見た。
「今日は外回りの仕事があったんだよ」
人一倍色素の薄い左馬刻は日に焼けると赤くなるタイプらしい。鼻や頬のあたりは見るからに痛そうだ。
「それより鬱陶しいのはこの暑さだろ。
いつもみてぇに乱数がいるかと思ったのにアテが外れたわ」
「最近締切が?って籠もってましたもんね」
この部屋に最初にいるのはたいてい乱数が左馬刻だった。一郎はその次で、寂雷が最後のことが多い。少し寒いくらいに冷やされた部屋は誰かのおかげだったのだ。心のなかで感謝しつつ、開けた窓と日差しを遮るためのブラインドをおろして定位置につく。いつの間にか左馬刻がコーラの瓶と炭酸水の瓶を机に並べていた。コーラを一郎に押しやりながら、左馬刻は肌に張り付いたアロハを引き剥がすように首元をバサリと振る。いつもより大きく開いた首元につうと流れる汗を一郎の二色の瞳が追った。
「なんだよ」
「あ、いや。コーラ、あざす」
左馬刻の言葉に一郎は慌ててコーラへと手を伸ばした。栓を抜いたそれを流し込むと口の中も喉もビリピリとした刺激に洗われて一瞬暑さを忘れる。ふぅ、と気の抜けた吐息が口から漏れる。左馬刻も同じように炭酸水を置いて一つ息を吐いた。
「一郎、」
「ハイ」
ローテーブルを挟んだ向こう側で、左馬刻が二人がけのソファに横になる。
「しばらく経ったら起こせよ」
「あっ、ハイ」
一郎は素直に頷いた。時計を見れば十五時過ぎだ。他の誰かが来たらそのときに、そうでなければ三十分ほどで起こすことに決める。左馬刻は暑さで消耗しているのかよく手入れをされたデッキシューズを肘掛けの向こうで交差させ、早々に瞼を閉じていた。大きな音を立てるわけにも、かと言って細かい作業をする気もなれず、手持ち無沙汰のまま一郎は再度コーラに手を伸ばした。
ときおり瓶を傾けながら左馬刻を盗み見る。想像より長いまつげが上を向き、形の良い唇が僅かに開いている。火照った肌と、滲んでは流れる汗。迫り上がる何かをコーラと一緒に腹の中に落とし込む。
クーラーの設定温度を限界まで下げたのに、まだまだ肺から体に巡る空気があつい。左馬刻の胸は規則正しく上下を繰り返す。部屋の中なのに、その熱も蝉時雨もガラスや壁越しに一郎を焼くようだ。
「もし――」
二人ではやや広すぎる部屋。その静寂を一郎は唐突に破ってしまった。水面に雫を落とすようにぽとりと言葉が滑り落ちる。
「アンタが抱かせてくれたら、俺の一生ぜんぶやるのに」
カチコチと時計の音だけが響く。
何故唐突にそんなことを口走ったのかはわからない。聞かれただろうか。先程までとはまた違う意味の汗が一郎の背を伝う。左馬刻をじっと見つめた。耳元で心臓が鳴っている。
相変わらず綺麗かな顔がそこにある。呼吸のリズムも変わっていない。
知らずに詰めていた息を長く吐き出した。きっと大丈夫だ。暑さのせいだ。夢みたいなものだ。何度も心のなかで繰り返す。緊張の糸を解いた一郎は空になった瓶を手に取りキッチンへと向かう。
「クソガキが、ナマ言ってんじゃねぇぞ」
ガン、と頭を殴られたような衝撃だった。が、辛うじて瓶を取り落とさなかった一郎は何も聞こえなかったふりをして足を進める。左馬刻も別にそれ以上言葉を重ねることはない。それも白昼夢だったのではないかとさえ思う。腹の中でさっきのコーラが爆ぜている。空の瓶はゴミ箱の中で嗤った。