ビー玉の向こう
獄+寂♀
神宮寺寂雷はその日、生まれて初めて校舎裏という場所に呼び出されてほんの少しわくわくしていた。呼び出しの相手は隣のクラスの女の子だった。体育祭では獄とペアを組んでダンスをしていて、確か生徒会も一緒にやっていて、そして一月ほど前に獄の彼女になった人だ。なんだか浮かれた様子の獄になにかあったのかと尋ねたら、珍しい顔をして「付き合うことになったんだ」と早口に返されたのが懐かしい。
彼女は毎日明るい色の髪を綺麗に巻いていて、派手すぎず地味すぎないキラキラのメイクもかわいくて、苦手な科目も獄と一緒に頑張って取り組む。本当に努力家のいい子だ。寂雷が彼女に持っている印象は素直にその一言に付きた。以前は寂雷にもわりによく話してくれていたのになぜかこのところ少し冷たくされているような気がして、なにか気に触るようなことでもしてしまったのかと気になっていたところの呼び出しである。寂雷としては一度落ち着いて話がしてみたかった。
さて少々早く着いてしまったので対面したら何から話してみようかと思案しながらこめかみを指先で叩いていると、彼女はローファーの踵を鳴らして颯爽と現れた。ひらめくスカートも大きめのネクタイも今日もとても可愛いらしい。
「こんにちは」
寂雷が示した親愛の微笑みと挨拶が見えなかったかのような険しい顔で、彼女は早速一歩詰め寄った。おかげでその首にあるネクタイの小さな引きつれが目について、それが獄のだということに気づく。校内で恋人同士がネクタイを交換することがはやっていることは寂雷も知っていた。
「ねぇ神宮寺さん。もうやめようよ」
開口一番そう言われ、寂雷は少なからず面食らった。
「何をやめればいいのか聞いてもいいかい?」
そっと問い返せば、ぎゅっと彼女の眉間のしわが深くなる。
「あたし達の邪魔しないでよ」
それは声音も含めて幼子が大切なおもちゃを取られたときによく似ていた。やはり知らない間になにか嫌な思いをさせてしまったに違いない。寂雷はごめんね、と形のいい眉尻を下げた。かつて、親友にわかってないのに謝るなと言われたことをよく守り、そのまま言葉を続ける。
「二人の邪魔をしているつもりはなかったけれど、なにか……」
残念ながら最後まで紡がれる前に、普段より一段低い声が重なる。
「獄くんはあたしのものなんだよ?」
それは正しくない。
「獄は獄のものだよ」
そう思ったときに口に出してしまうのが寂雷の悪い癖だった。
「そんなんじゃないよ。わかるでしょ?
獄はあたしの彼氏なの」
とんがった声が鼓膜を刺す。
「そうだね。獄はいつも嬉しそうにきみの話をしているよ」
聞いている寂雷も嬉しくなるくらいなのだ。それが彼女に伝わっていないはずはない。だというのに今の彼女にはそれに気づいていないのだろうか。普段の聡明さが欠けているように思えて仕方がない。興味深く、朱が差した頬を眺めた。
「ねえ、そういうところだよ。彼氏は彼女以外の女の子と出かけたり、二人でしゃべったりしないの。そんなの浮気じゃん」
「浮気だなんて、」
寝耳に水、青天の霹靂だと寂雷は頭を振る。
「なにいい子ぶってんの。獄くんのこと私にとられて悔しいの」
全くもってそうではない。彼女は何かを誤解して苦しんでいるらしかった。
「誤解をしないでほしい。私達は別に恋愛をしているわけではないんだ。獄はきみのことをとても大切にしているよ」
穏やかだが力強く事実を紡いだ必死の説得は彼女に届いたのか、膨らんだ風船のようだった威勢がすうっと萎んでゆく。
「……そんなのわかってるよ。でも嫌なの。嫉妬だよ。わかってるよ。あたしが一番しんどいんだよ」
わっと泣き出してしまった彼女の震える背をさすり、寂雷は小さな子に言い聞かせるように優しく言葉をかけた。
「大丈夫だよ。獄はきみ以外の女の子に興味を持っていないから」
それは親友の目から見た確かな真実だった。あんなに嬉しそうに浮かれる獄を寂雷は知らない。きっとこのこの子前でしか見せない獄の顔があるのだと、嬉しくも少し寂しく感じた。今この場にいる二人は、ある意味同じ感情を共有するものだった。
しばらくの沈黙のあと、白くてきれいな指の間から涙声が溢れる。
「じゃあ、もう獄と二人で出かけたりしないで」
「どうして? 友達なのに」
その時の燃え上がる炎のきらめきを宿した瞳を、寂雷は決して忘れないだろう。その瞳があんまりにも美しくて見惚れていたせいで、振りかぶられた手が見えていたのに避けることができなかった。
バチン。
「神宮寺さんって本当、」
打たれた左の頬が熱い。涙でぐちゃぐちゃでも、彼女はやはりとても可愛い。
「おい、お前ら何やって……!」
彼女の言葉が紡がれるよりも先に、話題の獄の声が響く。駆け寄った彼は二人を引き離すように寂雷の肩を引き、彼女に向き合うように間に体を割り込ませる。
「何があった」
「知らないっ!」
そう言われて状況を察せないほど獄は鈍い男ではない。
「知らないじゃないだろ、なんで寂雷を殴ってるんだよ。
コイツは俺のただのダチだって言っただろ」
ふ、と彼女の身体から力が抜けた。何か伝えようと開いた口をゆっくりと閉じると、その瞳に諦観を浮かべる。涙が一筋つうっと流れてまろい頬から垂れ落ちた。
「……もういいよ。バイバイ」
「おい、まだ話は!」
たっと軽い足音を立てて彼女は走り去る。
あ、と間抜けな声を漏らしたのは寂雷だった。当然その声に彼女の足が止まるはずもない。あっという間に角を曲がって見えなくなった制服姿に寂雷は途方に暮れた。
「獄、その。……ごめん」
「あ?」
獄が振り返ると、寂雷が左の頬を腫らして迷子の子どものような顔をしていた。
「追いかけてあげて、彼女泣いていたんだ。君のこと、本当に好きなんだよ」
寂雷は目の前で起こったことをうまく処理できずにいた。目の前の友人の傷ついた顔も、彼女のあの透き通ってしまった瞳も、己が引き起こしたのだということはわかる。そんな姿に獄は深く溜め息を吐く。待ってろと一言言いおいて、獄は踵を返すとスタスタとどこかへ消える。寂雷は時を忘れてしばらくその場でぼうっとしていた。炎のように美しい彼女は獄と会えただろうか。獄はきちんと彼女の話を聞いて、そっと抱きしめてやっただろうか。どうでもいい想像が脳内を巡る。そっと目を閉じた。ズキズキとした痛みだけが現実感を伴い、寂雷をその場に留める。どのくらいそうしていただろうか。
「ほら」
ずい、と目の前に水色のハンカチが差し出された。
「あ、」
そこにいたのは獄だった。
「どうして……」
ここにいるのか、彼女はどうしたのかと訝しむ。そんな寂雷に、獄はハンカチを押し当てた。水で濡らされたそれはひんやりとしていて、患部の熱を奪う。心地よいが、押し当てる力が強い。
「痛いよ」
「なら自分で持て」
無言のままハンカチを受け取った。何か言いたげなアイスブルーの視線に獄は、これ見よがしに溜め息を吐いた。
「前々からお前と喋るなって言われててな。でもお前だろ、喋らないわけにもいかないし。悪かった、迷惑かけて
理由がどうあれ、ダチを殴るやつなんかこっちから願い下げだ。暴力で何かが解決する訳ないだろ」
強がりだ。わざと明るく振る舞う声が空虚に響く。
「だいたいお前ものこのことついていって挑発に乗るな。お前の感覚はちょっと変わってるんだから、どうせうまく話なんかできないだろ。軽くあしらっとけばよかったんだよ」
いつもうまいことやってるだろと獄が寂雷の肩を小突いた。
「心配するな。後で話をしておく、今はお互い冷静になったほうがいいんだ」
それでも唇を引き結んだままの寂雷に、落ち着いた声でそっと言葉を紡ぐ。
「だから、そんな顔するなよ」
君たちは完璧な円だったじゃないか。バランスが取れていて、幸せそうで、美しくて。私はそれを見るのが何より好きだったのに。そう伝えようも、自分がその言葉を口にする資格はないように感じられた。謝るのもまた、何かが違う。獄と寂雷の間にあるのは、甘酸っぱい恋などではない。当然衝動的な性愛でもない。打てば響く、竹馬の友とはこのことだと胸を張って告げられる。だというのに今、音にすべき言葉が見つけられない。寂雷が最後に震える唇から発したのは、彼女がいつも素直に願っているたった一つの願いだ。
「……ただ、君には幸せでいてほしいんだ」
「知ってるよ」
穏やかな声だった。