同物異名

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友引につき

友引につき
空獄

!特殊設定:人外パロ

 それは去年のひどく蒸し暑い昼下がりのことだった。お盆の初日、獄は仕事の都合で兄の墓参りへ行けない分、せめてもと空厳寺の門をくぐっていた。
「あぁ、聞いていますよ。どうぞこちらへ」
手水鉢に花を浮かべていた作務衣の男がにこやかに会釈をする。それに黙礼を返し、獄はお供えの品々と上着を抱え直した。
 住職の灼空は檀家の元を飛び回っているが、獄のために留守役に本堂へ通すよう言付けていてくれたらしい。すんなりと奥へ導かれて室内へ上がる。ジワジワと煩かった蝉時雨か遠くなり、灼熱の陽射しから遠ざかると、思わずほっと息をついてしまう。今年の夏は特に暑かった。磨きかげられた廊下をぬけるぬるい風は残念なことに風鈴を鳴らすほどの力もない。きしきしと板を鳴らしてすすんでいると、先をゆく男が程々のところで足を止める、右手で廊下の先を示した。
「そこの角を曲がったところですので。あとはごゆっくり」
 灼空がこの男に何をどう告げたのかはわからないが、ありがたいことに一人きりにしてくれるらしい。
「どうも」
 気遣いに今度はきちんと会釈を返し、獄はさらに歩みを進めた。
 本堂へ足を一歩踏み入れると、ぐっと白檀の香りが濃くなった。湿度も相まって重たい空気を肺に吸いつつ、獄はそれなりに手際よく持参したお供えものを置いてゆく。暑さに当てられて少々元気のなくなった仏花、白いロウソクに箱入りの線香、そして兄が好きだったお菓子。その包装紙をなぞると、懐かしい姿が思い出された。
「もし帰ってきてんのなら顔くらい見せろよな」
 静かな部屋でそう呟いてみても、返る言葉はない。深い悲しみと後悔の上に、兄を死に追いやった人物への黒い感情が何年経ってもくすぶっている。部屋でひとり物言わぬ姿になった兄の虚ろな瞳が今もまぶたにこびりついている。そうだ、諦めきれるはずがない。この日が来ると酸素を吹き込まれたかのように憎悪が燃える。荘厳な仏像の前に立つには不適切なのかもしれないが、その一片を吐き出すように長く息を吐いた。
「クソ、待ってろよ」
 吐き捨ててみたところで、賛同するものも否定するものももういなかった。御仏の姿を座布団へ腰を下ろす。神も仏もない現実を生きている獄だが、なんとはなしに兄は天国にいるのだと信じている。いつまでもそうしているわけにもいかず、ロウソクと線香へ火を灯すべく獄はシャツの胸ポケットを探った。鈍く光るお気に入りのジッポは蓋を開けようと指をかけるとつるりとその指先からこぼれた。
「おっ、」
 火が付いていないのは幸いだったが、それは古めかしい金色のお鈴の上へ真っ直ぐに落下していく。瞬間だった。
 りいぃん! 
 そう聞こえた瞬間に恐ろしい衝撃が脳天を突き抜けた。誰かに殴られたかのごとく激しく視界がブレて明滅する。
「……っ!」
 何かを思うまもなく獄の意識は闇へと沈んだのだった。

「……い、ぉ……!」
「だ……い、や!!」
 遠くでなにかを言い争う声が聞こえていた。
(煩いな……)
 反射的にそう思った獄の額に誰かが触れた。大きくはないが随分と優しく、どこか懐かしい感覚すら呼び起こす手だった。何かを思い出す前に手は一度離れ、今度は指先で輪郭を辿るように頬を撫でる。ふ、と何かが軽くなった。その感覚に引きずられるようにして獄は目を覚ます。
「……うるせぇなこのクソ坊主!」
「こっちのセリフだクソガキ!」
 途端、頭上から降り掛かったのは罵声だった。
 茜色に染まる和室で鬼の形相の灼空と、見知らぬ赤髪の少年が言い争っていた。
「人間は繊細なんだ、なんてことしてくれとるか!
 お前なんぞ炉に放り込んでやる!」
「やれるもんならやってみろ、俺を失って困るのはそっちだろーが!」
 年の頃は高校生くらいだろうか。鮮やかな短髪と口を開けたときに覗く犬歯が特徴的だ。すこぶる口が悪い上に、あの灼空をここまで怒らせるのもなかなかだ。
「何も困らんわ。人を殴るような妖かしをここへおいて置けるか!」
「言ってろ! こっちは神様だぞ、ちったぁ崇めやがれ!」
 額を突き合わせて睨み合う様子を下から眺める。灼空はぐっと低い声で脅すように少年に指を突きつけた。
「成りかけがでかい口をきくな」
「なりかけだぁ……?」
 理解できない単語が飛び交いはじめたあたりで状況を理解することを諦めた獄はそっと手を挙げた。極力二人を刺激しないようにするためだった。だが残念なことに努力は報われず、少年が恐ろしい気迫で拳を畳へ振り下ろす。衝撃に一瞬身体が浮くほどだった。
「俺は神だ」
 絞り出すように口にした少年が今一度拳を握るより速く、灼空の手刀が振り下ろされる。
「喝っ……!」
 気迫の籠もった声とともに手刀は少年の頭に決まり、そのままの勢いで真下にいた獄へ突っ込んだ。
 ゴチン。
 獄が再び意識を飛ばす直前、視線がぶつかる。少年の瞳は人のものとは思えない炎の色を宿して煌々と輝いていた。

 次に獄が目を覚ましたのはもう日も沈む頃で、トラブルへ巻き込んだお詫びにと食事をご馳走になりながら自分が意識を失うことになったあらましを聞いていた。
「……俺は本堂でライターが落ちたのに焦ったコイツに殴られたんですね」
 それには確かにこちらの非がないわけでもない。なんども頭を下げる灼空を押し留めつつ、獄は部屋の隅に仁王立ちになっている少年に視線を送る。ここまではきちんと理解できている。ただ、問題はその後だ。
「そして、コイツは幽霊かなにかだと?」
「コイツじゃねぇ。空却だ」
 溌剌とした少年、改め空却はそれはものすごく不遜な態度で獄を見下ろしていた。
「お前がここを焼こうとしていたから止めてやったんだよ。神である俺がな」
 ふん、と鼻を鳴らす空却の言葉に獄は頭を抱えた。
「いや分からん。神ってなんだ、最近の若者の流行か?」
「だーかーら、神は神だよ!
 人が魂を込めて作った物は、大事に使われると神になる。お前そんなことも知らねぇのかよ!」
「そんな非現実的なことがあるわけないだろ……」
 この調子である。
 見かねた灼空が信じられないかもしれないが、と前置きして空却について語りはじめた。
「江戸の時代にうちじゃない寺の建立にあたって作られたのがこのお鈴だ。外側の細かい彫り物、そして重さを見るに本物の金細工で当時はかなり値の張るものだったはずだ。時代を追うごとに持ち主を変え、19年ほど前に父がこの寺へ持って来た」
 灼空の手には確かに昼間見たような気もする小ぶりのお鈴がある。空却は勝手に触るなと言っているものの、別に無理に取り返そうなどとはしてこない。
「こいつは出来がいい貴重な品なのに、この通りの暴れ馬でな。自我をなんとなく得るようになってからはあちらこちらと遊びわまり、まえの寺ではお手上げだとここへ流れてきたわけだ。ここなら……」
 灼空は一度言葉を切る。あとを引き取ったのは意外にも空却だった。
「ここなら俺みたいな本来見えないものが『見える』坊主がいるからな」
「みえる……」
「空厳寺にはそういうものが生まれつくことが多い」
 灼空は嘘をついているようには見えなかった。つまり、獄の理解の範疇を超えた話ではあるが、この世には幽霊やら何やらが存在しており、空厳寺は昔からそれに関わっていたということらしい。
「初めは他の悪さをするものと一緒に祓ってしまおうと試みたが活きが良くてな」
「そんな有象無象と一緒にするんじゃねぇよ」
「まあこの通りだもんで、お釈迦様の前じゃあ悪さもしないだろうと本堂へ置いていたら、このところうるさく騒ぎ出してなぁ」
 こめかみを抑えた灼空をみてニィと笑った空却は、きっともう何度も繰り返してきたのであろう言葉を紡ぐ。
「九十九の年月を経て人に大切にされてきたものは、力を得て九十九の神となる。拙僧は何処へでも好きなところへ行き、好きなように過ごす。もう、誰かの思うようにはならねぇよ」
 強い力を持った言葉が部屋に響く。だから、若い姿なんだな。獄はなぜかそこをストンと理解した。
「――今までは他の人に干渉したりなんてことはできなかったのにまったく……」
 灼空は一つ大きく息を吐くと、改めて獄へと向き直った。
「コイツはあと数日で付喪神と成る。そうなれば今のように半端なものではなく、一人前にやっていけるだろう。だがそれまでは人と揉め事を起こさないようにしたい。
 無茶な頼みとは承知の上で、獄くん。ひとまず数日、このバカを預かってはくれないか」
「おい!」
 不満げな空却には構わず、灼空は続けた。
「この時期はこちらも忙しく、ここへ押さえつけておくのは難しい。もし勝手に外をうろつかれて問題でも起こされた日にはたまったものではない。ただでさえ不安定なときに万が一鬼のように堕ちても困る。その点獄くんなら安心ができる。どうか頼めないだろうか」
 夕方の言い争いとはかけ離れた、静かな声だった。そこには20年近くお鈴を大切に守り、使い、神をつくる一端となった人の姿があった。
「人とはなにか、教えてやってはくれないか」
 深く頭を下げた灼空に、獄は思わずゆっくりと頷く。その向こう、空却は複雑な表情でぴしりと伸びた背中を見ていた。

 翌朝。ひょんなことから少年一人を預かることとなってしまった獄は、早速困りごとに直面していた。
「おい、起きろ」
「んだよ、うるぇな。せっかくあのクソ寺を出られたんだ、俺は好きにやる」
 布団を被る空却を起こすのは三度目だった。神になりかけのお鈴が眠るのか甚だ疑問だったが、基本は人と同じように過ごすらしい。
「片付けが進まねえからさっさと起きろ」
 休日に家事を済ませてしまいたい獄は、ついに布団の端を持って引き剥がしにかかる。
「うぉわ」
 ごろり、と転がった身体は俊敏な山猫のような動きでベットから着地した。枕元に置いていたらしいお鈴が空却のあとを追うようにころんと落っこちたのを慌てて受け止める。
「おい、クソヤロー!
 俺の『本体』に傷が入ったらどうしてくれんだよ!」
「あ? さっさと行動しないのが悪い」
 シーツを剥がした獄はスタスタと部屋を出ていき、その後ろをついて空却が歩く。
「こっちは金でできてんだ。落ちて彫り物が潰れたりしたら神じゃなくなるかもしれないだろ」
 ぶつぶつと不満を漏らす空却を、米と卵、納豆の前にある椅子へ押し込める。獄が洗濯機をかけて出てきても、空却はなぜか椅子の上でただじっとしていた。
「食わないのか?」
 やはり神とやはらは飯を食わないのかと訝しげに眉を寄せた獄に、空却は驚いた顔を返す。
「食っていいのか?」
 あれだけの不機嫌を忘れたかのように、空却は箸をとった。卵焼きをおそるおそるといった形で摘むと大きな口に放り込む。途端、ふにゃりと様相を崩した。
「……!」
 あまりにあどけない様子に毒気を抜かれた獄は、コーヒーを片手に向かいへ腰をおろした。
「飯は食ってなかったのか?」
「なんとなく見てただけだな。身体を持ってなかったから」
「あぁ、なるほど」
 恐る恐るだったのは初めだけで、すぐに箸は止まらなくなった。ほかほかとした米をかき込み、喉を詰まらせかけては慌てて味噌汁を流し込む。納豆の粘りには苦戦しながらも、あっという間に朝食はその胃の中へと消えていった。
「ご馳走様」
 いつか見た灼空とよく似た仕草でそう言うと、空却は箸を置いた。緑茶とコーヒーを片手に無言のままそろってテレビを眺める。キラキラと光る夏の海を背景に猛暑日を伝えるキャスターの笑顔が映り、それはまるで穏やかな休日の始まりだった。
「なぁ」
 沈黙を破ったのは空却だった。
「拙僧は空却」
「ん?」
 唐突に名乗りはじめた空却は椅子の上で器用に身をよじり獄にしっかりと向き直った。
「波羅夷空却。あいつが付けた。息子がほしかったんだと」
 意図を理解した獄もカップを置いて向き直る。
「俺は天国獄。弁護士だ」
 空却はきゅっと目を細める。
「ひとや、獄か。
 ……世話んなる。よろしくな」
 不器用なそれはどうやら微笑んでいるらしい。獄はふっと吹き出すと手を差し出した。
「俺もお前が何かはまだ良くわからねぇが、よろしくな」
 こうして一人とひとつ、奇妙な共同生活が始まった。

 二日が過ぎなんとか生活も落ち着きを見せ始めた頃だった。海が見たいと騒いだ空却との押し問答の末、獄は仕方なく車を出していた。コンビニで食料を調達していると、ジャケットの裾を空却が引く。
「なぁ、獄」
「なんだ」
 山盛り持ったお菓子を獄のカゴへ落とし、つい、と顎で入り口を示した。
「あれ、なんだ?」
 獄が目を移すと店の外には目を引く青年が立っていた。
 数人の集団に囲まれてもなお目立つ身長、メッシュの入った長い髪。濃い目の化粧を差し引いても整った顔立ちは自信満々のように見えるのに、ひどく顔色が悪い。
「十四……?」
 不穏な空気に獄が踏み出すより速く、空却が歩き出していた。
「おい、無茶はするなよ!」
「どうぞー」
 後を追おうとしたところで気の抜けた声とともに獄はレジで捕まる。店員のバーコードを読むのが今日に限って遅いような気がしてならない。横目でハラハラと見守れば、案の定唐突に現れた空却に十四の周りにいたガラの悪そうな男たちが絡んでいた。あのなりかけの付喪神というやつはおそらく根は悪くないのだろうが、初対面の獄を殴り飛ばすようなものである。獄の位置からでも剣呑な明かりを灯した瞳が赤みを帯びていく。のんびりと商品を袋へつめていた店員に紙幣を押し付けると、獄はさっと商品を掴んだ。
「釣銭は募金箱へ入れておいてくれ」
 獄が店外へ出ようとした瞬間、びりりとした衝撃で自動ドアが共振した。そんなに強く殴りかかったようには見えないのに、ガラの悪そうな男たちが浮きあがり積み重なる。
「ったく、あいつ」
「獄さん!」
 あわあわと十四が獄に駆け寄るのと、男たちが叫び声を上げて走り出すのと、空却が笑い出すのがほとんど同時だった。驚いて様子を見に来た店員を見て、獄は二人の弁護をしなければあとが面倒になることを悟る。
「おまえらは車で待っとけ」
 くれぐれも何もするなと特に空却へ念を押し、獄は再び店内へと戻った。

「ほらよ」
 空却は男のうち一人が打ち捨てていったぬいぐるみを十四に向かって放った。
「アマンダ!」
 少し汚れたぬいぐるみを抱えた十四はほっと安堵のため息をついた。
「そうだ、助けてくれてありがとうございますっす。
 自分はどうもああいう人たちが苦手で……」
 はにかむ十四に空却は険しい顔を向けた。
「拙僧が助けたのは『アマンダ』だけだからな」
「えっ、と?」
 きょとんと目を見開く十四の額を空却が弾く。
「お前は修行が足りねぇ。しゃんとして、ソイツに感謝しろ。んで、もっと大事にしろよ」
「いっ、ハイっす!」
 涙目で額をさすりつつ、十四は空却へもう一度頭を下げた。
「それでも自分も助かったんで、お礼を……。
ところであの、名前を聞いてもいいっすか?」
「あ?」
「自分は四十物十四っす」
「……空却」
 ずいと身を乗り出す十四に押され、空却は思わず答えた。
「空却さんっすね!
 獄さんの依頼人さんっすか?」
「いや、依頼人じゃねぇよ。まあ、世話になってるといやそうだけど、拙僧のが立場は上だしな」
「なんか複雑なんすねぇ」
 何を思ったのか十四はうんうんと一人で納得すると、大きな手でそっとアマンダを撫でた。
「自分は昔獄さんにお世話になってて、」
 続く言葉を聞きながら、空却はアマンダを見つめてあぁ、と小さく返事をした。
「……獄さんは自分の神様なんすよ!」
 にこり、そう笑う十四を眩しそうに見つめて、空却は目元を緩めた。
「お前はいいやつなんだろーな。気に入った」
 コツコツと窓を叩いた獄により会話は一度終了する。ライブ会場へ行くという十四を送りつつ、賑やかになった車内で空却は目を閉じた。
「神様、か」

 結局空却と獄が海岸についたのは、日が沈むころだった。オレンジに染まる海と空に太陽が道をつくっている。
「おぉ」
 空却はなぜだかひどくその光景に心を惹かれ、靴に砂が入るのも構わずに走り出した。
「転ぶなよ!」
 あっという間に波打ち際まで到達した背中を追い、ゆっくりと足跡を辿りながら獄もその景色にしばし見とれた。ざざん、と寄せては引く波の音も、日中よりも涼しい風が心地よい。
「獄ぁ!」
 存外無邪気に波と戯れていた空却が随分遠くから大きく手招きをしている。
「ったく、」
 獄は靴を脱いでまだ熱い砂を踏んだ。
 じきに砂は湿り気を帯び、波が足を洗う。
「獄!」
「なんだ、そんなに叫ばなくても聞こえて……」
 その時だった。
 ざあっと先程までとは全く違う嫌な風が砂と水飛沫を巻き込んで吹きつける。
「……ぁ!」
 思わず閉じた瞼をあげると、ありえないものが目の前にいた。それは、酷く懐かしく、優しく、獄を手招いてた。
「あ、兄……」
 逆光で表情こそ隠されているものの、その姿を見間違える筈はなかった。口元はどこか笑っているように見える獄の兄は、海の上を滑るように移動していた。ありえないことだが、獄はこの数日神になりかけのお鈴を世話している。なら、もしかしたら、幽霊だっていてもおかしくはないのではないか。
「まっ、待ってくれ!」
 その手に届きそうで届かない。獄はざぶざぶと波をかき分けてその姿を追った。
「獄!」
 腰まで水に浸かった獄の肩を掴んだのは空却だった。そのまま思い切り揺さぶるも、獄の視線はその兄らしき影から離れることはなく、振り払われないように抑え込むのにも苦労する。その姿は今までの獄の様子からはかけ離れたものだった。
「やめろ、止まれ!」
 そう叫んでも波の中で獄を引き止めるには、空却の体格が足りない。それどころか空却を引きずったまま一歩、二歩と先へ進む。獄の耳には『こっちだ』と、何度もそう呼ぶ声が聴こえていた。懐かしい声が。
「離せ、……聞きたいことがあるんだ、言わなきゃならねぇことがあるんだ。
 兄貴、待ってくれ!」
「あれはお前の兄貴じゃねぇ!」
 空却は獄の兄のことは知らない。ただ、彼の目には獄とは異なるものが見えていた。学生服の人らしき形をとっていてもその向こうに無数の手が透けて見える。水気を含んで浮腫んだ手は仲間を欲しがる怪異にしか見えないのだ。怨念ともよべるそれは獄にも空却にも太刀打ちできるようなものではない。増して、獄を形作る一員となるような優しいものではない。
「お前に、ただの物に兄弟の何がわかる!」
 空却は獄の声に返す言葉を持っていなかった。獄の言葉は正しい。水は既に空却の胸元まで迫り、水気を含んだ衣服で掴んでいた手が滑った。
「クソっ」
 空却は獄が離れた瞬間、今までとは逆に思い切りその肩を押した。つんのめる獄の背を踏み台に獄と怪異の間に飛び込む。水飛沫があがり、まさに今獄へ触れようとしていた怪異の手らしきものを弾いて着地した。
「獄、悪ぃな」
 空却は突然の塩水に咽る獄の胸ぐらを掴むと思い切り頭突きを食らわせた。
「痛、っ」
「拙僧には確かに人のことはわからねぇ。
 ただな、これがお前の家族でないのはわかる。付き合いは短いけど獄はいろんな人も物も大事にできるやつだとわかってる。そんなやつの兄貴が生者を海に引きずり込んだりはしねぇってこともな」
「……!」
 顔をあげた獄が反論のために開いた口は放つべき言葉を忘れた。もう沈みかける夕日を背に、いつかのように爛々と輝く瞳があった。空却の本体を表すような炎から生まれた金色の光だ。その瞳は憐れみとも慈しみともとれる表情を湛えていた。ぺたり。水中から伸びる手が空却に縋る。
「おい、」
「大体家族ならちゃんとわかってやれよ。お前の兄貴は、拙僧ンとこへ来たときから、ちゃんと、お前の側にいただろ」
 ぺたり、ぺたり。手の数が増えてゆき、獄の目にもそれが認識できるほどになる。それは確かにこの世のものとは思えなかった。
「……お前」
 獄の言葉を押し止めるように首を振り、空却はカラカラと笑う。
「カッコつけてもな、こいつら追い払うほどの力は拙僧には無ぇ。神にはまだ成りきれて無いんだよ。だからまぁ暫く静かに過ごすと決めた。海中も悪くねぇだろ」
 彼がポケットの奥へしまっていたお鈴が引きずり出され、比重の重たいそれはいとも容易く波間へ消えてしまう。
「その三日、楽しかったぜ。
 次に出会ったら、そのときは」
「空却!」
 空却の瞳が片方浮腫んだ手に覆われ、波がその頭上から赤い髪を隠そうと押し寄せる。最後に獄が呼んだ声は届いただろうか。溶けるように緩められた瞳は最後まで獄から外されることはなかった。
「お前と家族に――」
 ざぷん。
 重たいものが水に沈む音だけを残して、嵐のような少年はその姿を消した。その波に押し戻されるように海岸へと運ばれた獄が再び沖見たときには、ただ静かな夜の海が広がっているだけだった。
 その後、誰かが通報したのか警察らによる捜索が行われるも、当然少年は見つからなかった。そして金のお鈴も。

 毎年夏の暑い日になると、獄は海に来て赤い花を流している。
「ここで待っててやるよ」
 一人呟き煙草の煙を燻らすと、潮騒の奥からりぃんと誰かが返事を返すようだった。
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