花束はあなたのため
零那由
!過去捏造
その日は零と那由多にとって大切な日だった。理由は明白で、ちょうど一年前に彼らは入籍したのだ。所謂結婚記念日というやつで、張り切った妻が料理を手作りしたいというので零はそれを快く受け入れた。調べておいたレストランにはまたいつでも行けばいい。定時も待ち遠しく仕事を終えた零は少し寄り道をしてから自宅へと戻ったのだった。
カチ、カチ、カチ。
家の中でアナログ時計の秒針が時を刻む。
その音を消さぬように、零は人生でこんなに静かに動いたことはないだろうと思えるほど、そっとリビングのドアを開いた。秒針をメトロノーム代わりに、微かに柔らかい鼻歌が聞こえる。曲名は忘れたが、聞き覚えのあるクラシックだった。ベートーヴェンだったかもしれない。最近よくピアノのそばに置かれている楽譜集を思い出そうとしてみても、記憶にあるのは楽譜を見つめる那由多の横顔ばかりで曲名はやはり浮かばなかった。軽やかな鼻歌は続き、彼女は何も気づかずのん気に鍋の中身を覗いている。滑るように大きく三歩。キッチンから死角の壁に凭れる。左手に抱えた花束のラッピングが壁に当たり、かさかさと音をたてた。はた、と止まる歌。
「零さん……?」
訝しげに那由多は小さく囁いた。その声には応えずに、零は意思を持って花束を軽く振る。先程よりも賑やかにがさがさと音が鳴った。数秒の沈黙の後、鍋の蓋を置く音がして、ゆっくりと軽い足音が動く。
「零さん?」
柱の陰からそろりと小さな頭が半分ほど覗いた。
「ばあ」
ちょうどその顔のあたりに花を差し出せば、きゃ、と声が上がった。縮こまった肩に零の右手が触れ、指通りのよい髪を梳くように耳の後ろをくすぐる。よく知った温度にゆっくりと肩から力が抜けてゆく。そろりと目を開いた那由多は、僅かに零の方へ首を傾げて猫のように目を細めた。
「アネモネですね、かわいい。
……私に?」
「那由多は好きだろ、花」
園芸種の花の名前は零にはよくわからないが、この花はいろんな色があるのだと花屋の前で笑う姿をよく覚えていた。家のあちこちにも花が生けられ、庭には季節の花が咲いている。
「ふふ、ありがとうございます。
ご存知でしょうが、お花は大好きですのでうれしい」
受け取った那由多は胸に花束を抱く。鮮やかな色の花は、見た目に反して控えめな柑橘のような香りを放っている。
「爽やかないい香り」
「那由多のことなら何でも知ってる。
しかしまぁ相変わらず妖精みたいだな」
「もう、」
花束から顔を上げ、困ったように那由多の眉が下がるが、滑らかな頬はじわりと薔薇色に染まった。零はその輪郭を指の背で撫でる。
「俺の言葉を信じてねぇな、女神に例え直してもいいぞ」
「またそうやって冗談ばっかり。零さんこそ神様は信じてないんじゃありませんでした?」
「お前を信じているから、妖精でも女神でもいいんだよ。
とにかく綺麗だ。筆舌に尽くしがたいほどな」
花を手にたおやかに微笑む姿は何度見てもそう思わせるのだから仕方がない。この一瞬のためなら妻も通う花屋の中年女性に「また奥さんへ贈り物?」などとからかわれることも、曖昧に愛想笑いを返さなければならないことも苦ではない。
頬を撫でる手を止め、最後にもう一度髪に指を通してから、毛先を後ろへ流すようにさらりと払った。離した手のかわりに長い睫毛に縁取られた優しい瞳と目が合うよう大きな体躯を屈め、低く囁く。
「なぁ、花だけか?」
一瞬驚いた那由多が零の瞳を覗き返すと、
とろける翠の奥に期待が見える。何かを伝えるのをこらえるように口を閉じていたが、その口角は上がったままだ。ややあって那由多は言葉の意味に気づくと、鈴を振るように声を上げて僅かに身体を揺すった。一緒にアネモネが楽しそうに揺れる。
「もちろん零さんも大好きですよ」
「も?」
零は欲深く聞き返す。
「……仕方のない人」
那由多は目の前の大きな子どものような男の首に腕をまわす。零の大きな手は軽々と華奢な身体を持ち上げると、その胸に引き寄せて閉じ込めた。
「アネモネの花言葉を、もし知ってくれていたら嬉しいです」
頬が触れるほどの距離、零の耳元で那由多が囁く。話題に出した花束を那由多はゆるく握ったのだろう。首の後ろあたりに薄い花弁が触れた。
「教えてくれないか」
アネモネの香りを覚えながらそう返し、零はこそばゆさを甘受する。
「白色は『真実』、ピンクは『希望』」
くすりと笑みを含んだ声は、ほとんど吐息に近い。
「赤色は、『君を愛す』」
腕を解き、身体を起こした那由多ははにかんだ。
「ねぇ、零さん。
月並みな言葉かもしれませんが、いつもあなたの幸せを祈っています。毎日私と一緒にいてくれて、大切にしてくれてありがとうございます」
零にはずっと己がどこか欠けているような、何者か分からないような、そんな漠然とした焦燥感と飢餓感があった。社会は弱者の味方ではない。足りないものを埋めるために、いろんなことを、人を、ものを、利用して吸収した。彼は賢く、才にも運にも恵まれた。だがたくさんのものを得ても、空白は埋まることはなかった。
「……私、あなたを愛しています」
だがどうだろうか。吸い込まれるような瞳に映る男は、自身も見たことがないほど穏やかな、そして少し泣きそうな顔をしていた。零は那由多に触れるたびに、形はわからずとも、一番深い部分がぴたりと埋まるのがわかる。空っぽだったその場所に、時を重ねるごとに注がれる視線や言葉が降り積もる。
「ずっとここで笑っていてくれ。俺もお前だけを愛している。
……ははっ、これじゃまるで誓いの言葉だな」
喉元までせり上がった震えを抑えるために零は冗談ぽく笑ってみせる。
「じゃあ、閉じ込めておかなくちゃいけませんね」
那由多がゆっくりと瞼を閉じた。それはまるで昨年の再演だ。純白のベールもヴァージンロードも必要ない。今の二人には関係がなかった。
ふわりと触れるだけの口づけ。
唇が離れると同時に二人の視線がごく至近距離で絡まった。おかしくて、くすぐったくて、どちらともなく笑い出す。零はじっとしていられず、その場で那由多を抱きしめながら踊るようにくるりとまわった。いつもより高い視界で振り回された那由多が明るい声を上げる。気を良くした零は、もう二、三度回るが、強かに壁に肘を打ち付けちょっと呻いた。
「大丈夫ですか?」
「……全然」
少し強がった零が足を止めた拍子に二人の鼻先が触れる。それもまたおかしくてそろって吹き出した。
ひとしきり笑った後でやっと零は那由多を床へ降ろした。なんでもないほんの数歩の距離を手を繋いで歩く。
「それじゃあご飯にしましょう。お花も生けなくちゃ」
「いや、その花は毒があるんだろ。俺がやる」
「大丈夫ですから」
「いや駄目だ。お前は凝りだすと止まらないからな」
「零さん鏡を見たほうがいいですよ」
洗面所で手を洗え、というのとかけているらしい。那由多は半眼でリビングのドアを花束で示した。
「男がひとり映るだけだからやめておく。
でも花は本当に俺がやるから置いておいてくれ。その可愛い手や顔が荒れたらどうする」
「もう、一人でできます! あと、さっきからずっとですけれど、あんまりかわいいって言わないでください……!」
それはもう可愛らしく那由多は憤っていた。怒りの表現かアネモネを掲げており、零は何かの動物の威嚇を思い出したが黙っておいた。彼とてわざわざ結婚記念日に妻の機嫌を損ねるような馬鹿な真似はしたくないので花から話を逸らす。
「なんでだ、可愛いのは事実なのに」
「また! 本当にもう大丈夫です」
つんとそっぽをむく横顔も彫刻にしておきたいほどだった。
「嫌なら言わないように気をつけるが……」
他ならぬ那由多の頼みであれば、一切言わないという選択肢は取らないが極力要望には応えたいと思う。思ったよりも零の声が暗かったのか、那由多は渋々といった形で口を開いた。
「嫌とかではないんです。というよりも嬉しいんです。ただほどほどにしていただきたくて。
……だって、零さんに褒められると私、うれしくなっちゃって、その。ドキドキしちゃいますから、大変で」
途中から声は勢いをなくし、最後の方はもごもごとすっかり小さくなってしまった。
「へぇ」
零の声は腹の底に響くような音だった。その温度に覚えのあった那由多は慌てて零から離れようとしたが、一足早く零に繋いだ手を引かれた。するりと指が絡まり、ずっと大きな手に握り込まれるともう離すことはできない。
「ダメ、だめですよ!」
「何が駄目なんだ」
「とにかくだめです……!」
那由多は花束を抱えたまま視線を泳がせている。
「お前は」
零は一つ溜息を吐き、そっと花束を取り上げるとそれをソファに投げた。
「あっ」
「花束は逃げやしないからな」
お前と違って。という言葉は言わなくとも伝わった。
「待って。本当に一つ忘れているのを思い出しました」
眉を上げる零に那由多はきちんと向き直った。
「おかえりなさい」
あまりにもいつも通りのそれは、零の毒気を抜くには十分で。
「あぁ、ただいま」
ただただ平凡で幸せな一日がそこにはあった。