北極星の真下
零那由
!単体でも差し支えありませんが、「花束はあなたのため」を読了を前提としています
零と那由多にとって特別な日。その部屋では、落ち着いた調度品と那由多が零の帰りを待っていた。
「ただいま。……少し寒くないか」
零は持ってきた荷物をテーブルへ、自身のコートはコートハンガーへとかけながら部屋の空調を確認する。温度も湿度も調整するためにリモコンを操作した後、彼は持参した花束を手慣れた様子で飾り付ける。
「昔、庭にも咲いていたが、これほど花らしい花もないよな」
暖色系の十本ほどのガーベラが主体の花束を飾れば、部屋はぐっと明るい雰囲気となった。この花には花占いのイメージがあると言ったのは那由多だった。その言葉に、意地悪く植物の花弁の数はおよそ決まっているんだから奇数か偶数かで占う前に結果がわかるといえば、そんなことはわかっているロマンの問題だと頬を膨らませていたのが懐かしい。予想通りの表情がおかしかった。零にとっては今でもこの花については花弁の数がフィボナッチ数列に従うか否かの方がずっと興味深い。
続いてテーブルの上の紙袋を開ける。ワインと数品のささやかな料理が手品のようにやや狭いサイドテーブルを賑わわせた。
「今年は忙しくてな、出来合いで悪い。
あぁ、でもワインは面白いのを選んでみてな。最近気に入ってるワイナリーが造ってるもので……、オレンジワインはあまり飲んだことなかったよなぁ?」
言葉とともに、トパーズのように美しい液体がグラスを満たす。ウイスキーともまた違う、明るめの色のついた影は照明の光を通して瞬くようだった。
「乾杯」
チン、と澄んだ音を立てて二つのグラスがぶつかる。グラスを回せばふわりとした芳醇でややスパイシーな香り、一口含めば複雑ながら酸味と甘味を感じ、食事と合わせるのに丁度よい風味だった。ゆったりとそれらを楽しむ。
アルコールが回れば口も滑らかになるもので、話題は最近の息子たちの様子に始まり、過去の記念日の話まで多岐にわたった。
「……そんなこともあったよな」
喉の奥を鳴らしてくつくつと笑った零はおもむろにグラスを置いて席を立つ。コートハンガーのもとに、彼の手の平ほどの小さな紙袋を一つ隠していたのだ。
「今年はこれを那由多に」
袋からキラキラとした化粧箱を一つ取り出す。白いリボンはいつかの花束のラッピングとよく似ていた。するりとリボンを解いて箱を開けると、一本のリップが姿を現し、零は自らその蓋を開けで中身を繰り出した。こっくりとした赤色が那由多にもよく見るよう、斜めにカットされた端をくるりと回してみせる。
「お前に似合うかと思って。
……いや、わかってる。那由多はもっと地味な色が好みだろ。でも少し試してみてくれ。
もし気に入らなかったら今度は新しい色を一緒に見に行こう」
真新しいそれを零はためらう事なく己の人差し指にとった。そのまま僅かに開いた那由多の唇へと指を這わす。色を失いかけているその場所にいつかの日の花とよく似た色が乗った。
「肌の色が白いからか? 赤も似合うな」
一つ頷き、満足げな零は口紅をサイドテーブルへ置く。一見ぱっと華やかになったように見えるが、強い赤色はかえって那由多の青ざめた肌の色を際立たせた。指を軽く拭ってから、いつものように零はするりと那由多の髪に指を通す。何度も梳いた髪は指の間から逃げるようにさらさらと彼女の胸元へと落ちた。
青ざめた肌、ごく僅かに上下する胸、油っけのない髪。ベットにひとり横たわる彼女はずっと、それこそ十年以上もの間、固く瞳を閉ざしたままだった。薄い身体はたくさんの計器とチューブに繋がっており、モニターたちが口をきくことができない彼女のかわりに生命活動の様子を示す。真っ白なシーツ、真っ白な布団、真っ白のワンピース。その上にはせめてもと明るい花柄のタオルケットが一枚かけられていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
電子音が秒針よりもやや緩やかに音を刻む。零が喋るのをやめてしまうと、その音は一層際立った。部屋の中には微かに二人分の息遣いのみが数分間か、数時間か、重りあう。
「……一郎は、俺に似てると思ってたよ」
沈黙に耐えられないといったように零が再び言葉を紡ぎはじめる。大きな左手が、揃いの指輪がいまにも抜け落ちてしまいそうな華奢な手を握る。今日は珍しく彼の指にも銀の輪が光っていた。
「あいつ、俺のことを止めようとするんだ。笑えるだろ。
だがおかしなもんでなぁ、ある瞬間たけお前によく似ていたように見えたぜ。……那由多のことはほとんど覚えちゃいないだろうに。血は侮れねぇなぁ。
お前なら、あのときなんて言った? あぁ、最後にお前が俺を叱ってくれたのはいつだったろうな」
諦めたような、懐かしむような、そんな独り言は宙にとける。記憶を擦り切れるほど思い返しても時は無常にも零から那由多を奪ってゆき、零は那由多の声を思い出せなくなって久しい。なにせ記録媒体は皆戦争で焼けてしまっていた。それでも彼女が生きた証のこどもたちは今日まで生き延びて生意気にも零の前に立ちはだかろうとしている。
「……格好悪いところを見せたな。俺が感傷的になってもどうしようもない。全く、お前の前ではいつも格好良くありたいんだけどな。つい気が抜ける」
バツが悪そうに吐息のような苦笑をこぼす零は那由多の頬を、輪郭を指の背で撫でる。言浚の手に落ちた際に一時的に不安定になったバイタルはやっと回復し、どこか落ち着いた様子だ。零の唯一の弱点で逆鱗であるたった一人の女。前の研究室が荒らされた時の心臓が握りつぶされるような感覚だった。身柄の引き渡しの際に、瞳の奥が冷たい女狐のような女がにやにやと口角だけを上げて『あらぁ、貴方は王子様にも茨にすらなれないんだものぉ。可哀想』と言う。零はその横をなんでもない顔で通り過ぎたが、内心は穏やかではい。腹立たしいことに、実際その通りだったからだ。
その一件で呼び起こされたのは、きっと世間にとっては遠い昔の記憶。どうして那由多なんだとずっと抱えている感情を腹の底にしっかりとしまい込む。この部屋に横たわる彼女を見る度に、欠けているものの大きさを痛いほどに実感した。その場所は何でも埋められず、穴の空いた器は何も留めることができずに今に至る。それほどの苦しみを背負うくらいなら、いっそ彼女を死なせてやれ、すべて忘れて楽になれと星が囁く。知らずに指の関節が白くなるほど零は那由多の手を強く握っていた。それに気づいて少し冷静さが戻った。血が沸き立つも、頭は冴えわたる。今できることはやるべきことはなんだと、己に問う。手を握る力を緩めて労わるように指を絡める。昔のように握り返してはくれなくても、この体温をどうしても手放すことができなかった。ややあって零は自分の時計を確認する。
「もうこんな時間か。さみしい思いをさせてばかりですまなねぇな。そろそろ行く。
愛しているよ。今までも、これからも。だからどうか――」
零は、屈み込むと那由多にそっと口付ける。
「お前が望んだ世界になれば、きっと目覚めたくもなるだろ」
鼻先が触れるような距離でしばらく見つめてみても心拍を保証する電子音が一定の音を奏でるだけで、長い睫毛が震えることはない。そうだ。神はいない。おとぎ話のような奇跡はこの世界では起こらないことを零が一番よく知っている。一握の砂が指の間からこぼれ落ちるように、零がどれだけ心血を注いでも時が徐々に彼女を蝕んでいた。
「いってきます」
まだ返事は返ってこない。
無機質で人の気配のないこの研究室で、いっそ異常ともとれる、唯一あたたかみが残る部屋。零が積み上げた彼女への贈り物が部屋の隅のガラスケースに飾られている。コートを羽織った零はそこに今日のリップを化粧箱とともに片付けると、もう一度妻へと視線を送り、そっと部屋のドアを閉めた。
有象無象がなんと言おうと関係はない。零にとってここが世界の中心であることに間違いはなかった。