角砂糖の雨
じゅしひと♀
※ジューンブライドがテーマのオムニバス形式のシリーズ
1.祝福
『お花見をしませんか』
十四の送ったメッセージにはすぐに既読のマークがついた。
休日に少し遅い朝食を終え、テレビの中のスプリングコートのアナウンサーが「明日は雨」という予報を読み上げるのを聞いて、慌てて送ったものだった。メッセージの相手は獄で、今日が休日であることは知っていた。
『もうしてる』
程なくして見覚えのある靴のつま先と桜色の道の写真が添えられた飾り気のない言葉がかえってくる。獄はすでに花見を楽しんでいるらしい。出遅れてしまった焦りとともに誰かと一緒なのかと問えば、ひとりだと返ってきた。つづけてナゴヤでもそこそこに有名な公園の名前。十四は急いで所要時間を検索した。十五分後に家を出れば一時間以内にその場所までたどり着ける。
『自分も今から行くっす!』
そのメッセージに返信はなかったが、獄が嫌ならそもそも場所を送ってはこない。沈黙を肯定と受け取って十四は自室へと急いだ。準備の時間がどんなに短かろうと、好きな人に会いに行くのに手は抜けない。いつだって一番格好いい自分を見て欲しかった。
無事に乗ることができた予定の電車は大きな遅れもなく目的地の最寄り駅にたどり着いた。おそらく目的を同じとする多くの人たちに流されるようにして駅舎を出る。あいにく空は薄く曇っていたが、春らしく暖かかったので別段気にもならなかった。駅を出た旨をメッセージとして送り、そのまま公園内へと歩みを進める。入口からすでに見事なソメイヨシノの並木が出迎えてくれ、周囲のざわめきも喜色を含む明るい音となった。長身を生かしてきょろきょろとあたりを見回してみるも入口近くに獄の姿はない。そんな時手元に一通メッセージが届いた。
『道なりに進んで広場の奥、右側に細い道があるからそこを真っ直ぐ』
案内に従い屋台の続く広い通りを抜ける。ソースの焦げるいい匂いも、丸い形のカステラの甘い香りも、きらきらしたフルーツの飴も足を止める理由にはならない。人ごみを縫うように抜けると言葉の通り大きな広場があった。噴水を横目に家族連れや団体客の広げたとりどりのレジャーシートの列を進んでゆく。きもちのよい風が吹くたびに小さな花弁が舞う。
「右側の細い道、右側の細い道、っとあれかな……?」
周りに桜の木は見当たらないが、ひっそりとした小道が確かにあった。新緑の季節と呼ぶにはまだ木々の葉は心もとなく、行き交う人もほとんどいないため、少し寂しい印象だ。やや不安になりながらも砂利道を進む。二つほどゆるやかなカーブを曲がった先にはわずかに開けた場所があった。一本だけ桜の木があるその場所は、広場からも離れているためか人気がない。
「よぉ」
桜の木に向かい合うようにひっそりと置かれた木陰のベンチに一人、獄は足を組んで座っていた。ふわっと目元が下がるこの顔が十四は好きだった。
「獄さん!」
駆けよれば獄は隣に置いていた鞄を反対側へと避ける。座ってもよいということなのだろう。遠慮なく隣へ腰をおろし、獄を見やる。オーバーサイズの白いシャツに細身のベージュのパンツ、ゴールドのパーツの細い黒のベルト。一見すると仕事服に見えそうだが、素材と着こなしで適度にカジュアルで、いつもと違うざっくりとまとめられた髪型も相まって休日なのだと特別な空気を感じる。
「迷わなかったか」
「はいっす」
柔らかな声に笑顔を返し、そのあとでわざとふくれっ面を作って見せる。
「それよりひどいっすよ。お花見するなら最初から誘ってほしかったっす」
「ははっ、仕方ねーだろ、俺も今日思いついたんだから」
「珍しいっすね、獄さんがそいういう行き当たりばったりなことするの」
「明日が雨だっていうからな」
薄紅色の色の爪がのった指先が十四の額を小突いて笑う。同じことを考えていたのが嬉しくてふくれっ面はすぐにへにゃりと崩れてしまった。
「えへ、自分たちお揃いっすね」
「はいはい」
甘く笑みを含んだ声にアマンダの入ったカバンを胸の前で抱きしめる。獄はベンチに置いていた紙コップに入っていた飲み物をあおるとふぅとひとつ息を吐いた。わずかな酒精に十四は鼻を鳴らす。
「あ、それビールっすか」
「なんだよ急に」
「ほんとに珍しいっすね」
基本的に獄は空却や十四の前では飲酒も喫煙も控えている。よって酔っぱらった獄を見ることはあまりないので、思わず物珍し気にその姿を見てしまう。
「こっちは成人なんだから別にいいだろ、大体お前が来るとは思ってなかったしな」
「しかも二杯目っす!」
「めざといな、お前」
紙コップの重なりを指摘すれば、獄が眉尻を下げた。この顔も珍しい。よくよくその顔を見れば、メイクだけではない血色の良さが分かる。
「だからご機嫌なんすね」
今日は会ってからというもの、笑顔が絶えないわけだ。その原因が自分ではないことに少し置いて行かれたような気がする。
「そんな顔するな、ほら」
空になったらしい紙コップと鞄を持って獄が立ち上がる。
「行くぞ」
同時に柔らかな風が桜の木を揺らした。光が透ける獄の髪に秒速五センチメートルの祝福が降りかかる。
「ほら」
なぜだか叫びだしたくなるような胸の痛みを飲み込んで、差し出された手をぎゅっと握る。
「はいっす」
この光景をどこかでまた見たいと十四は強く願うのだった。
2.装い
アーケードの一区画で行われている蚤の市のようなフリーマーケットのような、それなりの規模の露店市が開催されていた。アンティークな雑貨や、様々な古着、使用感がいい味を出している家具を取り扱う店もあれば、手作りのアクセサリーを取り扱うような店もあった。ゴールデンウィークということもあり人の賑わいもかなりある。獄は後で何か掘り出し物でも探してみようと考えつつ、隣の区画にある行きつけの花屋へと足を運んだ。
店先を彩る初夏らしいバラやカーネーション、アスターなど華やかな生花たちを尻目に、店の奥へと進む。今日は自分のための花ではなく、獄の大切な人のための花を探しに来たのだった。よくあるリンドウや菊を手に取ろうとしたとき、ふと小ぶりな白い花が目についた。つややかな濃い緑の葉の間からすらりと湾曲した茎がのび、釣り鐘型の小さな白い花が並ぶ様子もかわいらしいスズランだった。
先日ニュースで見たフランスの風習を思い出し、幸福が訪れるというその花の前で立ち止まる。わずかな逡巡のあとで、たまには変わったものでもいいかと獄は店員を呼び止めたのだった。
「ひとやさーーーーーん!」
人ごみの中でも良く通る声によばれ、獄は危うく手にしていた白磁のティーセットを取り落とすところだった。苦笑いをしている店主に断りを入れて検討していたそれをそっと戻すと、獄は顔をあげた。十数メートル向こうで、良く見知った青年――十四が大きく手を振りながら人ごみをかき分けるようにこちらへと向かってきていた。通行と商売の邪魔にならないように、と獄は道の端に避けてその到着を待ってやる。
「奇遇っすね!
お休みの日に会えるとは思ってなかったっす」
駆け寄った十四はわずかに息を切らせ、その場でわずかに跳ねるようにして喜びを表現している。
「ちょっと花屋に用事でな。お前は?」
十四は手にしていた紙袋の中を見せるように少し開いた。
「自分は衣装を買いに。古着とかハンドメイドって面白いものがお手頃価格で手に入るんすよ」
ちらとのぞきこめば、確かに装飾の多いコートのような服に、キラキラとしたブローチや、レースで編まれた手袋のような小物がおさまっている。なるほどと納得していると、十四がはっとした顔で獄の後方を見た。
「獄さん、あれ見たいっす!」
「えっ?」
ぱっと掴まれた腕をひかれるがまま、獄も歩き出す。十四とは目線が異なる獄は目的地が見えず、人ごみでせっかくのブーケがつぶれてしまわぬようにするのが精いっぱいだった。つかまれた時と同じくらい唐突に力強い手がするりと離れる。金色のメッシュを追いかけてニ、三人の間を抜けるとようやくその隣にたどり着いた。危ないだろうと文句を言おうとした瞬間に、ふわりと白い何かを頭からかぶせられた。視界が奪われる、というほどの物ではない。顔をあげればそれをかぶせたらしい張本人とごく薄い布ごしに視線がぶつかった。
ぐるりと花模様のレースに縁どられたヴェールの中に閉じ込められた獄は、十四が人生で見てきたどんなものよりも。
「かわいい」
雑踏に紛れてしまうほどの小さな囁き声が、蜂蜜よりも甘く獄の鼓膜を揺らす。獄はそれを聞かなかったことにして、そっと繊細な布を外した。
「急に腕を引っ張るな、それから店のものを勝手に触るな」
「つい、次の新曲にぴったりだなって思って興奮しちゃったっす。ごめんなさい」
眉を顰める獄から布を受け取ると、すぐに十四は店の主にその代金を支払った。改めてみればそれはアイボリーがかった古いマリアヴェールのようだ。
「いい買い物できたっす。次の新曲は天使をテーマにしてて、」
美しい布を紙袋に収めた十四の腕を、今度は獄が引っ張った。
「わかったから、邪魔になる前に行くぞ」
「あ、獄さん、次はあっちの靴が……!」
「うるさい、後で見に行ってやるから一旦落ち着け」
白昼夢のように一瞬の出来事に追いつかれてしまわないように獄のヒールが地面を蹴った。
3.煌めき
その日、十四は獄の自宅を訪ねていた。
玄関のチャイムを鳴らして、備え付けのインターホンのカメラに向かって手を振る。レンズの下の小さなスピーカーはガザガザとしたノイズと一緒に、うめき声ともため息とも取れない声をかえした。ややあってクレセント錠がまわる音がし、ゆっくりと扉が開く。少しゆったりとした服に髪を下した獄が扉に身体を預けるようにして十四に相対した。
「どうしたんだよ急に」
「なんとなく会いたくなってきちゃったっす」
「なんとなくってなぁ……」
これ見よがしなため息とともに獄が左手を額に添えた。その日は朝からしとしとと雨が降っていたせいか、昨日までの疲れからか、そんなに調子が良くない。正直なところ、こどもの世話をするつもりもなければ、誰かに会うつもりもなかった。よって適当な理由をつけて十四を帰し、ゆっくりとした休日を確保することにする。
「今日はなにも予定はないんすよね?」
獄の思惑を知ってかしらずか、十四はそんな言葉とともにこてんと首をかしげる。一昨日空却と三人で会ったときに、何気ない会話の中で週末の予定について話をしていた。空却はどこかの法要があるという話だったが、確かにそのきには獄の予定は何も入っていなかった。
「だからって急に来るなよ。
あと、来るならせめて連絡くらいしろ。アポイントを取れ」
予定も事情もあったものではないだろうとつづければ、もっともな言葉に十四の綺麗な瞳がゆれる。
「もしかしてなんか用事がはいっちゃったんすか……?」
形のいい眉がだんだんと下がってゆく。ここに拒絶をぶつけるのはわずかに気がひけてしまう。獄の中に罪悪感のようなものが顔を出していた。雨の中せっかくここまで来ているのだし……という気持ちと、それにしたって勝手すぎるという気持ちの間で天秤が揺れ動く。
どこかで見たような困り顔にうかがうように覗き込まれると、焦燥感にも似た何かに突き動かされるのだ。
「……いや、用事はないが」
しばらくの沈黙の後、結局折れたのは獄だった。
とたんに十四はぱあっと花のかんばせをほころばせる。
「ケーキ買ったんすよ。一緒に食べましょ、ね!」
そう言って小さな白い箱をみせれば獄はわずかに目を見開く。人の好意を無下にできない獄の天秤は傾いたまま止まった。この短時間で何度目かの盛大なため息とともに扉に預けていた身を引いてドアの隙間を広げてやる。
「おじゃまします!」
すっかり元気になった十四はいそいそと玄関をくぐった。他人の家に入るときに感じる自分とは少し違う匂いが鼻をくすぐる。珈琲と煙草の苦い香りの向こうにあるすこし甘い匂いが十四は好きだった。
「お前、本当に用事があったらどうする気だったんだ……」
扉を戻した獄がつぶやく声は聞かなかったことにする。
「適当に座ってろ、コーヒーいれてやるから」
「はぁい」
足取りも軽くリビングへと進み、勝手にここと決めた席に着く。机の上にあったひろげたままの雑誌は、閉じて獄がいつも使っているラックへ新聞とともに片づけた。スペースを確保したので白い箱を机に置き、クッションを抱えるとそわそわと獄を待つ。
ほどなくして、香ばしい香りの湯気の立つカップを二つ持った獄がキッチンから現れた。
「ほら」
十四の前に置かれたのは来客用のうすい水色のカップだ。隣に置かれた獄の白いカップ中身は普通のコーヒーだったが、十四のものにはミルクがはじめから入っている。靴を付けたわけではなかったが、きっと砂糖も入っているに違いなかった。わざわざ自分のために作られたそれを十四はにこやかに見つめて、ありがとうございますと告げる。
「客人には飲み物くらいふるまうだろ普通。
それよりどんなケーキなんだ?皿を持ってくる」
待ってましたと十四は箱に手をかけた。
「かわいいんすよ、ほら」
現れたケーキは一つだった。普通のピースのケーキよりは少しだけ大きいのだが、形はホールケーキをそのまま小さくしたような丸い形をしている。ケーキの上部は真っ白な生クリームが波うってまるで繊細なドレスの裾のようで、中心には小さなチョコレートのプレートが品よくのっている。なるほど、と声をあげた獄は一度キッチンにもどると、小さめのナイフと、カップにも似合いそうな水色の装飾のついた皿とフォークとを持ってもどった。
「ほら」
促されてナイフを握った十四は、もったいないとも思いつつケーキを真ん中で等分にした。ナイフを返せば、獄は器用にナイフをケーキサーバーのようにして底面へ差し入れ、それぞれの皿へと移す。チョコレートののったほうは、十四の前に置かれた。
手早く箱やナイフを片付けた獄がソファへ腰を下ろし、ふたりで並んで座る。それがなんだかくすぐったくて十四はクッションの端を握った。
「えへへ、」
「なんだよ」
「何でもないっす。食べましょう」
「ったく、食べたら帰れよ」
いただきますと手を重ねてから、それぞれが白いケーキへフォークをたてる。ふんわりとしたスポンジはすんなりときりわけることができて、口に運べば優しくほどけた。
「へぇ、うまいな」
思わず獄は目を見開く。スポンジの間にはフルーツなどはなく、うすく薄くクリームが挟まるのみでシンプルなつくりだ。その分スポンジにこだわりがあるのか、しっとりしたそれはほかの店のものよりも少し卵の味が濃いようだった。量が多いように見えた生クリームもあまり甘さがなく食べやすい。コーヒーに合いそうな、獄も好みの味だった。
「ここのケーキ、いつも誕生日とか特別な時に食べるんすよ。
気に入ってもらえて自分もうれしいっす」
十四はにこにことそう答える。
しばらくのあいだ他愛もない話をつづけながら、ケーキとコーヒーをゆっくりと楽しんだ。
「あれ、そういえば珍しいっすね」
十四の目がカップを持ち上げる獄の指先にとまった。
いつも綺麗に手入れをされ、プロの手によって派手すぎないシンプルなネイルが施されているされている爪が、今日はなんの装飾もなく素のままであった。
「あぁ、昨日の夕方一本はがれたんだよ。他の指ももう変え時が近かったし一本だけ修復するのもどうかと思ってな。
とはいえ昨日は 店に無理矢理時間取ってもらったようなもんで、全部の指にデザインを入れる時間は到底なかったから、とりあえずオフだけ頼んだんだ」
その時のことを思い出したのか、獄はわずかに眉を顰め、カップを置いて己の爪を見る。
「問題は今日明日は予約がいっぱいだったことだな。まぁ来週どこかで時間を作るさ」
「じゃあ自分がやってみてもいいっすか」
十四はすっと手を挙げた。
「獄さん確かセルフネイルの道具も持ってたっすよね」
「……持ってはいるが」
「自分も結構ネイルするんで、次にお店に行くまでの間くらいなら!
フレンチもワンカラーでもアレンジでもできるっす!」
皿を片付ける間中隣でプレゼンをされ、結局勢いに押された獄は十四の前にネイルのセットを並べることになった。
「わ、すごい、これ夏向けの限定のカラーっすよね。こっちのブランドはどんなカラーでも肌なじみがいいって噂で気になってたんすけど、自分が買うにはちょっと勇気がいるから買えなかったやつ……!」
目を輝かせてあれこれ検分していた十四だが、しばらくしてようやく獄を振りかえった。
「道具も充実してるんで、何でもできそうっす!」
「何でもできるかもしれんが、仕事をするんだからそんなに派手なのにはしないからな」
「デザインなどんなのがいいっすかね」
「だから凝ったのでなくていいんだよ」
あれこれと案を出しながらイメージを固めてゆく。極力シンプルにしたい獄と、特別なことをやってみたい十四との間でしばらくの攻防戦ののち、最終的に肌なじみの良いシアなオフホワイトをベースにして、一本だけ淡いカラーで花のデザインを入れるということで決着がついた。
「どっと疲れた……」
獄は深くソファに身を沈める。
十四はクッションを一つ獄の膝上に乗せて両手を置くように促した。ひとやはソファに身を沈めたまま指示に従った。十四はさらにもう一つのクッションを床に置き、そこを自分の席と決める。身長の高い彼が床に座れば、ちょうど獄の手が作業をしやすい位置に来た。
「無理はしなくていいからな」
爪の油分を拭く十四に獄が声をかける。実のことを言うとやや心配なのであった。十四のネイルといえば、現在彼の手元を飾っている黒のワンカラーをはじめ、ライブの時など日常生活に支障をきたさないか心配になるようなデザインを施しているときもある。また、自分でやるのと人に施すのでは勝手も違うだろう。
「失礼しまーす」
すっかりネイリスト気分の十四は準備をすると早速ベースコートを獄の指先へのせていった。獄の心配をよそに、その手元に危なげはない。当然プロとは比べるまでもないが、長い指は器用に筆を操りはみ出すこともよれることもなく丁寧に進んでゆく。そのあとに使うカラーもきちんと獄の指定の物が机に並べられていた。
作業をするまなざしは真剣そのもので、それ以上声をかけるのもなんだか憚られる。部屋はしんとしてパラパラと雨が屋根に当たる音だけが遠くに聞こえた。獄は一旦任せてみるかと肩の力を抜いたのだった。
「これでよし」
十四がそう言って筆を置いたのはそれから一時間以上たってからだった。カラーを施した後に右手の薬指へ淡い色で青い紫陽花を描き上げ、後は乾くのを待ってトップコードで仕上げるだけというところだ。水彩画のような紫陽花は十四の目から見てもなかなかきれいにできていて、その出来栄えを見てもらおうと顔をあげて気づく。
獄は静かに寝息を立てていた。
疲れがたまっていたのだろう。うっすらと目の下に隈ができていても、いつものようにしっかりとしたメイクをしていなくても、十四は美しいこの人がどうしようもなく好きだった。一回り小さい手にそっと自分の手を重ねる。獄の瞼は開く気配がない。
十四の心の中にちょっとした悪戯心がわいた。音を立てないよう道具箱から目ぼしいものをとりだし、先ほどまで重ねていた左手から薬指をそっととった。簡単なアレンジを施した後に満足げに頷き、静かに立ち上がって、柔らかな素材のストールをもってくると眠る獄の肩へとかける。その拍子に獄の髪が一筋はらりと崩れてその顔にかかった。
十四はゆっくりと身体を寄せ、ソファの背もたれに手をついて獄を見下ろす。こんなに間近で獄の顔を見るのは初めてかもしれなかった。冬の朝のような薄い色の瞳は瞼の向こうに隠され、長いまつげが影を落とす頬はまろく、わずかに開いたつややかな唇は誘うようにわずかに開かれて甘くすら感じる吐息をこぼしている。吸い寄せられるように十四はさらに身をかがめた。雨の音すらもう遠くて聞こえないのに、自分の心臓の音だけが獄に聞こえてしまうのではないかと思うほどにうるさかった。ガラスの彫刻に触れるよりも繊細に、綺麗な指先がその髪をすくって小さな耳へとかける。
十四はゆっくりと目を閉じる。鼻先がわずかに触れた。
「……いつか、きっと」
囁きは届かずに、雨粒と一緒に地面へ落ちていった。
「上手いもんだな」
純粋な感心から獄は自分の指先と十四とを見比べる。
つやりと輝くワンカラーで統一された爪のうち、左右の薬指にだけアレンジが施されている。右手には丸い紫陽花が想像していたよりも落ち着いた印象で爪を染め、左手には微細なラメのシルバーと紫陽花と同じブルーのラインが細く入っている。アクセントとして添えらえた透明で小さなストーンがキラリと輝いていた。
「雨粒みたいできれいだ」
そのことば通り、嫌味のない程度かつ手元にアクセサリーがなくとも上品で華やかに見える仕上がりだった。
「喜んでもらえてよかったっす……!」
はにかんだ十四はアマンダを手に帰り支度をしていた。いつの間にか雨は止み、レースのカーテンの向こうからさす光がオレンジ色に染まっている。
「途中寝ちまって悪いな、今度埋め合わせするから何か考えておいてくれ」
ややバツの悪そうな獄は玄関先まで十四を送りながら頬を掻く。その言葉に十四はあっと声をあげた。
「じゃあ、今度やるライブを見に来てほしいっす!
モノトーンがテーマなんすけど、衣装に今までになくらい凝っててテンションが上がるんすよ。新曲に合わせた構成にはするつもりで、鉄板は抑えつつちょっと豪華で大人っぽい感じに仕上げようって話をしてて……」
その場でくるりと回って見せながらライブの演出について語りだすが、当然語り終わる前に玄関の扉の前へたどり着いてしまう。ふっと言葉がとぎれ、二人の間に静寂が訪れた。扉を開けながら十四は肩越しに振り返って獄の瞳を真っ直ぐにとらえる。
「自分、獄さんに『格好いい』って言ってもらえるようになるまで頑張るんで
もうちょっとだけ待っててほしいっす」
扉の隙間から差す夕日が眩しくて、獄からその表情はうかがえない。だが、光に透ける睫毛の下で、宝石のような瞳がちかちかと輝いていることだけはわかった。
獄が口を開くよりも早く「じゃあまた今度!」という言葉とともに踏み出していった青年の背はあんなに広かっただろうか。静かになった玄関で獄はしばらくの間立ち尽くすのだった。