蜘蛛の網に足を掬われ
ナゴ獄♀
「トリックオアトリートっす!」
十月三十一日。よく晴れた空の高くにイワシの群れのような雲が泳ぐ休日、獄の自宅に明るい声とともに十四が現れた。いつもよりキラキラとしたメイクに黒いマント、細身の黒いパンツはそのままだが、上半身は華やかなフリルとアクセサリーに彩られた白いブラウスだ。頭からはどこで手に入れてきたか分からない、黒い捻れた角が二本生えている。なるほどそのままライブへ行けそうなビジュアル系らしい格好だ。ピタリとポーズをとった姿はきっとそのままブロマイドにだってできるだろう。背景が獄の自宅でなければの話であるが。
獄は何も言わず、ただ手に持っていたタバコを灰皿に押し付けてその火を消した。
「邪魔すんぜ、とりあえず菓子よこせ」
当然のように上がりこむ空劫は、十四とは正反対のいつも通りの服装だ。ただ一点、目元に穴だけ開けた薄茶の紙袋をすっぽりと被っていた。見覚えのある店名と縁についたままのビニールのテープに生活感が溢れている。横柄な態度と相まってどちらかというと仮装というよりも銀行強盗という方が近い。我が物顔でソファで隣に沈んだ空劫の頭を獄が叩くと紙袋が大げさな音をたてた。
「お前らアポイントって知ってるか」
何度勝手に入ってくるなと言ってみてもとにかく無駄だったので、最近の獄はこの二人に新しい概念を覚えさせようと苦心していた。
「知らね」
「そんなことより、どうっすか?
この悪魔仮装、めちゃくちゃ良くできてるっすよね!」
十四が華麗にターンすれば、ふわりと広がったマントの後ろから小ぶりなコウモリの羽と彼の膝ほどまである尻尾がのぞいた。
「人と会う時はあらかじめ連絡をだな……」
「空劫さんにはずっと前から伝えてあったのに、今日自分が行ってから準備したんすよ」
「菓子を食うのに仮装がいるんだろ、ちゃんとしたじゃねぇか」
「いやいや、せめてシーツ被って欲しいっす」
「あんなデケェ布に穴開けたらもったいねぇだろうが」
「お前ら俺の話を聞け!」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてるっすよ」
「聞いてねぇだろ、ったく本当に毎度毎度……」
「ほら、ちゃんと連絡したっす」
十四が示した画面には、ちょうど十分前の日時が書かれたメッセージに、確かに『今から獄さんのお家に空劫さんと向かうっす』と書かれている。
「そんなもん連絡になるか!」
「えぇ、自分はちゃんと思い出したのに……」
「次は前日には思い出してくれ、頼むから」
「はぁい。それより、この仮装似合ってないっすか? 今年は気合いを入れてきた、悪魔になってみたっす」
やっぱりなんにも聞いてないだろと獄は頭を抱える。
「いや、似合っちゃいるんだけどな。そこじゃなくて」
「やった! 空劫さん、聞きました?
頑張った甲斐があったっす!」
獄が頭を抱えても今からこの情報がかわるわけでもない。にこにこと衣装のこだわりを語りはじめた十四をみて、もう今日は好きにさせてやろうと獄は諦めた。
「それで、空劫はそれなんの仮装だ」
「知らん。そのへんにあったもの被っただけだから、まあ強いて言えば紙袋お化けか?」
だって拙僧には関係のねえ行事だし。十四に気を使ったのか、やや小さく続く言葉に獄は納得する。
「坊主には関係ねぇよな」
「それはそれとして菓子は食うからよこせ」
「本当にお前は、」
半顔になった獄はやれやれと立ち上がりキッチンへと消える。程なくしてお盆に三つのマグカップとプラスチック容器をのせて戻った。
「間に合せのコンビニのだからな。文句言うなよ」
獄がそう言ってそれぞれの前に置いたのはかぼちゃプリンだった。中央に絞られた生クリームの白とのコントラストが、卵のプリンとは違う鮮やかな黄色の色味を引き立てる。獄の宣言通り、この時期のコンビニの定番スイーツだった。
「うわ、これ美味しいやつっすよね!」
「南瓜か。なんだよちゃんと三つあるじゃねぇか」
獄は空劫の頭をまた軽く叩く。ぱすんとその拍子に目の位置がズレてしまったのか、空劫はバカスカ叩くなイテェなと言いながら早々に紙袋を取り去った。紙袋お化けからただの空劫にもどった彼の前から順にプリンの横へマグカップを並べる。その中にはカフェオレのような色味の液体か湯気を立てていたが、ほわりと浮かんだ湯気と一緒に鼻をくすぐるのはコーヒーではなくほうじ茶の香りだった。
「茶に牛乳いれるなよ」
眉間にシワを寄せる空劫に獄が少し笑う。
「知らないんすか空劫さん。ほうじ茶ラテめちゃくちゃ美味しいんすよ」
有名コーヒーチェーンでたまに飲むのだと力説する十四を、空劫が怪訝そうな顔で見つめる。
「お前、煎茶にも牛乳ぶち込んで飲むんか」
「お茶には入れないっすけど、でもほら抹茶ラテとかも美味しいじゃないっすか。ね、獄さん」
「まあ好みはあるだろうがな」
やっとのことで広いソファに横並びになっていただきますと手を合わせる。三人は早速プリンをスプーンで口に運ぶ。かぼちゃのしゃりっとした繊維感があっても滑らかなそれは自然な甘みで口内を満たす。ほろ苦いカラメルがまた一口を誘う。秋の味覚は知らずにそれぞれの口角を上げた。
「やっぱり美味しいっすね!」
「そうだな」
へにゃりと眉を下げた十四が頬をおさえる。獄はそれに同意した。空劫はスプーン置いてマグカップを覗いている。ふーっと息を吹きかけてから、初めての餌を食べる猫のように僅かにほうじ茶ラテを口に含んだ。一秒ほど検討したあとで、二、三度目を瞬く。
「うまい、か?」
まだ慣れないのか僅かに首を傾げつつも、今度は普段の飲み物と変わらない量を口に流している。悪くはなかったらしいと獄はくすくすと笑った。
甘い物と温かい飲み物は気分をおちつけて、他愛のない世間話を引っ張り出す。最近の出来事からなんてことのないバカな話まで、穏やかな時間はあっという間に過ぎてゆく。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせる十四と空劫。食器を手早く片付けた獄がソファにもどると、背もたれに深く身体を預けていた空劫がひょいと起き上がった。そのままなんの前触れもなく、まるでそうするのが当たり前かのように自然な動作で獄に口付ける。
「は? いや、っちょっと、待っ……」
獄が身を引くよりもはやくがっしりした手が後頭部へ周り、退路を塞がれる。
「こ、ら。何し、」
抗議をしようと不用意に口を開けば、熱い舌に口腔内への侵入を許す。歯列をなぞり、軟口蓋をくすぐる刺激に思わず身体を震わせれば、背後からするりと伸びてきた腕に抱きすくめられる。
「獄さん、自分もまだ足りないっす」
お菓子よりも随分と甘い甘い声が右耳から獄の脳を侵す。言葉は全て飲み込まれ、むぐ、というくぐもった音にしかならない。回された腕がするりと獄の薄い腹を撫でた。驚いた拍子に獄はがり、と空劫の唇に歯を当ててしまった。
「ってぇ」
空劫はどちらのものかわからない唾液で濡れた唇に滲んだ血を親指で拭う。ぎらりと光る金色が獄を刺すように見つめている。その視線から目をそらし、キスから解放された獄は慌てて身を捩った。
「っ、おい、お前ら何考えて」
「拙僧は菓子かいたずらかどっちかなんて言ってねぇだろ」
空劫の手が獄の太腿へと乗せられ、だから悪戯する権利があるよなとにやりと笑う。身を引いた獄は十四の胸にぽすりと収まってしまう。くつくつと体温と一緒に喉奥の笑い声が身体に響く。
「空劫さんに、いじわるされちゃうってことっすね。自分は今日は悪魔っすから、お菓子よりももっといいトリートほしいっす」
「おい、やめ……」
ハロウィンの夜はすぐそこに迫っていた。