寒い日だった。
 簓はかじかんだ指先をすり合わせてもちっとも暖まらないことに辟易としていた。今日に限って手袋を机の上に置き忘れてしまったのだ。最初に気づいたのはエレベーターに乗ってからで、別に急ぐ訳でもないので取りに戻ってもよかったのに、なんとなくそのままここまできてしまった。その結果が今の真っ赤になった指先である。両手にはあっと息を吐いてみても、焼け石に水、というより氷に水で少し後悔していた。
 容赦なく侵入してくる冷気を極力防ぐようにマフラーに首を埋め、両手はポケットへ突っ込んだ。この際少々見た目がだらしなかろうが仕方がない。
「簓!」
 冬の空気を小気味よく破ったのは、待っていた蘆笙の声だった。
「おつかれさん〜!」
 片手を挙げてひらりと振る。ばたばたと走ってきた蘆笙は簓の前で止まると、膝に手をついて乱れた呼吸を無理やり整えようと大きく息を吐いた。
「はぁ……っと、すまん!結構、待ったやろ」
「別にそうでもないで。集合時間決めとったわけでもないし」
「いや、お前が。今どこかって連絡、くれたあとに。電車、止まってもうて……!」
 蘆笙はいつものオールバックが乱れて、この寒いのに額に汗を浮かべている。それだけで続きは不要だった。
「そんなんええよ、蘆笙こそずいぶん走ったんちゃう?」
「あぁ、いや。二駅くらいや、大した事ないで」
「二駅って普通に歩いたら二十分とか三十分とかかかる距離やろ……。こんな深夜にどんな体力しとんねん。
 なんや悪いわ、急がんでよかったのに」
「俺が早う来たかったんや」
「あぁ……、うん」
 さらりと言った蘆笙はようやく呼吸が通常のリズムを取り戻したのか、身体を起こして軽く伸びをしている。簓は面白さの欠片もない自分の間の抜けた返事に頭を抱えるべきか、跳ねた心臓を体内に押し留めるためにこのまま黙っておくべきかが分からずに悩んだ。そんなことを知る由もない蘆笙は、神社に向けて歩き出す。
「寒かったやろ、はよ行くで」
「えっと、そやな。行こか」
 結局うまい返しのひとつも思い浮かばないまま、隣を歩くほかないのだった。

 人気のない、街灯だけが並ぶ暗い道を二人で歩く。深夜の集合には理由があった。一月一日を迎えてすぐ、新年の挨拶をメッセージで交わしていた二人だったが、唐突に簓が『今から初詣に行こうや』と切り出したのがきっかけだった。実家に顔を出しくつろいでいた蘆笙は、簓がこちらに戻っていることを知らなかったのでずいぶんと驚いた。簓は普段は明るく対人関係も円滑な男だったが、自分の家にはほとんど寄り付かない。理由は聞いたことがないが、蘆笙自身知っている限り彼が実家に戻っているのをみたのは一度だけだった。
 『急にどうしたんや』と返せば『ちょっと部屋片付けなあかんくて』『そんなことより、行くか?』『もしかして、もう寝るところやった?』ぽんぽんとリズムよく送られてくるメッセージを目で追いながら、帰っとるんやったら、一言声をかけてくれたらメシくらい誘うのに、と返信をしようとして手を止める。
数秒の後、打ち込んだメッセージは消して、ただ短く『いこか』と返した。
 賑やかなスタンプが続いたあと、神社の場所がのったページが送られてきた。有名な場所ではないが芸能の神が祀られていて、昔二人で参拝した記憶があった。
「懐かしいな、」
 そうつぶやいてみても画面の向こうの簓には届かない。程なくして新しいメッセージが届く。
『待っとるわ。近づいたら連絡してな!』
 蘆笙は『わかった』と返して時計を見る。今ならぎりぎり電車もあるだろう。おそらく寒い中、簓は一人なのだ。蘆笙は「よし」とつぶやき財布をポケットへねじ込んで、早々に寒空の中へと飛び出したのだった。

 神社に着くと、参道にはそれなりに人が集っていた。本殿から鳥居のあたりまで何組もの人が並んでいる。二人もおとなしくその最後尾へと加わった。あたりが暗いからか、簓のことに気づく人もいない。気づいていて話しかけてこないだけなのかもしれないが、簓には今はありがたかった。
「なぁ、蘆笙は神さんに何お願いするん」
「そりゃ生徒らの健康と、時期やし受験の成功やな」
 みんなできるだけ希望する進路に進めたらいいと、何気ない問いかけにも蘆笙は真面目くさって答える。そう答えるであろうことは簓には予想がついていた。いつも誰よりも面白くて優しい男だからだ。
「さすがやな、蘆笙センセ」
「お前の先生ちゃうわ。
 簓は?やっぱり芸事がうまくいくようにか?」
「んー俺かぁ」
 簓は指を一本づつ立てる。
「まずはやっぱり今年もぎょうさん人を笑かせますように。それから、ディビジョンラップバトルで三人でテッペン取れますように。
 あとはそうやな。蘆笙が丸付けしながら寝てもうても、酔うて腹出して寝ても、風邪ひきませんように……」
「おい、俺は小学生か。腹なんて出して寝たことないわ」
「嘘や〜、この間の居酒屋蘆笙でひっくり返っとったやん。服めくっても動きもせんかったで」
「いやめくるな。そもそも俺んちやぞ、どこでどう寝てもええやろ」
「アカンアカン。風邪引いたら寒くって俺のギャグがないと温もらんようになるで」
「お前のギャグであったまったことがあるかい。おとなしく喋っとれ」
「誰が動きがやかましいやって?」
「お前やお前!
 ……はあ、もうええわ」
 簓はその声につい続けて口を飛び出そうになった締めの挨拶を舌先でなんとか留める。蘆笙の横ではいつでも何を話しても拾ってもらえるという安心感があってか、いつも以上に舌が滑らかになる。当たり前のようなこの瞬間が当たり前ではないことを、ここへ以前来たときは知らなかった。じりじりと足を進めながら話していると、骨身にしみるあの寒さも忘れてしまう。
「そんで、ほんまは?」
 蘆笙が眼鏡を綺麗な指先で押し上げながら簓を見る。肌の白い蘆笙は、流石に冷えてきたのか鼻先も指先も透けるように赤くなっている。
「こういうのは、言わんほうがええんやで」
 丸いレンズ越しでも鋭い眼光から逃げるように茶化す。蘆笙は大袈裟にため息をついてみせた。
「人に言わせといてそれかい。ほんならお前、俺の言うた願い事忘れろよ。生徒らのためのもんやからな。
 しゃぁないから、俺は聞かんといたるわ。……お前のお願い、叶うとええな」
 最後の一言は吐いた白い息と同じくらい、ふわりと温かくて。やはり返す言葉が見つからず、簓はただ頷く。
 ちょうど参拝の番が回ってきて、二人で慌てて小銭を探す。
「やっぱりここは五円やろ。ご縁がありますようにってな……ってあらへんわ」
 簓の声はからりといつも通りで、自分の財布の小銭入れをひっくり返してはじゃら、と手のひらの中で硬貨を転がす。蘆笙も同じく財布の名を覗いて首を捻った。
「俺もないわ。適当に百円でもいれるか」
「お、太っ腹!まあ気持ちやな気持ち」
 簓はつかんでいた小銭をそのまはま賽銭箱へと放る。続く蘆笙も百円を投げ入れ、二人分の気持ちは景気よくジャラジャラ音をたてた。鈴を鳴らして二礼し、神様にご挨拶と二度両手を叩く。そのまま心のなかで願い事をとなえ、ちらりと隣を見た。蘆笙はしっかりと目を閉じて口元がもごもごとさせている。余りの真剣な様子に、少し笑いが込み上げた。それにならってもう一度本殿へ向き直る。自分よりも他人を優先する生真面目な男が、どうか一年幸せであればいいと真剣に祈った。
 最後に一礼して列を離れる。すぐにおみくじを指さす簓を蘆笙が「ちょっと待っとってくれ」と手で制し、どこかへ駆けてゆく。トイレかな、と簓は一足先に八角形の入れ物を振っておみくじの紙を一枚取り出した。それを読む前に蘆笙が戻る。
「ほら」
 その手にはピンク色のスチール缶があった。赤い文字で甘酒と書かれたそれは蘆笙の両手に一本ずつ握られている。簓はやや戸惑いながらも礼を告げた。
「おお、ありがとう」
 別に甘酒は二人の好物というわけでもなく、わざわざ買って飲む習慣もない。
「寒いやろ。あったまり」
 蘆笙はそう言いながら、自分の分を開けて飲んだ。度のない眼鏡のレンズが白く曇る。促されるまま簓も一口甘酒を飲むと、喉から胃の底がじわりと温まる。そういえば、昨日の昼からなにも食べていないのを思い出した。
「……めっちゃうまいわ」
「せやろ。たまにはアルコール抜きでもええよな」
 目元を緩めた蘆笙に簓も口角をあげて返す。暫く二人で甘酒を啜る。
「忙しいやろ年末年始なんて……」
 はっと蘆笙は自分の腕を見る。どうやら時計を探しているらしい。
「なんか用事やった?」
 のんびりと返した簓が自分の携帯電話で時間を見た。午前一時半というところだ。用事があるにしては少々微妙な時間ではある。
「用事やった?ちゃうわ、
 お前もししかせんでもこの後生放送か!
 もうすぐ入りなんちゃう、はよ、はよ行かな。駅まで送ろうか?
 いや、電車はもうあらへんか……?」
 慌てふためいて簓の手ごと携帯を掴んで画面を覗き込んだ蘆笙がぶつぶつと呟く。
「とりあえずタクシー呼ぶか?」
 鼻先がつきそうなほど近い距離に、簓はそっと身体を仰け反らせる。
「……落ち着け蘆笙。大丈夫やって、このあとマネージャーさんが車で迎えきてくれんねん」
「なんや、ほんならよかったわ……」
 はーっと息を吐いた蘆笙は安心しきっているようだが、簓はそれどころではない。至近距離で見るには、その顔面はちょっと綺麗すぎる。その上、未だにガッチリと手を掴まれているのも良くない。甘酒の分とは違う熱がじわじわと昇ってくる。誤魔化すように簓はからからと笑い声をあげた。
「熱愛かと思われるくらい近いわ!」
「間違ってへんやろ」
「え」
 鋭いツッコミを期待したというのに、蘆笙はごく真面目な顔で少しだけ首を傾げた。ロマンチックさの欠片もない動画を一時停止したかのように固まる自分がそのレンズに映っていた。
「コンビ愛がなんとかっちゅう番組やったやろ。俺、お前と組んだったの、ほんまに楽しかったし良かったと思っとる」
「え、ええ?」
 壊れたラジオのような音しか出すことができない。自慢の舌は脳の混乱に巻き込まれて動かない。
「今年も一年頑張れよ」
「お、おう」
 ようやくそれだけ返す。周りは真っ暗なはずだが、その空間だけが眩しい。言うだけ言って、蘆笙はようやくその手を離した。
「……懐かしい場所やったな。お前の話すネタになったらええんやけど。
 ほんで、待ち合わせ場所どこや。さっと飲んではよ行くで」
 いや、俺にこのあとどんな気持ちで仕事せえちゅうねん。なんにも頭に入らんわ。そう言いたいのを甘酒で飲み下す。そうだ、蘆笙はこういう男だった。
 上がりすぎた体温を下げるべく、おみくじの紙で顔をあおぐ。もうその中身はなんだろうとかまわない。簓は周りが暗いことに心からの感謝を捧げた。