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リボンをかけて

リボンをかけて
零那由

 那由多の着る服は普段着もフォーマルな服も、シンプルで形のきれいなデザインが多い。例えば今日彼女が身を包もうとしている淡いグリーンのワンピースも、装飾はほとんどないが胸の下で切り替えが入るエンパイアラインが彼女の姿勢の良さを際立たせる。だが今は中途半端に背中のファスナーが開いたままなので、生地の重みに引かれてやや裾が前のめりになっていた。彼女は寝室の姿見の前で共布のグリーンのリボンベルトを締めるべきか、シルバーの金具のついたベルトにするべきか、はたまたなにもつけないままにすべきかに大いに頭を悩ませていた。
「決まったか?」
 声をかけたのは零で、彼は室内に置かれた一人用のソファでくつろぎながらコーヒーを嗜んでいる。膝に一冊本が置かれているが、かれこれ一頁だって読み進めてはいない。よくあることだった。
「難しいわ。式じゃなくて、披露宴代わりのレストランでのパーティーでしょう?
 あまり堅苦しくてもいけないし、あまり派手でも良くないし……」
 二人の共通の知人が入籍するにあたり、式は挙げずに簡単なパーティーを催すのだ。研究者仲間ばかりで堅苦しくはないが、招待状に書かれた店名はそれなりの店である。那由多は二本のベルトを両手に一つずつ持って零を振り返る。
「あなたはどう思う?」
 これは非常に難しい問いだ。正直なところ、学会での質疑応答よりも回答の難易度は高い。零はそうだな、と顎に手をやりながら素早くこの危機を乗り越える術を画策した。
「そのリボンがいい」
 ここからが勝負である。
「子供っぽくないかしら」
「そんなことはねぇだろ。同じ色のほうが落ち着いて見える」
 零の記憶に新しい真っ白なドレス姿とは違うが、小柄でも那由多は決して子供っぽくはない。状況の想定と、那由多の顔色とをうかがいながら言葉を紡いでいく。ここで「でも」という言葉が出なければ決め打ちだ。もし、何か言葉がでてきた場合は、既に彼女の中には答えがあるのでそちらを肯定すればいい。零は立ち上がると那由多の後ろへまわり、姿見にうつる姿に向かって自信たっぷりに頷いてみせた。
「こっちなら、もし現場で嫌になっても外しちまうってのもアリだしな。
 心配しなくても、何を着てても似合う」
 一応自分の意見を最後まで述べて様子を見れば、那由多は少し考えてからシルバーのベルトを鏡台へと置いた。
「……あなたの言う通りね。こちらにするわ」
 本人もほっとした様子の那由多からリボンを取り上げ、零はそのまま服の背中のファスナーに手をかける。
「自分でできるわよ」
「いいから」
 シルクのスリップの上を背中のカーブに沿ってファスナーが上がっていく。薄い生地がファスナーの歯に噛まないように、軽く腰元の布を押さえて生地を張る。くすぐったいわ、と身じろぐ那由多をなだめつつ美しい布が彼女を一分の隙もなく包むのを眺める。このファスナーを次に降ろすのは誰だろうか。ふと、零は嫌な想像をして手が止まった。
「噛んじゃったの?」
 のんきに首を傾げた那由多と鏡越しに目があう。瑞々しい肌と澄んだ瞳は清廉で、小鳥のように囀る唇は柔らかなコーラルピンクで彩られている。昔なじみの中にはこのひとに憧れていたものがいやしないだろうか。
「いや」
「……もしかして、上がらない?」
 はっと口元を手で押さえた那由多に向けて首を振る。
「いや」
 腰に添えていた左手を、彼女の胸、みぞおちあたりへ移動させた。ふに、と柔らかい脂肪が零の指を押し返す。
「息を止めたほうがいいかしら……?」
 おそるおそる聞く那由多には何も返さない。真っ白な背中、肩甲骨の間。背骨に沿った窪みがアイボリーのレースの向こうへと消えていた。この滑らかな肌に汗がつたう様を知っているのは今までも、これからもどうか己だけであれと身勝手に願う。
 零は低く屈むと、衝動的にその背中へと口づけた。ぢゅ、と音をたてて触れる生暖かさと甘い痛みを那由多は知っている。逃れようとしても胸元の腕がそれを許さなかった。零が身を起こす頃には真っ白だった背に小さな赤い跡がひとつくっきりと浮かんでいた。普段那由多を傷つけることも傷が残るかもしれないこともしない零がこうするのは本当に珍しいことで、那由多も、なにより零自身もその行動に驚いていた。
「なにしてるの」
「……悪い」
 すり、と指先で跡をなぞる。消えないそれを見て、どこか安心した自分がいる事に零は頭を抱えたいような気持ちだった。
「理由を教えて」
 そんなものはない。が、那由多があまりにも真剣なので零は己の衝動の意味を紐解いて言葉にする。
「那由多は男が女を押し倒したときに何が見えたら一番嫌だと思う」
 質問の意図が理解できず、那由多は下がり気味の眉をひそめた。
「わからないわ」
「……他の男との情事の跡だよ。それが一番がっかりする。
 特に那由多みたいなタイプの女を狙うような男には覿面だ」
「あなたね、私があなた以外に押し倒されるような事があると思うの。
 私は好きな人としかそんなことしないわ」
「違う、そうじゃない。那由多のことは一ミリだって疑っちゃいない。男と女とじゃあどうしたって力の差があるだろ。
 もちろん、俺も極力一緒にいるしそんなこと起こさせやねぇさ。でも、万が一……」
 零は首を振った。つまるところ、那由多を誰にも渡したくないのだ。誰かが触れられるのも、じろじろと見られるのも、邪な妄想の材料にされるのもごめんだった。零は今までの人生においてはじめて抱えた、己の行動を制御できないほどの感情をひとり持て余していた。零のことを鏡越しに見ていた那由多は、小さく息を吐いた。
「……心配してくれているのね」
 那由多の小さな手が、零の手に重なる。
「次はちゃんと、はじめからそう教えてね。あなたが嫌なことも、弱気になるようなことも全部よ」
「……努力する」
「あと、服を着せてくれるときに変なことしちゃダメ。わかった?」
「あぁ」
「ちゃんと返事をして」
「わかったわかった。約束する」
 零は守れない約束はしない。那由多はその言葉を聞いてうん、と頷いた。
「じゃあ仲直りね」
 
 最後十五センチのファスナーをあげ、華奢な身体を抱きしめるようにして腕をまわし、器用にリボンベルトを結ぶ。
「できたぞ」
 零はからりと笑う。
「ありがとう、とっても助かったわ」
 振り返って微笑む那由多は零の記憶にあるどんな女性よりも美しい。流れるように口づけようと屈んだところを、那由多が手のひらで防いだ。
「今はリップを直す時間がないわ。早く行きましょう」
 仕方なくその小さな爪に唇を寄せ、零は車の鍵を手に取った。
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