同物異名

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垂涎の

垂涎の
一左馬♀



ふんわりと過去捏造



 左馬刻を訪ねた一郎は目の前の光景を見て首を捻る。左馬刻と簓が活動拠点としている事務所は普段彼らの嗜むタバコの苦いニオイが漂っているのだが、今日は様子が違った。ドアを開けた瞬間からとにかく甘ったるい匂いが満ちていて、それだけで胸焼けしそうだ。おそるおそる部屋をのぞくと、ソファでぐったりとしている簓と目が合う。
「おはよーさん。一郎……」
「簓さん、どうしたんすか」
 力なく手をあげる簓の顔色は悪い。この二人は時々ふざけてるのかと思うような飲み会を開催しいる時がある。もっとも一郎は多少興味はあれどまだ酒は飲んでおらず、二人が実際どのように夜を過ごしたのか詳しくは知らない。

 先日も昼近くなって事務所を訪ねるとおびただしい数の酒瓶と缶、吸い殻が山となった灰皿に囲まれソファや床でぐったりとしているのを見つけた。(しんどくなるまで飲まなきゃいいのに)という言葉を飲み込み、足元に気をつけながら窓を開けてみる。さっと風が部屋にはいり、こもった空気が新鮮な空気へ置き換わる。ブラインドをあげたので陽の光が当たったのだろう。左馬刻が僅かに呻いた。この光景を見るのは少し嫌いだ。一郎にはまだわからない世界で二人が楽しく過ごしていたのも、格好いい左馬刻さんじゃないのも、昨日見たままの服が乱れているのも嫌だった。そんなことを言う度胸も権利もないのでいつも言葉をのみ込むしかない。
「一郎やん。ええとこに来てくれたわ……」
 簓が頭だけ起こすと左馬刻のポケットからマネークリップに挟まれた札束を抜き取り、ぽいっと一郎へと投げてよこす。
「……キャベジン二本お願い。おつりで好きなもん買うてええからな」
 がさがさの声で弱々しく言うとまたソファへと沈み込む。想定より分厚いそれに戸惑っていると、左馬刻はほんの一瞬一郎へと視線を投げてから日の当たらない方へと顔を向けて寝直す体勢に入る。否定が飛んで来ないということは実質肯定だ。一郎は、「わかりました」と返してドラッグストアまで走る。
 というのはもうあまり珍しい光景ではない。そんな二日酔いでグロッキーな日よりも今日の簓の顔色は悪かった。

「大丈夫っすか」
「一郎、代わってくれ……」
 簓に手招きされて部屋に入ると、ソファとセットのローテーブルの上は一面のお菓子で溢れていた。甘い香りの正体はコレかと一郎は鼻を鼻を鳴らす。酒意外のものがこのテーブルへこんなにところ狭しと並んでいるところは見たことがなかった。
「どうしたんすか、これ」
「どうもこうもないわ、左馬刻や。さ、ま、と、き」
「いや、左馬刻さんがなんで……?」
 チョコレート、クッキー、一郎には名前がわからないがみたことのある焼き菓子たち。それと左馬刻がうまく結びつかない。
「おい簓、休憩は終わったか……って、一郎じゃねえか」
「……っす」
 軽く頭を下げた一郎が次に見たのは、湯気をたてるトレーを持った左馬刻だった。髪を軽くまとめているのでピアスがよく見え、身につけている見たことのない淡い水色のエプロンがかわいい。すたすたと歩いてきた左馬刻は簓の前のお菓子たちを押しやってスペースを作ると、持ってきたトレーから皿に乗せられたチョコレートのケーキをどんと置いた。
「もう勘弁したってぇな。ほら、せっかく来てくれたし一郎にくわせたらええやん。歳も近いし味覚も近いやろ」
「ダメだ。俺様はテメェの舌を買ってるんだよ」
「もう無理やって」
「一口食え」
「ひい、一郎助けて……!」
 左馬刻がチョコレートケーキにスプーンをいれると、中からとろりとチョコレートが溢れ出る。差し出されたスプーンを簓は拒否して、一郎の口へと突っ込んだ。とろりととろけたあつあつのチョコレートと外側のふわっとしたスポンジ、それから何かのジャムのような酸味が口いっぱいに広がる。
「どない?」
「……美味いっす」
 簓は真剣に頷く。
「それから?」
「甘いな、と」
「ほんで?」
「えっ、と。すげぇ、う、うまい……?」
 簓は手で目元を隠すとソファへ沈み込んだ。一方の左馬刻は肩を竦めている。
「あちゃあ」
「ほらな、」
 なんとなく馬鹿にされたような気がして一郎がむっとしている間に、左馬刻が問答無用で簓の口へとチョコレートケーキ第二弾を突っ込む。もごもごと咀嚼した簓は、ややあってそれを飲み下す。
「……うまいけど、一郎も言うとったようにちょっと甘いんちゃう?俺はもうちょいビターチョコ増やしてもええと思う。あとフォンダンショコラってベリーもええけど、甘さは控えめにして、アプリコットとか入れる方が合歓ちゃんの好みちゃうかなぁ。ほら、この間ザッハトルテがおいしかったって言うとったし。あとは生地がもうちょいしっとりしとるほうが冷めてから食べるときにええかなと思った」
 左馬刻は頷き立ち上がった。
「あと二つ作ってっから、冷めてからまた食えよ」
「堪忍やでほんま……」
 お菓子の評論会が開かれていることはわかったが、理由が全くわからない。再度キッチンへ向かおうとする左馬刻をひきとめ、一郎は根本を二人に問うた。
「何してるんすかこれ」
「何ってバレンタインの予行演習や」
「合歓が食うんだ、半端なもんは作れねえだろ」
「バレンタイン……」
 一郎は脱力する。つまり、妹においしいスイーツを食べさせたい左馬刻が練習台に簓を使っているのだ。机いっぱいのお菓子をみる限り、きっと朝からずっと。ちなみに今はまだ一月の後半である。
「簓さん……」
 一郎は簓に同情しつつも、僅かにもやもやとした気持ちを抱える。食べることであれば一郎にもできるし、おそらく簓よりもたくさん食べられる。市販品ならともかく、普段は忙しくしている左馬刻の手の込んだ手作り品である。一郎としては簓が羨ましくてたまらなかった。それが顔にでていたのか、左馬刻が形のいい眉を寄せて一郎の頭を小突く。
「お前は何食っても『うまい』しか言わねぇだろ」
「そんなこと……」
 一郎はぼんやりと今まで左馬刻に料理を作ってもらったりご飯を食べに連れて行ってもらった時のことを思い出す。焼き肉は肉が柔らかくてうまかった。中華は見たことない麺と蒸された餃子みたいなものがうまかった。即席の炒め物は何が入っているかよく分からないけれど白米がすすんでうまかった……。ぐうの音も出ない惨状に自分でも愕然とする。
 目を丸くした一郎を見て簓がカラカラと笑った。
「左馬刻とおると、一郎嬉しそうやもんなあ。食べもんの味なんて関係ないわな」
「えっ、いやそんな」
 ドキッとした一郎が動いた拍子に、強かにローテーブルへ足をぶつけた。がちゃんと机の上にあった皿やお菓子たちも跳ねる。
「痛って!」
「おい、大人しくしろ」
「……っす」
 涙目の一郎が膝を擦っていると、左馬刻が一度キッチンへ引っ込み、新しい皿とフォーク、それからあたたかいお茶を一郎の前に置いた。
「簓が食った後なら全部食っていい」
「マジすか」
 やった、と呟いた一郎の頭を左馬刻が雑にかき混ぜる。
「うわ」
「簓が手を付けてねぇのもいっぱいあるから、おまえの兄弟の分も後で包んでやるよ」
 見上げると長いまつげに縁どられた深紅の双眸がやわらかくこちらを見ている。頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。しなやかな指先が地肌をくすぐるのがむずがゆいような心地よいような、よく分からない感覚だった。
「……そろそろアイスが固まるな」
 する、と離れてゆく手が名残惜しい。それでも引き留める理由も見つけられず、一郎は左馬刻を見送るしかなかった。
 ハートの形のチョコレートを皿にとり、一口かじる。予想より中身が柔らかく咥内の温度でとろけるそれは、ナッツのような香ばしいいい香りがした。
「うま……」
 もくもくとお菓子を口へと運ぶ一郎の横で、簓はタバコに火をつけた。
「コーヒーが足らんわ」
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