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アフロディテの微笑み

アフロディテの微笑み
零那由




 このところ零は忙しく、今日も夜の十一時をまわって帰宅し、壁掛け時計の短針が真上を過ぎてからようやく風呂へと向かったところだった。先に寝ていていいと言われていたものの、いつもより覇気のない声が気にかかり那由多は零を待つことに決めた。広いベットの上、天気予報で少し寒くなりそうな予報だったのでおろした毛布の隣に座る。彼女の好みに合わせたそれは淡い色合いで少し零の好みとは違ったかもしれない。そう思いながら肌触りの良い表面に手のひらを押しつけてはその感触を楽しんでいた。
 そうこうするうちに、ガチャリと寝室の扉が開く。あくびを噛み殺しながら入ってきたのはもちろん零だ。
「待っててくれたのか」
 ぱっと表情を変えやわらかな笑みを浮かべた彼がベットに腰をおろすと、ぐっとマットレスが沈み込む。那由多は傾斜に導かれるようにして零のすぐ近くまで座る場所をずらし、わざと甘えるように肩口をつついた。
「このところ忙しかったでしょう?
 もしあなたがよければ、寝る前に少しおしゃべりしたかったの」
「この一週間はほとんど食事も一緒にできなくて悪ぃな」
 零は那由多の細い腰に腕をまわすと、自分の膝の上へ引き寄せるようにして抱きしめる。風呂上がりで普段よりも温かい身体にしっかりとつつまれ、那由多はくぐもった声で返事を返す。
「謝らないで。いつもお疲れさま」
 背を優しくたたいてみたが、腕の力は弱まらない。諦めた那由多は身体の力を抜いて零の胸に寄り添った。零は少しの隙間も許さないと言わんばかりにさらにしっかりと腕に力をこめると、喉の奥を鳴らして笑う。その姿はさながら猫のようだ。那由多は少し苦しかったものの、できるだけぎゅっと抱きしめ返して応える。広い背には腕が回りきらなかったためパジャマの布を軽く握った。えんじ色のフランネルのパジャマは、那由多がポケットにシマエナガのワンポイントの刺繍を施したものだ。はじめて渡した日は「那由多のじゃないんだよな?」と明らかにサイズの大きな上着を手に二度も確認していたが、最近はスウェット地のものよりもこちらを好んで着ているようだった。せっけんの香りと暖かさは眠気を誘う。背中だけ握ったらシワになるかしらとぼんやり考え、パジャマなのだから気にすることもないと結論づける。
「……寂しかったろ?」
 しばらく体温を分け合ったあと、零はからかうようにそう言ってやっと腕を緩めた。あわせて腕を解き、顔をあげた那由多は困ったように眉を下げる。
「寂しくなかったと思うの?」
「質問を質問で返すのはどうなんだ」
 零は指先で那由多の頬にかかる髪を耳にかけてやり、ついでに小さな鼻先をつつく。
「……もう。あなたが頑張っていることはちゃんとわかっているから大丈夫」
 いたずらな指先を握って止めると、今度は互いの指が絡められる。
「なんだ随分聞き分けがいいな。俺は寂しかったぜ」
「そうなの?」
「そりゃあな」
 軽く握られた指先がニヤリと笑う口元に触れる。
「なぁ、もっとワガママになってもいいんじゃねぇか」
「あなたは十分私のことを甘やかしてくれていると思うわ。掃除も洗濯もお料理も私よりうまいんだもの。もしこれ以上となると、私はつけあがってしまうかもしれないわよ」
 困らせてみようと脅すようにいえば、零は期待していた反応とは逆に楽しげに目を細めた。大いに結構と鷹揚に頷く。
「ワガママの一つや二つ、叶えてやりたくなるんだよ。男の甲斐性ってもんだろ?」
「甲斐性の意味ってそんな感じだったかしら……」
「何でもいいから言ってみてくれ」
「そう。それじゃあ一つ、お願いがあるんだけれど」
 小首を傾げた那由多は、ふと思いついたアイデアを口にした。
「私、あなたの頭を撫でてみたい」
 ややあって零の前で膝立ちになった那由多は、その頭をそうっと撫でる。
「ふわふわね。私とは違うわ」
 指の間をくすぐる感触に那由多は声を弾ませる。きちんとセットされた姿を見ることが圧倒的に多かったので今まで伝えられなかったのだが、彼女は一度この髪にちゃんと触れてみたかったのだった。零からの反応が無いことが心配になり、那由多はちらりとその顔色をうかがう。零はただ二色の瞳を丸くしていた。驚いたようなそれは思いのほか幼い印象を抱かせる。
「触られるのは嫌いだった?」
「……いや、大丈夫だ」
 声を掛けると零ははっとして、那由多が触れやすいように少しうつむくと頭を差し出した。彼は基本的に妻の希望に対して否を突きつけることがない。那由多は遠慮をなくし、両手でやわらかい髪をかき混ぜる。くるんと巻いた髪は何度撫でつけてみても毛先がぴょんぴょんと跳ねておかしい。くすりと笑みをこぼせば零が俯いたまま心底不思議そうな声で問う。
「ワガママに入るのかこれ。俺の頭なんか撫ででも楽しいことないだろ」
「そんなことないわよ。あなたも私の髪をよく触るじゃない」
「まぁ」
 何か言いたそうではあったが、零はそれ以上は口を開かなかった。
 暫く零はされるがまま、大人しく那由多に撫でられていた。眠くなったのかもしれないし、自分でわがままを聞くと言った手前拒絶ができなかっただけなのかもしれない。先ほどの言葉の通り、零はいつも那由多を甘やかすことに余念がなかった。それを純粋に嬉しいと思う反面、もっと頼ってくれていいのにとさみしくも思う。人に何かを渡すのは得意なのに、自分が受け取るのが苦手で不器用な人だ。乱れた前髪でもう表情は伺えない。少しずつでもいろんなものを分け合えたらいいと祈りつつ、名残惜しくも手を離す。
 と、零の手が離れてゆこうとした那由多の左手を捕まえ、そのまま元の位置に戻した。
「……もう少しだけ、撫でてくれ」
 穏やかな低い声とともに、すり、と頭が動く。目を瞬いた那由多はそっとまた手を動かした。彼女の心臓のもっと奥の場所がきゅうっと締めつけられる。そんな場所に内臓は無いことはよく分かっていたが、じわじわとくすぐったい感情が溢れるのを感じる。普段の彼は少し怖く見られがちだが整った顔に不敵な笑みを浮かべ、自分を表現するための好きな服を着こなして颯爽と歩き、真剣に研究に取り組んでは成果を朗々と語り、那由多にはとびきり甘い。そんな世界で一番格好いい零が。
「かわいい」
 思わず溢れた小さな声は零に届いただろうか。ふわりとした感触も相まって、大きなわんちゃんみたいと那由多は笑みを深める。小さな子どもをあやすように撫で、彼女は好奇心のままに零の顔を下から覗き込んだ。溌剌とした瞳は瞼の向こうに隠されていたが、頬から耳にかけてが僅かに赤く染まっている。初めて見る表情にまた胸の奥がきゅっとした。
「かわいいひと」
 彫りが深い目元もすっと通った鼻筋もしっかりした顎も何もかもが彼女にとって愛おしかった。顔の輪郭を指先でなぞると、薄く瞼が開かれて視線が絡まる。零は僅かに口角をあげている。
「あんまりじろじろ見ないでくれ。……おかしくなりそうだ」
 とびきり甘く鼓膜を震わせて思考を溶かす声も、今日の那由多には効果がない。
「ダメ。見せて」
「終わりだ」
「我儘ね。どうしようかしら」
 零の額、瞼、頬、鼻先に唇で触れる。それは普段零が那由多にしているものと全く同じ動きだったが、最後唇へ触れることはせずに鼻先が触れそうな至近距離で動きを止める。
「……なぁもう十分俺で遊んだだろ?」
 焦れたように零の手が那由多の背を引き寄せるように滑った。それでも那由多は零を見つめるに留める。そうすれば零が折れることを知っているからだった。
「……わかったよ俺の負けだ。もう好きにしてくれ」
 案の定零は仕方がないなと首を振って両手をあげた。
「本当に嫌なときはちゃんと教えてちょうだいね」
「あぁ。わかってる」
 那由多は満足げに微笑んで、いい子にご褒美の口づけを落とした。

◇◇◇

 くすくすと笑いながら繰り返される啄むようなキスと、それによってもたらされたじれったさを抱えながらも、零は那由多にされて嫌なことは無いだろうなとぼんやり考える。先ほどから零から触れようとする度に、那由多にダメだと手を膝まで戻されるのだがそれすら不快感はない。暫く楽しげに零に触れていた那由多が、すっと身を引いて零を見た。
「ぎゅってしてもいい?」
 今日はずいぶんと積極的だ。やはりさみしい思いをさせていたのだろうと思う。ハグは歓迎する、が、那由多はにこりと笑って腕を広げて待ちの姿勢だ。零が動かずにいると、どうぞ?と首を傾げる。
 なるほど、広げられた腕の中に自分で入れということらしい。好きな女にいつでも格好いいと思われたいという小さなプライドが頭をもたげたのか。人に弱みを見せれば最後いいように利用されるということを知っているが故の抵抗感か。自分でもよく分からなかったが零は一瞬ためらった。
「きて」
 聖母にも小悪魔にも見える曖昧な微笑みに抗えず、零はどうにでもなれと半ばヤケクソにその腕に導かれることを選んだ。わざと少し体重をかけると二人分の体重を支えられなかった那由多は重力に負けてベットへと倒れ込む。きゃあと楽しそうな声があがった。どこもかしこもやわらかい身体に包まれて、ふんわりとシャンプーやボディクリームの甘い花の香りが零の肺を満たす。那由多に触れられたところから自身の境界が曖昧になるような不思議な感覚をおぼえた。やわらかな胸もとに埋まるとその奥から、とくりとくりと鼓動が伝わる。あたたかい湯に浸かったかのようなそれはじわりと意識すら溶かしてゆく。何か伝えたいのに思考は解けてゆくばかり。
「疲れてるのね」
 那由多が端に寄せられていた肌触りのいい毛布を器用に引き寄せ二人の身体を覆う。衣擦れよりも優しい、いつもよりも少し低く感じる声が骨を伝わって零の鼓膜を揺らした。ちっぽけな己のプライドも肉欲も忘れるほど、触れるだけで満ち足りた心地になるのはなぜだろうか。再びそっと頭を撫でられる。ほかの人間に触れられるのはごめんだが、那由多ならそれも構わない。不思議と落ち着く。
 身じろいで収まりの良い場所を探した那由多が、幼子にするように零を抱きしめ一定のリズムで背をたたく。いつの間にか部屋の照明も落とされている。那由多はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私ね、あなたが甘えてくれたことが嬉しいのよ。あなたにとって私は、弱みを見せてもいい人だという信頼だと思うもの。だからこれからもたまにはこうして甘えてくれたら嬉しい。
 ……これが私の一番のワガママなのかもしれないわね」
 それなら俺だってそうだと言ってやりたいのに、身体はすっかり眠る準備を終えて脳からの指令が末端まで伝わらない。あぁ、全く格好がつかない。明日は思い切り那由多を甘やかそうと心に決め、零は諦めて瞼をおろした。
 穏やかな笑みを含めた「おやすみなさい」はどこか懐かしく零の意識を夢へ誘った。
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