今日は何月何日だろう。
 もうすっかりわからくなってしまった感覚を取り戻す術が思いつかない。
 獄はひとり広いベットの上でゆっくりと身を起こした。細い指がベッドサイドを探り、薄暗い部屋に明かりがともる。知らない間に昨晩の名残は綺麗に清められ、まっさらなシーツは白い肌の上を滑った。あらわになる鬱血痕をぼんやりと眺めてなぞってみるものの、それも日付の感覚を取り戻す糸口にはならなかった。
 霞んで全てを諦めそうになる思考を何とか手繰り寄せるように己の腕に爪を立てる。ピリリとした痛みでやっと覚醒したような気がして大きく息を吐いた。現状を打破する方法を見つけられないまま、淀んだ空気を吸っては吐く。獄に許された世界はこの部屋だけだった。
 時計の無い部屋で膝を抱え、今日も答えの出ない自問自答を繰り返す。
「どうしてこうなったんだ……」
 空っぽの部屋でその言葉は虚しく反響するばかりだった。

 それからどのくらいたったのだろう。部屋の外から物音がしてやっと時刻のあたりがついた。外から十四か空却のどちらかが戻って来たのだろう。予想通りしばらくしてから、ひょっこりと十四が顔をのぞかせた。黒いエプロンの紐を結ぶ長身の向こうから差し込む光が少し眩しい。
「あ、獄さん。今日の晩御飯はハヤシライスっすよ」
「あぁ」
 何とも言えない音を返すと、十四は嬉しそうに頬を緩めた。
「空劫さんももうすぐサラダを買ってきてくれるっす」
「うん」
 獄の生返事にも、長いまつ毛を瞬かせ幸せそうな声を残してドアが閉じられる。じきににぎやかの声とおいしそうな香りが獄のもとにも届くだろう。
 これが彼女の日常だった。
 窓もないこの部屋とそこへ訪れる二人だけが今の獄のすべてだった。

 どこで間違ってしまったのだろう。
 ほんの少し前までのんびりと食卓を囲んでいたのがウソのようだ。こればかりは何回繰り返しても慣れることはない。
「んっ、ふぁ……!」
 意識がそれることすら許さないといわんばかりに、責めが一層激しさを増す。
「うぅ、あっ、……ぅあ」
 揺さぶられる視界、熱くてたまらないからだ、だらしなく開いたままの口はもう明確な言葉を紡ぐことはできなくなってしまっている。
 唇を噛んでなんとか声を抑えようとするも、すかさず空却がその口を塞ごうとせまる。せめてもの抵抗だと顔を背けると、耳元でかすれた声がいたずらっぽく囁いた。
「いくら善くても怪我すんなよ」
 そもそも望んでないと睨みつけてやりたくて顔を向ければ、笑みを深めた男が噛みつくように唇を奪った。
「ん、む、ぅぐ」
 呼吸すらままならなくなって、酸欠の視界が霞みだす。脳が溶けるような感覚、意識が飛ぶギリギリで解放されて、咳き込むように空気を吸い込んだ。
「拙僧を出し抜こうなんざ、まだまだ元気だな」
 こちらを追い詰める獰猛な金の瞳は、何度見ても美しいのが少しだけ悔しい。目が合うと蜂蜜のようにとろりと蕩けて、胸元に触れる指先だけが優しくなる。身体も心もぐちゃぐちゃに掻き回されながら、藁にもすがる思いで握りしめた拳を解いた。赤い髪を撫でようと伸ばした手は、後ろからのばされた別の大きな手にからめとられる。
「ひとやさん」
 細い指は思ったよりも強い力で獄の手を引き寄せると柔らかな頬へと導いた。
「こっちも、獄さん」
 か細い声に仕方がないと寂しがり屋のくせ毛をかきまわす。こんな時なのに、なでればすり寄ってくるのがかわいらしいと思ってしまう。
「ね、獄さん」
 少し機嫌を直したのか明るくなった声に呼ばれ、視線を投げる。不意にぐいと引き寄せられて、身体が反転した。
「ひあっ」
 その拍子に空劫が中のいいところをかすめ、腹の奥がぎゅうと締まる。それがまたあちこちに擦れて気持ちが良い。
「っ、はは」
 空却の乾いた笑いを背にうけながら、力が入らない身体を十四の胸に預けるような形で向き合う。十四は柔く薄い下腹に自身を擦り付け快楽を得ながら獄の顔にかかる髪を払ってやった。
「ひとやさん、キスしたいっす」
「っ、いやだ」
 獄は迫る形のいい唇を胸に顔を埋めてやり過ごす。その言葉が十四を傷つけることはわかっていた。だがたとえその後どんな目にあったとしても、譲りたくないものなのだ。
「獄さぁん」
 甘えるようにねだる声も、顔をあげさせようと爪の先で背骨をなぞられても。
「……や、っあ。っ」
「獄、十四がかわいそうだろ?」
「そうっすよ、空却さんだけズルい」
「まあ、とりあえず。トんじまえよ」
「気持ちよくしたら、うんって言ってくれますか?」
 また一段、責めが激しくなる。うまいわけではなくても、彼ら二人分の体力と好奇心と執着とが獄を苛んだ。
「……ひっ、あ。や、らめっ」
 下腹部は中から外から押し潰さん勢いで掻き回され、胸に、耳に、全身に走る電流のような刺激は体の中で渦を巻く。もう声を出すだけでは快楽を逃し切ることはできない。
 絶頂に押しやられる手前の縁で獄の頭の中にはいろいろなものが浮かんでは消えていく。
「うぁ、あっ。どっ、ぅ、んんっ。し、て、ぇ」
 生理的に溢れた涙と共に押し出された言葉はきっと二人には届かない。こんなめにあうのならめちゃくゃに焼き切れる思考の中で、この愛欲におぼれて、自我を手放してしまえれば楽なのに。霞んでいるのにどこかでこの状況を冷静に眺める己の存在を捨てきれない。
 視界が明滅し、二人の息をのむようなくぐもった声、肌を打つ音も、耳をふさぎたくなるような水音も遠くなる。体の中からばちんと音が聞こえたような気がして、とぐろを巻いていた何もかもが堰を切ってあふれ出した。震える身体から勝手に上がった高い嬌声を他人事のように聞きながら、獄は自分の中にただひとつ残ったものを反芻する。
(あぁ、どこで。どうして間違ったんだろう)
 汗にも、熱にも消せない疑問に答えてくれるものはここにはいなかった。そして今日もまたこの薄暗い小さな部屋で、意識がなくなるまで白いシーツに溺れるのだ。
 それが獄の唯一だった。