11時55分、一段落した書類を片付けて眉間をほぐすように指でつまむ。その日、天国獄は立て続けに不幸に見舞われていた。

 一つ、今日は一日一人で仕事を片付けなければならなくなったこと。事務所のスタッフが有給休暇、子どもの発熱、身内の不幸、本人の急病と様々な理由のため欠勤で朝から頭を抱えることになる。忙しいには忙しいがとりあえずアポイントも二件だけなのでなんとか見通しを付けた。別段どうということはないのだが、今日に限って煩雑な作業が多く辟易とする。掃除から資料の整理、書類の作成……。獄は仕事の山を切り崩しにかかった。
 二つ、午前に入っていた相談依頼がすっぽかされたこと。電話で確認をすれば「忘れていた」とあまりにあっけらかんと言い切られ、流石に閉口した。が、仕事は仕事だそういうこともある。次の予約をなるべく早めにお願いしたいなどと言うものだから、数日中の予定をなんとかやりくりした。疲れた。
 三つ、用意した昼食を自室へ置き忘れてきたこと。今日は午後14時から顧客との相談が入っている。食べずに済ますのも嫌で出前を考えたが、あいにく贔屓の店は定休日だった。仕方なく重い腰をあげた。
 四つ、出かけようとした矢先、天気予報にも無かった雨が降り出したこと。朝洗濯物を外に干してきたのを思い出してげんなりする。しかも腹立たしいことに暫らく止みそうにない。どうしょうもないことを嘆いても現状は良くならないと、獄は事務所に一本だけ置いてあった傘をさして近くの店へ出かけた。ぱらぱらという音を聞きながら近場から順に店を覗くも、雨のためか時間のためか殆どが混み合っている。賑やかな中に入る気にもなれず、結局コンビニでサラダとおにぎりを調達した。
 そういえば先日彼のチームメイトの少年たちに「好きなもの食え」と奢ってやったことがあった。あのとき二人は獄がサンドイッチをひとつ食べる間に、弁当とパンとパックのジュースにホットスナックを齧って仕上げにアイスを分け合っていた。自分が若かった頃はあれほど食べていただろうか……、そんなことを思い出しつつ軽いビニール袋を左手に提げ傘を開く。外はますます雨足が強くなってきていた。
 水溜りを避けつつ急ぎ足で事務所へ戻る。早いところ食事を済ませて、ああそうだ。ゆっくりコーヒーでも入れようと思い立つ。昼休みいっぱいコーヒーの香りで事務所を満たし、ソファに身を沈めてラジオを聴く……。ちらと時計を見やればまだ12時10分、時間は充分だ。ようやく嫌な流れを断ち切る術を見いだせて満足だった。
 そんな中、事務所に近づくにつれてなにやらすれ違う人々がざわついているのに気づく。ひそひそ、ざわざわ。その時点で少し嫌な予感がし、獄はさらに歩みを速めた。予想通りというかなんというか、人々がなにやら遠巻きにちらちらと見ているのは獄の事務所の前だ。手前の道で事故でもあったか、まさか火事や空き巣じゃあるまいなと焦ってきたところへ、ざわめきの『原因』は50mほど手前から獄にも視認できた。
 事務所の入口に、傘をさした人々の中からでも頭ひとつ抜けた長身の男が狭い軒下になんとか身体を寄せていた。傘が無かったのか、それとも軒が狭いのか、白っぽい上着はくすみ薄紫の長い髪がぺたりと身体を覆うように張り付いている。
「ねぇ、あの人すごいカッコいいよね」
「年上の魅力がすごいよね。モデルさんかなあ」
「ん? あれって、」
「ああ、たしかシンジュクディビジョンの――」
 通りすがる人々の声が嫌でも耳に届いて思わず頭を抱えたくなった。獄の優秀な頭脳は優雅な昼休みの想像が打ち砕かれたことを早々に理解する。自分と同じ三十五歳でありながら、モデルに間違われるような美しいかんばせが何かを探すようにこちらを向いた。
「――神宮寺寂雷、だよな」
 色素の薄い瞳と視線がかち合う。ふわ、と少しきつい印象が緩み、いつかの日と変わらない薄い唇が小さく、だが確かに『ひとや』と動いた。
「嗚呼、サイアクだ」
 五つめにして最大の災難は、わざわざ獄を待ち構えていたのだ。

 今更裏口へ回る訳にも、こんなに目立ってしまっている人間を追い返す訳にもいかない。とにかく対処は迅速に、腹を括った獄は素早く動いた。傘を畳むと寂雷を肩で押して脇にどけ、事務所の鍵を開ける。傘を傘立てへ放り込むと身体を反転させ、ガラスのドアを背で抑えた。
「おら入れ」
 一声かけると僅かな沈黙の後にどこか困ったような控えめな声が返る。
「いや、でも私は」
 だが外の野次馬が未だ興味深げにこちらを伺っている。そう四の五の言っている場合ではない、困っているのはどう考えても獄なのだ。
「入れ」
「……うん。お邪魔します」
 狭いスペースで旅行カバンと白い紙袋を濡らさないよう少々不格好に立つ男を、非常に不本意ながら迎え入れた。

 寂雷はどこか所在なさげな雰囲気だが、それを無視してとりあえず通り側の窓のロールスクリーンをおろしてまわる。昼食をデスクに置き空調を強くしてからようやく視線をやれば、まだ彼は上着を脱いだだけで同じ場所に佇んでいた。
「水は後で拭くからいい。上着は左に掛けるところがある」
 どうせそんなことだろうと促せばようやく長い脚が動いた。
「ありがとう」
 獄はその声が嬉しそうだと気づいた自分に嫌気が差し、再び視線を外した。隅のロッカーを開け、自分の緊急用に置いた荷物の中からバスタオルを取り出す。一週間前に取り替えたから問題ないはずだ。
「拭いたら座っておけ」
 大人げなく投げつけたタオルを軽く受け取り、寂雷は大人しく従った。上品なつくりのソファセットの側、髪から水を滴らせてもいい男なのがまた腹が立つ。だが獄は招き入れた人間に何もしないままいられるような性格ではなかった。今度は小さな給湯設備で取り急ぎインスタントコーヒーをカップにたっぷりと入れ、寂雷の前にやや乱暴に置く。自分は少し迷ったが、正面に座る気分にはなれず斜め向かいに腰を下ろすことにした。獄が席に落ち着いたのを見計らって、寂雷はもう一度頭を下げた。
「獄、ありがとう」
「何しに来た」
 眉間に皺を寄せてコーヒーを含む獄とは反対に、寂雷は微笑んで床に置いた旅行カバンをぽんと叩いた。
「年次の学会が今年はナゴヤであってね。帰りの飛行機は午後だったから、顔をひと目見られたら嬉しいなと思って。
 まあ、予め連絡をしていなかったし半ば賭けだったのだけれど、会えて良かった。元気そうだ」
 普段の寂雷を知る人間は、彼の饒舌さと崩れた言葉に驚いただろう。
「ご苦労だな。そんな暇があるなら、お前も元気なんだろうよ」
「ああ。それなりにやっているよ。
 獄は最近仕事が忙しいのかな、目元に隈がある。食事と睡眠はきちんととれているかい?」
 嫌味を飛ばしてみてもどこか子供っぽいくすくすという含み笑いが混じる。お前のそういうところが嫌いだ、という言葉をコーヒーと一緒に飲み込んで簡潔に答えた。
「ぼちぼちだな」
「獄のそれは順調だ、という認識で合っているかい? 互いに健康には気をつけなくてはね」
 わかったような口を聞くな、とまた言葉を飲み込む。
「君のチームメイトも元気かな。とても興味深い子達だった。またバトルをしてみたいよ」
 その言葉を受けて獄の瞼の裏に、ちっちゃくて大きな口の悪いクソガキと、身体ばかり大きくなった優しいクソガキの姿が浮かぶ。できれば複雑な環境の中もがきながら成長する彼らが少しでも幸せであるように。夢を叶える手伝いくらいはお安いご用だ。
「アイツらはオレの、家族だからな」
 ゆっくりと息を吐く。白いカップの向こうから覗くアイスブルーをすんなりと受け止めることができた。
「素晴らしいことだよ」
 よく見ると寂雷の目元には小さくシワが浮かんでいる。この間バトルで顔を合わせたときには気づかなかったが、大きな変化だった。鮮烈に記憶に残る姿からは随分と、互いに歳を重ねてきたのだ。あの頃とは少し違ってきたのかもしれない。口が滑らかに動き出す。
「お前のチームも良かったよ。
 なんでああいうタイプとつるんでるのかは今でもわからないけどな」
「それはよく言われるけれど、彼らは実に興味深くてね――」
 思っていたよりもずっと穏やかに時間は過ぎていった。

 話の隙間にちらりと寂雷が腕時計を見た。つられて獄も壁掛けの時計を確認すると12時45分を指したところだった。
「もうこんな時間か」
「そろそろお暇させてもらうよ。飛行機の時間だ」
 そう言うと寂雷はぬるくなったコーヒーを飲み干し立ち上がる。概ね乾いたらしい髪がさらさらと後を追った。
「ご馳走さま」
 獄は二人分のカップを机の端へ寄せてから同じく立ち上がる。
「タクシーでも呼ぶか?」
「いや、大丈夫。少し先で知り合いと落ち合うことになっていてるから」
 まだ湿って重たい上着を着込み旅行カバンを持った寂雷は、まだ部屋に残る水滴をみて申し訳無さそうに眉を下げた。
「それより、押しかけておいて掃除もせずにすまない」
「いいっつただろ。どうせこのあとの来客の前には掃除するんだ。それより、傘無いんじゃねぇか?」
 寂雷は曖昧な微笑みを浮かべる。
「持たずにここまで来たのか? らしくねぇ」
「いや、ホテルで買ったんだけど、ちょうどここの近くで困っている人がいて、ね」
「はあぁ、それで来てみりゃここが閉まっててつっ立ってたと」
 心から呆れた獄は思い出す。目の前の男はそういう男だった。いつだって腹が立つほど正しいことをする。
「……ほら使え」
 先程使った傘を取り出すとそのまま押し付ける。
「すぐそこだから大丈夫。このまま止まなかったら後で獄が困るだろう?」
「傘くらいでごちゃごちゃ言いっこなしだ。俺の寝覚めが悪いだろ!
 邪魔なら後で空港で捨てろ。あと返そうとかは絶対に思うなよ。土産だとでも思って受け取りやがれ」
 思い切り睨みあげて指を突きつけると、気圧されたのか傘が大きな手に収まる。
「あ、ありがたく使わせて貰うよ」
 寂雷は獄の傘をさして一歩踏み出した。が、そこで少し立ち止まる。
「今度。もしシンジュクへ来ることがあったら、連絡してくれるかい?」
 表情は見えない。だが獄にしか読み解けないであろう感情をのせた穏やかな声に、思わず腕組して唸った。
「はぁ、いや。うん。……そうだな。
 お前がアポ無しの訪問なんつう非常識なことを止めるんなら、まあ」
 僅かに上がった口角がのぞく。
「帰ったらウイスキーが美味しいお店を探しておくよ」
「気持ちだけ受け取っておく……。一人では飲むなよ、絶対に」
「ふふ。じゃあ、またね」
「まあなんだ。気ぃつけてな」
 最後は思ったよりあっさりと、会釈に少し右手をあげて応える。その姿はやはり人混みの中からひとつ抜けて、ゆるりと煙る雨の向こうへ溶けた。

「よぉ、獄」
 多少の感傷を抱えて室内へ戻った獄を迎えたのは、なんとものんきな声だった。
「空却? お前ここで何やって……!」
 この仕事場に縁がないわけではないし、何か困ったことがあった時には顔を出すように言ってはあるが、このタイミングで来るとは思っておらず思わず大きな声が出た。
「連絡しても出ねぇ、来てみりゃ昼休みなのに窓に目隠し、どうかしたかと裏口から入った。依頼客なら帰るつもりだったけど、もう見送りだったみてぇだから先にくつろいでたぜ」
「お前な、」
 心配されたことを感謝する気持ちがないわけではないが、それよりももっと大事な常識をこの赤い頭へ叩き込んでやらなければならない。常識ある大人の責務として。
「あと、来たのは拙僧だけじゃねぇぞ」
 獄の気も知らずデスクに悠々と座り込んでいる空劫は親指で窓際を指した。そこには見慣れた長身がロールスクリーンをめくりあげて表の通りを覗き込んでいる。
「おい十四まで何やってんだ」
 頭痛がしてきた獄は思わず自分の眉間を抑えた。
「ひ、獄さん、さっきの人って!」
 泣きそうな顔で十四は獄たちの方へ振り返った。震える指がさしているのは寂雷が去っていった方向だ。
「シンジュクディビジョンの神宮寺寂雷、だろ。バトルにで世話になったやつのことは忘れねぇ」
 ぐっと落ち着いた声で答えたのは空劫で、その金色の瞳はもう見えなくなった男の背中を見ているようだった。前回のバトルを思い返せばまぁそうなるかと獄はその胸中を察する。十四は再び空劫と同じ方向を見つめつつ、絞り出すようにつぶやいた。
「うぅぅ、バトルの時も思ってたけど美人すぎるっす……。この湿気の中あの長髪をさらっさらに保つなんて何をやってるんすか。こっちはセットに何時間かけてもこんな日にはすぐ崩れるのに……」
] どうも方向が怪しい。
「何に感心してるんだお前は」
「獄さんは! 背の高い美人ってどう思うっすか」
 がばりと振り返ったその剣幕に、獄は思わず一歩後ずさる。
「いやなんだ急に」
「今の自分には重要っす」
 うるんだ瞳の迫力に、どこか懐かしい、かつてあったかもしれない感情が思い起こされた。
「アイツと比較しなくても、お前はちゃんと自分なりにやってるだろ」
「う、」
 なぜか一層うるんだ瞳が溶けそうだ。背に腹は代えられないと決意して、獄はあわてて付け足した。
「なんか機会があったら髪の手入れの方法を聞いておいてやるよ」
 二、三度瞬いた瞳は溶けることはなかったが、先ほどよりずいぶんと色を暗くしてしょぼぼくれてしまった。
「……けど、もうそれでいいっす」
 丸まった背にかける言葉を見つけられずにいると、からからと小気味いい笑い声が響いた。
「はは、漫才かよ」
 空却はいつの間にかおにぎりを右手に持っており、笑ったままの大きな口で半分ほどそれをかじり忙しく咀嚼している。
「おいこら空却勝手に食うんじゃねぇ」
「ん、いらねぇのかと思って」
「俺の昼飯だよ!」
 別に悪気はないのだろうと思っても、降りかかる災難に思わず声を荒げる。空却はそんな獄を見、半分のおにぎりを見、小首をかしげて右手を差し出した。
「悪ぃ、残り食うか?」
「……いや、いい。もうお前が食え」
 存外子どもっぽいしぐさに毒気をぬかれ、獄はため息とともに首を振った。
 その横へ先ほどの大きな感情から立ち直ったらしい十四が無邪気に手を挙げる。
「自分欲しいっす」
「ん、」
「えぇ、それサラダじゃないっすか! おにぎり半分くださいよぉ!」
「お前にゃこれで十分だ」
「あぁあ! 空却さんがおにぎり全部食べたぁ!
 獄さぁん!!」
 きゃらきゃらとにぎやかな声が響く。それはまるでこの仕事場とはかけ離れた物のように感じた。結局昼食は食べ損ね、現実だけが迫ってくる。
「だぁあ! お前らな! よく聞け! 俺には嫌いなモンが二つある
 一つはうるさいガキ、もう一つは仕事を邪魔するガキだ!
 分かったらとっとと帰れ!」
 ドアを指す獄に素直に従うはずもなく、空却は顎で時計を示して見せた。
「まだ5分あんだろ」
 あわあわと二人の顔を見比べていた十四も、すぐに帰るつもりはないらしくせめて役に立とうと名乗り出る。
「あ、自分はお手伝いするっす! この水拭いておくっすよ!」
 獄は怒鳴るだけ無駄かとあきらめて、本日何度目かわからない溜息を吐いた。
「5分だけだからな。十四、モップは左のロッカーだ」
 モップを手に鼻歌を歌う十四を横目に空却は特に動く気もないらしい。ただこちらをじっと見ていた。
「だいたい携帯見てない獄が悪い」
 ふんと鼻を鳴らして頭の後ろで手を組むのは、何か言いたいことがあっても素直に言えない時の癖だと獄は最近気が付いた。
「なんだとこのクソ坊主見習い」
「拙僧らはもっと上へ行ける。だから特訓もする。やれることは何でもやって次は俺たちが勝つんだよ!」
 ぐっと小さな身体が大きくなったように錯覚する。十四の突拍子のない発言ですっかり忘れていたが、そうだ。もとはそういう話だったのだ。現実に追われる大人とは違う、夢を追う若者はひどく眩しかった。
「わかったよ、今日は18時には切り上げる」
「そう来なくっちゃな」
 空却は歯を見せてにっと笑って見せる。それは獄が一緒に頂点の景色を見てみたいと思った男だということを思い出すには十分だった。

「あれ、獄さん、これなんすか?」
 十四が呼ぶ声に二人ははっと振り返った。ネイルの光る指先が資料棚の一番上の白い紙袋を指している。
 獄にはそんなものを置いた記憶も誰かが置いていた記憶もない。寄せられた眉間のしわに空却もいぶかしげにそれを見上げる。
「獄のじゃねぇのか?」
「いや、そもそも」
 獄では手が届かない棚で、普段はもう使わなくなった資料を保管するのに使っているのだ。いくら忙しくとも何かをぽんと気軽における場所でもないし、わざわざ踏み台を持ってきてまで置いたものならば忘れるとも思えない。
 試しに近づいて手を伸ばしてみるが案の定、獄では触れることもできなかった。
「自分が取るっす」
 獄の後ろから十四が手を伸ばす。あっさりその手に収まった紙袋からは、銀のリボンがのぞいていた。
「ん、リボン?」
 椅子から降りてきた空却と共に三人でその袋をのぞき込む。中には包装紙とリボンで綺麗に装飾された箱が三つおさめられていた。
 獄が慎重に一つを取り出す。
『波羅夷空却様』
 少し癖のある流麗な文字であて名が書かれたカードが添えられていた。
「拙僧の名前! こっちは」
 空却が掴みだした同じサイズの箱には、同じ筆跡で『四十物十四様』と書かれたカードがある。
「自分の名前!」
 二人の視線が獄を見つめる。が、獄は軽くがぶりを振った。
「いや、俺じゃねぇ」
 空却はさっと最後の箱とカードをあらためた。ひとつ大きな箱には当然のように『天国獄様』とある。獄の頭の中で何かがチカッと像を結びそうな気がした。
「あ、裏に何か書いてあるっすよ。えと、神、神宮寺……」
 その瞬間、獄の脳裏に答案用紙に踊る文字と目の前のカードの筆跡が一致する。
 そしてその筆跡に持ち主は先ほどまで事務所にいた男に違いなかった。
「あの野郎!」
 獄はひとつ舌打ちすると、見たこともないような速度でスマホを取りに走った。

 獄の去った後、すぐに怒声が聞こえてくる。
 それをぼんやり見ていた十四の肩が、軽く小突かれる。
「おい十四」
「なんすか?」
 空却はふうっと息を吐いて十四の顔を覗き込んだ。
「それ拙僧によこせ」
「な、なんのことっすか?」
「いいから」
 何度もいやいやと首を振る十四の大きな拳の中に、獄の箱についていたカードが握りこまれるのを空却は見逃してはいなかった。
「だって、だって」
「いいか、よく聞け」
 泣きそうになりながらも拳を開けずにいる十四に一歩つめよって、空却は囁く。
「今、獄がいんのはシンジュクじゃねぇ、ナゴヤだ
 思い出せ、ここは日本の真ん中、そこに俺たちがいる」
「ここに、獄さんは……」
 ふっと力が緩んだ瞬間に、空却がカードを奪い取る。
「あっ」
 十四がもう一度それを取り返す前に、くしゃくしゃの紙切れはゴミ箱へ飛んだ。なにかあったら連絡してほしいというささやかな言葉は、もう発見されることはないだろう。
「獄ぁ! 拙僧らはもう帰んぞ!」
 スマホに向かって何事かまくし立てていた獄は、一度言葉を切ると時計を見て頷く。
「それはお前らへの土産だとよ」
「そーか。代わりに礼言っといてくれ」
 嫌そうにしながらも獄は電話口に向かって感謝の言葉を伝言する。そこからまたなにか言い合いを始めたのを横目に、空却は歩き出す。
「獄、また後でな。行くぞ十四、18時まで特訓だ!」
 立ち尽していた十四は空却に腕をひかれ、半ば引きずられるようにして後に続く。
「あっ、ちょっと、痛いっす
 あの、獄さん。絶対! またあとで!」
 獄は電話から耳を離すと軽く手を振った。
「あぁ、あとでな。気を付けて帰れよ」
 13時01分、相変わらずの雨の向こう、空はわずかに明るさを取り戻してきていた。