並んで、刻んで
ナゴ獄♀+開闢門+寂雷
オレンジ色の光がベランダに差し込み、早朝の澄んだ空気が肺を満たす。獄はひとつ伸びをしてから煙草をくわえ火をつけた。苦みとともにゆっくりと脳が覚醒する。ふと見た手すりの上に乗せた薬指に真新しい噛み跡二つ残っていて、獄はわずかの間、眼を閉じた。右手に握っていたジッポを意味もなく二度、三度と開閉させる。くゆらせた紫煙が微風に流され、獄の柔らかい髪も一緒にそよいだ。カチン、とやや強くジッポが閉じる音を最後に、獄は瞼をあげてタバコの火をもみ消した。
「よし、」
小さなつぶやきは誰にも聞き届けられないまま、風にさらわれる。
からからとガラス戸を引き獄が室内にもどる音とカーテンが動いたことでわずかに部屋が明るくなる。んぅ、と小さな声が広いベットからあがったのを見て獄はわずかに口角をあげた。
「ちょっと出てくる」
「はぁい、きをつけてくださいっす」
そう囁くと羽毛布団にくるまっていた十四がほにゃりと笑った。昨日もライブで遅かったためまだ眠たいのだろう。空却はもう一時間以上前に家を出ていて今はいない。今日も忙しくあちこちを飛び回っているに違いなかった。
獄は別室で身支度を整えると、最後に淡い色のリップをひいた。鏡の向こうの自分は口角を上げてみても、どこか緊張した面持ちだ。目元が少しカサついているのはきっと昨日アイクリームが流れてしまったせいだ。ふうとひとつ息を吐いてから、獄はカバンを手に立ち上がる。今日の服装には本当はハイヒールを合わせたい、が少し悩んで結局着心地のよいローファータイプのパンプスを選んだ。
「行ってくる」
静かな室内にそう告げて、獄はいつものように家を出た。
遡ること数ヶ月。
その日はもともと寂雷と開闢門が食事の約束をしていた日だった。たまたま獄の東都への出張が入ると聞いた開闢門がそのまま誘って約束を取り付けたことで、ちいさな同窓会のようになったのだ。
「よう」
「久しぶりだな」
「おつかれさま」
開闢門が予約した和食の店は掘りごたつの個室になっていて、落ち着いて食事がとれそうだ。
時間通りに三人がそろうと、すぐにお通しのひじきをつまみながら、開闢門と獄は珍しい地方の地酒を、寂雷は温かいお茶を手に近況の報告に花が咲いた。半年ほど会っていなくても、こうそろってみると以外にもくつろいだ雰囲気になる。上品な味の和食に舌つづみを打ちながら「俺たちも歳を取ったな」などと笑い合う。日々の忙しさを忘れてあのころにもどったような気持ちにすらなった。獄はつい勧められるがままに盃を進めてしまう。「飲み過ぎないように」という寂雷の医者らしい忠告にも、強気で返す。
「……わかってるよ。
お前は飲むなよ頼むから」
「違いないな」
「君たちがそう言うなら」
お酒は好きなんだけどと眉を下げる寂雷に、獄と開闢門は目を合わせて肩をすくめる。一滴でも酒が入った寂雷はそこらの酔っぱらいなどとは比べものにならないほどたちが悪い。そしてどんなに大暴れしてもそれを覚えていないのだから、本人はその悪癖をなおすことがない。実に困ったものだったが、寂雷の手にする飲み物に注意を払うことなど無意識でできるくらいには付き合いは長い。食事会は穏やかに進んでいった。
腹もくちくなり、酒がまわり、落ち着いたころに獄がぽつりとこぼした。
「俺は、おかしいんだと思う」
開闢門が煙草の灰を落としながらくつくつ笑った。
「なんだよ今更。おかしいついでに聞いてやるから言ってみろ」
ぽつり、ぽつりと獄は言葉を紡ぐ。
「俺はアイツらを好んで置いてるわけじゃないんだ。ただ成り行きでそうなって、そのあとなんだかんだとそのまま一緒にいて。ただそれだけなんだよ」
突然脈絡もなく始まった話も、獄が濁したアイツらという言葉もら開闢門と寂雷は正しく読み取った。この一、二年の獄の状況はうっすらとではあるが理解している。かつて依頼として獄が助けた二人のこどもたちは、もう立派に成人してそれぞれの道を歩んでいる。その一方で、きっとはじめはあこがれだった感情は形を変えて彼らの中で育った。こどものまま甘えるように同じ感情を求められた獄はなんだかんだと言いながらも、二人を拒みきれずにいるのだ。
くらくらとしてきた視界をなんとかしたくて机に突っ伏した獄の脳裏には、今まさにその二人、十四と空却の顔がよぎっていた。
「俺がちゃんとしなくちゃいけないんだ。それなのにあいつらときたら……」
「お前は甘いんだよ。なんせ身体も差し出しちゃってるくらいだもんなぁ。本当に献身的なことで」
意地悪く笑う開闢門に獄は僅かに顔を上げて、いーっと歯を見せて威嚇をする。
「好きでそんなことになったんじゃない。だいたい俺は許可なんてしてないし、」
「へえ。なら出るとこでてみろよ。本業だろうが」
うっと獄は言葉を詰まらせ、自分の髪をくしゃりとつかむ。
「いや、許されることじゃないがガキのやったことだし……。出るとこ、と言っても、そもそも表ざたになって社会的なダメージを負うのは俺なんだよ!」
ははんと鼻を鳴らした開闢門は机に肘をついて俯いた獄をのぞき込む。
「そんなこと言って、本当はお前が離れられなかったんだろう。無敗の弁護士センセ」
「……あまり意地悪な聞き方をしてはいけないよ」
苦笑を混ぜた寂雷のたしなめる声に開闢門ははいはいと素直に退いた。手酌で自分のグラスを満たし、少し迷ってから獄のグラスも満たした。二人の物言いが自身を馬鹿にしているように聞こえた獄は、ぶすっと頬を膨らませる。ちらりと見上げた開闢門の顔は到底数多の不良どもを更生させてきた人格者の顔ではなかった。無駄に顔がいいことにも腹が立つ。
「ちがう、俺はそんなんじゃない」
「よく言うぜ。なぁ寂雷」
話を振れば、寂雷は手にしていた箸を置いた。
「そうだね」
寂雷の同意の言葉は思ったよりも獄に深く突き刺さる。
「お前は、お前だけは俺の味方でいろよ!
ちゃんと大人として、正しいことを言えよ!」
「獄、私はずっと君の味方だ」
その声は言葉が本心であることを如実に示す。その独善的とも言える態度が獄は昔から気に入らなかった。
「あーもう、うるせぇ。俺はな青臭いことは忘れたんだよ。恋愛だとか、好きだとかなんだとか。
そもそもアイツらはガキなんだ。そんな対象でもないし、そもそも何にもわかっちゃいないんだ」
二人が転がり込んできたときなんだかんだと受け入れてしまったこと、十四の料理が意外にもおいしくて助かっていることも、空却が仕事のもやもやを吹っ飛ばすように笑ってくれると心が軽くなることも、獄の心を苛んでいた。
「クソ、いまこんな状況になったのは俺のせいじゃない。あいつらのせいだ!」
グラスの日本酒をのどに流し込む。アルコールが食道を焼くと、もう味なんて分からなくなってしまっていたが、いくらか落ち着けるような気がした。だんっとグラスを机に叩きつけてみても、現実は何も変わりはしない。寂雷は獄の手から酒の入ったグラスをそっと取り上げると、さらりと告げる。
「君は本当に嫌ならすぐに離れるだろう」
「んっ?」
はっと顔をあげると、アルコールのせいで視界がゆがんだ。
「今までだってそうだったじゃないか」
かつての恋愛事情を知る寂雷がいくつか具体的な例を並べる。高校の時、私になにか言っていた彼氏をずいぶんこっぴどく振って、相手に泣かれていただろう。大学生のときは、ある日彼氏と別れてきたからと、家にあった私物もプレゼントも何もかもを処分するのを手伝わされた。あのときはデートに着ていった服まで捨てると言い出して君を止めるのが大変だった。おそろしいまでの記憶力と青春を懐かしむやわらかな声で語られるのは
獄にとって忘れたい過去たちだ。無遠慮にほじくり返されるのも本当に嫌だったが、なにより興味深そうに相槌をうつ開闢門が憎らしくてたまらなかった。
「君はずっと嫌なものは嫌だと意思も行動もはっきりとしていて、私はその裏表のなさをすごいなと思っていたんだ」
「やめろ!」
「君が今彼らと一緒にいることを選んでいることが、きっと答えだ。
私は、君に幸せになってほしいんだよ」
「~~~~~~~っ!」
声にならない叫び声をあげた獄は、再び突っ伏す。反論してやらなくては、と思うのに言葉がまとまらない。猛烈に悔しかった。程なくして僅かに鼻を啜る音だけが聞こえてきた。
「はははっ、ヒデェやつだなぁお前の親友は」
開闢門が笑って獄の頭を雑にかきまわすようにして撫でた。ううぅやめろぉと力ないうめき声だけが返ってくる。寂雷は獄の様子におどろいたのか、目を丸くしていた。
「私は何か間違っていたかな」
「間違っちゃいないけど、まぁトドメはさしたな」
はぁ笑った、と呟いた開闢門は最後にぽんぽんと獄の髪を整えてやった。
「反論しないってことは、心当たりがあるんだな」
獄は開闢門の手の甲を思い切り抓った。
「痛って、コイツ!」
「二人とも飲みすぎだよ」
その夜、獄は記憶のないままひとりホテルへ放り込まれ、翌朝は一人で頭痛に頭を抱えることになったのだった。
そんな数ヶ月前のことを思い出しながら、獄はひとり東都へと出向いていた。いつ来てもごみごみと人の多い街だったが、今の獄にはちょうどよかった。前回の東都訪問は久しぶりに馬鹿みたいに笑って話をしたところまでは良かったが、酔った勢いで余分なことまで話してしまったことが悔やまれる。最終的にそれはよかったのかもしれないとほんの少し思わなくもない。あの飲み会の翌日、獄は二日酔いで頭痛の残る頭でこの場所に来ていた。それはそれは悩みながら、半ばヤケクソに、半ば真剣に。
ギンザの街をショーウィンドウをのぞきながらのんびり歩くと、新作の衣服や小物たちがきらきらと目線を誘う。いつもならそれを吟味するのだが、今日は目的があるためかわいいバッグもモードなワンピースも眺めるだけだ。
獄は前回も訪れたジュエリーショップの前で足を止める。長身のドアマンの青年がにこやかに迎えてくれる。ひとつ息を吐いてからひときわきらびやかな店内へと足を踏み出した。
「いらっしゃいませ」
髪に一筋の乱れもない店員が丁寧に出迎えてくれる。
「受け取りに」
短く告げて控えを渡せば、店奥のこじんまりとしたテーブルセットへと案内された。熱い紅茶を受け取り、横目で店内を見回す。客らしい人は年配の女性がひとり、カップルらしい若者たちが一組。きらきらと光るジュエリーが並ぶショーケースを前に和やかに接客が続いている。ジュエリーの品質はもちろん、丁寧な接客が売りの店なのだ。前回訪れた時も実感したなと思い返す。悩みながら一つ一つ条件を口にしていって、きっと無茶も伝えただろうが、店員は獄のどんな言葉にも否定を示さなかった。プロのなせる技だ。獄が迷って言葉に詰まった際も慌てず、少し雰囲気の異なる話題を出してみたり、落ち着いて待ってみたり、とにかくこちらの言葉を遮ったりはしなかった。きっとそのおかげで獄も胸のうちにあったものを伝えられたのだと思う。
「家族にとって、記念になるものを」
「華美な装飾も、いろんな意味を持つ石もいらない。これからいつでも身につけられる、シンプルなデザインがいい」
次々と提示される目の前の綺麗なアクセサリーたちを眺めては、手に取って、それがある生活を想像した。ずいぶんかかってようやっと候補が絞れたあと、説明された刻印に関する言葉に獄はゆっくりと首を横に振った。
「名前は、いらない。と思う」
獄の言葉のほんのわずかな機微を店員は見逃さなかった。それならばイニシャル、誕生日、象徴するモチーフなどはどうかと簡易的な図案を示す。獄はそれらも迷ったあと、やはり違うと首を横に振った。かたちに残るものだ。きっと獄は棺桶にまでこれを持ってゆく。そこに彼らの名前を残す勇気はでなかった。
「迷われるようでしたら、ぜひ一度おうちで考えてみてください。期日まででしたら変更をできるようにしておきますね。
お客様にとって大切な贈り物ですから、悔いのないようになさってください」
やわらかな声に獄は喉を詰まらせる。寂雷の言葉も開闢門の言葉もはねのけようとしていた最後の心のつかえが、ふっと取れた気がした。獄はただひとつ頷いて礼を伝え、その日は店を出た。
が、結局ナゴヤにもどってから程なくして獄は店に電話をかけていた。
「名前を、三人分お願いします」
店員はどこか嬉しそうに承ったと伝えてくれた。
「お待たせいたしました」
紅茶が半分なくなったころ、獄の目の前に箱が差し出された。紺色のケースを開いて見せられた中身は、想像通りの三つのシンプルな銀色の指輪だった。促されるまま、獄は一番小さな輪をそっとつまみあげる。プラチナ製のため見た目より少し重たく、幅は細くも太くもないちょうど良さ、複雑なカットや装飾はないが素材がよい。僅かに傾けると、内側の刻印が読み取れた。そこに並ぶ、獄、十四、空却の名前。きっと何年経っても、消えない名前。
獄が指にはめてみると、ひんやりした指輪の内側は僅かになめらかなカーブを描いているため肌へのあたりがよくつけ心地がよかった。サイズが合うことを確認して、獄はそれをすぐに外す。受け取った店員が丁寧に拭きあげてから箱に戻してくれた。
「これで大丈夫だ。いいものをありがとう」
「お気に召していただけて何よりです。お箱は三つにお分けしますか?」
「いや、そのままでいい」
獄はほんの少し笑った。
「全部そろっていることに意味があると思うんだ」
「さようでございますね。かしこまりました」
店の外まで見送ってくれた店員に会釈して、獄は軽いのに重たい紙袋をさげて踵を返した。
すぐに帰ってもよかったが、僅かに帰途へ向かう足が重い。結局獄がナゴヤに戻ったのは、夜になってからだった。部屋のドアを開けて、言いなれた「ただいま」を口にすればバタバタという足音ともに十四が飛んできた。
「獄さん……!
遅かったすね、心配してたんすよ!」
夕食を作ってくれていたのだろう。長身に黒いエプロン姿も様になっている。そのままぎゅっと抱きしめられて、温かな匂いとともに腕のなかに閉じ込められる。
「心配することないだろ、連絡もしたんだから」
「そんなことないっす。空却さんなんか、そろそろ迎えに行くって聞かなかったんすよ!」
「迎えって、ガキじゃあるまいし……」
「獄さんは女の子なんすから、夜道は危ないんすよ!」
「はいはい」
無理やり腕から抜け出して歩き始めれば、十四は離れまいと獄の後ろから抱きついた。おぶさりおばけのようになった十四を連れ、リビングに向かう。道中、騒ぎに気づいたらしい空却も洗面所からひょいと顔を覗かせた。シャワーを浴びた後なのか、髪が濡れている。
「遅かったじゃねぇか」
「だから遅くねぇよ」
「……あんま心配かけんなよ」
険しい表情とは裏腹に、声音は優しい。獄は風邪引くぞとひらりと手を振り、リビングのソファへと腰を落ち着けた。背中にいた十四はそのままするりと隣に座る。空却もすぐに就寝用の作務衣姿でテーブルを挟んだ向かいにどかりと座った。
「それでこんな時間まで何してたんだよ」
ソファの上であぐらをかいた空却がじとりと獄を睨んだ。
「別に、ただの買い物だよ」
「ふぅん」
「空却さん、本当に心配してたんすよ。もちろん自分も。
朝はちょっとそこまでって感じだったのに、夕方連絡したら東都にいるって、びっくりしたっす。言ってくれればよかったのに」
「ちょっといろいろあったんだよ」
「そんで土産は?」
「心配してたやつのセリフかよ」
「るせー」
「あははっ、でもよかったっす!
……あっ!」
明るい笑い声をあげていた十四が突然立ち上がった。
「どうした?」
「わあぁ!」
ぱたぱたとキッチンに走った十四はそのまま悲鳴をあげた。様子を見に立ち上がった空却に続いて、獄もキッチンをのぞく。そこでは十四が鍋の前でうなだれていた。
「火、つけたの忘れてて、焦げちゃったっす……」
鍋の中はシチューと思しきものが煮立っていた。おたまでかき回したのだろう、鍋底で焦げ付いていた野菜が混ざり、白かったはずのシチューはマーブル模様になっている。
「なんだ、家事とかじゃなかったんならいいだろ」
獄はほっと肩の力を抜いた。でもぉと情けない声をあげた十四をおしのけ、空却がおたまを取ってシチューを味見した。
「悪かねぇぞ」
ぺろりと口の端をなめた空却が笑う。そのまま獄にもおたまを差し出した。獄は促されるまま、まだら模様のシチューをそっと口にした。やさしげなミルクの風味の奥に、焦げの香ばしさある。タマネギの風味か、意外にも焦げはコクとなって案外悪くはない。ブラウンシチューともまた違う味だった。
「本当だ悪くないな」
「ほんとっすか?
気を使わなくていいんすよ……」
十四は訝しげな声をあげておそるおそる一口食べ、首を傾げ、ぱくりともう一口口に運んだ。
「おいしいっす……!」
涙の膜が張っていた瞳がぱちぱちと瞬いて、長いまつ毛がきらきらと光った。その顔に空却も獄も思わず笑い声をあげた。
「まさしく怪我の功名ってな」
「まったくだな」
ひとしきり笑いあって、そのまま夕食となった。トマトとチーズの入ったサラダに、やや厚切りのバゲット、薄茶色のシチュー。空却も獄も、いつもより少し量を多く食べたからか、十四も元気を取り戻した。
食後のコーヒーは獄が入れて、それぞれがカップを片手に落ち着いた時だった。
「なぁ、二人に渡したいものあるんだ」
獄は今日わざわざ東都まで出向いた例の箱を机に置いた。紙袋の店名でアパレルに明るい十四が目を輝かせる。
「わ、これジュエリーの有名店っすよね!
新しいアクセサリーを買ってきたんすね。そういえば獄さん、今度の新作がかわいいって」
「いや、獄が渡したいつってんだ。拙僧らのなんかだろ」
「えっ、もしかしてピアスっすか?」
「こんな小洒落れた店のもんで、拙僧がつけるもんがあるか?
まぁ獄がくれるってんならもらってやるけどよ」
素直に目を輝かせる十四と、天邪鬼な空却を見て、獄は目元を和ませる。薄水色ののリボンをほどき箱に手をかけてから、最後ほんの少しだけ迷った。だが、それでも静かに箱を開ける。
ショップほどでなくても、リビングの温かな照明を跳ね返して輝く指輪が三つ、整然と並んでいた。騒いでいた二人の声がぴたりと止まる。獄は極力何でもない風を装うために、腹の底へ力を込めた。
「お前らにやるよ」
獄はまず一番大きな指輪をとって、空却の前にかざす。
「お前でもつけられるように、シンプルで細すぎないデザインにしたんだ」
目を見開いている空却の手を取って、無理やりそれを握らせる。
「……おう」
次に中くらいのサイズの指輪をとり、十四に見せた。
「お前がずっと言ってただろ。『三人で身につけられるものが欲しい』って。コレなら、まぁ全員つけたってファッションリングと変わりゃしねぇよ」
「獄さん……」
先ほどまでとは違う理由で目を潤ませている十四の手にも、その指輪を乗せる。
「いいか、これはいらないなら捨てていい。売っていい。俺はこの指輪がお前たちの未来を縛る鎖にだけはなってほしくない。
深い意味なんてない。ただこれは、家族の絆として……」
「獄」
「獄さん」
説明を遮るように二人が揃って真剣な声を出した。そしてそのまま畳み掛けるように言葉を紡ぐ。
「意味がないなんて、悲しいこと言わないで欲しいっす」
「わざわざこんなの彫り込んどいて、いらなきゃ捨てろはねぇだろ」
空却は目ざとくも、指輪の内側の刻印に気がついていた。
「そうっすよ!
これ、自分は一生大事にして、ずっとつけるっす」
「そういうこった。だから、お前も」
二人の手が箱に残った最後の一つを取り上げ、獄の左手を持ち上げる。緊張でかたく拳を作っていた獄の手の甲を十四がそっと撫でた。震えながら力が抜ける。伸ばされた指輪に二人の手が指輪をはめた。一番小さな輪は引っかることもなく、獄の左手の薬指の上で輝く。今朝見た赤い跡はすっかりと隠れてしまった。
「……いいのか」
「いい」
絞り出すような獄の声に間髪入れずに答えたのは空却だ。人外じみた強い金色の瞳が獄をとらえて離さない。横から、ねぇと小さく注意を引いてから十四が続ける。
「自分、すごく嬉しいっす。本当に。ものすごく!」
「悪くねぇよ、こういうのも」
本当に、心から嬉しいとその声が、瞳が、朱の差した頬が、握られた手の温度が、染み入るように伝わってくる。獄の肩からふっと力が抜けた。
「そうか……」
いいと言ってくれるのなら。いつか終わりが来るとしても、せめて今の間だけでも、覚悟を決めて向き合っていきたいと、獄が決めたのだ。
「ありがとな」
やっと、ここから三人が家族となるのだ。
れ〜さん、このあとのストーリーがどうなっても、考えれば考える…
れ〜さん、このあとのストーリーがどうなっても、考えれば考えるほど反省しそうにない
那由多さん生存が物理的に攫われた事によりおそらく確定なので、いずれ目覚めと三兄弟との再会があるだろうなぁと
そうなった場合、那由多さんが目覚めた時点で全て選択が正解になっちゃう
こどもたちを捨てたことも、国家転覆とそれに伴い諸々の人生をめちゃくちゃにしたことも、(おそらく)金策等のために多くの人をカモったことも、なにより乙統女様にマイクを渡して今の世を作ったことも、全部肯定されてしまう……
月の音とか考えると、強者と弱者の立場……、うっとなる
那由多さんが目覚めなきゃいいのかというとそうでもなく、那由多さん生存の限り、目覚めを絶対に諦めずできることを探して実行してしまうことも厄介
xxxHOLiCなら店が見えないタイプの人でしょうれ〜さん
既に個人のささやかな願いと言うにはあまりにも突拍子のないことをやってのけてしまっている
では那由多さん死亡ではどうかと思えば、そもそもそうならないように全力で抗うし、なにより死んでも諦めなさそうなのがこわい
結果、はやめに那由多さんには目覚めてもらってれ〜さんの手綱を握ってもらってブレーキを引いてもらうのが一番世界が平和に収まりそう
那由多さんにどこかあたたかい国でゆっくり過ごそうと言われたら、さらっといろんなもの放ってそうしてしまいそうだもんね……
目覚めた那由多さんに眠っていた間の世の中のできごとを話すとき、巧妙に天谷奴零の存在はぼかされているのに、那由多さんは勘づいてしまってほしい
れ〜さんは絶対にうんと言わずにすっとぼけても、パズルのようにほかの部分が埋まることで足りないピースの形がわかってしまうような気づき方をしてほしい
一悶着あるのが多分一番の罰になるので、あえてれ〜さんに冷たくあたる那由多さんがいたりしたらそれはそれでいいなと思う今日このごろ
那由多さん生存が物理的に攫われた事によりおそらく確定なので、いずれ目覚めと三兄弟との再会があるだろうなぁと
そうなった場合、那由多さんが目覚めた時点で全て選択が正解になっちゃう
こどもたちを捨てたことも、国家転覆とそれに伴い諸々の人生をめちゃくちゃにしたことも、(おそらく)金策等のために多くの人をカモったことも、なにより乙統女様にマイクを渡して今の世を作ったことも、全部肯定されてしまう……
月の音とか考えると、強者と弱者の立場……、うっとなる
那由多さんが目覚めなきゃいいのかというとそうでもなく、那由多さん生存の限り、目覚めを絶対に諦めずできることを探して実行してしまうことも厄介
xxxHOLiCなら店が見えないタイプの人でしょうれ〜さん
既に個人のささやかな願いと言うにはあまりにも突拍子のないことをやってのけてしまっている
では那由多さん死亡ではどうかと思えば、そもそもそうならないように全力で抗うし、なにより死んでも諦めなさそうなのがこわい
結果、はやめに那由多さんには目覚めてもらってれ〜さんの手綱を握ってもらってブレーキを引いてもらうのが一番世界が平和に収まりそう
那由多さんにどこかあたたかい国でゆっくり過ごそうと言われたら、さらっといろんなもの放ってそうしてしまいそうだもんね……
目覚めた那由多さんに眠っていた間の世の中のできごとを話すとき、巧妙に天谷奴零の存在はぼかされているのに、那由多さんは勘づいてしまってほしい
れ〜さんは絶対にうんと言わずにすっとぼけても、パズルのようにほかの部分が埋まることで足りないピースの形がわかってしまうような気づき方をしてほしい
一悶着あるのが多分一番の罰になるので、あえてれ〜さんに冷たくあたる那由多さんがいたりしたらそれはそれでいいなと思う今日このごろ
れーなゆ小ネタ
れーなゆ小ネタ
同じベットで眠って、先に目覚めた零さん
まだほとんど寝ていてぽやんとしている那由多さんが可愛いのでおはようのちゅーをしたかった。
でも直前で「歯磨きしなきゃイヤ……」と言われてそれもそうかと大人しく洗面所に。
きちんと身支度整えて再度ベットへ。
今度こそ、と顔を寄せるけどまた直前でハッとした那由多さんに「だめ!」と止められる。
「ちゃんと歯も磨いた」
と指を自分の片方の口の端に引っかけ少しすねたようにいーっとする零さん。那由多さんは自分の手で自分の口を塞いでる。少しの沈黙のあと、那由多さんはそっと零さんの肩を押してどいてくれるように訴える。が、どかない零さん。那由多さんの乱れた前髪をかき上げて額にキスして、まぶたにもキスして、鼻先を合わせ、最後に那由多さんの口元を覆う手にもキスをする。
那由多さんはちょっとだけ手を持ち上げて囁く。
「あなたに歯磨きしてほしかったんじゃなくて、私が歯磨きしないといやなの……」
零さんは二、三回瞬きして、ふっと笑った。
「俺が気にしなくても?」
「私が気になるの」
零さんは那由多さんを抱き上げて洗面所まで連れていき、鏡の前でおろしてそのまま那由多さんの身支度を鏡越しに眺める。
ただの身支度もキスのためみたいで、少し照れるし零さんはちょっと嬉しい。
身支度終えて振り向いた那由多さんと今度こそミント味のキスする零さん。
「おはよう」
同じベットで眠って、先に目覚めた零さん
まだほとんど寝ていてぽやんとしている那由多さんが可愛いのでおはようのちゅーをしたかった。
でも直前で「歯磨きしなきゃイヤ……」と言われてそれもそうかと大人しく洗面所に。
きちんと身支度整えて再度ベットへ。
今度こそ、と顔を寄せるけどまた直前でハッとした那由多さんに「だめ!」と止められる。
「ちゃんと歯も磨いた」
と指を自分の片方の口の端に引っかけ少しすねたようにいーっとする零さん。那由多さんは自分の手で自分の口を塞いでる。少しの沈黙のあと、那由多さんはそっと零さんの肩を押してどいてくれるように訴える。が、どかない零さん。那由多さんの乱れた前髪をかき上げて額にキスして、まぶたにもキスして、鼻先を合わせ、最後に那由多さんの口元を覆う手にもキスをする。
那由多さんはちょっとだけ手を持ち上げて囁く。
「あなたに歯磨きしてほしかったんじゃなくて、私が歯磨きしないといやなの……」
零さんは二、三回瞬きして、ふっと笑った。
「俺が気にしなくても?」
「私が気になるの」
零さんは那由多さんを抱き上げて洗面所まで連れていき、鏡の前でおろしてそのまま那由多さんの身支度を鏡越しに眺める。
ただの身支度もキスのためみたいで、少し照れるし零さんはちょっと嬉しい。
身支度終えて振り向いた那由多さんと今度こそミント味のキスする零さん。
「おはよう」
アフロディテの微笑み
アフロディテの微笑み
零那由
このところ零は忙しく、今日も夜の十一時をまわって帰宅し、壁掛け時計の短針が真上を過ぎてからようやく風呂へと向かったところだった。先に寝ていていいと言われていたものの、いつもより覇気のない声が気にかかり那由多は零を待つことに決めた。広いベットの上、天気予報で少し寒くなりそうな予報だったのでおろした毛布の隣に座る。彼女の好みに合わせたそれは淡い色合いで少し零の好みとは違ったかもしれない。そう思いながら肌触りの良い表面に手のひらを押しつけてはその感触を楽しんでいた。
そうこうするうちに、ガチャリと寝室の扉が開く。あくびを噛み殺しながら入ってきたのはもちろん零だ。
「待っててくれたのか」
ぱっと表情を変えやわらかな笑みを浮かべた彼がベットに腰をおろすと、ぐっとマットレスが沈み込む。那由多は傾斜に導かれるようにして零のすぐ近くまで座る場所をずらし、わざと甘えるように肩口をつついた。
「このところ忙しかったでしょう?
もしあなたがよければ、寝る前に少しおしゃべりしたかったの」
「この一週間はほとんど食事も一緒にできなくて悪ぃな」
零は那由多の細い腰に腕をまわすと、自分の膝の上へ引き寄せるようにして抱きしめる。風呂上がりで普段よりも温かい身体にしっかりとつつまれ、那由多はくぐもった声で返事を返す。
「謝らないで。いつもお疲れさま」
背を優しくたたいてみたが、腕の力は弱まらない。諦めた那由多は身体の力を抜いて零の胸に寄り添った。零は少しの隙間も許さないと言わんばかりにさらにしっかりと腕に力をこめると、喉の奥を鳴らして笑う。その姿はさながら猫のようだ。那由多は少し苦しかったものの、できるだけぎゅっと抱きしめ返して応える。広い背には腕が回りきらなかったためパジャマの布を軽く握った。えんじ色のフランネルのパジャマは、那由多がポケットにシマエナガのワンポイントの刺繍を施したものだ。はじめて渡した日は「那由多のじゃないんだよな?」と明らかにサイズの大きな上着を手に二度も確認していたが、最近はスウェット地のものよりもこちらを好んで着ているようだった。せっけんの香りと暖かさは眠気を誘う。背中だけ握ったらシワになるかしらとぼんやり考え、パジャマなのだから気にすることもないと結論づける。
「……寂しかったろ?」
しばらく体温を分け合ったあと、零はからかうようにそう言ってやっと腕を緩めた。あわせて腕を解き、顔をあげた那由多は困ったように眉を下げる。
「寂しくなかったと思うの?」
「質問を質問で返すのはどうなんだ」
零は指先で那由多の頬にかかる髪を耳にかけてやり、ついでに小さな鼻先をつつく。
「……もう。あなたが頑張っていることはちゃんとわかっているから大丈夫」
いたずらな指先を握って止めると、今度は互いの指が絡められる。
「なんだ随分聞き分けがいいな。俺は寂しかったぜ」
「そうなの?」
「そりゃあな」
軽く握られた指先がニヤリと笑う口元に触れる。
「なぁ、もっとワガママになってもいいんじゃねぇか」
「あなたは十分私のことを甘やかしてくれていると思うわ。掃除も洗濯もお料理も私よりうまいんだもの。もしこれ以上となると、私はつけあがってしまうかもしれないわよ」
困らせてみようと脅すようにいえば、零は期待していた反応とは逆に楽しげに目を細めた。大いに結構と鷹揚に頷く。
「ワガママの一つや二つ、叶えてやりたくなるんだよ。男の甲斐性ってもんだろ?」
「甲斐性の意味ってそんな感じだったかしら……」
「何でもいいから言ってみてくれ」
「そう。それじゃあ一つ、お願いがあるんだけれど」
小首を傾げた那由多は、ふと思いついたアイデアを口にした。
「私、あなたの頭を撫でてみたい」
ややあって零の前で膝立ちになった那由多は、その頭をそうっと撫でる。
「ふわふわね。私とは違うわ」
指の間をくすぐる感触に那由多は声を弾ませる。きちんとセットされた姿を見ることが圧倒的に多かったので今まで伝えられなかったのだが、彼女は一度この髪にちゃんと触れてみたかったのだった。零からの反応が無いことが心配になり、那由多はちらりとその顔色をうかがう。零はただ二色の瞳を丸くしていた。驚いたようなそれは思いのほか幼い印象を抱かせる。
「触られるのは嫌いだった?」
「……いや、大丈夫だ」
声を掛けると零ははっとして、那由多が触れやすいように少しうつむくと頭を差し出した。彼は基本的に妻の希望に対して否を突きつけることがない。那由多は遠慮をなくし、両手でやわらかい髪をかき混ぜる。くるんと巻いた髪は何度撫でつけてみても毛先がぴょんぴょんと跳ねておかしい。くすりと笑みをこぼせば零が俯いたまま心底不思議そうな声で問う。
「ワガママに入るのかこれ。俺の頭なんか撫ででも楽しいことないだろ」
「そんなことないわよ。あなたも私の髪をよく触るじゃない」
「まぁ」
何か言いたそうではあったが、零はそれ以上は口を開かなかった。
暫く零はされるがまま、大人しく那由多に撫でられていた。眠くなったのかもしれないし、自分でわがままを聞くと言った手前拒絶ができなかっただけなのかもしれない。先ほどの言葉の通り、零はいつも那由多を甘やかすことに余念がなかった。それを純粋に嬉しいと思う反面、もっと頼ってくれていいのにとさみしくも思う。人に何かを渡すのは得意なのに、自分が受け取るのが苦手で不器用な人だ。乱れた前髪でもう表情は伺えない。少しずつでもいろんなものを分け合えたらいいと祈りつつ、名残惜しくも手を離す。
と、零の手が離れてゆこうとした那由多の左手を捕まえ、そのまま元の位置に戻した。
「……もう少しだけ、撫でてくれ」
穏やかな低い声とともに、すり、と頭が動く。目を瞬いた那由多はそっとまた手を動かした。彼女の心臓のもっと奥の場所がきゅうっと締めつけられる。そんな場所に内臓は無いことはよく分かっていたが、じわじわとくすぐったい感情が溢れるのを感じる。普段の彼は少し怖く見られがちだが整った顔に不敵な笑みを浮かべ、自分を表現するための好きな服を着こなして颯爽と歩き、真剣に研究に取り組んでは成果を朗々と語り、那由多にはとびきり甘い。そんな世界で一番格好いい零が。
「かわいい」
思わず溢れた小さな声は零に届いただろうか。ふわりとした感触も相まって、大きなわんちゃんみたいと那由多は笑みを深める。小さな子どもをあやすように撫で、彼女は好奇心のままに零の顔を下から覗き込んだ。溌剌とした瞳は瞼の向こうに隠されていたが、頬から耳にかけてが僅かに赤く染まっている。初めて見る表情にまた胸の奥がきゅっとした。
「かわいいひと」
彫りが深い目元もすっと通った鼻筋もしっかりした顎も何もかもが彼女にとって愛おしかった。顔の輪郭を指先でなぞると、薄く瞼が開かれて視線が絡まる。零は僅かに口角をあげている。
「あんまりじろじろ見ないでくれ。……おかしくなりそうだ」
とびきり甘く鼓膜を震わせて思考を溶かす声も、今日の那由多には効果がない。
「ダメ。見せて」
「終わりだ」
「我儘ね。どうしようかしら」
零の額、瞼、頬、鼻先に唇で触れる。それは普段零が那由多にしているものと全く同じ動きだったが、最後唇へ触れることはせずに鼻先が触れそうな至近距離で動きを止める。
「……なぁもう十分俺で遊んだだろ?」
焦れたように零の手が那由多の背を引き寄せるように滑った。それでも那由多は零を見つめるに留める。そうすれば零が折れることを知っているからだった。
「……わかったよ俺の負けだ。もう好きにしてくれ」
案の定零は仕方がないなと首を振って両手をあげた。
「本当に嫌なときはちゃんと教えてちょうだいね」
「あぁ。わかってる」
那由多は満足げに微笑んで、いい子にご褒美の口づけを落とした。
◇◇◇
くすくすと笑いながら繰り返される啄むようなキスと、それによってもたらされたじれったさを抱えながらも、零は那由多にされて嫌なことは無いだろうなとぼんやり考える。先ほどから零から触れようとする度に、那由多にダメだと手を膝まで戻されるのだがそれすら不快感はない。暫く楽しげに零に触れていた那由多が、すっと身を引いて零を見た。
「ぎゅってしてもいい?」
今日はずいぶんと積極的だ。やはりさみしい思いをさせていたのだろうと思う。ハグは歓迎する、が、那由多はにこりと笑って腕を広げて待ちの姿勢だ。零が動かずにいると、どうぞ?と首を傾げる。
なるほど、広げられた腕の中に自分で入れということらしい。好きな女にいつでも格好いいと思われたいという小さなプライドが頭をもたげたのか。人に弱みを見せれば最後いいように利用されるということを知っているが故の抵抗感か。自分でもよく分からなかったが零は一瞬ためらった。
「きて」
聖母にも小悪魔にも見える曖昧な微笑みに抗えず、零はどうにでもなれと半ばヤケクソにその腕に導かれることを選んだ。わざと少し体重をかけると二人分の体重を支えられなかった那由多は重力に負けてベットへと倒れ込む。きゃあと楽しそうな声があがった。どこもかしこもやわらかい身体に包まれて、ふんわりとシャンプーやボディクリームの甘い花の香りが零の肺を満たす。那由多に触れられたところから自身の境界が曖昧になるような不思議な感覚をおぼえた。やわらかな胸もとに埋まるとその奥から、とくりとくりと鼓動が伝わる。あたたかい湯に浸かったかのようなそれはじわりと意識すら溶かしてゆく。何か伝えたいのに思考は解けてゆくばかり。
「疲れてるのね」
那由多が端に寄せられていた肌触りのいい毛布を器用に引き寄せ二人の身体を覆う。衣擦れよりも優しい、いつもよりも少し低く感じる声が骨を伝わって零の鼓膜を揺らした。ちっぽけな己のプライドも肉欲も忘れるほど、触れるだけで満ち足りた心地になるのはなぜだろうか。再びそっと頭を撫でられる。ほかの人間に触れられるのはごめんだが、那由多ならそれも構わない。不思議と落ち着く。
身じろいで収まりの良い場所を探した那由多が、幼子にするように零を抱きしめ一定のリズムで背をたたく。いつの間にか部屋の照明も落とされている。那由多はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私ね、あなたが甘えてくれたことが嬉しいのよ。あなたにとって私は、弱みを見せてもいい人だという信頼だと思うもの。だからこれからもたまにはこうして甘えてくれたら嬉しい。
……これが私の一番のワガママなのかもしれないわね」
それなら俺だってそうだと言ってやりたいのに、身体はすっかり眠る準備を終えて脳からの指令が末端まで伝わらない。あぁ、全く格好がつかない。明日は思い切り那由多を甘やかそうと心に決め、零は諦めて瞼をおろした。
穏やかな笑みを含めた「おやすみなさい」はどこか懐かしく零の意識を夢へ誘った。
零那由
このところ零は忙しく、今日も夜の十一時をまわって帰宅し、壁掛け時計の短針が真上を過ぎてからようやく風呂へと向かったところだった。先に寝ていていいと言われていたものの、いつもより覇気のない声が気にかかり那由多は零を待つことに決めた。広いベットの上、天気予報で少し寒くなりそうな予報だったのでおろした毛布の隣に座る。彼女の好みに合わせたそれは淡い色合いで少し零の好みとは違ったかもしれない。そう思いながら肌触りの良い表面に手のひらを押しつけてはその感触を楽しんでいた。
そうこうするうちに、ガチャリと寝室の扉が開く。あくびを噛み殺しながら入ってきたのはもちろん零だ。
「待っててくれたのか」
ぱっと表情を変えやわらかな笑みを浮かべた彼がベットに腰をおろすと、ぐっとマットレスが沈み込む。那由多は傾斜に導かれるようにして零のすぐ近くまで座る場所をずらし、わざと甘えるように肩口をつついた。
「このところ忙しかったでしょう?
もしあなたがよければ、寝る前に少しおしゃべりしたかったの」
「この一週間はほとんど食事も一緒にできなくて悪ぃな」
零は那由多の細い腰に腕をまわすと、自分の膝の上へ引き寄せるようにして抱きしめる。風呂上がりで普段よりも温かい身体にしっかりとつつまれ、那由多はくぐもった声で返事を返す。
「謝らないで。いつもお疲れさま」
背を優しくたたいてみたが、腕の力は弱まらない。諦めた那由多は身体の力を抜いて零の胸に寄り添った。零は少しの隙間も許さないと言わんばかりにさらにしっかりと腕に力をこめると、喉の奥を鳴らして笑う。その姿はさながら猫のようだ。那由多は少し苦しかったものの、できるだけぎゅっと抱きしめ返して応える。広い背には腕が回りきらなかったためパジャマの布を軽く握った。えんじ色のフランネルのパジャマは、那由多がポケットにシマエナガのワンポイントの刺繍を施したものだ。はじめて渡した日は「那由多のじゃないんだよな?」と明らかにサイズの大きな上着を手に二度も確認していたが、最近はスウェット地のものよりもこちらを好んで着ているようだった。せっけんの香りと暖かさは眠気を誘う。背中だけ握ったらシワになるかしらとぼんやり考え、パジャマなのだから気にすることもないと結論づける。
「……寂しかったろ?」
しばらく体温を分け合ったあと、零はからかうようにそう言ってやっと腕を緩めた。あわせて腕を解き、顔をあげた那由多は困ったように眉を下げる。
「寂しくなかったと思うの?」
「質問を質問で返すのはどうなんだ」
零は指先で那由多の頬にかかる髪を耳にかけてやり、ついでに小さな鼻先をつつく。
「……もう。あなたが頑張っていることはちゃんとわかっているから大丈夫」
いたずらな指先を握って止めると、今度は互いの指が絡められる。
「なんだ随分聞き分けがいいな。俺は寂しかったぜ」
「そうなの?」
「そりゃあな」
軽く握られた指先がニヤリと笑う口元に触れる。
「なぁ、もっとワガママになってもいいんじゃねぇか」
「あなたは十分私のことを甘やかしてくれていると思うわ。掃除も洗濯もお料理も私よりうまいんだもの。もしこれ以上となると、私はつけあがってしまうかもしれないわよ」
困らせてみようと脅すようにいえば、零は期待していた反応とは逆に楽しげに目を細めた。大いに結構と鷹揚に頷く。
「ワガママの一つや二つ、叶えてやりたくなるんだよ。男の甲斐性ってもんだろ?」
「甲斐性の意味ってそんな感じだったかしら……」
「何でもいいから言ってみてくれ」
「そう。それじゃあ一つ、お願いがあるんだけれど」
小首を傾げた那由多は、ふと思いついたアイデアを口にした。
「私、あなたの頭を撫でてみたい」
ややあって零の前で膝立ちになった那由多は、その頭をそうっと撫でる。
「ふわふわね。私とは違うわ」
指の間をくすぐる感触に那由多は声を弾ませる。きちんとセットされた姿を見ることが圧倒的に多かったので今まで伝えられなかったのだが、彼女は一度この髪にちゃんと触れてみたかったのだった。零からの反応が無いことが心配になり、那由多はちらりとその顔色をうかがう。零はただ二色の瞳を丸くしていた。驚いたようなそれは思いのほか幼い印象を抱かせる。
「触られるのは嫌いだった?」
「……いや、大丈夫だ」
声を掛けると零ははっとして、那由多が触れやすいように少しうつむくと頭を差し出した。彼は基本的に妻の希望に対して否を突きつけることがない。那由多は遠慮をなくし、両手でやわらかい髪をかき混ぜる。くるんと巻いた髪は何度撫でつけてみても毛先がぴょんぴょんと跳ねておかしい。くすりと笑みをこぼせば零が俯いたまま心底不思議そうな声で問う。
「ワガママに入るのかこれ。俺の頭なんか撫ででも楽しいことないだろ」
「そんなことないわよ。あなたも私の髪をよく触るじゃない」
「まぁ」
何か言いたそうではあったが、零はそれ以上は口を開かなかった。
暫く零はされるがまま、大人しく那由多に撫でられていた。眠くなったのかもしれないし、自分でわがままを聞くと言った手前拒絶ができなかっただけなのかもしれない。先ほどの言葉の通り、零はいつも那由多を甘やかすことに余念がなかった。それを純粋に嬉しいと思う反面、もっと頼ってくれていいのにとさみしくも思う。人に何かを渡すのは得意なのに、自分が受け取るのが苦手で不器用な人だ。乱れた前髪でもう表情は伺えない。少しずつでもいろんなものを分け合えたらいいと祈りつつ、名残惜しくも手を離す。
と、零の手が離れてゆこうとした那由多の左手を捕まえ、そのまま元の位置に戻した。
「……もう少しだけ、撫でてくれ」
穏やかな低い声とともに、すり、と頭が動く。目を瞬いた那由多はそっとまた手を動かした。彼女の心臓のもっと奥の場所がきゅうっと締めつけられる。そんな場所に内臓は無いことはよく分かっていたが、じわじわとくすぐったい感情が溢れるのを感じる。普段の彼は少し怖く見られがちだが整った顔に不敵な笑みを浮かべ、自分を表現するための好きな服を着こなして颯爽と歩き、真剣に研究に取り組んでは成果を朗々と語り、那由多にはとびきり甘い。そんな世界で一番格好いい零が。
「かわいい」
思わず溢れた小さな声は零に届いただろうか。ふわりとした感触も相まって、大きなわんちゃんみたいと那由多は笑みを深める。小さな子どもをあやすように撫で、彼女は好奇心のままに零の顔を下から覗き込んだ。溌剌とした瞳は瞼の向こうに隠されていたが、頬から耳にかけてが僅かに赤く染まっている。初めて見る表情にまた胸の奥がきゅっとした。
「かわいいひと」
彫りが深い目元もすっと通った鼻筋もしっかりした顎も何もかもが彼女にとって愛おしかった。顔の輪郭を指先でなぞると、薄く瞼が開かれて視線が絡まる。零は僅かに口角をあげている。
「あんまりじろじろ見ないでくれ。……おかしくなりそうだ」
とびきり甘く鼓膜を震わせて思考を溶かす声も、今日の那由多には効果がない。
「ダメ。見せて」
「終わりだ」
「我儘ね。どうしようかしら」
零の額、瞼、頬、鼻先に唇で触れる。それは普段零が那由多にしているものと全く同じ動きだったが、最後唇へ触れることはせずに鼻先が触れそうな至近距離で動きを止める。
「……なぁもう十分俺で遊んだだろ?」
焦れたように零の手が那由多の背を引き寄せるように滑った。それでも那由多は零を見つめるに留める。そうすれば零が折れることを知っているからだった。
「……わかったよ俺の負けだ。もう好きにしてくれ」
案の定零は仕方がないなと首を振って両手をあげた。
「本当に嫌なときはちゃんと教えてちょうだいね」
「あぁ。わかってる」
那由多は満足げに微笑んで、いい子にご褒美の口づけを落とした。
◇◇◇
くすくすと笑いながら繰り返される啄むようなキスと、それによってもたらされたじれったさを抱えながらも、零は那由多にされて嫌なことは無いだろうなとぼんやり考える。先ほどから零から触れようとする度に、那由多にダメだと手を膝まで戻されるのだがそれすら不快感はない。暫く楽しげに零に触れていた那由多が、すっと身を引いて零を見た。
「ぎゅってしてもいい?」
今日はずいぶんと積極的だ。やはりさみしい思いをさせていたのだろうと思う。ハグは歓迎する、が、那由多はにこりと笑って腕を広げて待ちの姿勢だ。零が動かずにいると、どうぞ?と首を傾げる。
なるほど、広げられた腕の中に自分で入れということらしい。好きな女にいつでも格好いいと思われたいという小さなプライドが頭をもたげたのか。人に弱みを見せれば最後いいように利用されるということを知っているが故の抵抗感か。自分でもよく分からなかったが零は一瞬ためらった。
「きて」
聖母にも小悪魔にも見える曖昧な微笑みに抗えず、零はどうにでもなれと半ばヤケクソにその腕に導かれることを選んだ。わざと少し体重をかけると二人分の体重を支えられなかった那由多は重力に負けてベットへと倒れ込む。きゃあと楽しそうな声があがった。どこもかしこもやわらかい身体に包まれて、ふんわりとシャンプーやボディクリームの甘い花の香りが零の肺を満たす。那由多に触れられたところから自身の境界が曖昧になるような不思議な感覚をおぼえた。やわらかな胸もとに埋まるとその奥から、とくりとくりと鼓動が伝わる。あたたかい湯に浸かったかのようなそれはじわりと意識すら溶かしてゆく。何か伝えたいのに思考は解けてゆくばかり。
「疲れてるのね」
那由多が端に寄せられていた肌触りのいい毛布を器用に引き寄せ二人の身体を覆う。衣擦れよりも優しい、いつもよりも少し低く感じる声が骨を伝わって零の鼓膜を揺らした。ちっぽけな己のプライドも肉欲も忘れるほど、触れるだけで満ち足りた心地になるのはなぜだろうか。再びそっと頭を撫でられる。ほかの人間に触れられるのはごめんだが、那由多ならそれも構わない。不思議と落ち着く。
身じろいで収まりの良い場所を探した那由多が、幼子にするように零を抱きしめ一定のリズムで背をたたく。いつの間にか部屋の照明も落とされている。那由多はゆっくりと言葉を紡いだ。
「私ね、あなたが甘えてくれたことが嬉しいのよ。あなたにとって私は、弱みを見せてもいい人だという信頼だと思うもの。だからこれからもたまにはこうして甘えてくれたら嬉しい。
……これが私の一番のワガママなのかもしれないわね」
それなら俺だってそうだと言ってやりたいのに、身体はすっかり眠る準備を終えて脳からの指令が末端まで伝わらない。あぁ、全く格好がつかない。明日は思い切り那由多を甘やかそうと心に決め、零は諦めて瞼をおろした。
穏やかな笑みを含めた「おやすみなさい」はどこか懐かしく零の意識を夢へ誘った。
垂涎の
垂涎の
一左馬♀
ふんわりと過去捏造
左馬刻を訪ねた一郎は目の前の光景を見て首を捻る。左馬刻と簓が活動拠点としている事務所は普段彼らの嗜むタバコの苦いニオイが漂っているのだが、今日は様子が違った。ドアを開けた瞬間からとにかく甘ったるい匂いが満ちていて、それだけで胸焼けしそうだ。おそるおそる部屋をのぞくと、ソファでぐったりとしている簓と目が合う。
「おはよーさん。一郎……」
「簓さん、どうしたんすか」
力なく手をあげる簓の顔色は悪い。この二人は時々ふざけてるのかと思うような飲み会を開催しいる時がある。もっとも一郎は多少興味はあれどまだ酒は飲んでおらず、二人が実際どのように夜を過ごしたのか詳しくは知らない。
先日も昼近くなって事務所を訪ねるとおびただしい数の酒瓶と缶、吸い殻が山となった灰皿に囲まれソファや床でぐったりとしているのを見つけた。(しんどくなるまで飲まなきゃいいのに)という言葉を飲み込み、足元に気をつけながら窓を開けてみる。さっと風が部屋にはいり、こもった空気が新鮮な空気へ置き換わる。ブラインドをあげたので陽の光が当たったのだろう。左馬刻が僅かに呻いた。この光景を見るのは少し嫌いだ。一郎にはまだわからない世界で二人が楽しく過ごしていたのも、格好いい左馬刻さんじゃないのも、昨日見たままの服が乱れているのも嫌だった。そんなことを言う度胸も権利もないのでいつも言葉をのみ込むしかない。
「一郎やん。ええとこに来てくれたわ……」
簓が頭だけ起こすと左馬刻のポケットからマネークリップに挟まれた札束を抜き取り、ぽいっと一郎へと投げてよこす。
「……キャベジン二本お願い。おつりで好きなもん買うてええからな」
がさがさの声で弱々しく言うとまたソファへと沈み込む。想定より分厚いそれに戸惑っていると、左馬刻はほんの一瞬一郎へと視線を投げてから日の当たらない方へと顔を向けて寝直す体勢に入る。否定が飛んで来ないということは実質肯定だ。一郎は、「わかりました」と返してドラッグストアまで走る。
というのはもうあまり珍しい光景ではない。そんな二日酔いでグロッキーな日よりも今日の簓の顔色は悪かった。
「大丈夫っすか」
「一郎、代わってくれ……」
簓に手招きされて部屋に入ると、ソファとセットのローテーブルの上は一面のお菓子で溢れていた。甘い香りの正体はコレかと一郎は鼻を鼻を鳴らす。酒意外のものがこのテーブルへこんなにところ狭しと並んでいるところは見たことがなかった。
「どうしたんすか、これ」
「どうもこうもないわ、左馬刻や。さ、ま、と、き」
「いや、左馬刻さんがなんで……?」
チョコレート、クッキー、一郎には名前がわからないがみたことのある焼き菓子たち。それと左馬刻がうまく結びつかない。
「おい簓、休憩は終わったか……って、一郎じゃねえか」
「……っす」
軽く頭を下げた一郎が次に見たのは、湯気をたてるトレーを持った左馬刻だった。髪を軽くまとめているのでピアスがよく見え、身につけている見たことのない淡い水色のエプロンがかわいい。すたすたと歩いてきた左馬刻は簓の前のお菓子たちを押しやってスペースを作ると、持ってきたトレーから皿に乗せられたチョコレートのケーキをどんと置いた。
「もう勘弁したってぇな。ほら、せっかく来てくれたし一郎にくわせたらええやん。歳も近いし味覚も近いやろ」
「ダメだ。俺様はテメェの舌を買ってるんだよ」
「もう無理やって」
「一口食え」
「ひい、一郎助けて……!」
左馬刻がチョコレートケーキにスプーンをいれると、中からとろりとチョコレートが溢れ出る。差し出されたスプーンを簓は拒否して、一郎の口へと突っ込んだ。とろりととろけたあつあつのチョコレートと外側のふわっとしたスポンジ、それから何かのジャムのような酸味が口いっぱいに広がる。
「どない?」
「……美味いっす」
簓は真剣に頷く。
「それから?」
「甘いな、と」
「ほんで?」
「えっ、と。すげぇ、う、うまい……?」
簓は手で目元を隠すとソファへ沈み込んだ。一方の左馬刻は肩を竦めている。
「あちゃあ」
「ほらな、」
なんとなく馬鹿にされたような気がして一郎がむっとしている間に、左馬刻が問答無用で簓の口へとチョコレートケーキ第二弾を突っ込む。もごもごと咀嚼した簓は、ややあってそれを飲み下す。
「……うまいけど、一郎も言うとったようにちょっと甘いんちゃう?俺はもうちょいビターチョコ増やしてもええと思う。あとフォンダンショコラってベリーもええけど、甘さは控えめにして、アプリコットとか入れる方が合歓ちゃんの好みちゃうかなぁ。ほら、この間ザッハトルテがおいしかったって言うとったし。あとは生地がもうちょいしっとりしとるほうが冷めてから食べるときにええかなと思った」
左馬刻は頷き立ち上がった。
「あと二つ作ってっから、冷めてからまた食えよ」
「堪忍やでほんま……」
お菓子の評論会が開かれていることはわかったが、理由が全くわからない。再度キッチンへ向かおうとする左馬刻をひきとめ、一郎は根本を二人に問うた。
「何してるんすかこれ」
「何ってバレンタインの予行演習や」
「合歓が食うんだ、半端なもんは作れねえだろ」
「バレンタイン……」
一郎は脱力する。つまり、妹においしいスイーツを食べさせたい左馬刻が練習台に簓を使っているのだ。机いっぱいのお菓子をみる限り、きっと朝からずっと。ちなみに今はまだ一月の後半である。
「簓さん……」
一郎は簓に同情しつつも、僅かにもやもやとした気持ちを抱える。食べることであれば一郎にもできるし、おそらく簓よりもたくさん食べられる。市販品ならともかく、普段は忙しくしている左馬刻の手の込んだ手作り品である。一郎としては簓が羨ましくてたまらなかった。それが顔にでていたのか、左馬刻が形のいい眉を寄せて一郎の頭を小突く。
「お前は何食っても『うまい』しか言わねぇだろ」
「そんなこと……」
一郎はぼんやりと今まで左馬刻に料理を作ってもらったりご飯を食べに連れて行ってもらった時のことを思い出す。焼き肉は肉が柔らかくてうまかった。中華は見たことない麺と蒸された餃子みたいなものがうまかった。即席の炒め物は何が入っているかよく分からないけれど白米がすすんでうまかった……。ぐうの音も出ない惨状に自分でも愕然とする。
目を丸くした一郎を見て簓がカラカラと笑った。
「左馬刻とおると、一郎嬉しそうやもんなあ。食べもんの味なんて関係ないわな」
「えっ、いやそんな」
ドキッとした一郎が動いた拍子に、強かにローテーブルへ足をぶつけた。がちゃんと机の上にあった皿やお菓子たちも跳ねる。
「痛って!」
「おい、大人しくしろ」
「……っす」
涙目の一郎が膝を擦っていると、左馬刻が一度キッチンへ引っ込み、新しい皿とフォーク、それからあたたかいお茶を一郎の前に置いた。
「簓が食った後なら全部食っていい」
「マジすか」
やった、と呟いた一郎の頭を左馬刻が雑にかき混ぜる。
「うわ」
「簓が手を付けてねぇのもいっぱいあるから、おまえの兄弟の分も後で包んでやるよ」
見上げると長いまつげに縁どられた深紅の双眸がやわらかくこちらを見ている。頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。しなやかな指先が地肌をくすぐるのがむずがゆいような心地よいような、よく分からない感覚だった。
「……そろそろアイスが固まるな」
する、と離れてゆく手が名残惜しい。それでも引き留める理由も見つけられず、一郎は左馬刻を見送るしかなかった。
ハートの形のチョコレートを皿にとり、一口かじる。予想より中身が柔らかく咥内の温度でとろけるそれは、ナッツのような香ばしいいい香りがした。
「うま……」
もくもくとお菓子を口へと運ぶ一郎の横で、簓はタバコに火をつけた。
「コーヒーが足らんわ」
一左馬♀
ふんわりと過去捏造
左馬刻を訪ねた一郎は目の前の光景を見て首を捻る。左馬刻と簓が活動拠点としている事務所は普段彼らの嗜むタバコの苦いニオイが漂っているのだが、今日は様子が違った。ドアを開けた瞬間からとにかく甘ったるい匂いが満ちていて、それだけで胸焼けしそうだ。おそるおそる部屋をのぞくと、ソファでぐったりとしている簓と目が合う。
「おはよーさん。一郎……」
「簓さん、どうしたんすか」
力なく手をあげる簓の顔色は悪い。この二人は時々ふざけてるのかと思うような飲み会を開催しいる時がある。もっとも一郎は多少興味はあれどまだ酒は飲んでおらず、二人が実際どのように夜を過ごしたのか詳しくは知らない。
先日も昼近くなって事務所を訪ねるとおびただしい数の酒瓶と缶、吸い殻が山となった灰皿に囲まれソファや床でぐったりとしているのを見つけた。(しんどくなるまで飲まなきゃいいのに)という言葉を飲み込み、足元に気をつけながら窓を開けてみる。さっと風が部屋にはいり、こもった空気が新鮮な空気へ置き換わる。ブラインドをあげたので陽の光が当たったのだろう。左馬刻が僅かに呻いた。この光景を見るのは少し嫌いだ。一郎にはまだわからない世界で二人が楽しく過ごしていたのも、格好いい左馬刻さんじゃないのも、昨日見たままの服が乱れているのも嫌だった。そんなことを言う度胸も権利もないのでいつも言葉をのみ込むしかない。
「一郎やん。ええとこに来てくれたわ……」
簓が頭だけ起こすと左馬刻のポケットからマネークリップに挟まれた札束を抜き取り、ぽいっと一郎へと投げてよこす。
「……キャベジン二本お願い。おつりで好きなもん買うてええからな」
がさがさの声で弱々しく言うとまたソファへと沈み込む。想定より分厚いそれに戸惑っていると、左馬刻はほんの一瞬一郎へと視線を投げてから日の当たらない方へと顔を向けて寝直す体勢に入る。否定が飛んで来ないということは実質肯定だ。一郎は、「わかりました」と返してドラッグストアまで走る。
というのはもうあまり珍しい光景ではない。そんな二日酔いでグロッキーな日よりも今日の簓の顔色は悪かった。
「大丈夫っすか」
「一郎、代わってくれ……」
簓に手招きされて部屋に入ると、ソファとセットのローテーブルの上は一面のお菓子で溢れていた。甘い香りの正体はコレかと一郎は鼻を鼻を鳴らす。酒意外のものがこのテーブルへこんなにところ狭しと並んでいるところは見たことがなかった。
「どうしたんすか、これ」
「どうもこうもないわ、左馬刻や。さ、ま、と、き」
「いや、左馬刻さんがなんで……?」
チョコレート、クッキー、一郎には名前がわからないがみたことのある焼き菓子たち。それと左馬刻がうまく結びつかない。
「おい簓、休憩は終わったか……って、一郎じゃねえか」
「……っす」
軽く頭を下げた一郎が次に見たのは、湯気をたてるトレーを持った左馬刻だった。髪を軽くまとめているのでピアスがよく見え、身につけている見たことのない淡い水色のエプロンがかわいい。すたすたと歩いてきた左馬刻は簓の前のお菓子たちを押しやってスペースを作ると、持ってきたトレーから皿に乗せられたチョコレートのケーキをどんと置いた。
「もう勘弁したってぇな。ほら、せっかく来てくれたし一郎にくわせたらええやん。歳も近いし味覚も近いやろ」
「ダメだ。俺様はテメェの舌を買ってるんだよ」
「もう無理やって」
「一口食え」
「ひい、一郎助けて……!」
左馬刻がチョコレートケーキにスプーンをいれると、中からとろりとチョコレートが溢れ出る。差し出されたスプーンを簓は拒否して、一郎の口へと突っ込んだ。とろりととろけたあつあつのチョコレートと外側のふわっとしたスポンジ、それから何かのジャムのような酸味が口いっぱいに広がる。
「どない?」
「……美味いっす」
簓は真剣に頷く。
「それから?」
「甘いな、と」
「ほんで?」
「えっ、と。すげぇ、う、うまい……?」
簓は手で目元を隠すとソファへ沈み込んだ。一方の左馬刻は肩を竦めている。
「あちゃあ」
「ほらな、」
なんとなく馬鹿にされたような気がして一郎がむっとしている間に、左馬刻が問答無用で簓の口へとチョコレートケーキ第二弾を突っ込む。もごもごと咀嚼した簓は、ややあってそれを飲み下す。
「……うまいけど、一郎も言うとったようにちょっと甘いんちゃう?俺はもうちょいビターチョコ増やしてもええと思う。あとフォンダンショコラってベリーもええけど、甘さは控えめにして、アプリコットとか入れる方が合歓ちゃんの好みちゃうかなぁ。ほら、この間ザッハトルテがおいしかったって言うとったし。あとは生地がもうちょいしっとりしとるほうが冷めてから食べるときにええかなと思った」
左馬刻は頷き立ち上がった。
「あと二つ作ってっから、冷めてからまた食えよ」
「堪忍やでほんま……」
お菓子の評論会が開かれていることはわかったが、理由が全くわからない。再度キッチンへ向かおうとする左馬刻をひきとめ、一郎は根本を二人に問うた。
「何してるんすかこれ」
「何ってバレンタインの予行演習や」
「合歓が食うんだ、半端なもんは作れねえだろ」
「バレンタイン……」
一郎は脱力する。つまり、妹においしいスイーツを食べさせたい左馬刻が練習台に簓を使っているのだ。机いっぱいのお菓子をみる限り、きっと朝からずっと。ちなみに今はまだ一月の後半である。
「簓さん……」
一郎は簓に同情しつつも、僅かにもやもやとした気持ちを抱える。食べることであれば一郎にもできるし、おそらく簓よりもたくさん食べられる。市販品ならともかく、普段は忙しくしている左馬刻の手の込んだ手作り品である。一郎としては簓が羨ましくてたまらなかった。それが顔にでていたのか、左馬刻が形のいい眉を寄せて一郎の頭を小突く。
「お前は何食っても『うまい』しか言わねぇだろ」
「そんなこと……」
一郎はぼんやりと今まで左馬刻に料理を作ってもらったりご飯を食べに連れて行ってもらった時のことを思い出す。焼き肉は肉が柔らかくてうまかった。中華は見たことない麺と蒸された餃子みたいなものがうまかった。即席の炒め物は何が入っているかよく分からないけれど白米がすすんでうまかった……。ぐうの音も出ない惨状に自分でも愕然とする。
目を丸くした一郎を見て簓がカラカラと笑った。
「左馬刻とおると、一郎嬉しそうやもんなあ。食べもんの味なんて関係ないわな」
「えっ、いやそんな」
ドキッとした一郎が動いた拍子に、強かにローテーブルへ足をぶつけた。がちゃんと机の上にあった皿やお菓子たちも跳ねる。
「痛って!」
「おい、大人しくしろ」
「……っす」
涙目の一郎が膝を擦っていると、左馬刻が一度キッチンへ引っ込み、新しい皿とフォーク、それからあたたかいお茶を一郎の前に置いた。
「簓が食った後なら全部食っていい」
「マジすか」
やった、と呟いた一郎の頭を左馬刻が雑にかき混ぜる。
「うわ」
「簓が手を付けてねぇのもいっぱいあるから、おまえの兄弟の分も後で包んでやるよ」
見上げると長いまつげに縁どられた深紅の双眸がやわらかくこちらを見ている。頭を撫でられるのなんていつぶりだろう。しなやかな指先が地肌をくすぐるのがむずがゆいような心地よいような、よく分からない感覚だった。
「……そろそろアイスが固まるな」
する、と離れてゆく手が名残惜しい。それでも引き留める理由も見つけられず、一郎は左馬刻を見送るしかなかった。
ハートの形のチョコレートを皿にとり、一口かじる。予想より中身が柔らかく咥内の温度でとろけるそれは、ナッツのような香ばしいいい香りがした。
「うま……」
もくもくとお菓子を口へと運ぶ一郎の横で、簓はタバコに火をつけた。
「コーヒーが足らんわ」
殻の中の夢
殻の中の夢
ろささ・零那由
零が静かな部屋で一人、とある資料を捲っていた時だった。蘆笙が修学旅行の引率から戻るのだと、簓が電話をかけてきた。
『明日は俺も久々のオフやねん、せやから今日の夜は蘆笙ん家集合な!』
小学生の子供のように弾んだ声がそう告げる。零が適当に肯定の言葉を返すと彼はますます嬉しそうに笑った。すぐに電話の向こうでマネージャーに呼ばれたらしい簓は『ほなね』と慌てて残し電話を切る。零は通話終了の画面を眺めながら、今日の手土産に頭を巡らせた。
十九時すぎ、蘆笙の家には既に簓と零がいた。このところ忙しかったと見え、簓の顔色がやや悪い。だがそれを覆す勢いで彼は得意の喋りを披露していた。零と二人、コンビニの餃子をつまみに早々に一本目のビールの缶があく。
「蘆笙のやつ遅いなぁ」
「しょうがねぇだろ。『先生』っつーのはいつの世も忙しいモンなんだからよ」
「そんなもんなんやろか。ご苦労やでほんま」
「売れっ子漫才師を心配させるたぁ贅沢だねぇ」
「何やねん、俺ら仲間やろ。心配ぐらいするわ」
「そんだけかぁ?」
「他に何があんねん。
次は何にする?俺はビールかなぁ」
「おいちゃんもそれで」
二本目を取るために簓は立ち上がる。横を通りながら、簓がちらりと零の顔色を伺った。それはほぼ無意識の簓の癖で、彼は鋭い観察眼と洞察力によって人の心を見透かすのが上手い。表には出さないが口よりもさらによく回る頭は称賛と警戒に値する。だがよくわきまえているのが彼のよいところだった。
勝手知ったるキッチンで目当てのものを手に入れて、簓はすぐにもどった。
「ほい」
「ありがとよ」
各々プルタブを引くと、カシュという小気味良い音が重なる。無言のまま缶をぶつけて二人とも二本目も景気よく流し込んだ。秋口にはいりやや肌寒くなったが、いつ飲んでもビールは美味い。くあぁ、と簓が声をあげたところで、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
「蘆笙おかえり!」
「ただいま……、って俺の部屋を毎度毎度自分の家のようにお前ら……」
どさりと重い荷物を廊下へ置く音がして、玄関から三歩の和室へやっと家主がもどってきた。
「邪魔してるぜ」
「邪魔すんねやったら帰ってくれ」
「まぁそう言わんと、蘆笙もはよ飲もうや」
「ちょお待て、手洗ってくるわ」
ぺたぺたと足音をたてて洗面台へ消えた蘆笙は、すぐに自分の分のビールを手に戻った。改めて三人で缶をぶつけて声を重ねる。
「乾杯!」
「お疲れ〜。大変やったんちゃうん修学旅行の引率」
「ほんまやで。大変やったわ。慣れん場所やし、危ないもんも人も気をつけなあかんし、生徒らも流石に浮かれるやつもおるし。
まあそれでもあんなに楽しそうにしてくれて、思い出になるんやったらええわ」
きつい目元を柔らかく緩めた蘆笙がビールをあおる。恒例の深夜の見張りのためか、目元に隈をつくっていたが、はぁと満足そうなそのため息に彼の充実度合いが見えた。
「よかったやん」
そう言って缶を掲げる簓に、蘆笙は笑って自分の缶をぶつけた。
「お前こそ大変やったんちゃうか。俺はオオサカテレビが映らん地区におったからあれやけど、今日も生放送があったんやろ。イベントMCもやるとか言うてなかったか」
「そやで。今日もこのヌルサラさんが爆笑かっさらったったわ。
結構おもろいイベンやってな、こう仮装した素人さんたちの出しもんを……」
鬱屈も屈折も忌憚もなく、互いの仕事の話に花を咲かせる若者二人を肴に零も酒を飲み干す。思ったよりもすぐに空いてしまったので、手土産の「とっておき」の日本酒の瓶を手に取った。
「ほらお前ら、酒の味がわかるうちに味わっとけよ」
簓が机の上に準備してあったグラスをそれぞれの前へ置く。
「おおきにな!
お、それカナザワディビジョンの有名なやつやん」
「よく知ってるじゃねぇか。鰭酒と合うんだよなコレが」
「今日は冷凍餃子やけどな」
「せや、俺もつまみにと思ってお土産買うてきてん」
色の白い蘆笙は、もう既に朱の差した顔でいつもよりも朗らかに笑う。横着して身体を伸ばして取ったのは、ジンギスカン味のポテトチップスだった。
「また絶妙なチョイスだな」
素直な零の感想を、簓が笑い飛ばす。
「わからんで、むっちゃ美味いかもしれんやん」
ばりっと派手な色の袋を開いた蘆笙からそれぞれが受け取って口に入れる。
「あ〜」
「うん」
「これはなんとも」
ぱりぱりと咀嚼すると確かにジンギスカンらしい濃い味がするのだが、ラムを表現しているらしき匂いがどうにも鼻につく。三人は顔を見合わせてから噴き出した。
「買った俺が言うのも何やけど、なんともいえん味やな……」
「まぁいいじゃねぇか、話のネタにくらいなるだろ」
「俺は悔しいわ。微妙すぎてリアクション取れんかった……!」
眉を顰めた蘆笙は、もう一枚!と手を伸ばす簓に無理をするなと釘をさす。
「口直しと行こうぜ」
それぞれのグラスへ日本酒をなみなみと注げば、二人はそろって問題の土産物から手を離した。零のとっておきの酒は、香りは華やかだがきりりと辛口でさっぱりと飲みやすい。
「くぅ、滲みるわぁ」
「というか、意外にも合うんちゃうかコレと」
「遠慮せず飲めよ」
ついつい箸も進み、机の上の餃子も蘆笙の土産物も、思いのほか早く片付きそうであった。
「うぅん、」
今日も真っ先にダウンしたのは蘆笙で、楽しげに語っていたのも束の間、気がつけばこっくりこっくりと船を漕いでおり、かと思うと後ろへばたりと倒れ込んだ。
「あかんわ、てんじょうまわっとる」
「回ってへん回ってへん」
斜めにズレた眼鏡を取ってやりながら、簓はその目の前に指を二本目をたててみせる。
「お客さん大変!こんなところに倒れてもうて!
コレは何本に見えます?よぉ見て!」
「バカにすなよ、二本にみえとるわ!」
「じゃあこれは!」
チームのハンドサインを蘆笙の鼻先に押し付ける。視界を覆う指から顔を背けようと唸る蘆笙は、鬱陶しそうに叫んだ。
「いやちかい。見えんわ!」
簓は深刻な表情を作ると零を振り返る。
「まあ大変!先生、どないしましょ」
「ん?あぁ、心拍数測っとけ」
「はい!」
適当に合わせた零の言葉に従って簓が蘆笙の服を捲った。
「先生大変や!腹筋割れすぎて板チョコみたいになってもうてます!」
きゃあと裏声の簓は酔いのためかもうコント師の顔を保てそうにない。
「あぁ、こんなに見事に割れちまってたらなぁ、残念だが……」
代わりに今度は零が深刻な顔で首を横に振る。
「そんな、先生なんとかならんのですか」
「いや、ちぎったパンがもとに戻ることはない」
「だれがちぎりパンや!
おまえらぁ、いいかげんにせえよ!だいたいおまえらも腹筋くらいわれとるやろが」
仕返しとばかりに簓のシャツを引いた蘆笙に簓はついに堪えきれずに笑いだした。
「あはは、くすぐったいわ!ごめんて、もう。ほら止めてぇな」
簓は引き倒され、大の大人たちが文字通り笑い転がる。いつもはきっちりと後ろへ撫でつけられている蘆笙の、髪は崩れ簓は血色ののった目元に涙を滲ませている。何がどうなったのか、いつの間にかくすぐり合いがはじまり、やれやれとその様子を見下ろす零は、かつてどこかで見たことがあるような光景に口角をあげた。
「れい、なにわろてんねん。おまえもはらだしてみ」
「おっと、俺を脱がすのはちぃとばかし高くつくぜぇ」
笑いすぎて震えている簓を抑えて起き上がると、蘆笙はびしっと零を指差した。
「……っく。
そんな、シャツあけて、きとって。はらがだせんことあるかいな!」
「おいおい大丈夫かぁ?」
勢いよく起き上がったせいか蘆笙は、目眩に襲われたらしい。ふらふらと上体をゆらしていて、危険を察知した簓が僅かに身体をずらしていた。
「ひゅう!やったれ蘆笙!」
「面白いもんなんてでてこねぇよったく」
すっかり据わった目でしばらく何事かつぶやいていた蘆笙は、先ほど横になったことでさらに酔いが回ったのか最後にはついにぱたりと横になり、寝息を立て始めた。隣りでその顔を暫く眺めた簓は、はぁ笑った笑ったと身体を起こし、出しっぱなしの腹筋にきちんと服をかけてやった。
「零は、まだいけるやろ?もうちょい飲もうや」
グラスに残っていたぶんを飲み干し、つまみを口にしようと箸を取ろうとしてその手をとめた。机の上はいつの間にか、酒しか残ってはいない。
「ありゃ、もうなんもないな」
めんどくさいけどコンビニでも行くかとぼやく簓に、零はグラスを置いて立ち上がる。
「……しょうがねぇ。ちょっと待ってな」
「冷蔵庫は卵しかあらへんかったで」
しっかりした足取りでキッチンへたった零が、かちゃかちゃと調理器具を取り出す音を聞いて、簓はおやと首を傾げる。彼が知る限り、零がキッチンにたった姿をみたことはなかった。興味をひかれ、日本酒で満たしたグラス二つを手に後を追った。
明らかに前に立つ男とは高さのあわない調理台にどんぶりがひとつ。零が片手で手際よく卵を割り入れている。流しの縁に零の分のグラスを置き、簓はそのチグハグな光景を眺めた。四つの卵に目分量で粉末出汁と水とが入った。零の目が食器のあたりを彷徨っているのを見て、簓は引き出しからあまり使われた形跡のない菜箸を取り出して渡す。眉をあげてありがとよと返すと零はそのままあっという間に卵を溶き、いつの間にか一口コンロにかけられていたフライパンへ油をひいた。それは今思いついたというよりはよく慣れた人の動きで、簓はへぇと感心する。
「なんや零、料理できるんやな」
「今どき料理の一つもできなきゃモテないぜ」
「モテたいんかいな。というよりお前、今まで料理なんてしたことなかったやん。俺等となんか食べる時も外食かデリバリーやったし」
「能ある鷹は何とやらってな。……簓、砂糖かみりんはねぇか」
「うーんどうやったかな。調味料はコンロの下なんやけど」
そういいながら簓が冷蔵庫を開けると、隅の方にきっきりと口を閉じられた砂糖の袋があった。
「ほい。……悪いんやけど、俺甘い卵焼きよう食わんで」
「隠し味だから心配すんな」
ひとつまみの砂糖にほんの少しの醤油。そして零は最後に簓が置いたグラスから少しだけ日本酒を卵液へと足した。十分あたたまったフライパンへそれを流し込むと、じゅわっという音ともに出汁と卵のいい香りがひろがった。
「おお、うまそう」
「なんだよまだ俺の腕を疑ってんのか?」
軽くかき混ぜた卵が固まる前に零が手首のスナップと菜箸で器用にそれを三つ折りにした。パチパチと手をたたく簓に零は肩をすくめてみせる。
「ホンマに意外やったわ。自分、この世で一番料理とか家庭的なもんから遠いやん」
簓はくるくると層を重ねる卵と、派手な服を生まれたときからこの格好でしたと言わんばかりに着こなす零とを交互に見る。
「俺ほど家庭的な男もいねぇよ」
「まぁたそれや。騙されへんで」
つれねぇなぁとこぼす零は作業を続けながら、ふと懐かしい声を聞いた気がした。
昔、こうして飲んでいるときにたびたびねだられたことがある。
「ねぇ、私あれが食べたいわ」
やわらかな頬を酒精に染め僅かに首を傾げたその人は、アルコールの力を借りたときだけ滅多に言わないわがままを少しだけ口にした。
「アレってなんだよ?」
このリクエストはその日によって内容が変わるものだった。顔にかかるさらりとした髪を小さな耳にかけてやりながら問う。
「今日はね、あなたが作った卵焼きがいいわ。だって私が作るより美味しいんだもの。お酒にもよく合うし……。付け合わせの大根おろしは私がやるから。
ね、おねがい」
そう言われると何でも叶えてやりたくなった。必要とされることが嬉しかったのか、出来立ての料理を頬張って「ふふ、おいしいわ」と表情をとろけさせる姿が好きだったのか。今は中華も和食もフレンチも、望むなら何だって作ってやれるのに。可愛いわがままを告げる声はなく、それを食べてくれる人だけがいない。
「皿は……っと、コレでええか?」
白い大皿を取り出した簓が聞いても反応がない。変わらず器用に卵を焼く零はぼうっとどこか遠くをみていた。いつもの不敵な笑みがよく似合う表情が一瞬だけ揺らいだ気がする。その瞬間、簓は零が誰かのために料理をする『家庭的な男』に見える錯覚を覚えた。
「零?」
呼ばれた零ははっとしたように視線を動かして簓を見る。そこにはまるで嘘のように、欠片も先ほどまでのおだやかな光は残っていなかった。
「皿をそのまま持ってろよ」
あっと思うまもなく、熱々のフライパンがひっくり返される。そっとフライパンがどかされると、簓の目の前に出汁をたっぷりと含んでぷるぷるの卵焼きが鎮座していた。
「おぉ」
調理台へ皿を置くと、零はさっとそれをカットして端の一切れをあちっといいながら口に放り込んだ。簓もそれを真似て反対の端をつまむ。
「あっふい、にゃ。……うまい」
あつあつの卵焼きは見た目の通りふわふわで、歯をたてるとじゅわりと出汁が広がった。上品な味付けだが、最後に足した日本酒の香りのせいか、手元の酒によく合う。零と簓は無言のままグラスをあけた。
蘆笙が転がるリビングに戻ると、零は座ることなくコートを羽織った。やや不自然な口角が気になり簓が声をかける。
「なんや、帰るんか?」
「煙草が無ぇのを思い出したんだよ。ちょっくらコンビニへ出てくる。……すぐ戻ってくるさ」
「わかった、気ぃつけてな」
ふらりと出ていった零は、卵焼きがすっかり冷めても戻らなかった。
「また騙されたわ」
簓は部屋の壁掛け時計の秒針の音を聞きながら、座布団を枕に蘆笙の横に転がった。それなりにアルコールに侵された脳は、半分夢のように断続的に今日の場面をハイライトする。仕事はうまくいったこともいかなかったこともあり、大変だった。蘆笙と四日ぶりに会えて嬉しかった。飲むのはやはりとても楽しい。店以外であったかい卵焼きを食べたのはごく幼い時以来だった。そういえば想像はつかないが、零にも大切な人がいたのだろう。どうしてその人が近くにいないのか簓には分からないし、たずねる気にもならない。とりとめのないそれらが簓の瞼をゆっくりと押し下げる。簓の大切な人は今隣にいるが、自分の気持ちと蘆笙の気持ちが重ならないであろうことはよくわかっていた。
「まあ、世の中ままならんこともあるわな」
ただ隣にいられることを感謝して彼は眠りについた。
次に簓が目を覚ましたのは狭い布団の中だった。ふと見ると、ごくごく至近距離に蘆笙の整った顔がある。朝から見るには刺激の強いそれに、目が潰れそうになり思わず目を閉じ、そしてすぐに開けた。
「ん、まて。なんで俺等がおんなじ布団に居んねん」
簓の記憶は昨日目を閉じたところまでだ。そのあと布団に入った覚えはない。妙な想像をして汗が噴き出してしまい、心臓が跳ねた。いやいやまさかとそっと布団をめくる。着衣は乱れていたが、昨日転げ回ったせいだろう。そうであれ、そうに違いない。簓は兎にも角にも何もなければいいと思いたかった。
そっと布団を抜け出すと、部屋はすっかり綺麗になっていた。メモが一つ、見覚えのある字で『残りモンは冷蔵庫。運んでやった礼は今度でいいぜ』とだけ書かれている。
「なんや、零かいな……」
どっと疲れてメモを握る。はっきりとそう示されたことはなかったが、零には簓の気持ちが読まれているのかもしれないという薄っすらとした予感があった。紙切れはゴミ箱へと放り込む。蘆笙は当分起きないだろう。簓は水を飲むとリビングの座布団を枕に再び横になった。次に目を覚ましたら、いつも通り一緒に昼食を食べに行くのだ。少しひんやりする畳が心地よく、簓は再び瞼を閉じた。
ろささ・零那由
零が静かな部屋で一人、とある資料を捲っていた時だった。蘆笙が修学旅行の引率から戻るのだと、簓が電話をかけてきた。
『明日は俺も久々のオフやねん、せやから今日の夜は蘆笙ん家集合な!』
小学生の子供のように弾んだ声がそう告げる。零が適当に肯定の言葉を返すと彼はますます嬉しそうに笑った。すぐに電話の向こうでマネージャーに呼ばれたらしい簓は『ほなね』と慌てて残し電話を切る。零は通話終了の画面を眺めながら、今日の手土産に頭を巡らせた。
十九時すぎ、蘆笙の家には既に簓と零がいた。このところ忙しかったと見え、簓の顔色がやや悪い。だがそれを覆す勢いで彼は得意の喋りを披露していた。零と二人、コンビニの餃子をつまみに早々に一本目のビールの缶があく。
「蘆笙のやつ遅いなぁ」
「しょうがねぇだろ。『先生』っつーのはいつの世も忙しいモンなんだからよ」
「そんなもんなんやろか。ご苦労やでほんま」
「売れっ子漫才師を心配させるたぁ贅沢だねぇ」
「何やねん、俺ら仲間やろ。心配ぐらいするわ」
「そんだけかぁ?」
「他に何があんねん。
次は何にする?俺はビールかなぁ」
「おいちゃんもそれで」
二本目を取るために簓は立ち上がる。横を通りながら、簓がちらりと零の顔色を伺った。それはほぼ無意識の簓の癖で、彼は鋭い観察眼と洞察力によって人の心を見透かすのが上手い。表には出さないが口よりもさらによく回る頭は称賛と警戒に値する。だがよくわきまえているのが彼のよいところだった。
勝手知ったるキッチンで目当てのものを手に入れて、簓はすぐにもどった。
「ほい」
「ありがとよ」
各々プルタブを引くと、カシュという小気味良い音が重なる。無言のまま缶をぶつけて二人とも二本目も景気よく流し込んだ。秋口にはいりやや肌寒くなったが、いつ飲んでもビールは美味い。くあぁ、と簓が声をあげたところで、ガチャリと玄関のドアが開く音がした。
「蘆笙おかえり!」
「ただいま……、って俺の部屋を毎度毎度自分の家のようにお前ら……」
どさりと重い荷物を廊下へ置く音がして、玄関から三歩の和室へやっと家主がもどってきた。
「邪魔してるぜ」
「邪魔すんねやったら帰ってくれ」
「まぁそう言わんと、蘆笙もはよ飲もうや」
「ちょお待て、手洗ってくるわ」
ぺたぺたと足音をたてて洗面台へ消えた蘆笙は、すぐに自分の分のビールを手に戻った。改めて三人で缶をぶつけて声を重ねる。
「乾杯!」
「お疲れ〜。大変やったんちゃうん修学旅行の引率」
「ほんまやで。大変やったわ。慣れん場所やし、危ないもんも人も気をつけなあかんし、生徒らも流石に浮かれるやつもおるし。
まあそれでもあんなに楽しそうにしてくれて、思い出になるんやったらええわ」
きつい目元を柔らかく緩めた蘆笙がビールをあおる。恒例の深夜の見張りのためか、目元に隈をつくっていたが、はぁと満足そうなそのため息に彼の充実度合いが見えた。
「よかったやん」
そう言って缶を掲げる簓に、蘆笙は笑って自分の缶をぶつけた。
「お前こそ大変やったんちゃうか。俺はオオサカテレビが映らん地区におったからあれやけど、今日も生放送があったんやろ。イベントMCもやるとか言うてなかったか」
「そやで。今日もこのヌルサラさんが爆笑かっさらったったわ。
結構おもろいイベンやってな、こう仮装した素人さんたちの出しもんを……」
鬱屈も屈折も忌憚もなく、互いの仕事の話に花を咲かせる若者二人を肴に零も酒を飲み干す。思ったよりもすぐに空いてしまったので、手土産の「とっておき」の日本酒の瓶を手に取った。
「ほらお前ら、酒の味がわかるうちに味わっとけよ」
簓が机の上に準備してあったグラスをそれぞれの前へ置く。
「おおきにな!
お、それカナザワディビジョンの有名なやつやん」
「よく知ってるじゃねぇか。鰭酒と合うんだよなコレが」
「今日は冷凍餃子やけどな」
「せや、俺もつまみにと思ってお土産買うてきてん」
色の白い蘆笙は、もう既に朱の差した顔でいつもよりも朗らかに笑う。横着して身体を伸ばして取ったのは、ジンギスカン味のポテトチップスだった。
「また絶妙なチョイスだな」
素直な零の感想を、簓が笑い飛ばす。
「わからんで、むっちゃ美味いかもしれんやん」
ばりっと派手な色の袋を開いた蘆笙からそれぞれが受け取って口に入れる。
「あ〜」
「うん」
「これはなんとも」
ぱりぱりと咀嚼すると確かにジンギスカンらしい濃い味がするのだが、ラムを表現しているらしき匂いがどうにも鼻につく。三人は顔を見合わせてから噴き出した。
「買った俺が言うのも何やけど、なんともいえん味やな……」
「まぁいいじゃねぇか、話のネタにくらいなるだろ」
「俺は悔しいわ。微妙すぎてリアクション取れんかった……!」
眉を顰めた蘆笙は、もう一枚!と手を伸ばす簓に無理をするなと釘をさす。
「口直しと行こうぜ」
それぞれのグラスへ日本酒をなみなみと注げば、二人はそろって問題の土産物から手を離した。零のとっておきの酒は、香りは華やかだがきりりと辛口でさっぱりと飲みやすい。
「くぅ、滲みるわぁ」
「というか、意外にも合うんちゃうかコレと」
「遠慮せず飲めよ」
ついつい箸も進み、机の上の餃子も蘆笙の土産物も、思いのほか早く片付きそうであった。
「うぅん、」
今日も真っ先にダウンしたのは蘆笙で、楽しげに語っていたのも束の間、気がつけばこっくりこっくりと船を漕いでおり、かと思うと後ろへばたりと倒れ込んだ。
「あかんわ、てんじょうまわっとる」
「回ってへん回ってへん」
斜めにズレた眼鏡を取ってやりながら、簓はその目の前に指を二本目をたててみせる。
「お客さん大変!こんなところに倒れてもうて!
コレは何本に見えます?よぉ見て!」
「バカにすなよ、二本にみえとるわ!」
「じゃあこれは!」
チームのハンドサインを蘆笙の鼻先に押し付ける。視界を覆う指から顔を背けようと唸る蘆笙は、鬱陶しそうに叫んだ。
「いやちかい。見えんわ!」
簓は深刻な表情を作ると零を振り返る。
「まあ大変!先生、どないしましょ」
「ん?あぁ、心拍数測っとけ」
「はい!」
適当に合わせた零の言葉に従って簓が蘆笙の服を捲った。
「先生大変や!腹筋割れすぎて板チョコみたいになってもうてます!」
きゃあと裏声の簓は酔いのためかもうコント師の顔を保てそうにない。
「あぁ、こんなに見事に割れちまってたらなぁ、残念だが……」
代わりに今度は零が深刻な顔で首を横に振る。
「そんな、先生なんとかならんのですか」
「いや、ちぎったパンがもとに戻ることはない」
「だれがちぎりパンや!
おまえらぁ、いいかげんにせえよ!だいたいおまえらも腹筋くらいわれとるやろが」
仕返しとばかりに簓のシャツを引いた蘆笙に簓はついに堪えきれずに笑いだした。
「あはは、くすぐったいわ!ごめんて、もう。ほら止めてぇな」
簓は引き倒され、大の大人たちが文字通り笑い転がる。いつもはきっちりと後ろへ撫でつけられている蘆笙の、髪は崩れ簓は血色ののった目元に涙を滲ませている。何がどうなったのか、いつの間にかくすぐり合いがはじまり、やれやれとその様子を見下ろす零は、かつてどこかで見たことがあるような光景に口角をあげた。
「れい、なにわろてんねん。おまえもはらだしてみ」
「おっと、俺を脱がすのはちぃとばかし高くつくぜぇ」
笑いすぎて震えている簓を抑えて起き上がると、蘆笙はびしっと零を指差した。
「……っく。
そんな、シャツあけて、きとって。はらがだせんことあるかいな!」
「おいおい大丈夫かぁ?」
勢いよく起き上がったせいか蘆笙は、目眩に襲われたらしい。ふらふらと上体をゆらしていて、危険を察知した簓が僅かに身体をずらしていた。
「ひゅう!やったれ蘆笙!」
「面白いもんなんてでてこねぇよったく」
すっかり据わった目でしばらく何事かつぶやいていた蘆笙は、先ほど横になったことでさらに酔いが回ったのか最後にはついにぱたりと横になり、寝息を立て始めた。隣りでその顔を暫く眺めた簓は、はぁ笑った笑ったと身体を起こし、出しっぱなしの腹筋にきちんと服をかけてやった。
「零は、まだいけるやろ?もうちょい飲もうや」
グラスに残っていたぶんを飲み干し、つまみを口にしようと箸を取ろうとしてその手をとめた。机の上はいつの間にか、酒しか残ってはいない。
「ありゃ、もうなんもないな」
めんどくさいけどコンビニでも行くかとぼやく簓に、零はグラスを置いて立ち上がる。
「……しょうがねぇ。ちょっと待ってな」
「冷蔵庫は卵しかあらへんかったで」
しっかりした足取りでキッチンへたった零が、かちゃかちゃと調理器具を取り出す音を聞いて、簓はおやと首を傾げる。彼が知る限り、零がキッチンにたった姿をみたことはなかった。興味をひかれ、日本酒で満たしたグラス二つを手に後を追った。
明らかに前に立つ男とは高さのあわない調理台にどんぶりがひとつ。零が片手で手際よく卵を割り入れている。流しの縁に零の分のグラスを置き、簓はそのチグハグな光景を眺めた。四つの卵に目分量で粉末出汁と水とが入った。零の目が食器のあたりを彷徨っているのを見て、簓は引き出しからあまり使われた形跡のない菜箸を取り出して渡す。眉をあげてありがとよと返すと零はそのままあっという間に卵を溶き、いつの間にか一口コンロにかけられていたフライパンへ油をひいた。それは今思いついたというよりはよく慣れた人の動きで、簓はへぇと感心する。
「なんや零、料理できるんやな」
「今どき料理の一つもできなきゃモテないぜ」
「モテたいんかいな。というよりお前、今まで料理なんてしたことなかったやん。俺等となんか食べる時も外食かデリバリーやったし」
「能ある鷹は何とやらってな。……簓、砂糖かみりんはねぇか」
「うーんどうやったかな。調味料はコンロの下なんやけど」
そういいながら簓が冷蔵庫を開けると、隅の方にきっきりと口を閉じられた砂糖の袋があった。
「ほい。……悪いんやけど、俺甘い卵焼きよう食わんで」
「隠し味だから心配すんな」
ひとつまみの砂糖にほんの少しの醤油。そして零は最後に簓が置いたグラスから少しだけ日本酒を卵液へと足した。十分あたたまったフライパンへそれを流し込むと、じゅわっという音ともに出汁と卵のいい香りがひろがった。
「おお、うまそう」
「なんだよまだ俺の腕を疑ってんのか?」
軽くかき混ぜた卵が固まる前に零が手首のスナップと菜箸で器用にそれを三つ折りにした。パチパチと手をたたく簓に零は肩をすくめてみせる。
「ホンマに意外やったわ。自分、この世で一番料理とか家庭的なもんから遠いやん」
簓はくるくると層を重ねる卵と、派手な服を生まれたときからこの格好でしたと言わんばかりに着こなす零とを交互に見る。
「俺ほど家庭的な男もいねぇよ」
「まぁたそれや。騙されへんで」
つれねぇなぁとこぼす零は作業を続けながら、ふと懐かしい声を聞いた気がした。
昔、こうして飲んでいるときにたびたびねだられたことがある。
「ねぇ、私あれが食べたいわ」
やわらかな頬を酒精に染め僅かに首を傾げたその人は、アルコールの力を借りたときだけ滅多に言わないわがままを少しだけ口にした。
「アレってなんだよ?」
このリクエストはその日によって内容が変わるものだった。顔にかかるさらりとした髪を小さな耳にかけてやりながら問う。
「今日はね、あなたが作った卵焼きがいいわ。だって私が作るより美味しいんだもの。お酒にもよく合うし……。付け合わせの大根おろしは私がやるから。
ね、おねがい」
そう言われると何でも叶えてやりたくなった。必要とされることが嬉しかったのか、出来立ての料理を頬張って「ふふ、おいしいわ」と表情をとろけさせる姿が好きだったのか。今は中華も和食もフレンチも、望むなら何だって作ってやれるのに。可愛いわがままを告げる声はなく、それを食べてくれる人だけがいない。
「皿は……っと、コレでええか?」
白い大皿を取り出した簓が聞いても反応がない。変わらず器用に卵を焼く零はぼうっとどこか遠くをみていた。いつもの不敵な笑みがよく似合う表情が一瞬だけ揺らいだ気がする。その瞬間、簓は零が誰かのために料理をする『家庭的な男』に見える錯覚を覚えた。
「零?」
呼ばれた零ははっとしたように視線を動かして簓を見る。そこにはまるで嘘のように、欠片も先ほどまでのおだやかな光は残っていなかった。
「皿をそのまま持ってろよ」
あっと思うまもなく、熱々のフライパンがひっくり返される。そっとフライパンがどかされると、簓の目の前に出汁をたっぷりと含んでぷるぷるの卵焼きが鎮座していた。
「おぉ」
調理台へ皿を置くと、零はさっとそれをカットして端の一切れをあちっといいながら口に放り込んだ。簓もそれを真似て反対の端をつまむ。
「あっふい、にゃ。……うまい」
あつあつの卵焼きは見た目の通りふわふわで、歯をたてるとじゅわりと出汁が広がった。上品な味付けだが、最後に足した日本酒の香りのせいか、手元の酒によく合う。零と簓は無言のままグラスをあけた。
蘆笙が転がるリビングに戻ると、零は座ることなくコートを羽織った。やや不自然な口角が気になり簓が声をかける。
「なんや、帰るんか?」
「煙草が無ぇのを思い出したんだよ。ちょっくらコンビニへ出てくる。……すぐ戻ってくるさ」
「わかった、気ぃつけてな」
ふらりと出ていった零は、卵焼きがすっかり冷めても戻らなかった。
「また騙されたわ」
簓は部屋の壁掛け時計の秒針の音を聞きながら、座布団を枕に蘆笙の横に転がった。それなりにアルコールに侵された脳は、半分夢のように断続的に今日の場面をハイライトする。仕事はうまくいったこともいかなかったこともあり、大変だった。蘆笙と四日ぶりに会えて嬉しかった。飲むのはやはりとても楽しい。店以外であったかい卵焼きを食べたのはごく幼い時以来だった。そういえば想像はつかないが、零にも大切な人がいたのだろう。どうしてその人が近くにいないのか簓には分からないし、たずねる気にもならない。とりとめのないそれらが簓の瞼をゆっくりと押し下げる。簓の大切な人は今隣にいるが、自分の気持ちと蘆笙の気持ちが重ならないであろうことはよくわかっていた。
「まあ、世の中ままならんこともあるわな」
ただ隣にいられることを感謝して彼は眠りについた。
次に簓が目を覚ましたのは狭い布団の中だった。ふと見ると、ごくごく至近距離に蘆笙の整った顔がある。朝から見るには刺激の強いそれに、目が潰れそうになり思わず目を閉じ、そしてすぐに開けた。
「ん、まて。なんで俺等がおんなじ布団に居んねん」
簓の記憶は昨日目を閉じたところまでだ。そのあと布団に入った覚えはない。妙な想像をして汗が噴き出してしまい、心臓が跳ねた。いやいやまさかとそっと布団をめくる。着衣は乱れていたが、昨日転げ回ったせいだろう。そうであれ、そうに違いない。簓は兎にも角にも何もなければいいと思いたかった。
そっと布団を抜け出すと、部屋はすっかり綺麗になっていた。メモが一つ、見覚えのある字で『残りモンは冷蔵庫。運んでやった礼は今度でいいぜ』とだけ書かれている。
「なんや、零かいな……」
どっと疲れてメモを握る。はっきりとそう示されたことはなかったが、零には簓の気持ちが読まれているのかもしれないという薄っすらとした予感があった。紙切れはゴミ箱へと放り込む。蘆笙は当分起きないだろう。簓は水を飲むとリビングの座布団を枕に再び横になった。次に目を覚ましたら、いつも通り一緒に昼食を食べに行くのだ。少しひんやりする畳が心地よく、簓は再び瞼を閉じた。
リボンをかけて
リボンをかけて
零那由
那由多の着る服は普段着もフォーマルな服も、シンプルで形のきれいなデザインが多い。例えば今日彼女が身を包もうとしている淡いグリーンのワンピースも、装飾はほとんどないが胸の下で切り替えが入るエンパイアラインが彼女の姿勢の良さを際立たせる。だが今は中途半端に背中のファスナーが開いたままなので、生地の重みに引かれてやや裾が前のめりになっていた。彼女は寝室の姿見の前で共布のグリーンのリボンベルトを締めるべきか、シルバーの金具のついたベルトにするべきか、はたまたなにもつけないままにすべきかに大いに頭を悩ませていた。
「決まったか?」
声をかけたのは零で、彼は室内に置かれた一人用のソファでくつろぎながらコーヒーを嗜んでいる。膝に一冊本が置かれているが、かれこれ一頁だって読み進めてはいない。よくあることだった。
「難しいわ。式じゃなくて、披露宴代わりのレストランでのパーティーでしょう?
あまり堅苦しくてもいけないし、あまり派手でも良くないし……」
二人の共通の知人が入籍するにあたり、式は挙げずに簡単なパーティーを催すのだ。研究者仲間ばかりで堅苦しくはないが、招待状に書かれた店名はそれなりの店である。那由多は二本のベルトを両手に一つずつ持って零を振り返る。
「あなたはどう思う?」
これは非常に難しい問いだ。正直なところ、学会での質疑応答よりも回答の難易度は高い。零はそうだな、と顎に手をやりながら素早くこの危機を乗り越える術を画策した。
「そのリボンがいい」
ここからが勝負である。
「子供っぽくないかしら」
「そんなことはねぇだろ。同じ色のほうが落ち着いて見える」
零の記憶に新しい真っ白なドレス姿とは違うが、小柄でも那由多は決して子供っぽくはない。状況の想定と、那由多の顔色とをうかがいながら言葉を紡いでいく。ここで「でも」という言葉が出なければ決め打ちだ。もし、何か言葉がでてきた場合は、既に彼女の中には答えがあるのでそちらを肯定すればいい。零は立ち上がると那由多の後ろへまわり、姿見にうつる姿に向かって自信たっぷりに頷いてみせた。
「こっちなら、もし現場で嫌になっても外しちまうってのもアリだしな。
心配しなくても、何を着てても似合う」
一応自分の意見を最後まで述べて様子を見れば、那由多は少し考えてからシルバーのベルトを鏡台へと置いた。
「……あなたの言う通りね。こちらにするわ」
本人もほっとした様子の那由多からリボンを取り上げ、零はそのまま服の背中のファスナーに手をかける。
「自分でできるわよ」
「いいから」
シルクのスリップの上を背中のカーブに沿ってファスナーが上がっていく。薄い生地がファスナーの歯に噛まないように、軽く腰元の布を押さえて生地を張る。くすぐったいわ、と身じろぐ那由多をなだめつつ美しい布が彼女を一分の隙もなく包むのを眺める。このファスナーを次に降ろすのは誰だろうか。ふと、零は嫌な想像をして手が止まった。
「噛んじゃったの?」
のんきに首を傾げた那由多と鏡越しに目があう。瑞々しい肌と澄んだ瞳は清廉で、小鳥のように囀る唇は柔らかなコーラルピンクで彩られている。昔なじみの中にはこのひとに憧れていたものがいやしないだろうか。
「いや」
「……もしかして、上がらない?」
はっと口元を手で押さえた那由多に向けて首を振る。
「いや」
腰に添えていた左手を、彼女の胸、みぞおちあたりへ移動させた。ふに、と柔らかい脂肪が零の指を押し返す。
「息を止めたほうがいいかしら……?」
おそるおそる聞く那由多には何も返さない。真っ白な背中、肩甲骨の間。背骨に沿った窪みがアイボリーのレースの向こうへと消えていた。この滑らかな肌に汗がつたう様を知っているのは今までも、これからもどうか己だけであれと身勝手に願う。
零は低く屈むと、衝動的にその背中へと口づけた。ぢゅ、と音をたてて触れる生暖かさと甘い痛みを那由多は知っている。逃れようとしても胸元の腕がそれを許さなかった。零が身を起こす頃には真っ白だった背に小さな赤い跡がひとつくっきりと浮かんでいた。普段那由多を傷つけることも傷が残るかもしれないこともしない零がこうするのは本当に珍しいことで、那由多も、なにより零自身もその行動に驚いていた。
「なにしてるの」
「……悪い」
すり、と指先で跡をなぞる。消えないそれを見て、どこか安心した自分がいる事に零は頭を抱えたいような気持ちだった。
「理由を教えて」
そんなものはない。が、那由多があまりにも真剣なので零は己の衝動の意味を紐解いて言葉にする。
「那由多は男が女を押し倒したときに何が見えたら一番嫌だと思う」
質問の意図が理解できず、那由多は下がり気味の眉をひそめた。
「わからないわ」
「……他の男との情事の跡だよ。それが一番がっかりする。
特に那由多みたいなタイプの女を狙うような男には覿面だ」
「あなたね、私があなた以外に押し倒されるような事があると思うの。
私は好きな人としかそんなことしないわ」
「違う、そうじゃない。那由多のことは一ミリだって疑っちゃいない。男と女とじゃあどうしたって力の差があるだろ。
もちろん、俺も極力一緒にいるしそんなこと起こさせやねぇさ。でも、万が一……」
零は首を振った。つまるところ、那由多を誰にも渡したくないのだ。誰かが触れられるのも、じろじろと見られるのも、邪な妄想の材料にされるのもごめんだった。零は今までの人生においてはじめて抱えた、己の行動を制御できないほどの感情をひとり持て余していた。零のことを鏡越しに見ていた那由多は、小さく息を吐いた。
「……心配してくれているのね」
那由多の小さな手が、零の手に重なる。
「次はちゃんと、はじめからそう教えてね。あなたが嫌なことも、弱気になるようなことも全部よ」
「……努力する」
「あと、服を着せてくれるときに変なことしちゃダメ。わかった?」
「あぁ」
「ちゃんと返事をして」
「わかったわかった。約束する」
零は守れない約束はしない。那由多はその言葉を聞いてうん、と頷いた。
「じゃあ仲直りね」
最後十五センチのファスナーをあげ、華奢な身体を抱きしめるようにして腕をまわし、器用にリボンベルトを結ぶ。
「できたぞ」
零はからりと笑う。
「ありがとう、とっても助かったわ」
振り返って微笑む那由多は零の記憶にあるどんな女性よりも美しい。流れるように口づけようと屈んだところを、那由多が手のひらで防いだ。
「今はリップを直す時間がないわ。早く行きましょう」
仕方なくその小さな爪に唇を寄せ、零は車の鍵を手に取った。
零那由
那由多の着る服は普段着もフォーマルな服も、シンプルで形のきれいなデザインが多い。例えば今日彼女が身を包もうとしている淡いグリーンのワンピースも、装飾はほとんどないが胸の下で切り替えが入るエンパイアラインが彼女の姿勢の良さを際立たせる。だが今は中途半端に背中のファスナーが開いたままなので、生地の重みに引かれてやや裾が前のめりになっていた。彼女は寝室の姿見の前で共布のグリーンのリボンベルトを締めるべきか、シルバーの金具のついたベルトにするべきか、はたまたなにもつけないままにすべきかに大いに頭を悩ませていた。
「決まったか?」
声をかけたのは零で、彼は室内に置かれた一人用のソファでくつろぎながらコーヒーを嗜んでいる。膝に一冊本が置かれているが、かれこれ一頁だって読み進めてはいない。よくあることだった。
「難しいわ。式じゃなくて、披露宴代わりのレストランでのパーティーでしょう?
あまり堅苦しくてもいけないし、あまり派手でも良くないし……」
二人の共通の知人が入籍するにあたり、式は挙げずに簡単なパーティーを催すのだ。研究者仲間ばかりで堅苦しくはないが、招待状に書かれた店名はそれなりの店である。那由多は二本のベルトを両手に一つずつ持って零を振り返る。
「あなたはどう思う?」
これは非常に難しい問いだ。正直なところ、学会での質疑応答よりも回答の難易度は高い。零はそうだな、と顎に手をやりながら素早くこの危機を乗り越える術を画策した。
「そのリボンがいい」
ここからが勝負である。
「子供っぽくないかしら」
「そんなことはねぇだろ。同じ色のほうが落ち着いて見える」
零の記憶に新しい真っ白なドレス姿とは違うが、小柄でも那由多は決して子供っぽくはない。状況の想定と、那由多の顔色とをうかがいながら言葉を紡いでいく。ここで「でも」という言葉が出なければ決め打ちだ。もし、何か言葉がでてきた場合は、既に彼女の中には答えがあるのでそちらを肯定すればいい。零は立ち上がると那由多の後ろへまわり、姿見にうつる姿に向かって自信たっぷりに頷いてみせた。
「こっちなら、もし現場で嫌になっても外しちまうってのもアリだしな。
心配しなくても、何を着てても似合う」
一応自分の意見を最後まで述べて様子を見れば、那由多は少し考えてからシルバーのベルトを鏡台へと置いた。
「……あなたの言う通りね。こちらにするわ」
本人もほっとした様子の那由多からリボンを取り上げ、零はそのまま服の背中のファスナーに手をかける。
「自分でできるわよ」
「いいから」
シルクのスリップの上を背中のカーブに沿ってファスナーが上がっていく。薄い生地がファスナーの歯に噛まないように、軽く腰元の布を押さえて生地を張る。くすぐったいわ、と身じろぐ那由多をなだめつつ美しい布が彼女を一分の隙もなく包むのを眺める。このファスナーを次に降ろすのは誰だろうか。ふと、零は嫌な想像をして手が止まった。
「噛んじゃったの?」
のんきに首を傾げた那由多と鏡越しに目があう。瑞々しい肌と澄んだ瞳は清廉で、小鳥のように囀る唇は柔らかなコーラルピンクで彩られている。昔なじみの中にはこのひとに憧れていたものがいやしないだろうか。
「いや」
「……もしかして、上がらない?」
はっと口元を手で押さえた那由多に向けて首を振る。
「いや」
腰に添えていた左手を、彼女の胸、みぞおちあたりへ移動させた。ふに、と柔らかい脂肪が零の指を押し返す。
「息を止めたほうがいいかしら……?」
おそるおそる聞く那由多には何も返さない。真っ白な背中、肩甲骨の間。背骨に沿った窪みがアイボリーのレースの向こうへと消えていた。この滑らかな肌に汗がつたう様を知っているのは今までも、これからもどうか己だけであれと身勝手に願う。
零は低く屈むと、衝動的にその背中へと口づけた。ぢゅ、と音をたてて触れる生暖かさと甘い痛みを那由多は知っている。逃れようとしても胸元の腕がそれを許さなかった。零が身を起こす頃には真っ白だった背に小さな赤い跡がひとつくっきりと浮かんでいた。普段那由多を傷つけることも傷が残るかもしれないこともしない零がこうするのは本当に珍しいことで、那由多も、なにより零自身もその行動に驚いていた。
「なにしてるの」
「……悪い」
すり、と指先で跡をなぞる。消えないそれを見て、どこか安心した自分がいる事に零は頭を抱えたいような気持ちだった。
「理由を教えて」
そんなものはない。が、那由多があまりにも真剣なので零は己の衝動の意味を紐解いて言葉にする。
「那由多は男が女を押し倒したときに何が見えたら一番嫌だと思う」
質問の意図が理解できず、那由多は下がり気味の眉をひそめた。
「わからないわ」
「……他の男との情事の跡だよ。それが一番がっかりする。
特に那由多みたいなタイプの女を狙うような男には覿面だ」
「あなたね、私があなた以外に押し倒されるような事があると思うの。
私は好きな人としかそんなことしないわ」
「違う、そうじゃない。那由多のことは一ミリだって疑っちゃいない。男と女とじゃあどうしたって力の差があるだろ。
もちろん、俺も極力一緒にいるしそんなこと起こさせやねぇさ。でも、万が一……」
零は首を振った。つまるところ、那由多を誰にも渡したくないのだ。誰かが触れられるのも、じろじろと見られるのも、邪な妄想の材料にされるのもごめんだった。零は今までの人生においてはじめて抱えた、己の行動を制御できないほどの感情をひとり持て余していた。零のことを鏡越しに見ていた那由多は、小さく息を吐いた。
「……心配してくれているのね」
那由多の小さな手が、零の手に重なる。
「次はちゃんと、はじめからそう教えてね。あなたが嫌なことも、弱気になるようなことも全部よ」
「……努力する」
「あと、服を着せてくれるときに変なことしちゃダメ。わかった?」
「あぁ」
「ちゃんと返事をして」
「わかったわかった。約束する」
零は守れない約束はしない。那由多はその言葉を聞いてうん、と頷いた。
「じゃあ仲直りね」
最後十五センチのファスナーをあげ、華奢な身体を抱きしめるようにして腕をまわし、器用にリボンベルトを結ぶ。
「できたぞ」
零はからりと笑う。
「ありがとう、とっても助かったわ」
振り返って微笑む那由多は零の記憶にあるどんな女性よりも美しい。流れるように口づけようと屈んだところを、那由多が手のひらで防いだ。
「今はリップを直す時間がないわ。早く行きましょう」
仕方なくその小さな爪に唇を寄せ、零は車の鍵を手に取った。
直径十三ミリの罠
直径十三ミリの罠
零那由
夕食後、零は片付けも終えて風呂がたまるまでの間、ソファにゆったりと腰をおろしついていたテレビ番組を眺めていた。ゴールデンタイムのためかバラエティ企画が進行しており、賑やかな男女の声が聞こえる。那由多はというと、寝室から持ってきたアクセサリーボックスを手に、ぺたぺたとスリッパの音をさせて零の隣へとやってきた。那由多がソファへと腰を下ろす瞬間に、零がその細い腰に手をそえて引く。導かれるまま那由多は零の隣ではなく、長い足の間にすぽりと収まった。彼女は特に動じるでもなくアクセサリーボックスを机に置いて、中から淡いグレーのアクセサリーを磨くためのクロスを取り出した。それを揃えた膝におくと、ネックレスを外すために首の後ろへ手をやる。長い髪が邪魔してか、やや手間取る姿をみて零が微かに笑みを含めて声をかける。
「助けがいるんじゃねぇか」
「……じゃあお願い」
「ほら、髪だけどけてくれ」
那由多は髪を全て自分の右前側に流してネックレスの留め具がよく見えるように僅かに下を向く。ほんの五ミリほどの小さな金具を零は大きな手で器用に外し、ついでに真っ白いうなじにちゅっと音をたてて唇を寄せた。
「きゃっ」
反射的にうなじを手で隠し、勢いよく振り返った那由多の眼前に留め具をきちんととめ直したネックレスをたらして抗議の声を抑える。
「まいどあり」
「もう……」
にっと笑えば那由多はそっと手を離して繊細なつくりのネックレスを受け取った。それを膝の上のクロスで包むと、那由多は僅かに身じろいでおさまりのよい場所を見つけ零に身体を預ける。柔く心地よいぬくもりを抱くように、零は那由多の薄い腹の上で両手を組んだ。
引き続いてテレビ画面の向こうでは賑やかなコントが繰り広げられている。零はもうテレビには興味を失っていたため、シルバーのネックレスを丁寧に磨く妻の細い指の動きを観察した。爪を引っ掛けるためのわずかな出っ張りがあるだけの留め具、幅が一ミリもないような細いチェーン、一粒ダイヤが輝くトップ、と順に柔らかい布で拭き上げてゆく。視線を感じたのか、那由多は軽く説明をする。
「これはね、私が独身の時に誕生日に買ったのよ」
「ずいぶん華奢な作りだな」
ふぅん、と返事を返してから、零は感想を述べる。
「実は二回くらい、チェーンが切れてしまったから修理に出したわ。
バックのベルトを肩に掛けるときに巻き込んでしまったりするよのね」
「へぇ、よくできてるじゃねぇか」
「どうして?」
「持ち主が怪我をする前にちぎれるんだろ?
おかげでこの綺麗な肌に傷がつかずに済むんだから、デザインだけじゃないんだなと思ってな」
考えすぎよ、と那由多はころころと笑う。手入れを終えたネックレスをアクセサリーボックスへ戻そうと身を起こそうとして、零の手に上体を押し戻されてしまった。二度、三度と同じことを繰り返し、ため息をついた那由多は身を捩って伸び上がる。
「意地悪しないで」
先ほどのお返しとばかりに首筋にキスをすると、零の手は解けた。彼は別に驚いたわけではない。その口角が上がっていることに背を向けている那由多は気づいていなかったので、ネックレスを戻すとまた筋肉質な身体に体重を預けた。さっそくするりと手が戻る。
今度は那由多は少し考えて、零の左手をつついた。
「ちょっと手を貸してもらえるかしら?」
「好きに使ってくれ」
組んでいた手を解くと零は左手を那由多の左手の上に重ねる。那由多はその手を軽く握ってから自分の腿へと置いた。那由多が身につけていた左手の薬指の指輪を外すと、零の手を持ち上げて同じ薬指へと嵌めようと試みる。が、当然入るはずもなく、那由多は隣の小指へと指輪を移した。そちらはぎりぎり第一関節を通り、第二関節の前で銀の輪が止まった。もう一つ、那由多は右の小指にあった指輪も外して今度も零の小指へとつけてみようというらしい。明らかに小さな輪に零は思わず呻いた。
「なぁ、外せるようにだけ頼むぜ」
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのか零にはさっぱりわからなかったが、那由多が指輪をつけやすいように小指を軽く伸ばした。ピンクゴールドに小さなルビーが飾られたそれは零が今年の那由多の誕生日に送ったもので、記憶ではリングサイズは一号か二号だったはずだ。わずか直径十三ミリほどのそれは、短く整えられた零の爪の上を通り、第一関節すら通れずに止まった。無骨な手には不釣り合いなキラリと輝く指輪に彩られた小指をしみじみと眺め、那由多は「手が大きいのね」と呟く。
「俺が大きいだけじゃねぇと思うけどな」
「そう?でも私、あなたより大きい人は見たことがないわ。
たくさんものも持てるし、いいことね」
そう言われると零も悪い気はしない。那由多は嵌めたばかりの指輪をひとつ引き抜くと、ネックレスと同じように丁寧に拭き上げはじめる。零はされるがままに指輪を飾る台の役目を果たした。途中、零は手持ち無沙汰になったために右手を服の裾から侵入させて滑らかな素肌へ這わせる。そのたびにつまみ食いを咎めるように、ぺちんと軽くその手をはたかれ叱られる。が、どちらも戯れているだけで本気ではない。
那由多は零の結婚指輪も綺麗に磨き、二人分の指輪があるべき場所へと戻る。ちょうどいいタイミングで風呂の湯が溜まったことを知らせる音楽が流れた。
「お風呂は先に入る?」
立ち上がった那由多の膝裏をすくうように零が手を差し入れ、右手一本で軽々と抱えて立ち上がる。不安定さはなかったが急に高くなる視界に、那由多は今日二度目の小さな悲鳴をあげて零の首にしがみついた。
「何するの?」
「せっかくだから一緒に入るか」
零の翠の瞳は悪戯っぽく輝く。
「何がせっかくなの……」
「いい子にしてた俺に対価があってもいいと思わないか」
「ちっともいい子じゃなかったわよ」
「何にもしやしねぇよ」
「絶対よ?ねぇ」
眉を下げる那由多をキスで誤魔化して、零は浴室へ向かうべく踏み出した。
零那由
夕食後、零は片付けも終えて風呂がたまるまでの間、ソファにゆったりと腰をおろしついていたテレビ番組を眺めていた。ゴールデンタイムのためかバラエティ企画が進行しており、賑やかな男女の声が聞こえる。那由多はというと、寝室から持ってきたアクセサリーボックスを手に、ぺたぺたとスリッパの音をさせて零の隣へとやってきた。那由多がソファへと腰を下ろす瞬間に、零がその細い腰に手をそえて引く。導かれるまま那由多は零の隣ではなく、長い足の間にすぽりと収まった。彼女は特に動じるでもなくアクセサリーボックスを机に置いて、中から淡いグレーのアクセサリーを磨くためのクロスを取り出した。それを揃えた膝におくと、ネックレスを外すために首の後ろへ手をやる。長い髪が邪魔してか、やや手間取る姿をみて零が微かに笑みを含めて声をかける。
「助けがいるんじゃねぇか」
「……じゃあお願い」
「ほら、髪だけどけてくれ」
那由多は髪を全て自分の右前側に流してネックレスの留め具がよく見えるように僅かに下を向く。ほんの五ミリほどの小さな金具を零は大きな手で器用に外し、ついでに真っ白いうなじにちゅっと音をたてて唇を寄せた。
「きゃっ」
反射的にうなじを手で隠し、勢いよく振り返った那由多の眼前に留め具をきちんととめ直したネックレスをたらして抗議の声を抑える。
「まいどあり」
「もう……」
にっと笑えば那由多はそっと手を離して繊細なつくりのネックレスを受け取った。それを膝の上のクロスで包むと、那由多は僅かに身じろいでおさまりのよい場所を見つけ零に身体を預ける。柔く心地よいぬくもりを抱くように、零は那由多の薄い腹の上で両手を組んだ。
引き続いてテレビ画面の向こうでは賑やかなコントが繰り広げられている。零はもうテレビには興味を失っていたため、シルバーのネックレスを丁寧に磨く妻の細い指の動きを観察した。爪を引っ掛けるためのわずかな出っ張りがあるだけの留め具、幅が一ミリもないような細いチェーン、一粒ダイヤが輝くトップ、と順に柔らかい布で拭き上げてゆく。視線を感じたのか、那由多は軽く説明をする。
「これはね、私が独身の時に誕生日に買ったのよ」
「ずいぶん華奢な作りだな」
ふぅん、と返事を返してから、零は感想を述べる。
「実は二回くらい、チェーンが切れてしまったから修理に出したわ。
バックのベルトを肩に掛けるときに巻き込んでしまったりするよのね」
「へぇ、よくできてるじゃねぇか」
「どうして?」
「持ち主が怪我をする前にちぎれるんだろ?
おかげでこの綺麗な肌に傷がつかずに済むんだから、デザインだけじゃないんだなと思ってな」
考えすぎよ、と那由多はころころと笑う。手入れを終えたネックレスをアクセサリーボックスへ戻そうと身を起こそうとして、零の手に上体を押し戻されてしまった。二度、三度と同じことを繰り返し、ため息をついた那由多は身を捩って伸び上がる。
「意地悪しないで」
先ほどのお返しとばかりに首筋にキスをすると、零の手は解けた。彼は別に驚いたわけではない。その口角が上がっていることに背を向けている那由多は気づいていなかったので、ネックレスを戻すとまた筋肉質な身体に体重を預けた。さっそくするりと手が戻る。
今度は那由多は少し考えて、零の左手をつついた。
「ちょっと手を貸してもらえるかしら?」
「好きに使ってくれ」
組んでいた手を解くと零は左手を那由多の左手の上に重ねる。那由多はその手を軽く握ってから自分の腿へと置いた。那由多が身につけていた左手の薬指の指輪を外すと、零の手を持ち上げて同じ薬指へと嵌めようと試みる。が、当然入るはずもなく、那由多は隣の小指へと指輪を移した。そちらはぎりぎり第一関節を通り、第二関節の前で銀の輪が止まった。もう一つ、那由多は右の小指にあった指輪も外して今度も零の小指へとつけてみようというらしい。明らかに小さな輪に零は思わず呻いた。
「なぁ、外せるようにだけ頼むぜ」
「大丈夫よ」
何が大丈夫なのか零にはさっぱりわからなかったが、那由多が指輪をつけやすいように小指を軽く伸ばした。ピンクゴールドに小さなルビーが飾られたそれは零が今年の那由多の誕生日に送ったもので、記憶ではリングサイズは一号か二号だったはずだ。わずか直径十三ミリほどのそれは、短く整えられた零の爪の上を通り、第一関節すら通れずに止まった。無骨な手には不釣り合いなキラリと輝く指輪に彩られた小指をしみじみと眺め、那由多は「手が大きいのね」と呟く。
「俺が大きいだけじゃねぇと思うけどな」
「そう?でも私、あなたより大きい人は見たことがないわ。
たくさんものも持てるし、いいことね」
そう言われると零も悪い気はしない。那由多は嵌めたばかりの指輪をひとつ引き抜くと、ネックレスと同じように丁寧に拭き上げはじめる。零はされるがままに指輪を飾る台の役目を果たした。途中、零は手持ち無沙汰になったために右手を服の裾から侵入させて滑らかな素肌へ這わせる。そのたびにつまみ食いを咎めるように、ぺちんと軽くその手をはたかれ叱られる。が、どちらも戯れているだけで本気ではない。
那由多は零の結婚指輪も綺麗に磨き、二人分の指輪があるべき場所へと戻る。ちょうどいいタイミングで風呂の湯が溜まったことを知らせる音楽が流れた。
「お風呂は先に入る?」
立ち上がった那由多の膝裏をすくうように零が手を差し入れ、右手一本で軽々と抱えて立ち上がる。不安定さはなかったが急に高くなる視界に、那由多は今日二度目の小さな悲鳴をあげて零の首にしがみついた。
「何するの?」
「せっかくだから一緒に入るか」
零の翠の瞳は悪戯っぽく輝く。
「何がせっかくなの……」
「いい子にしてた俺に対価があってもいいと思わないか」
「ちっともいい子じゃなかったわよ」
「何にもしやしねぇよ」
「絶対よ?ねぇ」
眉を下げる那由多をキスで誤魔化して、零は浴室へ向かうべく踏み出した。
オーバーキル
オーバーキル
ろささ
寒い日だった。
簓はかじかんだ指先をすり合わせてもちっとも暖まらないことに辟易としていた。今日に限って手袋を机の上に置き忘れてしまったのだ。最初に気づいたのはエレベーターに乗ってからで、別に急ぐ訳でもないので取りに戻ってもよかったのに、なんとなくそのままここまできてしまった。その結果が今の真っ赤になった指先である。両手にはあっと息を吐いてみても、焼け石に水、というより氷に水で少し後悔していた。
容赦なく侵入してくる冷気を極力防ぐようにマフラーに首を埋め、両手はポケットへ突っ込んだ。この際少々見た目がだらしなかろうが仕方がない。
「簓!」
冬の空気を小気味よく破ったのは、待っていた蘆笙の声だった。
「おつかれさん〜!」
片手を挙げてひらりと振る。ばたばたと走ってきた蘆笙は簓の前で止まると、膝に手をついて乱れた呼吸を無理やり整えようと大きく息を吐いた。
「はぁ……っと、すまん!結構、待ったやろ」
「別にそうでもないで。集合時間決めとったわけでもないし」
「いや、お前が。今どこかって連絡、くれたあとに。電車、止まってもうて……!」
蘆笙はいつものオールバックが乱れて、この寒いのに額に汗を浮かべている。それだけで続きは不要だった。
「そんなんええよ、蘆笙こそずいぶん走ったんちゃう?」
「あぁ、いや。二駅くらいや、大した事ないで」
「二駅って普通に歩いたら二十分とか三十分とかかかる距離やろ……。こんな深夜にどんな体力しとんねん。
なんや悪いわ、急がんでよかったのに」
「俺が早う来たかったんや」
「あぁ……、うん」
さらりと言った蘆笙はようやく呼吸が通常のリズムを取り戻したのか、身体を起こして軽く伸びをしている。簓は面白さの欠片もない自分の間の抜けた返事に頭を抱えるべきか、跳ねた心臓を体内に押し留めるためにこのまま黙っておくべきかが分からずに悩んだ。そんなことを知る由もない蘆笙は、神社に向けて歩き出す。
「寒かったやろ、はよ行くで」
「えっと、そやな。行こか」
結局うまい返しのひとつも思い浮かばないまま、隣を歩くほかないのだった。
人気のない、街灯だけが並ぶ暗い道を二人で歩く。深夜の集合には理由があった。一月一日を迎えてすぐ、新年の挨拶をメッセージで交わしていた二人だったが、唐突に簓が『今から初詣に行こうや』と切り出したのがきっかけだった。実家に顔を出しくつろいでいた蘆笙は、簓がこちらに戻っていることを知らなかったのでずいぶんと驚いた。簓は普段は明るく対人関係も円滑な男だったが、自分の家にはほとんど寄り付かない。理由は聞いたことがないが、蘆笙自身知っている限り彼が実家に戻っているのをみたのは一度だけだった。
『急にどうしたんや』と返せば『ちょっと部屋片付けなあかんくて』『そんなことより、行くか?』『もしかして、もう寝るところやった?』ぽんぽんとリズムよく送られてくるメッセージを目で追いながら、帰っとるんやったら、一言声をかけてくれたらメシくらい誘うのに、と返信をしようとして手を止める。
数秒の後、打ち込んだメッセージは消して、ただ短く『いこか』と返した。
賑やかなスタンプが続いたあと、神社の場所がのったページが送られてきた。有名な場所ではないが芸能の神が祀られていて、昔二人で参拝した記憶があった。
「懐かしいな、」
そうつぶやいてみても画面の向こうの簓には届かない。程なくして新しいメッセージが届く。
『待っとるわ。近づいたら連絡してな!』
蘆笙は『わかった』と返して時計を見る。今ならぎりぎり電車もあるだろう。おそらく寒い中、簓は一人なのだ。蘆笙は「よし」とつぶやき財布をポケットへねじ込んで、早々に寒空の中へと飛び出したのだった。
神社に着くと、参道にはそれなりに人が集っていた。本殿から鳥居のあたりまで何組もの人が並んでいる。二人もおとなしくその最後尾へと加わった。あたりが暗いからか、簓のことに気づく人もいない。気づいていて話しかけてこないだけなのかもしれないが、簓には今はありがたかった。
「なぁ、蘆笙は神さんに何お願いするん」
「そりゃ生徒らの健康と、時期やし受験の成功やな」
みんなできるだけ希望する進路に進めたらいいと、何気ない問いかけにも蘆笙は真面目くさって答える。そう答えるであろうことは簓には予想がついていた。いつも誰よりも面白くて優しい男だからだ。
「さすがやな、蘆笙センセ」
「お前の先生ちゃうわ。
簓は?やっぱり芸事がうまくいくようにか?」
「んー俺かぁ」
簓は指を一本づつ立てる。
「まずはやっぱり今年もぎょうさん人を笑かせますように。それから、ディビジョンラップバトルで三人でテッペン取れますように。
あとはそうやな。蘆笙が丸付けしながら寝てもうても、酔うて腹出して寝ても、風邪ひきませんように……」
「おい、俺は小学生か。腹なんて出して寝たことないわ」
「嘘や〜、この間の居酒屋蘆笙でひっくり返っとったやん。服めくっても動きもせんかったで」
「いやめくるな。そもそも俺んちやぞ、どこでどう寝てもええやろ」
「アカンアカン。風邪引いたら寒くって俺のギャグがないと温もらんようになるで」
「お前のギャグであったまったことがあるかい。おとなしく喋っとれ」
「誰が動きがやかましいやって?」
「お前やお前!
……はあ、もうええわ」
簓はその声につい続けて口を飛び出そうになった締めの挨拶を舌先でなんとか留める。蘆笙の横ではいつでも何を話しても拾ってもらえるという安心感があってか、いつも以上に舌が滑らかになる。当たり前のようなこの瞬間が当たり前ではないことを、ここへ以前来たときは知らなかった。じりじりと足を進めながら話していると、骨身にしみるあの寒さも忘れてしまう。
「そんで、ほんまは?」
蘆笙が眼鏡を綺麗な指先で押し上げながら簓を見る。肌の白い蘆笙は、流石に冷えてきたのか鼻先も指先も透けるように赤くなっている。
「こういうのは、言わんほうがええんやで」
丸いレンズ越しでも鋭い眼光から逃げるように茶化す。蘆笙は大袈裟にため息をついてみせた。
「人に言わせといてそれかい。ほんならお前、俺の言うた願い事忘れろよ。生徒らのためのもんやからな。
しゃぁないから、俺は聞かんといたるわ。……お前のお願い、叶うとええな」
最後の一言は吐いた白い息と同じくらい、ふわりと温かくて。やはり返す言葉が見つからず、簓はただ頷く。
ちょうど参拝の番が回ってきて、二人で慌てて小銭を探す。
「やっぱりここは五円やろ。ご縁がありますようにってな……ってあらへんわ」
簓の声はからりといつも通りで、自分の財布の小銭入れをひっくり返してはじゃら、と手のひらの中で硬貨を転がす。蘆笙も同じく財布の名を覗いて首を捻った。
「俺もないわ。適当に百円でもいれるか」
「お、太っ腹!まあ気持ちやな気持ち」
簓はつかんでいた小銭をそのまはま賽銭箱へと放る。続く蘆笙も百円を投げ入れ、二人分の気持ちは景気よくジャラジャラ音をたてた。鈴を鳴らして二礼し、神様にご挨拶と二度両手を叩く。そのまま心のなかで願い事をとなえ、ちらりと隣を見た。蘆笙はしっかりと目を閉じて口元がもごもごとさせている。余りの真剣な様子に、少し笑いが込み上げた。それにならってもう一度本殿へ向き直る。自分よりも他人を優先する生真面目な男が、どうか一年幸せであればいいと真剣に祈った。
最後に一礼して列を離れる。すぐにおみくじを指さす簓を蘆笙が「ちょっと待っとってくれ」と手で制し、どこかへ駆けてゆく。トイレかな、と簓は一足先に八角形の入れ物を振っておみくじの紙を一枚取り出した。それを読む前に蘆笙が戻る。
「ほら」
その手にはピンク色のスチール缶があった。赤い文字で甘酒と書かれたそれは蘆笙の両手に一本ずつ握られている。簓はやや戸惑いながらも礼を告げた。
「おお、ありがとう」
別に甘酒は二人の好物というわけでもなく、わざわざ買って飲む習慣もない。
「寒いやろ。あったまり」
蘆笙はそう言いながら、自分の分を開けて飲んだ。度のない眼鏡のレンズが白く曇る。促されるまま簓も一口甘酒を飲むと、喉から胃の底がじわりと温まる。そういえば、昨日の昼からなにも食べていないのを思い出した。
「……めっちゃうまいわ」
「せやろ。たまにはアルコール抜きでもええよな」
目元を緩めた蘆笙に簓も口角をあげて返す。暫く二人で甘酒を啜る。
「忙しいやろ年末年始なんて……」
はっと蘆笙は自分の腕を見る。どうやら時計を探しているらしい。
「なんか用事やった?」
のんびりと返した簓が自分の携帯電話で時間を見た。午前一時半というところだ。用事があるにしては少々微妙な時間ではある。
「用事やった?ちゃうわ、
お前もししかせんでもこの後生放送か!
もうすぐ入りなんちゃう、はよ、はよ行かな。駅まで送ろうか?
いや、電車はもうあらへんか……?」
慌てふためいて簓の手ごと携帯を掴んで画面を覗き込んだ蘆笙がぶつぶつと呟く。
「とりあえずタクシー呼ぶか?」
鼻先がつきそうなほど近い距離に、簓はそっと身体を仰け反らせる。
「……落ち着け蘆笙。大丈夫やって、このあとマネージャーさんが車で迎えきてくれんねん」
「なんや、ほんならよかったわ……」
はーっと息を吐いた蘆笙は安心しきっているようだが、簓はそれどころではない。至近距離で見るには、その顔面はちょっと綺麗すぎる。その上、未だにガッチリと手を掴まれているのも良くない。甘酒の分とは違う熱がじわじわと昇ってくる。誤魔化すように簓はからからと笑い声をあげた。
「熱愛かと思われるくらい近いわ!」
「間違ってへんやろ」
「え」
鋭いツッコミを期待したというのに、蘆笙はごく真面目な顔で少しだけ首を傾げた。ロマンチックさの欠片もない動画を一時停止したかのように固まる自分がそのレンズに映っていた。
「コンビ愛がなんとかっちゅう番組やったやろ。俺、お前と組んだったの、ほんまに楽しかったし良かったと思っとる」
「え、ええ?」
壊れたラジオのような音しか出すことができない。自慢の舌は脳の混乱に巻き込まれて動かない。
「今年も一年頑張れよ」
「お、おう」
ようやくそれだけ返す。周りは真っ暗なはずだが、その空間だけが眩しい。言うだけ言って、蘆笙はようやくその手を離した。
「……懐かしい場所やったな。お前の話すネタになったらええんやけど。
ほんで、待ち合わせ場所どこや。さっと飲んではよ行くで」
いや、俺にこのあとどんな気持ちで仕事せえちゅうねん。なんにも頭に入らんわ。そう言いたいのを甘酒で飲み下す。そうだ、蘆笙はこういう男だった。
上がりすぎた体温を下げるべく、おみくじの紙で顔をあおぐ。もうその中身はなんだろうとかまわない。簓は周りが暗いことに心からの感謝を捧げた。
ろささ
寒い日だった。
簓はかじかんだ指先をすり合わせてもちっとも暖まらないことに辟易としていた。今日に限って手袋を机の上に置き忘れてしまったのだ。最初に気づいたのはエレベーターに乗ってからで、別に急ぐ訳でもないので取りに戻ってもよかったのに、なんとなくそのままここまできてしまった。その結果が今の真っ赤になった指先である。両手にはあっと息を吐いてみても、焼け石に水、というより氷に水で少し後悔していた。
容赦なく侵入してくる冷気を極力防ぐようにマフラーに首を埋め、両手はポケットへ突っ込んだ。この際少々見た目がだらしなかろうが仕方がない。
「簓!」
冬の空気を小気味よく破ったのは、待っていた蘆笙の声だった。
「おつかれさん〜!」
片手を挙げてひらりと振る。ばたばたと走ってきた蘆笙は簓の前で止まると、膝に手をついて乱れた呼吸を無理やり整えようと大きく息を吐いた。
「はぁ……っと、すまん!結構、待ったやろ」
「別にそうでもないで。集合時間決めとったわけでもないし」
「いや、お前が。今どこかって連絡、くれたあとに。電車、止まってもうて……!」
蘆笙はいつものオールバックが乱れて、この寒いのに額に汗を浮かべている。それだけで続きは不要だった。
「そんなんええよ、蘆笙こそずいぶん走ったんちゃう?」
「あぁ、いや。二駅くらいや、大した事ないで」
「二駅って普通に歩いたら二十分とか三十分とかかかる距離やろ……。こんな深夜にどんな体力しとんねん。
なんや悪いわ、急がんでよかったのに」
「俺が早う来たかったんや」
「あぁ……、うん」
さらりと言った蘆笙はようやく呼吸が通常のリズムを取り戻したのか、身体を起こして軽く伸びをしている。簓は面白さの欠片もない自分の間の抜けた返事に頭を抱えるべきか、跳ねた心臓を体内に押し留めるためにこのまま黙っておくべきかが分からずに悩んだ。そんなことを知る由もない蘆笙は、神社に向けて歩き出す。
「寒かったやろ、はよ行くで」
「えっと、そやな。行こか」
結局うまい返しのひとつも思い浮かばないまま、隣を歩くほかないのだった。
人気のない、街灯だけが並ぶ暗い道を二人で歩く。深夜の集合には理由があった。一月一日を迎えてすぐ、新年の挨拶をメッセージで交わしていた二人だったが、唐突に簓が『今から初詣に行こうや』と切り出したのがきっかけだった。実家に顔を出しくつろいでいた蘆笙は、簓がこちらに戻っていることを知らなかったのでずいぶんと驚いた。簓は普段は明るく対人関係も円滑な男だったが、自分の家にはほとんど寄り付かない。理由は聞いたことがないが、蘆笙自身知っている限り彼が実家に戻っているのをみたのは一度だけだった。
『急にどうしたんや』と返せば『ちょっと部屋片付けなあかんくて』『そんなことより、行くか?』『もしかして、もう寝るところやった?』ぽんぽんとリズムよく送られてくるメッセージを目で追いながら、帰っとるんやったら、一言声をかけてくれたらメシくらい誘うのに、と返信をしようとして手を止める。
数秒の後、打ち込んだメッセージは消して、ただ短く『いこか』と返した。
賑やかなスタンプが続いたあと、神社の場所がのったページが送られてきた。有名な場所ではないが芸能の神が祀られていて、昔二人で参拝した記憶があった。
「懐かしいな、」
そうつぶやいてみても画面の向こうの簓には届かない。程なくして新しいメッセージが届く。
『待っとるわ。近づいたら連絡してな!』
蘆笙は『わかった』と返して時計を見る。今ならぎりぎり電車もあるだろう。おそらく寒い中、簓は一人なのだ。蘆笙は「よし」とつぶやき財布をポケットへねじ込んで、早々に寒空の中へと飛び出したのだった。
神社に着くと、参道にはそれなりに人が集っていた。本殿から鳥居のあたりまで何組もの人が並んでいる。二人もおとなしくその最後尾へと加わった。あたりが暗いからか、簓のことに気づく人もいない。気づいていて話しかけてこないだけなのかもしれないが、簓には今はありがたかった。
「なぁ、蘆笙は神さんに何お願いするん」
「そりゃ生徒らの健康と、時期やし受験の成功やな」
みんなできるだけ希望する進路に進めたらいいと、何気ない問いかけにも蘆笙は真面目くさって答える。そう答えるであろうことは簓には予想がついていた。いつも誰よりも面白くて優しい男だからだ。
「さすがやな、蘆笙センセ」
「お前の先生ちゃうわ。
簓は?やっぱり芸事がうまくいくようにか?」
「んー俺かぁ」
簓は指を一本づつ立てる。
「まずはやっぱり今年もぎょうさん人を笑かせますように。それから、ディビジョンラップバトルで三人でテッペン取れますように。
あとはそうやな。蘆笙が丸付けしながら寝てもうても、酔うて腹出して寝ても、風邪ひきませんように……」
「おい、俺は小学生か。腹なんて出して寝たことないわ」
「嘘や〜、この間の居酒屋蘆笙でひっくり返っとったやん。服めくっても動きもせんかったで」
「いやめくるな。そもそも俺んちやぞ、どこでどう寝てもええやろ」
「アカンアカン。風邪引いたら寒くって俺のギャグがないと温もらんようになるで」
「お前のギャグであったまったことがあるかい。おとなしく喋っとれ」
「誰が動きがやかましいやって?」
「お前やお前!
……はあ、もうええわ」
簓はその声につい続けて口を飛び出そうになった締めの挨拶を舌先でなんとか留める。蘆笙の横ではいつでも何を話しても拾ってもらえるという安心感があってか、いつも以上に舌が滑らかになる。当たり前のようなこの瞬間が当たり前ではないことを、ここへ以前来たときは知らなかった。じりじりと足を進めながら話していると、骨身にしみるあの寒さも忘れてしまう。
「そんで、ほんまは?」
蘆笙が眼鏡を綺麗な指先で押し上げながら簓を見る。肌の白い蘆笙は、流石に冷えてきたのか鼻先も指先も透けるように赤くなっている。
「こういうのは、言わんほうがええんやで」
丸いレンズ越しでも鋭い眼光から逃げるように茶化す。蘆笙は大袈裟にため息をついてみせた。
「人に言わせといてそれかい。ほんならお前、俺の言うた願い事忘れろよ。生徒らのためのもんやからな。
しゃぁないから、俺は聞かんといたるわ。……お前のお願い、叶うとええな」
最後の一言は吐いた白い息と同じくらい、ふわりと温かくて。やはり返す言葉が見つからず、簓はただ頷く。
ちょうど参拝の番が回ってきて、二人で慌てて小銭を探す。
「やっぱりここは五円やろ。ご縁がありますようにってな……ってあらへんわ」
簓の声はからりといつも通りで、自分の財布の小銭入れをひっくり返してはじゃら、と手のひらの中で硬貨を転がす。蘆笙も同じく財布の名を覗いて首を捻った。
「俺もないわ。適当に百円でもいれるか」
「お、太っ腹!まあ気持ちやな気持ち」
簓はつかんでいた小銭をそのまはま賽銭箱へと放る。続く蘆笙も百円を投げ入れ、二人分の気持ちは景気よくジャラジャラ音をたてた。鈴を鳴らして二礼し、神様にご挨拶と二度両手を叩く。そのまま心のなかで願い事をとなえ、ちらりと隣を見た。蘆笙はしっかりと目を閉じて口元がもごもごとさせている。余りの真剣な様子に、少し笑いが込み上げた。それにならってもう一度本殿へ向き直る。自分よりも他人を優先する生真面目な男が、どうか一年幸せであればいいと真剣に祈った。
最後に一礼して列を離れる。すぐにおみくじを指さす簓を蘆笙が「ちょっと待っとってくれ」と手で制し、どこかへ駆けてゆく。トイレかな、と簓は一足先に八角形の入れ物を振っておみくじの紙を一枚取り出した。それを読む前に蘆笙が戻る。
「ほら」
その手にはピンク色のスチール缶があった。赤い文字で甘酒と書かれたそれは蘆笙の両手に一本ずつ握られている。簓はやや戸惑いながらも礼を告げた。
「おお、ありがとう」
別に甘酒は二人の好物というわけでもなく、わざわざ買って飲む習慣もない。
「寒いやろ。あったまり」
蘆笙はそう言いながら、自分の分を開けて飲んだ。度のない眼鏡のレンズが白く曇る。促されるまま簓も一口甘酒を飲むと、喉から胃の底がじわりと温まる。そういえば、昨日の昼からなにも食べていないのを思い出した。
「……めっちゃうまいわ」
「せやろ。たまにはアルコール抜きでもええよな」
目元を緩めた蘆笙に簓も口角をあげて返す。暫く二人で甘酒を啜る。
「忙しいやろ年末年始なんて……」
はっと蘆笙は自分の腕を見る。どうやら時計を探しているらしい。
「なんか用事やった?」
のんびりと返した簓が自分の携帯電話で時間を見た。午前一時半というところだ。用事があるにしては少々微妙な時間ではある。
「用事やった?ちゃうわ、
お前もししかせんでもこの後生放送か!
もうすぐ入りなんちゃう、はよ、はよ行かな。駅まで送ろうか?
いや、電車はもうあらへんか……?」
慌てふためいて簓の手ごと携帯を掴んで画面を覗き込んだ蘆笙がぶつぶつと呟く。
「とりあえずタクシー呼ぶか?」
鼻先がつきそうなほど近い距離に、簓はそっと身体を仰け反らせる。
「……落ち着け蘆笙。大丈夫やって、このあとマネージャーさんが車で迎えきてくれんねん」
「なんや、ほんならよかったわ……」
はーっと息を吐いた蘆笙は安心しきっているようだが、簓はそれどころではない。至近距離で見るには、その顔面はちょっと綺麗すぎる。その上、未だにガッチリと手を掴まれているのも良くない。甘酒の分とは違う熱がじわじわと昇ってくる。誤魔化すように簓はからからと笑い声をあげた。
「熱愛かと思われるくらい近いわ!」
「間違ってへんやろ」
「え」
鋭いツッコミを期待したというのに、蘆笙はごく真面目な顔で少しだけ首を傾げた。ロマンチックさの欠片もない動画を一時停止したかのように固まる自分がそのレンズに映っていた。
「コンビ愛がなんとかっちゅう番組やったやろ。俺、お前と組んだったの、ほんまに楽しかったし良かったと思っとる」
「え、ええ?」
壊れたラジオのような音しか出すことができない。自慢の舌は脳の混乱に巻き込まれて動かない。
「今年も一年頑張れよ」
「お、おう」
ようやくそれだけ返す。周りは真っ暗なはずだが、その空間だけが眩しい。言うだけ言って、蘆笙はようやくその手を離した。
「……懐かしい場所やったな。お前の話すネタになったらええんやけど。
ほんで、待ち合わせ場所どこや。さっと飲んではよ行くで」
いや、俺にこのあとどんな気持ちで仕事せえちゅうねん。なんにも頭に入らんわ。そう言いたいのを甘酒で飲み下す。そうだ、蘆笙はこういう男だった。
上がりすぎた体温を下げるべく、おみくじの紙で顔をあおぐ。もうその中身はなんだろうとかまわない。簓は周りが暗いことに心からの感謝を捧げた。
書きかけ獄さんと寂雷さん♀
書きかけ獄さんと寂雷さん♀
急に進路を変えた台風が猛威を振るう夜だった。混乱を見せていた駅前も徐々に人通りが少なくなり、暴風雨の向こうの大型ビジョンからだろうか、途切れ途切れにニュースの中継の音が聞こえる。
そんな場所に一組の男女が電話を片手に立っていた。一人は見るからに仕立ての良いスーツとトレンチコートの男で、その襟元には弁護士バッチが鈍く光を跳ね返している。トレードマークのソフトリーゼンが雨で力なく崩れているのが珍しいが、それすらどことなく色気となっているナゴヤディビジョンの有名弁護士、天国獄である。もう一人は髪の長い女で、化粧っけの薄い顔だがすらりと伸びた手足と隣の獄に負けない長身が目を引いていた。雨よけにしている白衣と思わず耳を傾けたくなる穏やかな声は、こちらもシンジュクディビジョンで知らぬものはいない医師、神宮寺寂雷である。
二人は残念なことに寄りそうでもなければほほえみを交わしているわけでもない。ただ真剣に互いの電話の向こうへと語りかけていた。
「だから!
帰れねぇっつってんだろ!」
風の音に負けぬよう声を張る獄は、電話の向こうへもう三回目になる状況の説明をしていた。
「台風で、公共交通機関は軒並み停止。道中停電もあって車もろくに動かねぇ。シズオカディビジョンで足止めだ。ちったぁニュースを見ろ!
は、歩けるか馬鹿野郎。二日はかかるぞ。お前と一緒にするな」
まだ続きそうなそれを横目に寂雷は本日二十九件目のホテルへと電話をかけていた。おもえば二人でそれぞれ同じタイミングで各ディビジョンへ電話をかけはじめたのだ。なお、シンジュクの面々からは『お気をつけて、なにか力になれることがあれば連絡を』と心配と労りの言葉をもらってあっさりと終話をしている。やはり大人と違って子どもたちは心細かったり寂しいのだろうなと思えば微笑ましくもあり、寂雷は目尻を下げては獄に睨まれていた。
急に進路を変えた台風が猛威を振るう夜だった。混乱を見せていた駅前も徐々に人通りが少なくなり、暴風雨の向こうの大型ビジョンからだろうか、途切れ途切れにニュースの中継の音が聞こえる。
そんな場所に一組の男女が電話を片手に立っていた。一人は見るからに仕立ての良いスーツとトレンチコートの男で、その襟元には弁護士バッチが鈍く光を跳ね返している。トレードマークのソフトリーゼンが雨で力なく崩れているのが珍しいが、それすらどことなく色気となっているナゴヤディビジョンの有名弁護士、天国獄である。もう一人は髪の長い女で、化粧っけの薄い顔だがすらりと伸びた手足と隣の獄に負けない長身が目を引いていた。雨よけにしている白衣と思わず耳を傾けたくなる穏やかな声は、こちらもシンジュクディビジョンで知らぬものはいない医師、神宮寺寂雷である。
二人は残念なことに寄りそうでもなければほほえみを交わしているわけでもない。ただ真剣に互いの電話の向こうへと語りかけていた。
「だから!
帰れねぇっつってんだろ!」
風の音に負けぬよう声を張る獄は、電話の向こうへもう三回目になる状況の説明をしていた。
「台風で、公共交通機関は軒並み停止。道中停電もあって車もろくに動かねぇ。シズオカディビジョンで足止めだ。ちったぁニュースを見ろ!
は、歩けるか馬鹿野郎。二日はかかるぞ。お前と一緒にするな」
まだ続きそうなそれを横目に寂雷は本日二十九件目のホテルへと電話をかけていた。おもえば二人でそれぞれ同じタイミングで各ディビジョンへ電話をかけはじめたのだ。なお、シンジュクの面々からは『お気をつけて、なにか力になれることがあれば連絡を』と心配と労りの言葉をもらってあっさりと終話をしている。やはり大人と違って子どもたちは心細かったり寂しいのだろうなと思えば微笑ましくもあり、寂雷は目尻を下げては獄に睨まれていた。
れいなゆ小ネタ
れいなゆ小ネタ
本当にメモ
華奢な身体は軽く肩を押しただけで、本当にあっけなく白いシーツに倒れ込んだ。目の前の女は何がおかしいのかくすくすと笑いはじめてこちらの苛立ちを煽る。
ふ、と邪な考えがよぎった。このままなによりも先に身体を奪ってしまおうか。そう思いついた零がベットに左手を付くと、ぎし、とスプリングが鳴った。マットレスが沈み込んだ拍子に小さな頭がこてんと傾き、柔らかい髪が零の大きな手にかかった。
今までだって幾度もなし崩し的に身体を重ねては恋人のような関係になった相手がいた。面白いことに、どんな相手でも時間をかけれてやれば心はあとからいくらでもついてきた。なら、いっそ、誰かが暴くくらいなら自分が奪ってしまえばいい。案外一度抱いてしまえば胸の内にくすぶり続ける苛立ちも消えてなくなって、その他の人間と同じように接することができるのかもしれなかった。
言い訳を並べ立てて、頭の中で常識を説く声を追い出す。血液が重力に従って落ちたまま頭まで上がってこなくなるのがわかった。
華奢な体を潰さないようにしながら、それでも逃げることができないくらいには体重をかけて馬乗りになる。到底同じ内臓が詰まっているとは思えない薄い腹は、服越しでもやわらかくまだ小さく笑って震える横隔膜の振動を零に伝える。胸元は歯を立てたくなるまろやかな曲線を描き、浮き出た鎖骨の窪みから続いて片手で手折れそうな白い首が繋がる。彼は今にも舌舐めずりして獲物を喰らおうという肉食獣のような瞳で自分の下の女の姿を見下ろした。
図体のデカい男に組み敷かれて怯えればいい、どんなに泣いたって構わない。整然としていたはずの頭の中を引っ掻き回す感情を生み出す原因はこの女だ。嫌だと泣いた分だけ酷くしてやろう、少しは胸もすくに違いない。その後とびきり優しくあまやかし、身体と心がバラバラになって俺の名前を呼ぶまで犯しつくしてやろう。当然見たこともないあられもない姿が、高い声が、目の前の光景と重なる。
欲にまみれた瞳が、彼女の澄んだ瞳を覗き込む。視線がかち合っても相手の瞳には何の怯えも、色ものってはいなかった。水中にでもいるかのようにシーツの上で広がる髪に指を絡めこちらを見上げている。
「もう、零さん重たいですよ」
「逃さないようにしてるんだよ」
「逃げませんよ。それよりも、さっきから変ですよ、何にも言わないんですもん」
「なぁお前は正気か。前も言ったがお前には危機感がない。
今みたいに密室で男の手にかかればお前はもう逃げられないし、助けも来ない。俺に首を絞められたって、ただ殺されるしかないんだぞ」
するりとしなやかな首に手をかける。指先に彼女の鼓動が伝わった。
「でも零さんはそんなことしないでしょう?」
ここまでしても那由多は「ね、どいてください」とあろうことかあどけなく微笑んでみせた。覆いかぶさられてなお、零が自分のいうことをきいてどいてくれるだろうということに一片の疑いもないのだ。その信頼は零の微睡んでいた理性を叩き起こした。
急速に頭が冷える。
「ほら、はやく」
じゃれ合う子供のように那由多の手が零の胸板を押した。当然彼女にそんな力はなかったが、零の身体は簡単に後ろへと引く。集まっていた熱は霧散してしまった。
「はぁ、」
ひどく大きな溜息を一つ。零は緩慢とした動作でベットから降りて、そのまま那由多の手を引いて起こしてやった。
「いつか痛い目をみるぞ」
「零さんは心配性ですね」
「そんなんじゃない。
……寝覚めが悪いだろ。同じ研究室にいるやつがそんな目にあうのをのうのうと見てるのは」
「やっぱり優しいんですね」
「はあ、お人好しも過ぎると身を滅ぼすぞ。
ただ俺はお前が泣かされるのが気に食わないだけで」
「それじゃあまるで、零さんは私のことが好きみたい」
「は」
「……なんて、ふふ。零さんは私なんかよりも素敵なお相手がいますものね」
いつか完成するかもしれないけれど
零さん好きな相手に無理矢理とかしなさそうなので
まだ好きを自覚する前の若い頃を想定したけれどちょっとさすがに那由多さんに危機感がなさすぎるので没かな……
でもでっかい男にのしかかられてなおおっとりと笑ってほしいし、襲われるかもなんて一ミリも考えない姿に感情をめちゃくちゃにされてほしい。後で大反省会するしちゃんと謝る。こんな危機感のない生き物を野に放ったら何に喰われるか分かったもんじゃないから俺が守らないと……となる。
ちゃんと付き合い始めてからか結婚したあとに、同じようなアングルで対面した際にふと「実は初めて会った時とあのときだけは零さんが怖かった」と言われて大反省会2回目が開催される。「本当にそのときだけで、今はもう怖くない」と宥められてそれはもう大切に大切にしてくれ。close
本当にメモ
華奢な身体は軽く肩を押しただけで、本当にあっけなく白いシーツに倒れ込んだ。目の前の女は何がおかしいのかくすくすと笑いはじめてこちらの苛立ちを煽る。
ふ、と邪な考えがよぎった。このままなによりも先に身体を奪ってしまおうか。そう思いついた零がベットに左手を付くと、ぎし、とスプリングが鳴った。マットレスが沈み込んだ拍子に小さな頭がこてんと傾き、柔らかい髪が零の大きな手にかかった。
今までだって幾度もなし崩し的に身体を重ねては恋人のような関係になった相手がいた。面白いことに、どんな相手でも時間をかけれてやれば心はあとからいくらでもついてきた。なら、いっそ、誰かが暴くくらいなら自分が奪ってしまえばいい。案外一度抱いてしまえば胸の内にくすぶり続ける苛立ちも消えてなくなって、その他の人間と同じように接することができるのかもしれなかった。
言い訳を並べ立てて、頭の中で常識を説く声を追い出す。血液が重力に従って落ちたまま頭まで上がってこなくなるのがわかった。
華奢な体を潰さないようにしながら、それでも逃げることができないくらいには体重をかけて馬乗りになる。到底同じ内臓が詰まっているとは思えない薄い腹は、服越しでもやわらかくまだ小さく笑って震える横隔膜の振動を零に伝える。胸元は歯を立てたくなるまろやかな曲線を描き、浮き出た鎖骨の窪みから続いて片手で手折れそうな白い首が繋がる。彼は今にも舌舐めずりして獲物を喰らおうという肉食獣のような瞳で自分の下の女の姿を見下ろした。
図体のデカい男に組み敷かれて怯えればいい、どんなに泣いたって構わない。整然としていたはずの頭の中を引っ掻き回す感情を生み出す原因はこの女だ。嫌だと泣いた分だけ酷くしてやろう、少しは胸もすくに違いない。その後とびきり優しくあまやかし、身体と心がバラバラになって俺の名前を呼ぶまで犯しつくしてやろう。当然見たこともないあられもない姿が、高い声が、目の前の光景と重なる。
欲にまみれた瞳が、彼女の澄んだ瞳を覗き込む。視線がかち合っても相手の瞳には何の怯えも、色ものってはいなかった。水中にでもいるかのようにシーツの上で広がる髪に指を絡めこちらを見上げている。
「もう、零さん重たいですよ」
「逃さないようにしてるんだよ」
「逃げませんよ。それよりも、さっきから変ですよ、何にも言わないんですもん」
「なぁお前は正気か。前も言ったがお前には危機感がない。
今みたいに密室で男の手にかかればお前はもう逃げられないし、助けも来ない。俺に首を絞められたって、ただ殺されるしかないんだぞ」
するりとしなやかな首に手をかける。指先に彼女の鼓動が伝わった。
「でも零さんはそんなことしないでしょう?」
ここまでしても那由多は「ね、どいてください」とあろうことかあどけなく微笑んでみせた。覆いかぶさられてなお、零が自分のいうことをきいてどいてくれるだろうということに一片の疑いもないのだ。その信頼は零の微睡んでいた理性を叩き起こした。
急速に頭が冷える。
「ほら、はやく」
じゃれ合う子供のように那由多の手が零の胸板を押した。当然彼女にそんな力はなかったが、零の身体は簡単に後ろへと引く。集まっていた熱は霧散してしまった。
「はぁ、」
ひどく大きな溜息を一つ。零は緩慢とした動作でベットから降りて、そのまま那由多の手を引いて起こしてやった。
「いつか痛い目をみるぞ」
「零さんは心配性ですね」
「そんなんじゃない。
……寝覚めが悪いだろ。同じ研究室にいるやつがそんな目にあうのをのうのうと見てるのは」
「やっぱり優しいんですね」
「はあ、お人好しも過ぎると身を滅ぼすぞ。
ただ俺はお前が泣かされるのが気に食わないだけで」
「それじゃあまるで、零さんは私のことが好きみたい」
「は」
「……なんて、ふふ。零さんは私なんかよりも素敵なお相手がいますものね」
いつか完成するかもしれないけれど
零さん好きな相手に無理矢理とかしなさそうなので
まだ好きを自覚する前の若い頃を想定したけれどちょっとさすがに那由多さんに危機感がなさすぎるので没かな……
でもでっかい男にのしかかられてなおおっとりと笑ってほしいし、襲われるかもなんて一ミリも考えない姿に感情をめちゃくちゃにされてほしい。後で大反省会するしちゃんと謝る。こんな危機感のない生き物を野に放ったら何に喰われるか分かったもんじゃないから俺が守らないと……となる。
ちゃんと付き合い始めてからか結婚したあとに、同じようなアングルで対面した際にふと「実は初めて会った時とあのときだけは零さんが怖かった」と言われて大反省会2回目が開催される。「本当にそのときだけで、今はもう怖くない」と宥められてそれはもう大切に大切にしてくれ。close
んしょさに?
んしょさに?
アラサーブラック勤め社畜系兼業審神者ちゃん
現世で疲れすぎてオカマバーとかおっパブとかストリップとかで疲れを癒してる。深夜に帰宅し本丸でつかの間の癒しのご飯を食べ、翌日分の編成内番出陣の指示を出し短時間でも戦の指揮をとり日課をこなしてもろもろの報告を受けて、次郎太刀が催す酒飲みの会へ顔を出し半泣きで愚痴をこぼしてる。
「朝から晩まで働いて昼間はパワハラ・セクハラにたえ、夜は審神者として日課をこなし。もうほんと本丸のごはんとこのお酒のむこの時間だけが癒しだよ……」
受け取り箱にいた雲生さんと引き合わされたのはもう出来上がったあとで、挨拶もそこそこに無言で胸のベルトにお札をねじこんだ。
「なに、このベルト……。チップ挟む以外に何か使い道ある……?」
雲生さんはきょとんとしてたし、審神者は後でめちゃくちゃ初期刀に怒られた。翌朝ちゃんと謝った。
どんなに他の刀がそんなに辛いのなら、現世の仕事など辞めてしまえばいいと言っても辞めない審神者。
「やだよ。やめたらそれこそ戻れなくなりそうなんだもん」
おそらく審神者の直感は正しい。
アラサーブラック勤め社畜系兼業審神者ちゃん
現世で疲れすぎてオカマバーとかおっパブとかストリップとかで疲れを癒してる。深夜に帰宅し本丸でつかの間の癒しのご飯を食べ、翌日分の編成内番出陣の指示を出し短時間でも戦の指揮をとり日課をこなしてもろもろの報告を受けて、次郎太刀が催す酒飲みの会へ顔を出し半泣きで愚痴をこぼしてる。
「朝から晩まで働いて昼間はパワハラ・セクハラにたえ、夜は審神者として日課をこなし。もうほんと本丸のごはんとこのお酒のむこの時間だけが癒しだよ……」
受け取り箱にいた雲生さんと引き合わされたのはもう出来上がったあとで、挨拶もそこそこに無言で胸のベルトにお札をねじこんだ。
「なに、このベルト……。チップ挟む以外に何か使い道ある……?」
雲生さんはきょとんとしてたし、審神者は後でめちゃくちゃ初期刀に怒られた。翌朝ちゃんと謝った。
どんなに他の刀がそんなに辛いのなら、現世の仕事など辞めてしまえばいいと言っても辞めない審神者。
「やだよ。やめたらそれこそ戻れなくなりそうなんだもん」
おそらく審神者の直感は正しい。
れいなゆ小ネタ
れいなゆ小ネタ
コートの中に那由多さんを仕舞う零さんが見たい
でも移動は車でしそうだし、雨の日はコートに入れるんじゃなくて普通に自分が濡れて傘買って来そうだし、そもそも雨に振られるような状況にはしなさそうで……。雪がちらつくくらいなら寒いし入れて歩いてくれるかも。
あとは目隠しか……。
旧どつ二人が歩いてくるのを見つけて、さっと那由多さんの肩を抱いてコートの中にしまってくれ。
自分の身体でも半分隠してしまうので、ほとんど見えなくなる那由多さん。
「零!」
「よう、お二人さん。悪いな、今日はおいちゃんちーっと忙しいんだわ」
「そうなんや、忙しいとこ呼び止めて悪かったな。行くか、簓」
「いや、蘆笙待て。零の後ろの足……」
「また今度うまいラーメンでも奢ってやるよ」
「せやからそこの足!絶対誰かおるやろ、お前は人攫いか!」
「……あの。簓くん、蘆笙くんこんにちは。いつも主人がお世話になっております」
「あぁほらやっぱり奥さんおるやん!俺ら初めましてでもないやん!なんで隠すねん」
「忙しい言うとるやん、行くで」
「おぉ、じゃあな」
「俺とも会話してくれ!」
「すみません、主人が。それでは失礼しますね、また」
コートの中に那由多さんを仕舞う零さんが見たい
でも移動は車でしそうだし、雨の日はコートに入れるんじゃなくて普通に自分が濡れて傘買って来そうだし、そもそも雨に振られるような状況にはしなさそうで……。雪がちらつくくらいなら寒いし入れて歩いてくれるかも。
あとは目隠しか……。
旧どつ二人が歩いてくるのを見つけて、さっと那由多さんの肩を抱いてコートの中にしまってくれ。
自分の身体でも半分隠してしまうので、ほとんど見えなくなる那由多さん。
「零!」
「よう、お二人さん。悪いな、今日はおいちゃんちーっと忙しいんだわ」
「そうなんや、忙しいとこ呼び止めて悪かったな。行くか、簓」
「いや、蘆笙待て。零の後ろの足……」
「また今度うまいラーメンでも奢ってやるよ」
「せやからそこの足!絶対誰かおるやろ、お前は人攫いか!」
「……あの。簓くん、蘆笙くんこんにちは。いつも主人がお世話になっております」
「あぁほらやっぱり奥さんおるやん!俺ら初めましてでもないやん!なんで隠すねん」
「忙しい言うとるやん、行くで」
「おぉ、じゃあな」
「俺とも会話してくれ!」
「すみません、主人が。それでは失礼しますね、また」
蜘蛛の網に足を掬われ
蜘蛛の網に足を掬われ
ナゴ獄♀
「トリックオアトリートっす!」
十月三十一日。よく晴れた空の高くにイワシの群れのような雲が泳ぐ休日、獄の自宅に明るい声とともに十四が現れた。いつもよりキラキラとしたメイクに黒いマント、細身の黒いパンツはそのままだが、上半身は華やかなフリルとアクセサリーに彩られた白いブラウスだ。頭からはどこで手に入れてきたか分からない、黒い捻れた角が二本生えている。なるほどそのままライブへ行けそうなビジュアル系らしい格好だ。ピタリとポーズをとった姿はきっとそのままブロマイドにだってできるだろう。背景が獄の自宅でなければの話であるが。
獄は何も言わず、ただ手に持っていたタバコを灰皿に押し付けてその火を消した。
「邪魔すんぜ、とりあえず菓子よこせ」
当然のように上がりこむ空劫は、十四とは正反対のいつも通りの服装だ。ただ一点、目元に穴だけ開けた薄茶の紙袋をすっぽりと被っていた。見覚えのある店名と縁についたままのビニールのテープに生活感が溢れている。横柄な態度と相まってどちらかというと仮装というよりも銀行強盗という方が近い。我が物顔でソファで隣に沈んだ空劫の頭を獄が叩くと紙袋が大げさな音をたてた。
「お前らアポイントって知ってるか」
何度勝手に入ってくるなと言ってみてもとにかく無駄だったので、最近の獄はこの二人に新しい概念を覚えさせようと苦心していた。
「知らね」
「そんなことより、どうっすか?
この悪魔仮装、めちゃくちゃ良くできてるっすよね!」
十四が華麗にターンすれば、ふわりと広がったマントの後ろから小ぶりなコウモリの羽と彼の膝ほどまである尻尾がのぞいた。
「人と会う時はあらかじめ連絡をだな……」
「空劫さんにはずっと前から伝えてあったのに、今日自分が行ってから準備したんすよ」
「菓子を食うのに仮装がいるんだろ、ちゃんとしたじゃねぇか」
「いやいや、せめてシーツ被って欲しいっす」
「あんなデケェ布に穴開けたらもったいねぇだろうが」
「お前ら俺の話を聞け!」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてるっすよ」
「聞いてねぇだろ、ったく本当に毎度毎度……」
「ほら、ちゃんと連絡したっす」
十四が示した画面には、ちょうど十分前の日時が書かれたメッセージに、確かに『今から獄さんのお家に空劫さんと向かうっす』と書かれている。
「そんなもん連絡になるか!」
「えぇ、自分はちゃんと思い出したのに……」
「次は前日には思い出してくれ、頼むから」
「はぁい。それより、この仮装似合ってないっすか? 今年は気合いを入れてきた、悪魔になってみたっす」
やっぱりなんにも聞いてないだろと獄は頭を抱える。
「いや、似合っちゃいるんだけどな。そこじゃなくて」
「やった! 空劫さん、聞きました?
頑張った甲斐があったっす!」
獄が頭を抱えても今からこの情報がかわるわけでもない。にこにこと衣装のこだわりを語りはじめた十四をみて、もう今日は好きにさせてやろうと獄は諦めた。
「それで、空劫はそれなんの仮装だ」
「知らん。そのへんにあったもの被っただけだから、まあ強いて言えば紙袋お化けか?」
だって拙僧には関係のねえ行事だし。十四に気を使ったのか、やや小さく続く言葉に獄は納得する。
「坊主には関係ねぇよな」
「それはそれとして菓子は食うからよこせ」
「本当にお前は、」
半顔になった獄はやれやれと立ち上がりキッチンへと消える。程なくしてお盆に三つのマグカップとプラスチック容器をのせて戻った。
「間に合せのコンビニのだからな。文句言うなよ」
獄がそう言ってそれぞれの前に置いたのはかぼちゃプリンだった。中央に絞られた生クリームの白とのコントラストが、卵のプリンとは違う鮮やかな黄色の色味を引き立てる。獄の宣言通り、この時期のコンビニの定番スイーツだった。
「うわ、これ美味しいやつっすよね!」
「南瓜か。なんだよちゃんと三つあるじゃねぇか」
獄は空劫の頭をまた軽く叩く。ぱすんとその拍子に目の位置がズレてしまったのか、空劫はバカスカ叩くなイテェなと言いながら早々に紙袋を取り去った。紙袋お化けからただの空劫にもどった彼の前から順にプリンの横へマグカップを並べる。その中にはカフェオレのような色味の液体か湯気を立てていたが、ほわりと浮かんだ湯気と一緒に鼻をくすぐるのはコーヒーではなくほうじ茶の香りだった。
「茶に牛乳いれるなよ」
眉間にシワを寄せる空劫に獄が少し笑う。
「知らないんすか空劫さん。ほうじ茶ラテめちゃくちゃ美味しいんすよ」
有名コーヒーチェーンでたまに飲むのだと力説する十四を、空劫が怪訝そうな顔で見つめる。
「お前、煎茶にも牛乳ぶち込んで飲むんか」
「お茶には入れないっすけど、でもほら抹茶ラテとかも美味しいじゃないっすか。ね、獄さん」
「まあ好みはあるだろうがな」
やっとのことで広いソファに横並びになっていただきますと手を合わせる。三人は早速プリンをスプーンで口に運ぶ。かぼちゃのしゃりっとした繊維感があっても滑らかなそれは自然な甘みで口内を満たす。ほろ苦いカラメルがまた一口を誘う。秋の味覚は知らずにそれぞれの口角を上げた。
「やっぱり美味しいっすね!」
「そうだな」
へにゃりと眉を下げた十四が頬をおさえる。獄はそれに同意した。空劫はスプーン置いてマグカップを覗いている。ふーっと息を吹きかけてから、初めての餌を食べる猫のように僅かにほうじ茶ラテを口に含んだ。一秒ほど検討したあとで、二、三度目を瞬く。
「うまい、か?」
まだ慣れないのか僅かに首を傾げつつも、今度は普段の飲み物と変わらない量を口に流している。悪くはなかったらしいと獄はくすくすと笑った。
甘い物と温かい飲み物は気分をおちつけて、他愛のない世間話を引っ張り出す。最近の出来事からなんてことのないバカな話まで、穏やかな時間はあっという間に過ぎてゆく。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせる十四と空劫。食器を手早く片付けた獄がソファにもどると、背もたれに深く身体を預けていた空劫がひょいと起き上がった。そのままなんの前触れもなく、まるでそうするのが当たり前かのように自然な動作で獄に口付ける。
「は? いや、っちょっと、待っ……」
獄が身を引くよりもはやくがっしりした手が後頭部へ周り、退路を塞がれる。
「こ、ら。何し、」
抗議をしようと不用意に口を開けば、熱い舌に口腔内への侵入を許す。歯列をなぞり、軟口蓋をくすぐる刺激に思わず身体を震わせれば、背後からするりと伸びてきた腕に抱きすくめられる。
「獄さん、自分もまだ足りないっす」
お菓子よりも随分と甘い甘い声が右耳から獄の脳を侵す。言葉は全て飲み込まれ、むぐ、というくぐもった音にしかならない。回された腕がするりと獄の薄い腹を撫でた。驚いた拍子に獄はがり、と空劫の唇に歯を当ててしまった。
「ってぇ」
空劫はどちらのものかわからない唾液で濡れた唇に滲んだ血を親指で拭う。ぎらりと光る金色が獄を刺すように見つめている。その視線から目をそらし、キスから解放された獄は慌てて身を捩った。
「っ、おい、お前ら何考えて」
「拙僧は菓子かいたずらかどっちかなんて言ってねぇだろ」
空劫の手が獄の太腿へと乗せられ、だから悪戯する権利があるよなとにやりと笑う。身を引いた獄は十四の胸にぽすりと収まってしまう。くつくつと体温と一緒に喉奥の笑い声が身体に響く。
「空劫さんに、いじわるされちゃうってことっすね。自分は今日は悪魔っすから、お菓子よりももっといいトリートほしいっす」
「おい、やめ……」
ハロウィンの夜はすぐそこに迫っていた。
ナゴ獄♀
「トリックオアトリートっす!」
十月三十一日。よく晴れた空の高くにイワシの群れのような雲が泳ぐ休日、獄の自宅に明るい声とともに十四が現れた。いつもよりキラキラとしたメイクに黒いマント、細身の黒いパンツはそのままだが、上半身は華やかなフリルとアクセサリーに彩られた白いブラウスだ。頭からはどこで手に入れてきたか分からない、黒い捻れた角が二本生えている。なるほどそのままライブへ行けそうなビジュアル系らしい格好だ。ピタリとポーズをとった姿はきっとそのままブロマイドにだってできるだろう。背景が獄の自宅でなければの話であるが。
獄は何も言わず、ただ手に持っていたタバコを灰皿に押し付けてその火を消した。
「邪魔すんぜ、とりあえず菓子よこせ」
当然のように上がりこむ空劫は、十四とは正反対のいつも通りの服装だ。ただ一点、目元に穴だけ開けた薄茶の紙袋をすっぽりと被っていた。見覚えのある店名と縁についたままのビニールのテープに生活感が溢れている。横柄な態度と相まってどちらかというと仮装というよりも銀行強盗という方が近い。我が物顔でソファで隣に沈んだ空劫の頭を獄が叩くと紙袋が大げさな音をたてた。
「お前らアポイントって知ってるか」
何度勝手に入ってくるなと言ってみてもとにかく無駄だったので、最近の獄はこの二人に新しい概念を覚えさせようと苦心していた。
「知らね」
「そんなことより、どうっすか?
この悪魔仮装、めちゃくちゃ良くできてるっすよね!」
十四が華麗にターンすれば、ふわりと広がったマントの後ろから小ぶりなコウモリの羽と彼の膝ほどまである尻尾がのぞいた。
「人と会う時はあらかじめ連絡をだな……」
「空劫さんにはずっと前から伝えてあったのに、今日自分が行ってから準備したんすよ」
「菓子を食うのに仮装がいるんだろ、ちゃんとしたじゃねぇか」
「いやいや、せめてシーツ被って欲しいっす」
「あんなデケェ布に穴開けたらもったいねぇだろうが」
「お前ら俺の話を聞け!」
「聞いてる聞いてる」
「聞いてるっすよ」
「聞いてねぇだろ、ったく本当に毎度毎度……」
「ほら、ちゃんと連絡したっす」
十四が示した画面には、ちょうど十分前の日時が書かれたメッセージに、確かに『今から獄さんのお家に空劫さんと向かうっす』と書かれている。
「そんなもん連絡になるか!」
「えぇ、自分はちゃんと思い出したのに……」
「次は前日には思い出してくれ、頼むから」
「はぁい。それより、この仮装似合ってないっすか? 今年は気合いを入れてきた、悪魔になってみたっす」
やっぱりなんにも聞いてないだろと獄は頭を抱える。
「いや、似合っちゃいるんだけどな。そこじゃなくて」
「やった! 空劫さん、聞きました?
頑張った甲斐があったっす!」
獄が頭を抱えても今からこの情報がかわるわけでもない。にこにこと衣装のこだわりを語りはじめた十四をみて、もう今日は好きにさせてやろうと獄は諦めた。
「それで、空劫はそれなんの仮装だ」
「知らん。そのへんにあったもの被っただけだから、まあ強いて言えば紙袋お化けか?」
だって拙僧には関係のねえ行事だし。十四に気を使ったのか、やや小さく続く言葉に獄は納得する。
「坊主には関係ねぇよな」
「それはそれとして菓子は食うからよこせ」
「本当にお前は、」
半顔になった獄はやれやれと立ち上がりキッチンへと消える。程なくしてお盆に三つのマグカップとプラスチック容器をのせて戻った。
「間に合せのコンビニのだからな。文句言うなよ」
獄がそう言ってそれぞれの前に置いたのはかぼちゃプリンだった。中央に絞られた生クリームの白とのコントラストが、卵のプリンとは違う鮮やかな黄色の色味を引き立てる。獄の宣言通り、この時期のコンビニの定番スイーツだった。
「うわ、これ美味しいやつっすよね!」
「南瓜か。なんだよちゃんと三つあるじゃねぇか」
獄は空劫の頭をまた軽く叩く。ぱすんとその拍子に目の位置がズレてしまったのか、空劫はバカスカ叩くなイテェなと言いながら早々に紙袋を取り去った。紙袋お化けからただの空劫にもどった彼の前から順にプリンの横へマグカップを並べる。その中にはカフェオレのような色味の液体か湯気を立てていたが、ほわりと浮かんだ湯気と一緒に鼻をくすぐるのはコーヒーではなくほうじ茶の香りだった。
「茶に牛乳いれるなよ」
眉間にシワを寄せる空劫に獄が少し笑う。
「知らないんすか空劫さん。ほうじ茶ラテめちゃくちゃ美味しいんすよ」
有名コーヒーチェーンでたまに飲むのだと力説する十四を、空劫が怪訝そうな顔で見つめる。
「お前、煎茶にも牛乳ぶち込んで飲むんか」
「お茶には入れないっすけど、でもほら抹茶ラテとかも美味しいじゃないっすか。ね、獄さん」
「まあ好みはあるだろうがな」
やっとのことで広いソファに横並びになっていただきますと手を合わせる。三人は早速プリンをスプーンで口に運ぶ。かぼちゃのしゃりっとした繊維感があっても滑らかなそれは自然な甘みで口内を満たす。ほろ苦いカラメルがまた一口を誘う。秋の味覚は知らずにそれぞれの口角を上げた。
「やっぱり美味しいっすね!」
「そうだな」
へにゃりと眉を下げた十四が頬をおさえる。獄はそれに同意した。空劫はスプーン置いてマグカップを覗いている。ふーっと息を吹きかけてから、初めての餌を食べる猫のように僅かにほうじ茶ラテを口に含んだ。一秒ほど検討したあとで、二、三度目を瞬く。
「うまい、か?」
まだ慣れないのか僅かに首を傾げつつも、今度は普段の飲み物と変わらない量を口に流している。悪くはなかったらしいと獄はくすくすと笑った。
甘い物と温かい飲み物は気分をおちつけて、他愛のない世間話を引っ張り出す。最近の出来事からなんてことのないバカな話まで、穏やかな時間はあっという間に過ぎてゆく。
「ごちそうさまでした」
きちんと手を合わせる十四と空劫。食器を手早く片付けた獄がソファにもどると、背もたれに深く身体を預けていた空劫がひょいと起き上がった。そのままなんの前触れもなく、まるでそうするのが当たり前かのように自然な動作で獄に口付ける。
「は? いや、っちょっと、待っ……」
獄が身を引くよりもはやくがっしりした手が後頭部へ周り、退路を塞がれる。
「こ、ら。何し、」
抗議をしようと不用意に口を開けば、熱い舌に口腔内への侵入を許す。歯列をなぞり、軟口蓋をくすぐる刺激に思わず身体を震わせれば、背後からするりと伸びてきた腕に抱きすくめられる。
「獄さん、自分もまだ足りないっす」
お菓子よりも随分と甘い甘い声が右耳から獄の脳を侵す。言葉は全て飲み込まれ、むぐ、というくぐもった音にしかならない。回された腕がするりと獄の薄い腹を撫でた。驚いた拍子に獄はがり、と空劫の唇に歯を当ててしまった。
「ってぇ」
空劫はどちらのものかわからない唾液で濡れた唇に滲んだ血を親指で拭う。ぎらりと光る金色が獄を刺すように見つめている。その視線から目をそらし、キスから解放された獄は慌てて身を捩った。
「っ、おい、お前ら何考えて」
「拙僧は菓子かいたずらかどっちかなんて言ってねぇだろ」
空劫の手が獄の太腿へと乗せられ、だから悪戯する権利があるよなとにやりと笑う。身を引いた獄は十四の胸にぽすりと収まってしまう。くつくつと体温と一緒に喉奥の笑い声が身体に響く。
「空劫さんに、いじわるされちゃうってことっすね。自分は今日は悪魔っすから、お菓子よりももっといいトリートほしいっす」
「おい、やめ……」
ハロウィンの夜はすぐそこに迫っていた。
角砂糖の雨
角砂糖の雨
じゅしひと♀
※ジューンブライドがテーマのオムニバス形式のシリーズ
1.祝福
『お花見をしませんか』
十四の送ったメッセージにはすぐに既読のマークがついた。
休日に少し遅い朝食を終え、テレビの中のスプリングコートのアナウンサーが「明日は雨」という予報を読み上げるのを聞いて、慌てて送ったものだった。メッセージの相手は獄で、今日が休日であることは知っていた。
『もうしてる』
程なくして見覚えのある靴のつま先と桜色の道の写真が添えられた飾り気のない言葉がかえってくる。獄はすでに花見を楽しんでいるらしい。出遅れてしまった焦りとともに誰かと一緒なのかと問えば、ひとりだと返ってきた。つづけてナゴヤでもそこそこに有名な公園の名前。十四は急いで所要時間を検索した。十五分後に家を出れば一時間以内にその場所までたどり着ける。
『自分も今から行くっす!』
そのメッセージに返信はなかったが、獄が嫌ならそもそも場所を送ってはこない。沈黙を肯定と受け取って十四は自室へと急いだ。準備の時間がどんなに短かろうと、好きな人に会いに行くのに手は抜けない。いつだって一番格好いい自分を見て欲しかった。
無事に乗ることができた予定の電車は大きな遅れもなく目的地の最寄り駅にたどり着いた。おそらく目的を同じとする多くの人たちに流されるようにして駅舎を出る。あいにく空は薄く曇っていたが、春らしく暖かかったので別段気にもならなかった。駅を出た旨をメッセージとして送り、そのまま公園内へと歩みを進める。入口からすでに見事なソメイヨシノの並木が出迎えてくれ、周囲のざわめきも喜色を含む明るい音となった。長身を生かしてきょろきょろとあたりを見回してみるも入口近くに獄の姿はない。そんな時手元に一通メッセージが届いた。
『道なりに進んで広場の奥、右側に細い道があるからそこを真っ直ぐ』
案内に従い屋台の続く広い通りを抜ける。ソースの焦げるいい匂いも、丸い形のカステラの甘い香りも、きらきらしたフルーツの飴も足を止める理由にはならない。人ごみを縫うように抜けると言葉の通り大きな広場があった。噴水を横目に家族連れや団体客の広げたとりどりのレジャーシートの列を進んでゆく。きもちのよい風が吹くたびに小さな花弁が舞う。
「右側の細い道、右側の細い道、っとあれかな……?」
周りに桜の木は見当たらないが、ひっそりとした小道が確かにあった。新緑の季節と呼ぶにはまだ木々の葉は心もとなく、行き交う人もほとんどいないため、少し寂しい印象だ。やや不安になりながらも砂利道を進む。二つほどゆるやかなカーブを曲がった先にはわずかに開けた場所があった。一本だけ桜の木があるその場所は、広場からも離れているためか人気がない。
「よぉ」
桜の木に向かい合うようにひっそりと置かれた木陰のベンチに一人、獄は足を組んで座っていた。ふわっと目元が下がるこの顔が十四は好きだった。
「獄さん!」
駆けよれば獄は隣に置いていた鞄を反対側へと避ける。座ってもよいということなのだろう。遠慮なく隣へ腰をおろし、獄を見やる。オーバーサイズの白いシャツに細身のベージュのパンツ、ゴールドのパーツの細い黒のベルト。一見すると仕事服に見えそうだが、素材と着こなしで適度にカジュアルで、いつもと違うざっくりとまとめられた髪型も相まって休日なのだと特別な空気を感じる。
「迷わなかったか」
「はいっす」
柔らかな声に笑顔を返し、そのあとでわざとふくれっ面を作って見せる。
「それよりひどいっすよ。お花見するなら最初から誘ってほしかったっす」
「ははっ、仕方ねーだろ、俺も今日思いついたんだから」
「珍しいっすね、獄さんがそいういう行き当たりばったりなことするの」
「明日が雨だっていうからな」
薄紅色の色の爪がのった指先が十四の額を小突いて笑う。同じことを考えていたのが嬉しくてふくれっ面はすぐにへにゃりと崩れてしまった。
「えへ、自分たちお揃いっすね」
「はいはい」
甘く笑みを含んだ声にアマンダの入ったカバンを胸の前で抱きしめる。獄はベンチに置いていた紙コップに入っていた飲み物をあおるとふぅとひとつ息を吐いた。わずかな酒精に十四は鼻を鳴らす。
「あ、それビールっすか」
「なんだよ急に」
「ほんとに珍しいっすね」
基本的に獄は空却や十四の前では飲酒も喫煙も控えている。よって酔っぱらった獄を見ることはあまりないので、思わず物珍し気にその姿を見てしまう。
「こっちは成人なんだから別にいいだろ、大体お前が来るとは思ってなかったしな」
「しかも二杯目っす!」
「めざといな、お前」
紙コップの重なりを指摘すれば、獄が眉尻を下げた。この顔も珍しい。よくよくその顔を見れば、メイクだけではない血色の良さが分かる。
「だからご機嫌なんすね」
今日は会ってからというもの、笑顔が絶えないわけだ。その原因が自分ではないことに少し置いて行かれたような気がする。
「そんな顔するな、ほら」
空になったらしい紙コップと鞄を持って獄が立ち上がる。
「行くぞ」
同時に柔らかな風が桜の木を揺らした。光が透ける獄の髪に秒速五センチメートルの祝福が降りかかる。
「ほら」
なぜだか叫びだしたくなるような胸の痛みを飲み込んで、差し出された手をぎゅっと握る。
「はいっす」
この光景をどこかでまた見たいと十四は強く願うのだった。
2.装い
アーケードの一区画で行われている蚤の市のようなフリーマーケットのような、それなりの規模の露店市が開催されていた。アンティークな雑貨や、様々な古着、使用感がいい味を出している家具を取り扱う店もあれば、手作りのアクセサリーを取り扱うような店もあった。ゴールデンウィークということもあり人の賑わいもかなりある。獄は後で何か掘り出し物でも探してみようと考えつつ、隣の区画にある行きつけの花屋へと足を運んだ。
店先を彩る初夏らしいバラやカーネーション、アスターなど華やかな生花たちを尻目に、店の奥へと進む。今日は自分のための花ではなく、獄の大切な人のための花を探しに来たのだった。よくあるリンドウや菊を手に取ろうとしたとき、ふと小ぶりな白い花が目についた。つややかな濃い緑の葉の間からすらりと湾曲した茎がのび、釣り鐘型の小さな白い花が並ぶ様子もかわいらしいスズランだった。
先日ニュースで見たフランスの風習を思い出し、幸福が訪れるというその花の前で立ち止まる。わずかな逡巡のあとで、たまには変わったものでもいいかと獄は店員を呼び止めたのだった。
「ひとやさーーーーーん!」
人ごみの中でも良く通る声によばれ、獄は危うく手にしていた白磁のティーセットを取り落とすところだった。苦笑いをしている店主に断りを入れて検討していたそれをそっと戻すと、獄は顔をあげた。十数メートル向こうで、良く見知った青年――十四が大きく手を振りながら人ごみをかき分けるようにこちらへと向かってきていた。通行と商売の邪魔にならないように、と獄は道の端に避けてその到着を待ってやる。
「奇遇っすね!
お休みの日に会えるとは思ってなかったっす」
駆け寄った十四はわずかに息を切らせ、その場でわずかに跳ねるようにして喜びを表現している。
「ちょっと花屋に用事でな。お前は?」
十四は手にしていた紙袋の中を見せるように少し開いた。
「自分は衣装を買いに。古着とかハンドメイドって面白いものがお手頃価格で手に入るんすよ」
ちらとのぞきこめば、確かに装飾の多いコートのような服に、キラキラとしたブローチや、レースで編まれた手袋のような小物がおさまっている。なるほどと納得していると、十四がはっとした顔で獄の後方を見た。
「獄さん、あれ見たいっす!」
「えっ?」
ぱっと掴まれた腕をひかれるがまま、獄も歩き出す。十四とは目線が異なる獄は目的地が見えず、人ごみでせっかくのブーケがつぶれてしまわぬようにするのが精いっぱいだった。つかまれた時と同じくらい唐突に力強い手がするりと離れる。金色のメッシュを追いかけてニ、三人の間を抜けるとようやくその隣にたどり着いた。危ないだろうと文句を言おうとした瞬間に、ふわりと白い何かを頭からかぶせられた。視界が奪われる、というほどの物ではない。顔をあげればそれをかぶせたらしい張本人とごく薄い布ごしに視線がぶつかった。
ぐるりと花模様のレースに縁どられたヴェールの中に閉じ込められた獄は、十四が人生で見てきたどんなものよりも。
「かわいい」
雑踏に紛れてしまうほどの小さな囁き声が、蜂蜜よりも甘く獄の鼓膜を揺らす。獄はそれを聞かなかったことにして、そっと繊細な布を外した。
「急に腕を引っ張るな、それから店のものを勝手に触るな」
「つい、次の新曲にぴったりだなって思って興奮しちゃったっす。ごめんなさい」
眉を顰める獄から布を受け取ると、すぐに十四は店の主にその代金を支払った。改めてみればそれはアイボリーがかった古いマリアヴェールのようだ。
「いい買い物できたっす。次の新曲は天使をテーマにしてて、」
美しい布を紙袋に収めた十四の腕を、今度は獄が引っ張った。
「わかったから、邪魔になる前に行くぞ」
「あ、獄さん、次はあっちの靴が……!」
「うるさい、後で見に行ってやるから一旦落ち着け」
白昼夢のように一瞬の出来事に追いつかれてしまわないように獄のヒールが地面を蹴った。
3.煌めき
その日、十四は獄の自宅を訪ねていた。
玄関のチャイムを鳴らして、備え付けのインターホンのカメラに向かって手を振る。レンズの下の小さなスピーカーはガザガザとしたノイズと一緒に、うめき声ともため息とも取れない声をかえした。ややあってクレセント錠がまわる音がし、ゆっくりと扉が開く。少しゆったりとした服に髪を下した獄が扉に身体を預けるようにして十四に相対した。
「どうしたんだよ急に」
「なんとなく会いたくなってきちゃったっす」
「なんとなくってなぁ……」
これ見よがしなため息とともに獄が左手を額に添えた。その日は朝からしとしとと雨が降っていたせいか、昨日までの疲れからか、そんなに調子が良くない。正直なところ、こどもの世話をするつもりもなければ、誰かに会うつもりもなかった。よって適当な理由をつけて十四を帰し、ゆっくりとした休日を確保することにする。
「今日はなにも予定はないんすよね?」
獄の思惑を知ってかしらずか、十四はそんな言葉とともにこてんと首をかしげる。一昨日空却と三人で会ったときに、何気ない会話の中で週末の予定について話をしていた。空却はどこかの法要があるという話だったが、確かにそのきには獄の予定は何も入っていなかった。
「だからって急に来るなよ。
あと、来るならせめて連絡くらいしろ。アポイントを取れ」
予定も事情もあったものではないだろうとつづければ、もっともな言葉に十四の綺麗な瞳がゆれる。
「もしかしてなんか用事がはいっちゃったんすか……?」
形のいい眉がだんだんと下がってゆく。ここに拒絶をぶつけるのはわずかに気がひけてしまう。獄の中に罪悪感のようなものが顔を出していた。雨の中せっかくここまで来ているのだし……という気持ちと、それにしたって勝手すぎるという気持ちの間で天秤が揺れ動く。
どこかで見たような困り顔にうかがうように覗き込まれると、焦燥感にも似た何かに突き動かされるのだ。
「……いや、用事はないが」
しばらくの沈黙の後、結局折れたのは獄だった。
とたんに十四はぱあっと花のかんばせをほころばせる。
「ケーキ買ったんすよ。一緒に食べましょ、ね!」
そう言って小さな白い箱をみせれば獄はわずかに目を見開く。人の好意を無下にできない獄の天秤は傾いたまま止まった。この短時間で何度目かの盛大なため息とともに扉に預けていた身を引いてドアの隙間を広げてやる。
「おじゃまします!」
すっかり元気になった十四はいそいそと玄関をくぐった。他人の家に入るときに感じる自分とは少し違う匂いが鼻をくすぐる。珈琲と煙草の苦い香りの向こうにあるすこし甘い匂いが十四は好きだった。
「お前、本当に用事があったらどうする気だったんだ……」
扉を戻した獄がつぶやく声は聞かなかったことにする。
「適当に座ってろ、コーヒーいれてやるから」
「はぁい」
足取りも軽くリビングへと進み、勝手にここと決めた席に着く。机の上にあったひろげたままの雑誌は、閉じて獄がいつも使っているラックへ新聞とともに片づけた。スペースを確保したので白い箱を机に置き、クッションを抱えるとそわそわと獄を待つ。
ほどなくして、香ばしい香りの湯気の立つカップを二つ持った獄がキッチンから現れた。
「ほら」
十四の前に置かれたのは来客用のうすい水色のカップだ。隣に置かれた獄の白いカップ中身は普通のコーヒーだったが、十四のものにはミルクがはじめから入っている。靴を付けたわけではなかったが、きっと砂糖も入っているに違いなかった。わざわざ自分のために作られたそれを十四はにこやかに見つめて、ありがとうございますと告げる。
「客人には飲み物くらいふるまうだろ普通。
それよりどんなケーキなんだ?皿を持ってくる」
待ってましたと十四は箱に手をかけた。
「かわいいんすよ、ほら」
現れたケーキは一つだった。普通のピースのケーキよりは少しだけ大きいのだが、形はホールケーキをそのまま小さくしたような丸い形をしている。ケーキの上部は真っ白な生クリームが波うってまるで繊細なドレスの裾のようで、中心には小さなチョコレートのプレートが品よくのっている。なるほど、と声をあげた獄は一度キッチンにもどると、小さめのナイフと、カップにも似合いそうな水色の装飾のついた皿とフォークとを持ってもどった。
「ほら」
促されてナイフを握った十四は、もったいないとも思いつつケーキを真ん中で等分にした。ナイフを返せば、獄は器用にナイフをケーキサーバーのようにして底面へ差し入れ、それぞれの皿へと移す。チョコレートののったほうは、十四の前に置かれた。
手早く箱やナイフを片付けた獄がソファへ腰を下ろし、ふたりで並んで座る。それがなんだかくすぐったくて十四はクッションの端を握った。
「えへへ、」
「なんだよ」
「何でもないっす。食べましょう」
「ったく、食べたら帰れよ」
いただきますと手を重ねてから、それぞれが白いケーキへフォークをたてる。ふんわりとしたスポンジはすんなりときりわけることができて、口に運べば優しくほどけた。
「へぇ、うまいな」
思わず獄は目を見開く。スポンジの間にはフルーツなどはなく、うすく薄くクリームが挟まるのみでシンプルなつくりだ。その分スポンジにこだわりがあるのか、しっとりしたそれはほかの店のものよりも少し卵の味が濃いようだった。量が多いように見えた生クリームもあまり甘さがなく食べやすい。コーヒーに合いそうな、獄も好みの味だった。
「ここのケーキ、いつも誕生日とか特別な時に食べるんすよ。
気に入ってもらえて自分もうれしいっす」
十四はにこにことそう答える。
しばらくのあいだ他愛もない話をつづけながら、ケーキとコーヒーをゆっくりと楽しんだ。
「あれ、そういえば珍しいっすね」
十四の目がカップを持ち上げる獄の指先にとまった。
いつも綺麗に手入れをされ、プロの手によって派手すぎないシンプルなネイルが施されているされている爪が、今日はなんの装飾もなく素のままであった。
「あぁ、昨日の夕方一本はがれたんだよ。他の指ももう変え時が近かったし一本だけ修復するのもどうかと思ってな。
とはいえ昨日は 店に無理矢理時間取ってもらったようなもんで、全部の指にデザインを入れる時間は到底なかったから、とりあえずオフだけ頼んだんだ」
その時のことを思い出したのか、獄はわずかに眉を顰め、カップを置いて己の爪を見る。
「問題は今日明日は予約がいっぱいだったことだな。まぁ来週どこかで時間を作るさ」
「じゃあ自分がやってみてもいいっすか」
十四はすっと手を挙げた。
「獄さん確かセルフネイルの道具も持ってたっすよね」
「……持ってはいるが」
「自分も結構ネイルするんで、次にお店に行くまでの間くらいなら!
フレンチもワンカラーでもアレンジでもできるっす!」
皿を片付ける間中隣でプレゼンをされ、結局勢いに押された獄は十四の前にネイルのセットを並べることになった。
「わ、すごい、これ夏向けの限定のカラーっすよね。こっちのブランドはどんなカラーでも肌なじみがいいって噂で気になってたんすけど、自分が買うにはちょっと勇気がいるから買えなかったやつ……!」
目を輝かせてあれこれ検分していた十四だが、しばらくしてようやく獄を振りかえった。
「道具も充実してるんで、何でもできそうっす!」
「何でもできるかもしれんが、仕事をするんだからそんなに派手なのにはしないからな」
「デザインなどんなのがいいっすかね」
「だから凝ったのでなくていいんだよ」
あれこれと案を出しながらイメージを固めてゆく。極力シンプルにしたい獄と、特別なことをやってみたい十四との間でしばらくの攻防戦ののち、最終的に肌なじみの良いシアなオフホワイトをベースにして、一本だけ淡いカラーで花のデザインを入れるということで決着がついた。
「どっと疲れた……」
獄は深くソファに身を沈める。
十四はクッションを一つ獄の膝上に乗せて両手を置くように促した。ひとやはソファに身を沈めたまま指示に従った。十四はさらにもう一つのクッションを床に置き、そこを自分の席と決める。身長の高い彼が床に座れば、ちょうど獄の手が作業をしやすい位置に来た。
「無理はしなくていいからな」
爪の油分を拭く十四に獄が声をかける。実のことを言うとやや心配なのであった。十四のネイルといえば、現在彼の手元を飾っている黒のワンカラーをはじめ、ライブの時など日常生活に支障をきたさないか心配になるようなデザインを施しているときもある。また、自分でやるのと人に施すのでは勝手も違うだろう。
「失礼しまーす」
すっかりネイリスト気分の十四は準備をすると早速ベースコートを獄の指先へのせていった。獄の心配をよそに、その手元に危なげはない。当然プロとは比べるまでもないが、長い指は器用に筆を操りはみ出すこともよれることもなく丁寧に進んでゆく。そのあとに使うカラーもきちんと獄の指定の物が机に並べられていた。
作業をするまなざしは真剣そのもので、それ以上声をかけるのもなんだか憚られる。部屋はしんとしてパラパラと雨が屋根に当たる音だけが遠くに聞こえた。獄は一旦任せてみるかと肩の力を抜いたのだった。
「これでよし」
十四がそう言って筆を置いたのはそれから一時間以上たってからだった。カラーを施した後に右手の薬指へ淡い色で青い紫陽花を描き上げ、後は乾くのを待ってトップコードで仕上げるだけというところだ。水彩画のような紫陽花は十四の目から見てもなかなかきれいにできていて、その出来栄えを見てもらおうと顔をあげて気づく。
獄は静かに寝息を立てていた。
疲れがたまっていたのだろう。うっすらと目の下に隈ができていても、いつものようにしっかりとしたメイクをしていなくても、十四は美しいこの人がどうしようもなく好きだった。一回り小さい手にそっと自分の手を重ねる。獄の瞼は開く気配がない。
十四の心の中にちょっとした悪戯心がわいた。音を立てないよう道具箱から目ぼしいものをとりだし、先ほどまで重ねていた左手から薬指をそっととった。簡単なアレンジを施した後に満足げに頷き、静かに立ち上がって、柔らかな素材のストールをもってくると眠る獄の肩へとかける。その拍子に獄の髪が一筋はらりと崩れてその顔にかかった。
十四はゆっくりと身体を寄せ、ソファの背もたれに手をついて獄を見下ろす。こんなに間近で獄の顔を見るのは初めてかもしれなかった。冬の朝のような薄い色の瞳は瞼の向こうに隠され、長いまつげが影を落とす頬はまろく、わずかに開いたつややかな唇は誘うようにわずかに開かれて甘くすら感じる吐息をこぼしている。吸い寄せられるように十四はさらに身をかがめた。雨の音すらもう遠くて聞こえないのに、自分の心臓の音だけが獄に聞こえてしまうのではないかと思うほどにうるさかった。ガラスの彫刻に触れるよりも繊細に、綺麗な指先がその髪をすくって小さな耳へとかける。
十四はゆっくりと目を閉じる。鼻先がわずかに触れた。
「……いつか、きっと」
囁きは届かずに、雨粒と一緒に地面へ落ちていった。
「上手いもんだな」
純粋な感心から獄は自分の指先と十四とを見比べる。
つやりと輝くワンカラーで統一された爪のうち、左右の薬指にだけアレンジが施されている。右手には丸い紫陽花が想像していたよりも落ち着いた印象で爪を染め、左手には微細なラメのシルバーと紫陽花と同じブルーのラインが細く入っている。アクセントとして添えらえた透明で小さなストーンがキラリと輝いていた。
「雨粒みたいできれいだ」
そのことば通り、嫌味のない程度かつ手元にアクセサリーがなくとも上品で華やかに見える仕上がりだった。
「喜んでもらえてよかったっす……!」
はにかんだ十四はアマンダを手に帰り支度をしていた。いつの間にか雨は止み、レースのカーテンの向こうからさす光がオレンジ色に染まっている。
「途中寝ちまって悪いな、今度埋め合わせするから何か考えておいてくれ」
ややバツの悪そうな獄は玄関先まで十四を送りながら頬を掻く。その言葉に十四はあっと声をあげた。
「じゃあ、今度やるライブを見に来てほしいっす!
モノトーンがテーマなんすけど、衣装に今までになくらい凝っててテンションが上がるんすよ。新曲に合わせた構成にはするつもりで、鉄板は抑えつつちょっと豪華で大人っぽい感じに仕上げようって話をしてて……」
その場でくるりと回って見せながらライブの演出について語りだすが、当然語り終わる前に玄関の扉の前へたどり着いてしまう。ふっと言葉がとぎれ、二人の間に静寂が訪れた。扉を開けながら十四は肩越しに振り返って獄の瞳を真っ直ぐにとらえる。
「自分、獄さんに『格好いい』って言ってもらえるようになるまで頑張るんで
もうちょっとだけ待っててほしいっす」
扉の隙間から差す夕日が眩しくて、獄からその表情はうかがえない。だが、光に透ける睫毛の下で、宝石のような瞳がちかちかと輝いていることだけはわかった。
獄が口を開くよりも早く「じゃあまた今度!」という言葉とともに踏み出していった青年の背はあんなに広かっただろうか。静かになった玄関で獄はしばらくの間立ち尽くすのだった。
じゅしひと♀
※ジューンブライドがテーマのオムニバス形式のシリーズ
1.祝福
『お花見をしませんか』
十四の送ったメッセージにはすぐに既読のマークがついた。
休日に少し遅い朝食を終え、テレビの中のスプリングコートのアナウンサーが「明日は雨」という予報を読み上げるのを聞いて、慌てて送ったものだった。メッセージの相手は獄で、今日が休日であることは知っていた。
『もうしてる』
程なくして見覚えのある靴のつま先と桜色の道の写真が添えられた飾り気のない言葉がかえってくる。獄はすでに花見を楽しんでいるらしい。出遅れてしまった焦りとともに誰かと一緒なのかと問えば、ひとりだと返ってきた。つづけてナゴヤでもそこそこに有名な公園の名前。十四は急いで所要時間を検索した。十五分後に家を出れば一時間以内にその場所までたどり着ける。
『自分も今から行くっす!』
そのメッセージに返信はなかったが、獄が嫌ならそもそも場所を送ってはこない。沈黙を肯定と受け取って十四は自室へと急いだ。準備の時間がどんなに短かろうと、好きな人に会いに行くのに手は抜けない。いつだって一番格好いい自分を見て欲しかった。
無事に乗ることができた予定の電車は大きな遅れもなく目的地の最寄り駅にたどり着いた。おそらく目的を同じとする多くの人たちに流されるようにして駅舎を出る。あいにく空は薄く曇っていたが、春らしく暖かかったので別段気にもならなかった。駅を出た旨をメッセージとして送り、そのまま公園内へと歩みを進める。入口からすでに見事なソメイヨシノの並木が出迎えてくれ、周囲のざわめきも喜色を含む明るい音となった。長身を生かしてきょろきょろとあたりを見回してみるも入口近くに獄の姿はない。そんな時手元に一通メッセージが届いた。
『道なりに進んで広場の奥、右側に細い道があるからそこを真っ直ぐ』
案内に従い屋台の続く広い通りを抜ける。ソースの焦げるいい匂いも、丸い形のカステラの甘い香りも、きらきらしたフルーツの飴も足を止める理由にはならない。人ごみを縫うように抜けると言葉の通り大きな広場があった。噴水を横目に家族連れや団体客の広げたとりどりのレジャーシートの列を進んでゆく。きもちのよい風が吹くたびに小さな花弁が舞う。
「右側の細い道、右側の細い道、っとあれかな……?」
周りに桜の木は見当たらないが、ひっそりとした小道が確かにあった。新緑の季節と呼ぶにはまだ木々の葉は心もとなく、行き交う人もほとんどいないため、少し寂しい印象だ。やや不安になりながらも砂利道を進む。二つほどゆるやかなカーブを曲がった先にはわずかに開けた場所があった。一本だけ桜の木があるその場所は、広場からも離れているためか人気がない。
「よぉ」
桜の木に向かい合うようにひっそりと置かれた木陰のベンチに一人、獄は足を組んで座っていた。ふわっと目元が下がるこの顔が十四は好きだった。
「獄さん!」
駆けよれば獄は隣に置いていた鞄を反対側へと避ける。座ってもよいということなのだろう。遠慮なく隣へ腰をおろし、獄を見やる。オーバーサイズの白いシャツに細身のベージュのパンツ、ゴールドのパーツの細い黒のベルト。一見すると仕事服に見えそうだが、素材と着こなしで適度にカジュアルで、いつもと違うざっくりとまとめられた髪型も相まって休日なのだと特別な空気を感じる。
「迷わなかったか」
「はいっす」
柔らかな声に笑顔を返し、そのあとでわざとふくれっ面を作って見せる。
「それよりひどいっすよ。お花見するなら最初から誘ってほしかったっす」
「ははっ、仕方ねーだろ、俺も今日思いついたんだから」
「珍しいっすね、獄さんがそいういう行き当たりばったりなことするの」
「明日が雨だっていうからな」
薄紅色の色の爪がのった指先が十四の額を小突いて笑う。同じことを考えていたのが嬉しくてふくれっ面はすぐにへにゃりと崩れてしまった。
「えへ、自分たちお揃いっすね」
「はいはい」
甘く笑みを含んだ声にアマンダの入ったカバンを胸の前で抱きしめる。獄はベンチに置いていた紙コップに入っていた飲み物をあおるとふぅとひとつ息を吐いた。わずかな酒精に十四は鼻を鳴らす。
「あ、それビールっすか」
「なんだよ急に」
「ほんとに珍しいっすね」
基本的に獄は空却や十四の前では飲酒も喫煙も控えている。よって酔っぱらった獄を見ることはあまりないので、思わず物珍し気にその姿を見てしまう。
「こっちは成人なんだから別にいいだろ、大体お前が来るとは思ってなかったしな」
「しかも二杯目っす!」
「めざといな、お前」
紙コップの重なりを指摘すれば、獄が眉尻を下げた。この顔も珍しい。よくよくその顔を見れば、メイクだけではない血色の良さが分かる。
「だからご機嫌なんすね」
今日は会ってからというもの、笑顔が絶えないわけだ。その原因が自分ではないことに少し置いて行かれたような気がする。
「そんな顔するな、ほら」
空になったらしい紙コップと鞄を持って獄が立ち上がる。
「行くぞ」
同時に柔らかな風が桜の木を揺らした。光が透ける獄の髪に秒速五センチメートルの祝福が降りかかる。
「ほら」
なぜだか叫びだしたくなるような胸の痛みを飲み込んで、差し出された手をぎゅっと握る。
「はいっす」
この光景をどこかでまた見たいと十四は強く願うのだった。
2.装い
アーケードの一区画で行われている蚤の市のようなフリーマーケットのような、それなりの規模の露店市が開催されていた。アンティークな雑貨や、様々な古着、使用感がいい味を出している家具を取り扱う店もあれば、手作りのアクセサリーを取り扱うような店もあった。ゴールデンウィークということもあり人の賑わいもかなりある。獄は後で何か掘り出し物でも探してみようと考えつつ、隣の区画にある行きつけの花屋へと足を運んだ。
店先を彩る初夏らしいバラやカーネーション、アスターなど華やかな生花たちを尻目に、店の奥へと進む。今日は自分のための花ではなく、獄の大切な人のための花を探しに来たのだった。よくあるリンドウや菊を手に取ろうとしたとき、ふと小ぶりな白い花が目についた。つややかな濃い緑の葉の間からすらりと湾曲した茎がのび、釣り鐘型の小さな白い花が並ぶ様子もかわいらしいスズランだった。
先日ニュースで見たフランスの風習を思い出し、幸福が訪れるというその花の前で立ち止まる。わずかな逡巡のあとで、たまには変わったものでもいいかと獄は店員を呼び止めたのだった。
「ひとやさーーーーーん!」
人ごみの中でも良く通る声によばれ、獄は危うく手にしていた白磁のティーセットを取り落とすところだった。苦笑いをしている店主に断りを入れて検討していたそれをそっと戻すと、獄は顔をあげた。十数メートル向こうで、良く見知った青年――十四が大きく手を振りながら人ごみをかき分けるようにこちらへと向かってきていた。通行と商売の邪魔にならないように、と獄は道の端に避けてその到着を待ってやる。
「奇遇っすね!
お休みの日に会えるとは思ってなかったっす」
駆け寄った十四はわずかに息を切らせ、その場でわずかに跳ねるようにして喜びを表現している。
「ちょっと花屋に用事でな。お前は?」
十四は手にしていた紙袋の中を見せるように少し開いた。
「自分は衣装を買いに。古着とかハンドメイドって面白いものがお手頃価格で手に入るんすよ」
ちらとのぞきこめば、確かに装飾の多いコートのような服に、キラキラとしたブローチや、レースで編まれた手袋のような小物がおさまっている。なるほどと納得していると、十四がはっとした顔で獄の後方を見た。
「獄さん、あれ見たいっす!」
「えっ?」
ぱっと掴まれた腕をひかれるがまま、獄も歩き出す。十四とは目線が異なる獄は目的地が見えず、人ごみでせっかくのブーケがつぶれてしまわぬようにするのが精いっぱいだった。つかまれた時と同じくらい唐突に力強い手がするりと離れる。金色のメッシュを追いかけてニ、三人の間を抜けるとようやくその隣にたどり着いた。危ないだろうと文句を言おうとした瞬間に、ふわりと白い何かを頭からかぶせられた。視界が奪われる、というほどの物ではない。顔をあげればそれをかぶせたらしい張本人とごく薄い布ごしに視線がぶつかった。
ぐるりと花模様のレースに縁どられたヴェールの中に閉じ込められた獄は、十四が人生で見てきたどんなものよりも。
「かわいい」
雑踏に紛れてしまうほどの小さな囁き声が、蜂蜜よりも甘く獄の鼓膜を揺らす。獄はそれを聞かなかったことにして、そっと繊細な布を外した。
「急に腕を引っ張るな、それから店のものを勝手に触るな」
「つい、次の新曲にぴったりだなって思って興奮しちゃったっす。ごめんなさい」
眉を顰める獄から布を受け取ると、すぐに十四は店の主にその代金を支払った。改めてみればそれはアイボリーがかった古いマリアヴェールのようだ。
「いい買い物できたっす。次の新曲は天使をテーマにしてて、」
美しい布を紙袋に収めた十四の腕を、今度は獄が引っ張った。
「わかったから、邪魔になる前に行くぞ」
「あ、獄さん、次はあっちの靴が……!」
「うるさい、後で見に行ってやるから一旦落ち着け」
白昼夢のように一瞬の出来事に追いつかれてしまわないように獄のヒールが地面を蹴った。
3.煌めき
その日、十四は獄の自宅を訪ねていた。
玄関のチャイムを鳴らして、備え付けのインターホンのカメラに向かって手を振る。レンズの下の小さなスピーカーはガザガザとしたノイズと一緒に、うめき声ともため息とも取れない声をかえした。ややあってクレセント錠がまわる音がし、ゆっくりと扉が開く。少しゆったりとした服に髪を下した獄が扉に身体を預けるようにして十四に相対した。
「どうしたんだよ急に」
「なんとなく会いたくなってきちゃったっす」
「なんとなくってなぁ……」
これ見よがしなため息とともに獄が左手を額に添えた。その日は朝からしとしとと雨が降っていたせいか、昨日までの疲れからか、そんなに調子が良くない。正直なところ、こどもの世話をするつもりもなければ、誰かに会うつもりもなかった。よって適当な理由をつけて十四を帰し、ゆっくりとした休日を確保することにする。
「今日はなにも予定はないんすよね?」
獄の思惑を知ってかしらずか、十四はそんな言葉とともにこてんと首をかしげる。一昨日空却と三人で会ったときに、何気ない会話の中で週末の予定について話をしていた。空却はどこかの法要があるという話だったが、確かにそのきには獄の予定は何も入っていなかった。
「だからって急に来るなよ。
あと、来るならせめて連絡くらいしろ。アポイントを取れ」
予定も事情もあったものではないだろうとつづければ、もっともな言葉に十四の綺麗な瞳がゆれる。
「もしかしてなんか用事がはいっちゃったんすか……?」
形のいい眉がだんだんと下がってゆく。ここに拒絶をぶつけるのはわずかに気がひけてしまう。獄の中に罪悪感のようなものが顔を出していた。雨の中せっかくここまで来ているのだし……という気持ちと、それにしたって勝手すぎるという気持ちの間で天秤が揺れ動く。
どこかで見たような困り顔にうかがうように覗き込まれると、焦燥感にも似た何かに突き動かされるのだ。
「……いや、用事はないが」
しばらくの沈黙の後、結局折れたのは獄だった。
とたんに十四はぱあっと花のかんばせをほころばせる。
「ケーキ買ったんすよ。一緒に食べましょ、ね!」
そう言って小さな白い箱をみせれば獄はわずかに目を見開く。人の好意を無下にできない獄の天秤は傾いたまま止まった。この短時間で何度目かの盛大なため息とともに扉に預けていた身を引いてドアの隙間を広げてやる。
「おじゃまします!」
すっかり元気になった十四はいそいそと玄関をくぐった。他人の家に入るときに感じる自分とは少し違う匂いが鼻をくすぐる。珈琲と煙草の苦い香りの向こうにあるすこし甘い匂いが十四は好きだった。
「お前、本当に用事があったらどうする気だったんだ……」
扉を戻した獄がつぶやく声は聞かなかったことにする。
「適当に座ってろ、コーヒーいれてやるから」
「はぁい」
足取りも軽くリビングへと進み、勝手にここと決めた席に着く。机の上にあったひろげたままの雑誌は、閉じて獄がいつも使っているラックへ新聞とともに片づけた。スペースを確保したので白い箱を机に置き、クッションを抱えるとそわそわと獄を待つ。
ほどなくして、香ばしい香りの湯気の立つカップを二つ持った獄がキッチンから現れた。
「ほら」
十四の前に置かれたのは来客用のうすい水色のカップだ。隣に置かれた獄の白いカップ中身は普通のコーヒーだったが、十四のものにはミルクがはじめから入っている。靴を付けたわけではなかったが、きっと砂糖も入っているに違いなかった。わざわざ自分のために作られたそれを十四はにこやかに見つめて、ありがとうございますと告げる。
「客人には飲み物くらいふるまうだろ普通。
それよりどんなケーキなんだ?皿を持ってくる」
待ってましたと十四は箱に手をかけた。
「かわいいんすよ、ほら」
現れたケーキは一つだった。普通のピースのケーキよりは少しだけ大きいのだが、形はホールケーキをそのまま小さくしたような丸い形をしている。ケーキの上部は真っ白な生クリームが波うってまるで繊細なドレスの裾のようで、中心には小さなチョコレートのプレートが品よくのっている。なるほど、と声をあげた獄は一度キッチンにもどると、小さめのナイフと、カップにも似合いそうな水色の装飾のついた皿とフォークとを持ってもどった。
「ほら」
促されてナイフを握った十四は、もったいないとも思いつつケーキを真ん中で等分にした。ナイフを返せば、獄は器用にナイフをケーキサーバーのようにして底面へ差し入れ、それぞれの皿へと移す。チョコレートののったほうは、十四の前に置かれた。
手早く箱やナイフを片付けた獄がソファへ腰を下ろし、ふたりで並んで座る。それがなんだかくすぐったくて十四はクッションの端を握った。
「えへへ、」
「なんだよ」
「何でもないっす。食べましょう」
「ったく、食べたら帰れよ」
いただきますと手を重ねてから、それぞれが白いケーキへフォークをたてる。ふんわりとしたスポンジはすんなりときりわけることができて、口に運べば優しくほどけた。
「へぇ、うまいな」
思わず獄は目を見開く。スポンジの間にはフルーツなどはなく、うすく薄くクリームが挟まるのみでシンプルなつくりだ。その分スポンジにこだわりがあるのか、しっとりしたそれはほかの店のものよりも少し卵の味が濃いようだった。量が多いように見えた生クリームもあまり甘さがなく食べやすい。コーヒーに合いそうな、獄も好みの味だった。
「ここのケーキ、いつも誕生日とか特別な時に食べるんすよ。
気に入ってもらえて自分もうれしいっす」
十四はにこにことそう答える。
しばらくのあいだ他愛もない話をつづけながら、ケーキとコーヒーをゆっくりと楽しんだ。
「あれ、そういえば珍しいっすね」
十四の目がカップを持ち上げる獄の指先にとまった。
いつも綺麗に手入れをされ、プロの手によって派手すぎないシンプルなネイルが施されているされている爪が、今日はなんの装飾もなく素のままであった。
「あぁ、昨日の夕方一本はがれたんだよ。他の指ももう変え時が近かったし一本だけ修復するのもどうかと思ってな。
とはいえ昨日は 店に無理矢理時間取ってもらったようなもんで、全部の指にデザインを入れる時間は到底なかったから、とりあえずオフだけ頼んだんだ」
その時のことを思い出したのか、獄はわずかに眉を顰め、カップを置いて己の爪を見る。
「問題は今日明日は予約がいっぱいだったことだな。まぁ来週どこかで時間を作るさ」
「じゃあ自分がやってみてもいいっすか」
十四はすっと手を挙げた。
「獄さん確かセルフネイルの道具も持ってたっすよね」
「……持ってはいるが」
「自分も結構ネイルするんで、次にお店に行くまでの間くらいなら!
フレンチもワンカラーでもアレンジでもできるっす!」
皿を片付ける間中隣でプレゼンをされ、結局勢いに押された獄は十四の前にネイルのセットを並べることになった。
「わ、すごい、これ夏向けの限定のカラーっすよね。こっちのブランドはどんなカラーでも肌なじみがいいって噂で気になってたんすけど、自分が買うにはちょっと勇気がいるから買えなかったやつ……!」
目を輝かせてあれこれ検分していた十四だが、しばらくしてようやく獄を振りかえった。
「道具も充実してるんで、何でもできそうっす!」
「何でもできるかもしれんが、仕事をするんだからそんなに派手なのにはしないからな」
「デザインなどんなのがいいっすかね」
「だから凝ったのでなくていいんだよ」
あれこれと案を出しながらイメージを固めてゆく。極力シンプルにしたい獄と、特別なことをやってみたい十四との間でしばらくの攻防戦ののち、最終的に肌なじみの良いシアなオフホワイトをベースにして、一本だけ淡いカラーで花のデザインを入れるということで決着がついた。
「どっと疲れた……」
獄は深くソファに身を沈める。
十四はクッションを一つ獄の膝上に乗せて両手を置くように促した。ひとやはソファに身を沈めたまま指示に従った。十四はさらにもう一つのクッションを床に置き、そこを自分の席と決める。身長の高い彼が床に座れば、ちょうど獄の手が作業をしやすい位置に来た。
「無理はしなくていいからな」
爪の油分を拭く十四に獄が声をかける。実のことを言うとやや心配なのであった。十四のネイルといえば、現在彼の手元を飾っている黒のワンカラーをはじめ、ライブの時など日常生活に支障をきたさないか心配になるようなデザインを施しているときもある。また、自分でやるのと人に施すのでは勝手も違うだろう。
「失礼しまーす」
すっかりネイリスト気分の十四は準備をすると早速ベースコートを獄の指先へのせていった。獄の心配をよそに、その手元に危なげはない。当然プロとは比べるまでもないが、長い指は器用に筆を操りはみ出すこともよれることもなく丁寧に進んでゆく。そのあとに使うカラーもきちんと獄の指定の物が机に並べられていた。
作業をするまなざしは真剣そのもので、それ以上声をかけるのもなんだか憚られる。部屋はしんとしてパラパラと雨が屋根に当たる音だけが遠くに聞こえた。獄は一旦任せてみるかと肩の力を抜いたのだった。
「これでよし」
十四がそう言って筆を置いたのはそれから一時間以上たってからだった。カラーを施した後に右手の薬指へ淡い色で青い紫陽花を描き上げ、後は乾くのを待ってトップコードで仕上げるだけというところだ。水彩画のような紫陽花は十四の目から見てもなかなかきれいにできていて、その出来栄えを見てもらおうと顔をあげて気づく。
獄は静かに寝息を立てていた。
疲れがたまっていたのだろう。うっすらと目の下に隈ができていても、いつものようにしっかりとしたメイクをしていなくても、十四は美しいこの人がどうしようもなく好きだった。一回り小さい手にそっと自分の手を重ねる。獄の瞼は開く気配がない。
十四の心の中にちょっとした悪戯心がわいた。音を立てないよう道具箱から目ぼしいものをとりだし、先ほどまで重ねていた左手から薬指をそっととった。簡単なアレンジを施した後に満足げに頷き、静かに立ち上がって、柔らかな素材のストールをもってくると眠る獄の肩へとかける。その拍子に獄の髪が一筋はらりと崩れてその顔にかかった。
十四はゆっくりと身体を寄せ、ソファの背もたれに手をついて獄を見下ろす。こんなに間近で獄の顔を見るのは初めてかもしれなかった。冬の朝のような薄い色の瞳は瞼の向こうに隠され、長いまつげが影を落とす頬はまろく、わずかに開いたつややかな唇は誘うようにわずかに開かれて甘くすら感じる吐息をこぼしている。吸い寄せられるように十四はさらに身をかがめた。雨の音すらもう遠くて聞こえないのに、自分の心臓の音だけが獄に聞こえてしまうのではないかと思うほどにうるさかった。ガラスの彫刻に触れるよりも繊細に、綺麗な指先がその髪をすくって小さな耳へとかける。
十四はゆっくりと目を閉じる。鼻先がわずかに触れた。
「……いつか、きっと」
囁きは届かずに、雨粒と一緒に地面へ落ちていった。
「上手いもんだな」
純粋な感心から獄は自分の指先と十四とを見比べる。
つやりと輝くワンカラーで統一された爪のうち、左右の薬指にだけアレンジが施されている。右手には丸い紫陽花が想像していたよりも落ち着いた印象で爪を染め、左手には微細なラメのシルバーと紫陽花と同じブルーのラインが細く入っている。アクセントとして添えらえた透明で小さなストーンがキラリと輝いていた。
「雨粒みたいできれいだ」
そのことば通り、嫌味のない程度かつ手元にアクセサリーがなくとも上品で華やかに見える仕上がりだった。
「喜んでもらえてよかったっす……!」
はにかんだ十四はアマンダを手に帰り支度をしていた。いつの間にか雨は止み、レースのカーテンの向こうからさす光がオレンジ色に染まっている。
「途中寝ちまって悪いな、今度埋め合わせするから何か考えておいてくれ」
ややバツの悪そうな獄は玄関先まで十四を送りながら頬を掻く。その言葉に十四はあっと声をあげた。
「じゃあ、今度やるライブを見に来てほしいっす!
モノトーンがテーマなんすけど、衣装に今までになくらい凝っててテンションが上がるんすよ。新曲に合わせた構成にはするつもりで、鉄板は抑えつつちょっと豪華で大人っぽい感じに仕上げようって話をしてて……」
その場でくるりと回って見せながらライブの演出について語りだすが、当然語り終わる前に玄関の扉の前へたどり着いてしまう。ふっと言葉がとぎれ、二人の間に静寂が訪れた。扉を開けながら十四は肩越しに振り返って獄の瞳を真っ直ぐにとらえる。
「自分、獄さんに『格好いい』って言ってもらえるようになるまで頑張るんで
もうちょっとだけ待っててほしいっす」
扉の隙間から差す夕日が眩しくて、獄からその表情はうかがえない。だが、光に透ける睫毛の下で、宝石のような瞳がちかちかと輝いていることだけはわかった。
獄が口を開くよりも早く「じゃあまた今度!」という言葉とともに踏み出していった青年の背はあんなに広かっただろうか。静かになった玄関で獄はしばらくの間立ち尽くすのだった。
1.祝福
1.祝福
じゅしひと
『お花見をしませんか』
十四の送ったメッセージにはすぐに既読のマークがついた。
休日に少し遅い朝食を終え、テレビの中のスプリングコートのアナウンサーが「明日は雨」という予報を読み上げるのを聞いて、慌てて送ったものだった。メッセージの相手は獄で、今日が休日であることは知っていた。
『もうしてる』
程なくして見覚えのある靴のつま先と桜色の道の写真が添えられた飾り気のない言葉がかえってくる。獄はすでに花見を楽しんでいるらしい。出遅れてしまった焦りとともに誰かと一緒なのかと問えば、ひとりだと返ってきた。つづけてナゴヤでもそこそこに有名な公園の名前。十四は急いで所要時間を検索した。十五分後に家を出れば一時間以内にその場所までたどり着ける。
『自分も今から行くっす!』
そのメッセージに返信はなかったが、獄が嫌ならそもそも場所を送ってはこない。沈黙を肯定と受け取って十四は自室へと急いだ。準備の時間がどんなに短かろうと、好きな人に会いに行くのに手は抜けない。いつだって一番格好いい自分を見て欲しかった。
無事に乗ることができた予定の電車は大きな遅れもなく目的地の最寄り駅にたどり着いた。おそらく目的を同じとする多くの人たちに流されるようにして駅舎を出る。あいにく空は薄く曇っていたが、春らしく暖かかったので別段気にもならなかった。駅を出た旨をメッセージとして送り、そのまま公園内へと歩みを進める。入口からすでに見事なソメイヨシノの並木が出迎えてくれ、周囲のざわめきも喜色を含む明るい音となった。長身を生かしてきょろきょろとあたりを見回してみるも入口近くに獄の姿はない。そんな時手元に一通メッセージが届いた。
『道なりに進んで広場の奥、右側に細い道があるからそこを真っ直ぐ』
案内に従い屋台の続く広い通りを抜ける。ソースの焦げるいい匂いも、丸い形のカステラの甘い香りも、きらきらしたフルーツの飴も足を止める理由にはならない。人ごみを縫うように抜けると言葉の通り大きな広場があった。噴水を横目に家族連れや団体客の広げたとりどりのレジャーシートの列を進んでゆく。きもちのよい風が吹くたびに小さな花弁が舞う。
「右側の細い道、右側の細い道、っとあれかな……?」
周りに桜の木は見当たらないが、ひっそりとした小道が確かにあった。新緑の季節と呼ぶにはまだ木々の葉は心もとなく、行き交う人もほとんどいないため、少し寂しい印象だ。やや不安になりながらも砂利道を進む。二つほどゆるやかなカーブを曲がった先にはわずかに開けた場所があった。一本だけ桜の木があるその場所は、広場からも離れているためか人気がない。
「よぉ」
桜の木に向かい合うようにひっそりと置かれた木陰のベンチに一人、獄は足を組んで座っていた。ふわっと目元が下がるこの顔が十四は好きだった。
「獄さん!」
駆けよれば獄は隣に置いていた鞄を反対側へと避ける。座ってもよいということなのだろう。遠慮なく隣へ腰をおろし、獄を見やる。オーバーサイズの白いシャツに細身のベージュのパンツ、ゴールドのパーツの細い黒のベルト。一見すると仕事服に見えそうだが、素材と着こなしで適度にカジュアルで、いつもと違うざっくりとまとめられた髪型も相まって休日なのだと特別な空気を感じる。
「迷わなかったか」
「はいっす」
柔らかな声に笑顔を返し、そのあとでわざとふくれっ面を作って見せる。
「それよりひどいっすよ。お花見するなら最初から誘ってほしかったっす」
「ははっ、仕方ねーだろ、俺も今日思いついたんだから」
「珍しいっすね、獄さんがそいういう行き当たりばったりなことするの」
「明日が雨だっていうからな」
薄紅色の色の爪がのった指先が十四の額を小突いて笑う。同じことを考えていたのが嬉しくてふくれっ面はすぐにへにゃりと崩れてしまった。
「えへ、自分たちお揃いっすね」
「はいはい」
甘く笑みを含んだ声にアマンダの入ったカバンを胸の前で抱きしめる。獄はベンチに置いていた紙コップに入っていた飲み物をあおるとふぅとひとつ息を吐いた。わずかな酒精に十四は鼻を鳴らす。
「あ、それビールっすか」
「なんだよ急に」
「ほんとに珍しいっすね」
基本的に獄は空却や十四の前では飲酒も喫煙も控えている。よって酔っぱらった獄を見ることはあまりないので、思わず物珍し気にその姿を見てしまう。
「こっちは成人なんだから別にいいだろ、大体お前が来るとは思ってなかったしな」
「しかも二杯目っす!」
「めざといな、お前」
紙コップの重なりを指摘すれば、獄が眉尻を下げた。この顔も珍しい。よくよくその顔を見れば、メイクだけではない血色の良さが分かる。
「だからご機嫌なんすね」
今日は会ってからというもの、笑顔が絶えないわけだ。その原因が自分ではないことに少し置いて行かれたような気がする。
「そんな顔するな、ほら」
空になったらしい紙コップと鞄を持って獄が立ち上がる。
「行くぞ」
同時に柔らかな風が桜の木を揺らした。光が透ける獄の髪に秒速五センチメートルの祝福が降りかかる。
「ほら」
なぜだか叫びだしたくなるような胸の痛みを飲み込んで、差し出された手をぎゅっと握る。
「はいっす」
この光景をどこかでまた見たいと十四は強く願うのだった。
じゅしひと
『お花見をしませんか』
十四の送ったメッセージにはすぐに既読のマークがついた。
休日に少し遅い朝食を終え、テレビの中のスプリングコートのアナウンサーが「明日は雨」という予報を読み上げるのを聞いて、慌てて送ったものだった。メッセージの相手は獄で、今日が休日であることは知っていた。
『もうしてる』
程なくして見覚えのある靴のつま先と桜色の道の写真が添えられた飾り気のない言葉がかえってくる。獄はすでに花見を楽しんでいるらしい。出遅れてしまった焦りとともに誰かと一緒なのかと問えば、ひとりだと返ってきた。つづけてナゴヤでもそこそこに有名な公園の名前。十四は急いで所要時間を検索した。十五分後に家を出れば一時間以内にその場所までたどり着ける。
『自分も今から行くっす!』
そのメッセージに返信はなかったが、獄が嫌ならそもそも場所を送ってはこない。沈黙を肯定と受け取って十四は自室へと急いだ。準備の時間がどんなに短かろうと、好きな人に会いに行くのに手は抜けない。いつだって一番格好いい自分を見て欲しかった。
無事に乗ることができた予定の電車は大きな遅れもなく目的地の最寄り駅にたどり着いた。おそらく目的を同じとする多くの人たちに流されるようにして駅舎を出る。あいにく空は薄く曇っていたが、春らしく暖かかったので別段気にもならなかった。駅を出た旨をメッセージとして送り、そのまま公園内へと歩みを進める。入口からすでに見事なソメイヨシノの並木が出迎えてくれ、周囲のざわめきも喜色を含む明るい音となった。長身を生かしてきょろきょろとあたりを見回してみるも入口近くに獄の姿はない。そんな時手元に一通メッセージが届いた。
『道なりに進んで広場の奥、右側に細い道があるからそこを真っ直ぐ』
案内に従い屋台の続く広い通りを抜ける。ソースの焦げるいい匂いも、丸い形のカステラの甘い香りも、きらきらしたフルーツの飴も足を止める理由にはならない。人ごみを縫うように抜けると言葉の通り大きな広場があった。噴水を横目に家族連れや団体客の広げたとりどりのレジャーシートの列を進んでゆく。きもちのよい風が吹くたびに小さな花弁が舞う。
「右側の細い道、右側の細い道、っとあれかな……?」
周りに桜の木は見当たらないが、ひっそりとした小道が確かにあった。新緑の季節と呼ぶにはまだ木々の葉は心もとなく、行き交う人もほとんどいないため、少し寂しい印象だ。やや不安になりながらも砂利道を進む。二つほどゆるやかなカーブを曲がった先にはわずかに開けた場所があった。一本だけ桜の木があるその場所は、広場からも離れているためか人気がない。
「よぉ」
桜の木に向かい合うようにひっそりと置かれた木陰のベンチに一人、獄は足を組んで座っていた。ふわっと目元が下がるこの顔が十四は好きだった。
「獄さん!」
駆けよれば獄は隣に置いていた鞄を反対側へと避ける。座ってもよいということなのだろう。遠慮なく隣へ腰をおろし、獄を見やる。オーバーサイズの白いシャツに細身のベージュのパンツ、ゴールドのパーツの細い黒のベルト。一見すると仕事服に見えそうだが、素材と着こなしで適度にカジュアルで、いつもと違うざっくりとまとめられた髪型も相まって休日なのだと特別な空気を感じる。
「迷わなかったか」
「はいっす」
柔らかな声に笑顔を返し、そのあとでわざとふくれっ面を作って見せる。
「それよりひどいっすよ。お花見するなら最初から誘ってほしかったっす」
「ははっ、仕方ねーだろ、俺も今日思いついたんだから」
「珍しいっすね、獄さんがそいういう行き当たりばったりなことするの」
「明日が雨だっていうからな」
薄紅色の色の爪がのった指先が十四の額を小突いて笑う。同じことを考えていたのが嬉しくてふくれっ面はすぐにへにゃりと崩れてしまった。
「えへ、自分たちお揃いっすね」
「はいはい」
甘く笑みを含んだ声にアマンダの入ったカバンを胸の前で抱きしめる。獄はベンチに置いていた紙コップに入っていた飲み物をあおるとふぅとひとつ息を吐いた。わずかな酒精に十四は鼻を鳴らす。
「あ、それビールっすか」
「なんだよ急に」
「ほんとに珍しいっすね」
基本的に獄は空却や十四の前では飲酒も喫煙も控えている。よって酔っぱらった獄を見ることはあまりないので、思わず物珍し気にその姿を見てしまう。
「こっちは成人なんだから別にいいだろ、大体お前が来るとは思ってなかったしな」
「しかも二杯目っす!」
「めざといな、お前」
紙コップの重なりを指摘すれば、獄が眉尻を下げた。この顔も珍しい。よくよくその顔を見れば、メイクだけではない血色の良さが分かる。
「だからご機嫌なんすね」
今日は会ってからというもの、笑顔が絶えないわけだ。その原因が自分ではないことに少し置いて行かれたような気がする。
「そんな顔するな、ほら」
空になったらしい紙コップと鞄を持って獄が立ち上がる。
「行くぞ」
同時に柔らかな風が桜の木を揺らした。光が透ける獄の髪に秒速五センチメートルの祝福が降りかかる。
「ほら」
なぜだか叫びだしたくなるような胸の痛みを飲み込んで、差し出された手をぎゅっと握る。
「はいっす」
この光景をどこかでまた見たいと十四は強く願うのだった。
++++小説展示++++
*→r18
鍵はピクスクサークル説明文へ
蜘蛛の網に足を掬われ ナゴ獄♀
角砂糖の雨 じゅしひと♀
友引につき 空獄
*宝箱にはカギを ナゴ獄♀
*楔 ナゴ獄
時速二百七十キロメートルの感情 空獄
明日からはいつもの三人で ナゴ獄
手は届くか ナゴ獄+寂
唯一 ナゴ獄♀
Dear ナゴ獄
++++頒布++++
再録本頒布サイトへ 上記展示の再録本
イベント中、新作展示出せるよう頑張ります…!
北極星の真下
北極星の真下
零那由
!単体でも差し支えありませんが、「花束はあなたのため」を読了を前提としています
零と那由多にとって特別な日。その部屋では、落ち着いた調度品と那由多が零の帰りを待っていた。
「ただいま。……少し寒くないか」
零は持ってきた荷物をテーブルへ、自身のコートはコートハンガーへとかけながら部屋の空調を確認する。温度も湿度も調整するためにリモコンを操作した後、彼は持参した花束を手慣れた様子で飾り付ける。
「昔、庭にも咲いていたが、これほど花らしい花もないよな」
暖色系の十本ほどのガーベラが主体の花束を飾れば、部屋はぐっと明るい雰囲気となった。この花には花占いのイメージがあると言ったのは那由多だった。その言葉に、意地悪く植物の花弁の数はおよそ決まっているんだから奇数か偶数かで占う前に結果がわかるといえば、そんなことはわかっているロマンの問題だと頬を膨らませていたのが懐かしい。予想通りの表情がおかしかった。零にとっては今でもこの花については花弁の数がフィボナッチ数列に従うか否かの方がずっと興味深い。
続いてテーブルの上の紙袋を開ける。ワインと数品のささやかな料理が手品のようにやや狭いサイドテーブルを賑わわせた。
「今年は忙しくてな、出来合いで悪い。
あぁ、でもワインは面白いのを選んでみてな。最近気に入ってるワイナリーが造ってるもので……、オレンジワインはあまり飲んだことなかったよなぁ?」
言葉とともに、トパーズのように美しい液体がグラスを満たす。ウイスキーともまた違う、明るめの色のついた影は照明の光を通して瞬くようだった。
「乾杯」
チン、と澄んだ音を立てて二つのグラスがぶつかる。グラスを回せばふわりとした芳醇でややスパイシーな香り、一口含めば複雑ながら酸味と甘味を感じ、食事と合わせるのに丁度よい風味だった。ゆったりとそれらを楽しむ。
アルコールが回れば口も滑らかになるもので、話題は最近の息子たちの様子に始まり、過去の記念日の話まで多岐にわたった。
「……そんなこともあったよな」
喉の奥を鳴らしてくつくつと笑った零はおもむろにグラスを置いて席を立つ。コートハンガーのもとに、彼の手の平ほどの小さな紙袋を一つ隠していたのだ。
「今年はこれを那由多に」
袋からキラキラとした化粧箱を一つ取り出す。白いリボンはいつかの花束のラッピングとよく似ていた。するりとリボンを解いて箱を開けると、一本のリップが姿を現し、零は自らその蓋を開けで中身を繰り出した。こっくりとした赤色が那由多にもよく見るよう、斜めにカットされた端をくるりと回してみせる。
「お前に似合うかと思って。
……いや、わかってる。那由多はもっと地味な色が好みだろ。でも少し試してみてくれ。
もし気に入らなかったら今度は新しい色を一緒に見に行こう」
真新しいそれを零はためらう事なく己の人差し指にとった。そのまま僅かに開いた那由多の唇へと指を這わす。色を失いかけているその場所にいつかの日の花とよく似た色が乗った。
「肌の色が白いからか? 赤も似合うな」
一つ頷き、満足げな零は口紅をサイドテーブルへ置く。一見ぱっと華やかになったように見えるが、強い赤色はかえって那由多の青ざめた肌の色を際立たせた。指を軽く拭ってから、いつものように零はするりと那由多の髪に指を通す。何度も梳いた髪は指の間から逃げるようにさらさらと彼女の胸元へと落ちた。
青ざめた肌、ごく僅かに上下する胸、油っけのない髪。ベットにひとり横たわる彼女はずっと、それこそ十年以上もの間、固く瞳を閉ざしたままだった。薄い身体はたくさんの計器とチューブに繋がっており、モニターたちが口をきくことができない彼女のかわりに生命活動の様子を示す。真っ白なシーツ、真っ白な布団、真っ白のワンピース。その上にはせめてもと明るい花柄のタオルケットが一枚かけられていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
電子音が秒針よりもやや緩やかに音を刻む。零が喋るのをやめてしまうと、その音は一層際立った。部屋の中には微かに二人分の息遣いのみが数分間か、数時間か、重りあう。
「……一郎は、俺に似てると思ってたよ」
沈黙に耐えられないといったように零が再び言葉を紡ぎはじめる。大きな左手が、揃いの指輪がいまにも抜け落ちてしまいそうな華奢な手を握る。今日は珍しく彼の指にも銀の輪が光っていた。
「あいつ、俺のことを止めようとするんだ。笑えるだろ。
だがおかしなもんでなぁ、ある瞬間たけお前によく似ていたように見えたぜ。……那由多のことはほとんど覚えちゃいないだろうに。血は侮れねぇなぁ。
お前なら、あのときなんて言った? あぁ、最後にお前が俺を叱ってくれたのはいつだったろうな」
諦めたような、懐かしむような、そんな独り言は宙にとける。記憶を擦り切れるほど思い返しても時は無常にも零から那由多を奪ってゆき、零は那由多の声を思い出せなくなって久しい。なにせ記録媒体は皆戦争で焼けてしまっていた。それでも彼女が生きた証のこどもたちは今日まで生き延びて生意気にも零の前に立ちはだかろうとしている。
「……格好悪いところを見せたな。俺が感傷的になってもどうしようもない。全く、お前の前ではいつも格好良くありたいんだけどな。つい気が抜ける」
バツが悪そうに吐息のような苦笑をこぼす零は那由多の頬を、輪郭を指の背で撫でる。言浚の手に落ちた際に一時的に不安定になったバイタルはやっと回復し、どこか落ち着いた様子だ。零の唯一の弱点で逆鱗であるたった一人の女。前の研究室が荒らされた時の心臓が握りつぶされるような感覚だった。身柄の引き渡しの際に、瞳の奥が冷たい女狐のような女がにやにやと口角だけを上げて『あらぁ、貴方は王子様にも茨にすらなれないんだものぉ。可哀想』と言う。零はその横をなんでもない顔で通り過ぎたが、内心は穏やかではい。腹立たしいことに、実際その通りだったからだ。
その一件で呼び起こされたのは、きっと世間にとっては遠い昔の記憶。どうして那由多なんだとずっと抱えている感情を腹の底にしっかりとしまい込む。この部屋に横たわる彼女を見る度に、欠けているものの大きさを痛いほどに実感した。その場所は何でも埋められず、穴の空いた器は何も留めることができずに今に至る。それほどの苦しみを背負うくらいなら、いっそ彼女を死なせてやれ、すべて忘れて楽になれと星が囁く。知らずに指の関節が白くなるほど零は那由多の手を強く握っていた。それに気づいて少し冷静さが戻った。血が沸き立つも、頭は冴えわたる。今できることはやるべきことはなんだと、己に問う。手を握る力を緩めて労わるように指を絡める。昔のように握り返してはくれなくても、この体温をどうしても手放すことができなかった。ややあって零は自分の時計を確認する。
「もうこんな時間か。さみしい思いをさせてばかりですまなねぇな。そろそろ行く。
愛しているよ。今までも、これからも。だからどうか――」
零は、屈み込むと那由多にそっと口付ける。
「お前が望んだ世界になれば、きっと目覚めたくもなるだろ」
鼻先が触れるような距離でしばらく見つめてみても心拍を保証する電子音が一定の音を奏でるだけで、長い睫毛が震えることはない。そうだ。神はいない。おとぎ話のような奇跡はこの世界では起こらないことを零が一番よく知っている。一握の砂が指の間からこぼれ落ちるように、零がどれだけ心血を注いでも時が徐々に彼女を蝕んでいた。
「いってきます」
まだ返事は返ってこない。
無機質で人の気配のないこの研究室で、いっそ異常ともとれる、唯一あたたかみが残る部屋。零が積み上げた彼女への贈り物が部屋の隅のガラスケースに飾られている。コートを羽織った零はそこに今日のリップを化粧箱とともに片付けると、もう一度妻へと視線を送り、そっと部屋のドアを閉めた。
有象無象がなんと言おうと関係はない。零にとってここが世界の中心であることに間違いはなかった。
零那由
!単体でも差し支えありませんが、「花束はあなたのため」を読了を前提としています
零と那由多にとって特別な日。その部屋では、落ち着いた調度品と那由多が零の帰りを待っていた。
「ただいま。……少し寒くないか」
零は持ってきた荷物をテーブルへ、自身のコートはコートハンガーへとかけながら部屋の空調を確認する。温度も湿度も調整するためにリモコンを操作した後、彼は持参した花束を手慣れた様子で飾り付ける。
「昔、庭にも咲いていたが、これほど花らしい花もないよな」
暖色系の十本ほどのガーベラが主体の花束を飾れば、部屋はぐっと明るい雰囲気となった。この花には花占いのイメージがあると言ったのは那由多だった。その言葉に、意地悪く植物の花弁の数はおよそ決まっているんだから奇数か偶数かで占う前に結果がわかるといえば、そんなことはわかっているロマンの問題だと頬を膨らませていたのが懐かしい。予想通りの表情がおかしかった。零にとっては今でもこの花については花弁の数がフィボナッチ数列に従うか否かの方がずっと興味深い。
続いてテーブルの上の紙袋を開ける。ワインと数品のささやかな料理が手品のようにやや狭いサイドテーブルを賑わわせた。
「今年は忙しくてな、出来合いで悪い。
あぁ、でもワインは面白いのを選んでみてな。最近気に入ってるワイナリーが造ってるもので……、オレンジワインはあまり飲んだことなかったよなぁ?」
言葉とともに、トパーズのように美しい液体がグラスを満たす。ウイスキーともまた違う、明るめの色のついた影は照明の光を通して瞬くようだった。
「乾杯」
チン、と澄んだ音を立てて二つのグラスがぶつかる。グラスを回せばふわりとした芳醇でややスパイシーな香り、一口含めば複雑ながら酸味と甘味を感じ、食事と合わせるのに丁度よい風味だった。ゆったりとそれらを楽しむ。
アルコールが回れば口も滑らかになるもので、話題は最近の息子たちの様子に始まり、過去の記念日の話まで多岐にわたった。
「……そんなこともあったよな」
喉の奥を鳴らしてくつくつと笑った零はおもむろにグラスを置いて席を立つ。コートハンガーのもとに、彼の手の平ほどの小さな紙袋を一つ隠していたのだ。
「今年はこれを那由多に」
袋からキラキラとした化粧箱を一つ取り出す。白いリボンはいつかの花束のラッピングとよく似ていた。するりとリボンを解いて箱を開けると、一本のリップが姿を現し、零は自らその蓋を開けで中身を繰り出した。こっくりとした赤色が那由多にもよく見るよう、斜めにカットされた端をくるりと回してみせる。
「お前に似合うかと思って。
……いや、わかってる。那由多はもっと地味な色が好みだろ。でも少し試してみてくれ。
もし気に入らなかったら今度は新しい色を一緒に見に行こう」
真新しいそれを零はためらう事なく己の人差し指にとった。そのまま僅かに開いた那由多の唇へと指を這わす。色を失いかけているその場所にいつかの日の花とよく似た色が乗った。
「肌の色が白いからか? 赤も似合うな」
一つ頷き、満足げな零は口紅をサイドテーブルへ置く。一見ぱっと華やかになったように見えるが、強い赤色はかえって那由多の青ざめた肌の色を際立たせた。指を軽く拭ってから、いつものように零はするりと那由多の髪に指を通す。何度も梳いた髪は指の間から逃げるようにさらさらと彼女の胸元へと落ちた。
青ざめた肌、ごく僅かに上下する胸、油っけのない髪。ベットにひとり横たわる彼女はずっと、それこそ十年以上もの間、固く瞳を閉ざしたままだった。薄い身体はたくさんの計器とチューブに繋がっており、モニターたちが口をきくことができない彼女のかわりに生命活動の様子を示す。真っ白なシーツ、真っ白な布団、真っ白のワンピース。その上にはせめてもと明るい花柄のタオルケットが一枚かけられていた。
ピッ、ピッ、ピッ。
電子音が秒針よりもやや緩やかに音を刻む。零が喋るのをやめてしまうと、その音は一層際立った。部屋の中には微かに二人分の息遣いのみが数分間か、数時間か、重りあう。
「……一郎は、俺に似てると思ってたよ」
沈黙に耐えられないといったように零が再び言葉を紡ぎはじめる。大きな左手が、揃いの指輪がいまにも抜け落ちてしまいそうな華奢な手を握る。今日は珍しく彼の指にも銀の輪が光っていた。
「あいつ、俺のことを止めようとするんだ。笑えるだろ。
だがおかしなもんでなぁ、ある瞬間たけお前によく似ていたように見えたぜ。……那由多のことはほとんど覚えちゃいないだろうに。血は侮れねぇなぁ。
お前なら、あのときなんて言った? あぁ、最後にお前が俺を叱ってくれたのはいつだったろうな」
諦めたような、懐かしむような、そんな独り言は宙にとける。記憶を擦り切れるほど思い返しても時は無常にも零から那由多を奪ってゆき、零は那由多の声を思い出せなくなって久しい。なにせ記録媒体は皆戦争で焼けてしまっていた。それでも彼女が生きた証のこどもたちは今日まで生き延びて生意気にも零の前に立ちはだかろうとしている。
「……格好悪いところを見せたな。俺が感傷的になってもどうしようもない。全く、お前の前ではいつも格好良くありたいんだけどな。つい気が抜ける」
バツが悪そうに吐息のような苦笑をこぼす零は那由多の頬を、輪郭を指の背で撫でる。言浚の手に落ちた際に一時的に不安定になったバイタルはやっと回復し、どこか落ち着いた様子だ。零の唯一の弱点で逆鱗であるたった一人の女。前の研究室が荒らされた時の心臓が握りつぶされるような感覚だった。身柄の引き渡しの際に、瞳の奥が冷たい女狐のような女がにやにやと口角だけを上げて『あらぁ、貴方は王子様にも茨にすらなれないんだものぉ。可哀想』と言う。零はその横をなんでもない顔で通り過ぎたが、内心は穏やかではい。腹立たしいことに、実際その通りだったからだ。
その一件で呼び起こされたのは、きっと世間にとっては遠い昔の記憶。どうして那由多なんだとずっと抱えている感情を腹の底にしっかりとしまい込む。この部屋に横たわる彼女を見る度に、欠けているものの大きさを痛いほどに実感した。その場所は何でも埋められず、穴の空いた器は何も留めることができずに今に至る。それほどの苦しみを背負うくらいなら、いっそ彼女を死なせてやれ、すべて忘れて楽になれと星が囁く。知らずに指の関節が白くなるほど零は那由多の手を強く握っていた。それに気づいて少し冷静さが戻った。血が沸き立つも、頭は冴えわたる。今できることはやるべきことはなんだと、己に問う。手を握る力を緩めて労わるように指を絡める。昔のように握り返してはくれなくても、この体温をどうしても手放すことができなかった。ややあって零は自分の時計を確認する。
「もうこんな時間か。さみしい思いをさせてばかりですまなねぇな。そろそろ行く。
愛しているよ。今までも、これからも。だからどうか――」
零は、屈み込むと那由多にそっと口付ける。
「お前が望んだ世界になれば、きっと目覚めたくもなるだろ」
鼻先が触れるような距離でしばらく見つめてみても心拍を保証する電子音が一定の音を奏でるだけで、長い睫毛が震えることはない。そうだ。神はいない。おとぎ話のような奇跡はこの世界では起こらないことを零が一番よく知っている。一握の砂が指の間からこぼれ落ちるように、零がどれだけ心血を注いでも時が徐々に彼女を蝕んでいた。
「いってきます」
まだ返事は返ってこない。
無機質で人の気配のないこの研究室で、いっそ異常ともとれる、唯一あたたかみが残る部屋。零が積み上げた彼女への贈り物が部屋の隅のガラスケースに飾られている。コートを羽織った零はそこに今日のリップを化粧箱とともに片付けると、もう一度妻へと視線を送り、そっと部屋のドアを閉めた。
有象無象がなんと言おうと関係はない。零にとってここが世界の中心であることに間違いはなかった。